クズにはクズの意地がある
自己投影してますね
最終章
「私が、イギリスに留学をしていた九十年代の話しをします」
熊倉二郎の声には不思議な説得力がある。低く、ゆっくりと、明瞭に喋るからだろうか。
「現地の地域劇場調査に訪れたときに、劇場を貸し出す相手の集団が、プロかアマチュアかどう区別をつけているのか、と尋ねたときに、相手は怪訝な表情をして、私にこう言いました。アマチュアグループが、劇場なんか使うわけが無いだろ、と」
熊倉は、等に呼びかける。
「牟礼君、これを聞いて、どう思いますか?」
「イギリスでは、プロしか劇場が使えなくて、プロはスゲぇって事ですか。基本的に演劇人って労働条件とか整備されてるって言ってましたよね」
「ある一面ではそうですね。ただ、イギリスにおいての『機会均等』の原則は、観客として誰もが劇場・ホールに『鑑賞に』来られる事を前提に考えていますが、我が国の公立文化施設の『機会均等』は使用する人々を平等に扱うこと、と考えられてきました」
「はぁ」
「私が日本の劇場の状況を説明すると、現地の人は、皆『それは面白い!』と言いました。劇場が社会の中で果たしている役割そのものが違うのです。我が国の公共芸術劇場のスタッフと話すと、『立派な劇場が地域住民のままごとにしか使われない』と嘆く人が必ずいます。しかし、少し視座を変えてみれば、アマチュア文化の豊穣さの証左でもあるのです」
「……」
「我が国には、『何かを表現したい』と思う人達がたくさん居る、という事を忘れないでください。プロフェッショナルのパフォーミング・アーツとお稽古ごとを同一にされるのは困りますが。では、今日はここまでにしましょう」
運営コースの基礎実習は熊倉二郎の昔話に終始することが常で、等達には苦行に近い。合間合間に学生に話しを振る上に、狭い研究室で行われるため、眠り込む事も不可能だ。話半分に相づちを打ち、それらしい返答を瞬時に行うスキルが要求される。
等は何とか獲得に成功したようだ。最初の呼びかけにさえ答えておけば、あとは熊倉が勝手に話しをしてくれる。新歓コンパから相互不干渉状態になってしまった女子陣はさっさと講義室から姿を消した。席を立ち、帰ろうとすると、串田に声をかけられる。
「等、かすみママと連絡取れねーんだけど、お前、何か知ってる?」
「いや、知らん」
「そか。何かあったんかな」
「実家にでも帰ってるんじゃねえのかな」
「ママあんま実家の話しとかしねぇんだけどな……」
三上達も口を挟んできた。彼らもかすみとコンタクトが取れないらしい。
『狭間の世界』が消滅してから、五日が経過していた。スマホの電源は、切られている。部屋を何度か訪れたが、等以外の人間が出入りしているとは思えなかった。中ホールの扉を開こうとして、『総演』のスタッフに見つかり、罵声を浴びせられる事もあった。
等は自分の手をじっと眺める。グローブは嵌めていない。コンビニでの一件以来何度か異性と接触をしたが、好意どころか、敵意を向けられるだけだった。
元通りになった。ただ、それだけのことだ、と等は自分に言い聞かせて皆にこう言った。
「飲みに行かね? 奢るわ。パチスロで結構勝ったし」
棟市野駅周辺は、都内でも有名な昼飲みの名所で、十二時近くになれば酒類を提供する店が山のようにある。だが、流石に昼から酒を呑むような学生はいない。串田達は眉をひそめた。
「等、お前ちょっと酒控えた方がいいよ」
「え? なんで?」
等には意味が分からない。串田は、真剣な表情を作った。
「今も飲んでるだろ。分かるって。飲み過ぎ」
「飲んでねぇよ」
嘘だ。今朝などは、起きた瞬間に酒を飲みだしていた。アルコール依存症、という言葉が何度も頭によぎったが、二日酔いの不快感を消すためにはビールを飲むしか無かった。登山家のようにスキットルにハードリカーを入れて、トイレで飲んだりもしていた。ホテルでの一件以来ずっと酒に溺れていて、ロクに食事も取っていない。心なしか痩せた気がする。
「三浦さんも、心配してっぞ」
三上の言葉に、等は思わずこう言った。
「関係ないだろ。おめーら親かよ。うぜぇな。何だよ奢ってやるっつってんのに」
投げやりな言葉を放ち、四人に背を向けて憤然と出口に向かおうとする。
意思と反して、身体を動かすことが出来なかった。とてつもない力で拘束をされたからだ。
「まぁまぁ、落ち着きなよ。あんまテンパんなって」
湯元にアマレスで言うフルネルソンの要領で背後から首と肩を決められていた。
「いだぃイダダダダっギブギブっ」
基本的に湯元は大人しくて喋るときもおどおどしていることが多いので、イジられ役に回ることもしばしばだ。しかし、デカさとはそのまま力を意味すると、等は身体で知った。
「しょーちゃん、水」
湯元の言葉に頷いた荒木が、ペットボトル天然水の飲み口を等の歯と歯の間に差し込んで。
「素直になあれっ……! 悪霊退散! 綺麗な魂戻って来い……!」
ぐいぐいと、中身を等に向けて傾けていった。当然、等は苦しい。水が顎から服へ落ちる。
「ガボっ! ちょっ! イジメだから! イジメかっこ悪いからっ!」
ゲラゲラ笑う荒木に向けて抗議をするが、結局、水を全部飲む羽目になる。
少しだけ頭がクリアになった気がする。美味しかった。
「ゆーちゃん、マジ勘弁して。死ぬってこれ」
拘束が解かれると、肩と首を回し、痛みを和らげた。同期達が、等を笑って見ている。
「等って、何やってもあんま様になんねぇよなー。酒飲んでても、無頼って感じ出ないし」
串田のディスに、そこはかとなく、愛を感じたが、等はいじけてこう返す。
「おれだってムネビ入る前は俳優になれると思ってたんだけどな……」
「なればいいじゃん」
「え」
「別に、才能とか関係ないっしょ。やりたきゃやりゃいいじゃん。今やってねーって事は、別に俳優に何て本当はなりたくねーんだよお前」
図星を突かれる、というのは、こういうことを言うのだろう。等は、確かにその通りだと感じた。結局の所、自分は、人前で何かをする事が、恥ずかしいのだ。
「おめーらは、いいよな。おれと違って何かあって」
思わず、本音が漏れた。
「三上は絵描けるじゃん。上手いよ。荒木の音楽もそうだしゆーちゃんの写真もそうだよ」
「別におれだって特に何もしてねぇけどな」
「串田は、別に何かやりたいって訳じゃないんだろ。おれだって、本当はそうなんだよ」
「わけわかんね」
串田の返しに笑ってしまう。確かに意味が分からない。
「何かがやりたいっていう気持ちだけはあるんだけど、何も無いんだよ。ずっとそうなんだ」
等は、思わず泣いていた。ずっと泣いてばっかだな、そう思い返してみたが、涙が止まらなかった。大学に入ってから二ヶ月で、完全に打ち砕かれたし、怖い思いも山のようにした。
これは嘘泣きに近いな、と何処かで等は冷静に感じる。安易なカタルシス。それでも、自分の為に、格好悪くても今は泣いておくべきだと判断をした。同期達は無言で等を見ている。
「……ごめん。格好悪いわおれ」
声を上げて出すことだけは、我慢が出来た。ハンカチで顔面の後処理を済ませると、
「等が格好悪いのは、全員知ってるっつーの」
串田の言葉に、全員が頷いた。そんじゃあとりあえず、と串田は言葉を続ける。
「腹減ったよ。メシ行こうぜ」
胃に優しいものがよい、という等の主張は退けられ、大盛りのカレーを喰らうことになった。
大量の水を消費しながら腹を膨らませた等は、午後の講義をサボり帰宅して、久しぶりにぐっすりと眠る事が出来た。アルコールは必要としなかった。
日付が変わる前に起き上がった等に、一つのアイディアが生まれた。やぶれかぶれで、到底冴えたやり方とは思えなかったが、時間が無い。
スマホを取り出し、四人の同期へ向けて、グループメッセージを送る。
神様は人間の事情を忖度しないとかすみは言った。ハンナから聞かされたギリシャ神話の基礎教養でも、人間は酷い目ばかりに遭わされている。かすみが目の前から消えたのは望み通りだったけど、こんな結末は気に入らない。
しばらくは禁酒だな、と決意を固める。
今度酒を飲むときには、傍らに我が儘な神様と、人のよい幽霊と、五月蠅いヘビがいる事を等は祈る。
六月十五日、土曜日の午後。舞台創造学科の運営室には学科には副手と呼ばれる非常勤講師がいる。基本的にはムネビの卒業生が、三年契約で職務に就く。
教授や非常勤講師が出入りすることもあるが、今は二人の副手しか居ない。事務仕事があらかた片付き、世間話に花を咲かせていた。一人は演出コース出身の男で、一人は照明コース出身の女だ。二人は学生時代からスタッフとして優秀で、教授や学生達からも信頼されている。
運営室に、書類を一式抱えた学生が入ってきた。普段は顔を見せない学生だったので、所属先も学年も、すぐには分からなかった。男が学生に、声をかける。
「どした? レポートか?」
「レポートっつーか、今日までの書類何すけど、ちゃちゃっとサインして貰っていいっすか」
生意気だった。普段はリスペクトの視線を受けているので、副手陣は面食らう。
「中身見ないと何も言えないよ。ちょっと見せて」
「おねがいしまーす」
学生はよろしゃす! と書類を男に手渡す。態度も声もデカい。
髭をうっすらと生やした副手が手にした書類を見て、驚愕する。
提出をしてきた学生に、こう語りかけた。
「お前、これ、マジか?」
学生はドヤり顔をキめながら頷いて答えた。
「マジですよ。優勝ですわ」
「無知って怖いなぁ……」
「なんですか、文句あんすか」
「お前の態度はどうかと思うけどなぁ。つうか、これ一人署名足らないじゃん」
「何ですか、足らないとダメなんですか」
「当たり前だろ。ちゃんと演出立てないと、話になんねえよ」
「いやぁ、これも『演出』なんですよ。最後にバシっと署名入るんで、とりまオナシャス」
押し問答を繰り返していると、やり取りを見ていたもう一人の副手が口を挟んだ。
「判子押したげなよ。演出以外は揃ってるんでしょ? このままだと盛り上がらないし」
学生が、調子に乗って副手を持ち上げる。
「やっぱ分かってるすねー。硬軟織り交ぜてこその副手の仕事でしょ!」
「アホ。めんどくさいしもう捺印してあげて。責任私が持つし」
男は髭を撫でながらこう返す。
「問題にならないですかね?」
「ならないよ。どうせ碓井くんが勝つし。プレゼンまだ碓井くんしか書類出してないでしょ」
「そうですね。あのメンツ揃えられたんじゃあ、戦おうって学生は出ないですよ」
「報奨金出るってのに情けない。いいよ、何かあったら私が独断で許可しましたって言うし」
「わかりました……いいですよ、先輩一人に押しつけてもアレですし。僕も許可します」
男は溜息をして、捺印を済ませる。学生に、呆れた声でこう語りかけた。
「お前あれだろ。塩見達をたぶらかした一年。碓井が折ったって聞いてたんだけどな」
学生――――。牟礼等は堂々とこう答えた。
「おれはド素人なんで、常識とか知らねぇんですよ」
東京都棟市野市の公共芸術劇場である『むねしの芸術劇場』に、一人の学生がやってきたのは六月十七日の月曜日だった。
学生は受付にいた中年の男性職員にいきなりこう言い放った。
「ムネビ出身の技術者に会わせて欲しいんですけど」
「ムネビ出身の技術者? たくさん居るけど、アポは?」
「取ってないですね」
「アポが無ければ誰にも会わせられないよ。先ず自分が何者かくらいは名乗りなさい」
「ムネビの、運営コースの一年で、牟礼等っす」
「運営コース? そんなのあったっけ。ムネビの子はもっと礼儀正しい印象あるけどなあ」
「ありますよ昔から。可愛い後輩が困ってるんだってちょっと掛け合ってみてくださいよ」
クソガキ感満載の等を怒鳴りつけてやろうかと、職員は逡巡していると、
「去年そちらでやった『舞台技能ワーク・ショップ』アレ、失敗だったらしいじゃないすか。ちょっと汚名返上出来そうな企画持って来たんですよね」
男性職員の顔に、怒りと羞恥が浮かぶのを、等は見逃さなかった。
「君ね……! そういう言い方は失礼だろう! 帰りなさい」
「だって、『むねしの芸術劇場』で検索かけたら上の方に出てくるんですよ」
等の無礼な態度に、職員が閉口していると、高級感のあるスーツ姿の男が受付にやってきた。
頑として動かない等を一瞥して、男は職員に言った。
「何、この子どうしたの?」
「聞いてくださいよ斉藤さん。この学生、アポも無しにムネビ出身の技術者に会わせろだの、『舞台技能ワーク・ショップ』を失敗だの、失礼なんですよ」
「ははは。後者は当たってるねえ」
「ちょっとちょっと、斉藤さんがそれ言わないでくださいよ」
「まぁまぁ。で、ムネビ出身の技術者なら今ここに居るわけだから、会えてるよ。何?」
男は、等と向き直った。
「ムネビ出身の人っすか?」
答えずに、男は職員にこの子の名前何? と聞いた。職員が早口に等の名を告げると、
「俺はムネビ出身だよ。舞台技術課長の斉藤和明です。クマさんとこの学生だよね牟礼君は」
「そうです。って、課長さんって、偉い人すか」
スタッフのトップだよ! と職員が声を荒げる。等はラッキー、と心で呟く。本丸にサックリとたどり着けたらしい。男はあくまでも冷静な口調のままで、
「で、繰り返すけど、何しに来たの。君面白そうだから話し聞いてあげるけど、つまんなかったら帰って貰うよ」
「ムネビの中ホールを取り壊すかどうか、コンペやるって話しになってるの知ってますか?」
「知ってるよ。よくもまぁ、あんな古い小屋の設備がまだ現役で生きてるよね」
「おれ、そのコンペに出るんすよ。存続側で。取り壊し側と一対一なんですけど」
「へえ。で?」
「『むねしの芸術劇場』の皆さんに、協力して欲しいなーって思いまして」
「うちが? 演劇のスタッフって基本的には技術革新を喜ぶ人ばっかだよ」
チューホーさんも同じような事を言ってたな、と等は最近の出来事なのに懐かしくなる。
「それは知ってますけど。『舞台技能ワーク・ショップ』の失敗デカいじゃないですか」
「……まぁ、小さくは無かったね」
怒りの表情を隠さずに職員がなおも声を荒げる。
「学生に何がわかるんだよ! 斉藤さん、こいつつまみ出しましょう」
職員が、受付から飛び出してきた。等の胸ぐらを掴まんとばかりに距離を詰めた、その時。
「そうやって、アマチュアを馬鹿にしてたから、大コケしたんじゃないっすか?」
等の声に、職員も男も、ピタリと動きを止めた。
「『舞台技能ワーク・ショップ』は、そちらの劇場が、棟市野市の芝居好きの市民を集めて、技術指導をしつつ、公演を打つって名目っしたよね。税金も結構使ったって話しですけど」
苦い顔のまま、等を睨みつける職員を制して、男はこう言った。
「予算は潤沢だったよ。準備もしたつもりだし、参加者の市民の皆さんの期待も大きかった」
「で、参加した市民は、皆逃げたんですよね。そちらのスタッフが厳しすぎたせいで」
「ガキが知ったような口聞いてるんじゃないよ! 舞台作る危険わかってんのかよ!」
激高した職員が、男の制止を振り切って、等の胸ぐらを掴んだ。等は冷静に、
「わからないんすよ。市民の皆さんと一緒でド素人ですからねおれは」
職員が狼狽すると、男が割って入ってきた。
「ちょっとちょっと。暴力はまずいですって。牟礼君、君あんまり人を挑発するような事言うの辞めなよ。損するよそれ」
「正規のやり方でアポ取ったって、相手してくんねぇと思ったんで」
「あのなー……まぁ、君の言うとおりでもあるんだけどね」
男は落ち着いた口調で、『舞台技能ワーク・ショップ』で起きた失敗について振り返った。
何年も前から、市民に演技では無く、照明の仕込みや、音響のオペレーション、小道具の製作や、その他諸々の舞台技術を伝える為の企画を暖めていたこと。
企画がスタートし、多数の市民が参加をしてくれたこと。
そして、等の言うように、教える側のスタッフの厳しさのせいで、誰も居なくなったこと。
「結局、双方が甘く見てた……いや、俺達のやり方がダメだったんだよね。ムネビの学生とかは基本的に知識あるけど、普通の演劇好きの人達に、同じテンションを求めてしまった」
間の悪いことに、過去に中学や高校でド素人を指導した経験を持つスタッフが、異動をしたり、劇場を退職したばかりだった。腕は立つが気難しい人間ばかりが指導に当たったという。
「なんかネットに書いてありましたよー? 怒鳴りつけられるだけならまだしも、普通に肩パン喰らわされたり、軽く蹴られたりした人も居るらしいじゃないですか。暴行っすよそれ」
「……舞台でのテクニカルなミスは、洒落にならないんだよ。人が死ぬんだ」
「だからって、暴力はいけないですよね」
職員も、男もいつの間にかバツの悪そうな顔を浮かべている。男は重々しく頷いた。
「その通りだね。我々の世界では、小突いた程度でも、世間では完全に暴力だし、公金が投入されている劇場の人間がやっていいことではないよ」
「このまんまだと、結構予算とか削られちゃうんじゃないすか?」
「そうだね。ぶっちゃけ、結構危ない」
等は、ドン! と胸を叩き、こう言った。
「いい話があるんすよね。ここじゃアレなんで、事務室にでも行きましょうよ」
「このガキ…」
男は、等の目を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「事務所に部外者を入れるわけにはいかないね。劇場に喫茶店があるよ。そこに行こう」
同日の夜、目黒の豪奢なマンションの一室で、沈んでいる一人の幼女、否、少女がいた。
ハンナは小さい頃から大切にしているテディベアを抱えて独りごちる。
「等の馬鹿者……何故、返事を寄越さないのだ……」
熊の脇には、スマホが置かれている。
あのホテルを出た後――――。ハンナはハンナで、大変な思いをしていた。
泣きながら池袋の街を彷徨い歩いている彼女は、夜の住人達から見れば、迷子や家出少女にしか見えない。まず、警察に声をかけられた。小学何年生かと尋ねられたハンナは激高し、警察の制止を振り切り宵闇を駆け抜けた。
夜を駆けた先に、ハンナは本当に迷子になった。要町から千川エリアまで駆けてしまい、土地勘の無いハンナは大いに焦った。
等から金も渡されているし、タクシーに乗ればいいのだと思い返した頃に、地元の小学生不良女子集団に囲まれていた。
カツアゲであった。ハンナはあっという間に路地裏に追い込まれた。
リアル・ヴァージンを失い損ねた十八歳の乙女の夜、ランドセルも脱ぎ捨てていない少女達にカツアゲ・ヴァージンを奪われてはたまらない。ハンナにも意地がある。暴力に訴えかけようとすることの愚かさを指摘し、説得を試みた。言語が通じると思ったのだ。甘かった。ボス格の少女はこう言った。
「とりあえず、脱がそう」
豊島区の路地裏に、哄笑が渦巻いた。
「撮影準備おっけー」
スマホがあれば、何でも出来る。少女達の手が、甘ロリ服に伸びたときに、先刻の警察官がチャリで駆けつけてきた。ポリスの姿を見た少女集団は蜘蛛の子を散らした。
ハンナはそのまま、警察に保護をされた。恐怖で物も言えぬハンナが落ち着きを取り戻した頃には、目黒までの終電はとっくに終わっていた。
大学生である旨を説明し、何とかタクシーに警察見守りの元押し込まれ、目黒の自宅に辿り着いたハンナに、父親からの拳骨が飛んだ。人生で初めての体罰だった。
ひとしきりの説教を受けた後に、当面の間、門限は十時に設定された。文句は言えない。
故に、今日も大人しく自室にいる。まだ、夜の八時を回ったばかりだ。
「等……」
ハンナは恋人の名前を呼んだ。短い交際期間と同じくらい、二人は会話を交わしていない。
通信アプリのメッセージは、何時までも既読がつかなかった。
やはり、自分が悪かったのだ。等のプライドを、傷つけてしまった。
だけど、ハンナにも譲れないものがあった。碓井天人のプランと等のそれを比べ、碓井の側に付くのは演出家として当然、という決意は揺るがない。
何処まで行っても彼女はアーティストなのだ。等はいい制作者になる、と思ったのは本音だったが、中ホールへの郷愁だけで、建て替えられるものを拒むという心理は理解できない。
ハンナが、渾身の力で恋人を思い、熊を抱き締めたその瞬間に、スマホが鳴った。
ディスプレイに表示されたのは、牟礼等の名前だった。ハンナは思考よりも早く、通話ボタンを押して、
「等!? 等? 酷いでは無いか、何故私の連絡を無視する!? 私は怒っているからな! 等の出方次第では、わ、わ、別れる事も辞さないぞ?」
「……」
「等……? や、やっぱり別れるのは無しだ……本気にしたか?」
返答は無い。小さな声を聞き漏らしているのかもしれないと思い、イヤホンを接続して、耳をそばだてた。返答は、何もない。ハンナは、思わず目がじゅわっとしてきた。
「ひとしぃ……」
「ハンナ、ごめん、おれが悪かったわ」
「!?」
声にならない声を、ハンナは上げた。
「ちょっ! そんな騒ぐなって。本当に、ごめん」
「……何でだ」
「……」
「何で、あの時――――。あんな、酷いことを私にした? 私があの後、どれ程嫌な目にあったか、等は知らないのだろう? 恋人として、最低な事をしたのだぞ」
「……ごめん」
「謝って済むことと、そうでないことくらい分からぬほどに愚かだとは思わなかったな」
「本当は、ちょっと、いい気味だったんだ」
「え……」
「ハンナ、お前凄いよ。あの発表見て、天才っているんだなって思ったよ」
「……」
「ほら、お前今、『そんなことはない』とか言わないだろ? 思ってても言わないよな。だって、それを言うってことは、自分の仕事と、一緒にやった俳優への否定だもんな」
「……そうだな」
「正直おれとお前じゃ住む世界が全然違うよ。お前おれの事好きだって言ってくれてるけど、そんなの若いうちの刷り込みだって。今に、お前はおれのことなんか見なくなるよ」
「そんなこと……」
「だから、いい気味だったんだよ。近い将来、お前はメディアなんかでインタビューを受けたりするだろ? 初めての彼氏のこととか、聞かれるかもしれないよな。で、出来るだけ、印象に残る存在でありたいとか、そんな妄想したんだよ。忘れられるより、いいだろ?」
「……」
「でもな、おれ、やっぱりお前のことが好きなんだよ」
「……私だって、どれほど酷いことを言われても等の事が好きだ」
知ってるよ、と余裕で返され、ハンナは悔しがる。等の事を酷い人間だと思う。ズルい人間だとも思う。自分の恋心を等は熟知していて、どれほど傷ついたとしても、絶妙なタイミングで、赦してしまう言葉を放ってくる。等に「好き」と言われるだけで、ハンナは嬉しい。溜息をついて、
「恋は、ため息と涙でできているもの、と言うのは本当だな」
「? なにそれ」
ハンナは、笑ってこう言った。
「馬鹿者。シェイクスピアの『お気に召すまま』も読んだことがないのか。不勉強ものめ」
「タイトルしか知らなかったわ。つーか、本題言い忘れてた。あのな、コンペなんだけど」
その単語に、ハンナは身を固くしてしまう。触れたくない、と強く思う。
「その話しはもういいだろう。それより――――」
「おれ達の座組、演出ハンナだから」
また等は同じ事を言う。演出家として受け入れることが出来ない依頼を、恋人からされることが、ハンナには苦痛だ。身体だけではなく、ほころんでいた顔もこわばる。
「それは断っただろう。何度言わせれば気が済むんだ」
「おれらのプレゼン見るまで、わかんないだろ」
「え……」
「一応、こっちも勝負を諦めてないからな。んじゃ、待ってるわ。色々ごめんな」
「ちょっと待て、一体何を――――」
「また、学校でな」
言いたいことだけ言って、等は電話を切ってしまう。
ハンナは等の身勝手さに頭がくる。かけ直して、怒鳴り散らしたい、と思う。
だけど、久しぶりに話しただけで安心してしまって、睡魔に襲われる。
部屋の灯りを消して、ハンナは眠りに落ちて行く。きっと、よく寝られるはずだ。
少しだけ、時計の針が巻戻る。
等を、食事に何とか連れ出し、とっとと帰って寝ろと送り出した後、運営コース一年生の串田宗佑、三上亘、荒木昇平、湯元隆憲は、カラオケ店で馬鹿騒ぎであった。
メッセージに最初に気がついたのは、三上だった。
「あいつ、頭おかしいんじゃねえの」
メッセージを確認して、すぐにそんな言葉が出た。正直に言って正気とは思えない。
「流石に無理だと思うけど」
巨体をすぼめながら、湯元がそう言った。荒木も同調したが、年齢による説得力で自然とまとめ役に収まっている串田の反応は違った。
「面白そうだし、やろうぜ」
「まじで」「無理でしょ」「ないわー」
否定的なリアクションが、三重奏で飛んで来た。串田は笑って煙草に火をつけて。
「今まで黙ってたんだけど、俺ガキの頃子役だったんだよね。結構デカい舞台出てた」
「まじで」「うそでしょ」「ないわー」
ほんとほんと、と串田は笑って、スマホで自らの名前を検索して、三人に見せる。
「『君の庭』って昔すげぇ流行ってたSFじゃん。へー、演劇とかやってたんだ」
荒木が、スマホに表示された、串田宗佑の経歴を見て、驚いた。
「え、劇団『しらゆり』であれじゃね、なんか有名なやつじゃね?」
三上が、串田にそう話しかける。串田はまたも穏やかに笑って、
「そうでしょ。おれ、十五くらいまでいたんだよね」
「……なんか、小学生の時しか、クッシー仕事してなくね?」
出演歴を見た湯元がそう尋ねると、串田は頷いてこう答えた。
「おれの可愛さのピークって、小学生までだったんだよね。声変わりして仕事無くなった」
串田はそう言って、今まで語らなかった過去を、少しずつ皆に打ち明けた。
母親の趣味で、子どもの頃から劇団のオーディションを受けさせられて、小学生の頃に千人規模の舞台や、映画の端役を経験して、学童雑誌のモデルを務めていたことなどを、淡々とした口調で語った。二つ年上の千葉のヤンキーの思わぬ過去話しは中々にインパクトがあった。
「で、なんで今いきなりそんなこと言ったん?」
三上の質問は、率直なものだった。別に、黙っていても言ってもよいことなのだが、カミングアウトの唐突さに、違和感は隠せなかった。串田は、こう答える。
「等の手前、何か言い出せなかったんだよね。あいつの何かをやりたいって欲求いびつだし」
ああ、と彼らは得心する。串田は言葉を続けた。
「今日、おれも特に何もやってないって言ってたじゃん。まぁでも、装置の授業とか出て思ったんだけど、舞台作りは好きなんだよ。役者に未練は無いけど。皆も、一回くらいはやってみたくね?」
まぁ……と、三人は頷く。一回くらいなら。ただ、その一回の規模がデカすぎるし無謀だ。
「正直、実現するとは思えないんだけど」
荒木の言葉に、三上も湯元も頷く。荒唐無稽なプランで、現実的じゃない。
「そんなもん、やってみないとわかんねーじゃん。あと、かすみママどうすんだよお前等。このままだと、ママの希望潰えるぞ」
「いや……まーなー」「ママー」「讃える母が居なくなってしまった」
「いいんじゃね? どうせ書類に署名するだけでしょ。通ったら儲けもんだし。やろうぜ」
三人が、賛意を示した。
牟礼等からのメッセージはこうであった。
四人に――――。串田に舞台監督を、三上に装置プランを、荒木に音響プランを、湯元に照明プランをやって貰うから、署名よろしく。策はある。
そんじゃ、決定って事で! と串田が声を張り上げると、三人もテンションが上がって来たらしく、声量もそれに伴い上がっていった。
串田は、等の事を考えていた。
あいつは自分では何にも無いと言うけど、俺はそうだとは思ってないんだよな。
自らの人を見る目には、結構な自信があった。
まだ芸能の世界に居た頃に、ああいうタイプの大人を見たことがある。
お調子者で、無神経で、周囲への配慮に欠けて、仕事も雑で、トラブルを起こす。
それでも何となく、人を巻き込む。そんな制作者の存在を、串田は子どもながらに認識していた。
串田はこう思う。
牟礼等には、きっと天性のひとたらしの能力がある。表現をしたいという欲求が強すぎて、彼は自分の素質に気がついていないだけなのだ、と。
三人には語らなかったが、串田にも彼なりの挫折は存在した。子どもだてらに母親以外にもマネージャーと呼べる存在がいて、小学校に行けば芸能活動をしている、という理由だけでチヤホヤされた。自分は他者に求められてしかるべき存在だと、疑わなかった。
勿論、代わりはいくらでもいた。
変声期を迎え、体毛がうっすらと手足に付き、小生意気と称された目つきに鋭さが入り交じった頃、彼は仕事を失った。子どもなのに、無職ってこういうことかと思った。
あとは、お決まりのコースであった。ゲーセンに入り浸り、悪いことを覚え、荒れくれた青春を過ごした。 十九歳の頃に家庭環境のよさに感謝し、遅まきながら大学を目指した。
ムネビの舞台創造学科を選んだのは、未練だったのか、それとも期待だったのか、彼にはまだわからない。 それでも。
串田は一人、注文していたウィスキーのエナジードリンク割りを猛烈な勢いで飲み干し、
「お前らが同期で、よかったわ」
こっそりと、そう呟いた。
プレゼンの当日、棟市野の街は温い雨に濡れていた。夏が目の前に迫っている。
中ホールを存続させるか否か、という重要な日にも関わらず、舞台創造学科内での注目度はさほど高くなかった。
理由は一つ。碓井天人の座組が勝つに決まっているからだ。塩見悠紀子を始めとするスタッフ陣が運営コースの一年生に付いた時、学科内に衝撃が走ったが、すぐに収まるべき所に収まった、と言うのがあらかたの見方だった。
塩見悠紀子は、六月になった頃に周囲に「牟礼等といた最後の方は光の三原色すらわからなくなりつつあった」と語っていた。藤川麻衣は「心のノイズが酷かった」と語り、浜口加代は「線がまともに引ける気がしなかった」と漏らし、桑原沙也香は「舞台進行の手順を忘れかけた」と語った。周囲はよくわからない一年生にたぶらかされた照れ隠しなのだと理解した。
今や彼女らは、完全に落ち着きを取り戻していた。
ただでさえ、碓井と彼女たちの信頼関係は厚い。
そこに、ハンナのインパクトが加わった。少なくとも、学内の座組としては無敵感があった。
このプレゼンに於いて、実はそこまで俳優は重視されていなかった。公演を行うわけではないからだ。ただ、そこは碓井天人。抜かりなく、学内で最も評価の高い女優を座組みに引き込んではいた。
チャンスに飢えた俳優が、この機会を逃すはずはない。最強の座組だった。
「三浦君、プレゼンは全部僕に任せてください。君は審査員から何かを訊かれた時にだけ、自身の意見を言ってくれれば大丈夫です」
舞台創造学科の学生御用達の純喫茶、『ブルボン』
碓井天人と三浦ハンナは、プレゼンの直前だというのに、最終打ち合わせと称したお茶会に興じている。ハンナは珈琲に大量の砂糖とミルクを入れて、熱を冷ましながらゆっくりと飲んでいる。猫舌なのだ。黙って、碓井の話しに頷いている。
「君には、悪いことをしたと思っているよ」
「?」
「君と牟礼君が付き合っていることを知っていた。君を引き込まなくても、正直に言えば塩見さん達さえいれば十分に勝てると思っていたから、恋路の邪魔をしたかなって」
ハンナは首を振ってこう答えた。
「私の私生活と、演出家としての意見は、全く関係が無い。劇場は、常に新しくてしかるべきで、碓井先輩の仰っている事が全面的に正しい。それだけだ」
「そう言って貰えると安心するよ。僕は今年で卒業するけど、これからの学生のために、よりよい環境で舞台を創造して欲しいだけなんだ。僕だって、あの中ホールに思い入れはある。存続出来るなら、その方がよいと思ったこともある。でも――――」
「時は、止まらないから美しいものだ」
碓井はニッコリと笑う。ゲーテの『ファウスト』の台詞の引用。当然、碓井にはそれがわかる。
「その通りだね。僕にも、一応信念めいたものくらいはあるんだ」
そう言って、慣れた手つきで伝票を手にした。
ハンナは、窓につたう雨の流れを見つめながら、等にも、何か人を引きつけるプランがあったらよかったのに、と思わずにはいられない。等は思わせぶりな事を言っていたが、ハンナ自身にホールへの思い入れは皆無だし、翻意をする理由は見つからなかった。
決戦まで、あと少し。
等は、中ホールに――――。『狭間の世界』に繋がる扉に、手を置いていた。
大学入学からの日々に思いを馳せる。わりと、酷い日がたくさんあった。
自分が自分である、と感じる「意識」なんてものは、実はとても曖昧だと経験から等は学んだ。狂を発する寸前のこと。酒に酔うこと。全てが、これまでは知らなかったことだ。自分の狭い世界は、大学に入ってから、間違いなく拡張されてきた。
神様は、人間に酷いことをたくさんする。ギリシャ神話の世界では、それでも、神の力を知り、神に従う事を、人間の本当の知恵だと言う。
反発もするし、そうなのかな、とも思う。とりあえず、今は考えるのをやめよう。
「お、懐かしいな……遅れてごめんよ」
背後から、男に声をかけられた。等は振り向いて、文句を言う。
「遅えっすよ。舞台人は時間厳守が基本なんじゃないですか?」
「俺、プライベートだとズボラなの」
等は自分の妄想を思い出す。『空想上のパートナー』に同じような事を言ってたっけ。
「間に合ったんで別にいいっすけどね。打ち合わせ通りインパクト重視でよろしくす」
「芝居は下手くそなんだけどなぁ」
「頼みますよパイセン。そんじゃ、おれは行きますんで」
プレゼン会場である講義室に向かおうとすると、男からちょい待って、と声をかけられた。
「何そのグローブ。正直言ってダサいし、外した方が人前に出るにはよいと思うよ」
等の手には、かすみが居なくなってから装着することが無くなった指ぬきグローブが嵌められていた。ああ、これっすか、と等は呟いてから、
ジャキっ! と両の腕を目の前で交差させて、足幅を広げ、ポーズをキメる。
「決戦の時刻は来たれり! 分別のつかぬ愚者に、神性を知らしめてやるのだ!」
心の中のアレな部分をアレして、頑張ってみた。恥ずかしかった。
男は等をじっと眺める。等はもじもじと、ポーズを戻し、チラチラと「今のどうでした」と様子を伺っている。さもしい承認欲求が、そこにあった。男は等にこう言った。
「君、芝居下手くそだね。向いてないから辞めたほうがいいよ」
うっせぇ、わかってるよ! と等は叫んで走り出す。男の爆笑が、背中を追いかけた。
不思議と、悔しくはなかった。
プレゼン会場がある、講義室への階段を、等は全力で駆け上がって行った。
「以上で、我々のプレゼンテーションを終了します。審査員の皆様には、舞台創造学科の未来のために、最良の判断をして頂きますように、お願い申し上げます」
碓井が頭を下げると、お歴々は満足げな表情を浮かべた。『田成屋』の屋号を持つ、海老川伝十郎は、深い声で熊倉二郎にこう言った。
「中々見所のある若者だね。梨園にはいないタイプだ」
「碓井君が歌舞伎の世界に馴染めるとも思えませんが。仕事は保証します」
ムネビを卒業後長く演劇記者を主要新聞紙で勤めた森田昭彦も、新劇の名門青楽座で若手演出家の代表格として将来を嘱望されている丸井章人も、碓井の名前を知っていたし、期待通りの若者であることに満足していた。
中規模の講義室。プレゼンの場に居るのは、この三者と、学科の代表として熊倉に、碓井とハンナ、等の合計七人だから、室内はガラ空きだ。
丸井章人が、ハンナにこう尋ねた。
「声楽座演出部の丸井です。三浦さんに一つだけ質問があります。あ、その前に、エディンバラ演劇祭の『ギムレット・マシーン』は拝見させて貰いました。衝撃でしたよ」
ハンナは、大人びた笑顔を作って答える。
「有り難いものだ。私も丸井氏の仕事には注目している」
「ありがとう。で、話しを戻します。僕も碓井君や三浦さんと同じ演出コース出身です。あの中ホールには実はすごい思い入れがあります。僕の青春そのもの、と言っても過言ではありません。設備が現役で使用に耐えうるなら、残したいな、という気持ちもある」
「私には、お気持ちをお察しするとは言えないが、劇場には人間の思い出が蓄積されているのだから、仰るとおりかと」
「そう、思い出です。反対しているOBも、本当のところは、ポーズで反対していただけなんだと思います。そしたら、現役で使えるのが分かっちゃって、引くに引けないんですよね。だって、奇跡に近い。無くすのは、勿体ないと思いませんか?」
「思わない」
「……それはなぜ?」
「私は演出家だから、問答は苦手だ。一つ言えるのは、劇場とは常に最新であるべきだ、という信念だ。古いものに敬意を払わない、という事ではない。以上だ」
「わかりました。ありがとう」
熊倉が、話しを巻き取る。
「他に質問がある方はいらっしゃいませんか? いませんね。では、牟礼等君、どうぞ」
等が立ち上がった。第一声。
「運営コースの一年、牟礼等です。本日はお足元の悪い中、足を運んで頂きありがとうございます。よろしくお願いします」
ハンナは、思わず目を丸くした。真面目だ。
「時間も無いので手短に言います。私は中ホールの取り壊しに反対します。この街に、棟市野美術大学に、五十年近くも残る劇場を使えるのに壊すのは勿体ないからです。以上です」
がらんとした講義室に、沈黙が落ちた。
森田昭彦が、穏やかに等に尋ねる。
「それだけかね?」
「はい。まぁ、大体は」
森田は配布された、プレゼン用の名簿をちらりと眺めてこう言った。
「全てのスタッフも、主演俳優も『運営コース』の人間になっているが、書き間違えかな?」
丸井が、思わず笑ってしまう。
「え? それは無理でしょ。君、失礼だけど舞台作った事無いよね?」
「はい。無いです。でも、それが何か問題なんでしょうか?」
「舞台を作った事が無いのは恥ずかしいことではないよ。でも、中ホールのプランは無理だ。スタッフコースは二年間みっちりと先輩や先生にどやされて、ようやく三年生からプランが出来るようになる人が殆どだ。二年からプランが出来るのは、よほど能力がある人間だけだよ」
「そうですね。碓井さんのチームの、照明の塩見さんや装置の浜口さんは例外だと聞きます」
「意地悪で言ってるんじゃ無い。舞台は、危険なんだよ。それぞれの技術が及ぶ領域というものがある。ホールの流儀もある。これは、舐めているとしか思えない」
丸井の声には、厳しさよりも、たしなめるような響が伴っていた。等が黙っていると、反省していると思ったのか、
「君たち『運営コース』の専門は企画制作だよね? しっかりとしたプランを――――」
その時、講義室の扉がノックされる音がした。
部外者の立ち入りは、固く禁じられている。舞台創造学科の学生は、その辺りのマナーは周知されているし、他学科の学生が入ってくるエリアでは無い。碓井が立ち上がり、扉を開けると、一人の男が講義室に姿を現した。
「どなたですか? 申し訳ありませんが、本日は会議ですので――――」
「君、碓井天人君だよね。知ってるよ。『むねしの芸術劇場』の斉藤和明です」
「舞台技術課長の……」
斉藤は、審査員と熊倉を見て、にやりと笑った。
「海老川先生、森田先生、クマさん、ご無沙汰です。おっ、丸井じゃん。元気?」
「斉藤さん。お久しぶりです。え? 何しに来たんですか?」
斉藤は、等の傍らに腰を降ろすと、バシッ! と等の背中を叩いて、
「ここにいる、牟礼君に担がれたんですよ。この子中々に策士でね」
いつもなら暴言を吐いている等が、穏やかに座っているのを見て、ハンナは驚く。碓井はあくまでも冷静に、斉藤に尋ねた。
「本日は、一体どういったご用件でしょうか」
斉藤は豪快に笑って、こう答えた。
「牟礼君のチームの技術補佐を、我々『むねしの芸術劇場』の舞台技術課が、全面的に指導し、稽古初日の段階から、仕込み、本番、バラしに至るまで監督して、事故が無いように協力を致しますよ。勿論、完全なボランティアです」
あ然とした空気が流れる中、等が言葉を続ける。
「丸井さんが仰った通りに、我々運営コースの一年は、演劇のド素人です。でも、それは最も一般人に近い感覚を持っている、ということでもあります。『むねしの芸術劇場』のキャリアを積んだスタッフの仕事を、ド素人たちに伝承していく。これは、意義のあることではないでしょうか?」
丸井が、こう返した。
「でも、それじゃ、『何故中ホールを残すのか』という事に対して答えになっていない」
等は、すかさず
「我々が目指すのは、中ホールを今後、『有形文化財』に指定して貰う事です。例えば、歌舞伎の劇場はそうですよね?」
海老川が頷くと、等はなおも言葉を続ける。
「歌舞伎座ですら、六十年近く残った第四期に、幕が下りました。劇場は勿論、永遠ではありません。だけど、中ホールは何故か、設備があと何十年も使用に耐えうる。これを、奇跡として売り出さない手はありません。話題はまだあります。斉藤さん、どうぞ」
「え? おれ? 君がプレゼンする立場なのに?」
「お願いします」
斉藤は、ぽりぽりと頭を掻いて、
「恥ずかしながら、我が『むねしの芸術劇場』は昨年、数年間の準備期間を経てスタートした『舞台技能ワーク・ショップ』で、市民の皆さんの反感を買ってしまいまして、結構シビアな状況に追い込まれているんですよね。で、我々が最も素人に近い、運営コースの皆さんと共同作業をすることを、マスコミ各位に伝えてイメージアップを……」
黙って話しを聞いていた熊倉が、口を挟む。
「つまり、我々を利用すると」
斉藤は慌てて、両手をブンブンと振った。
「いやいやいや。双方にメリットのある話しじゃ無いですか。ウチの連中はムネビの卒業生ばかりですし、派遣するスタッフもムネビ出身に限定します。あと、これはねクマさん。意外な事なんですけど、運営コースの一年生諸君は、中々鍛え所があるんですよ」
「ほう」
熊倉が感心したような声を出すと、等が補足する。
「串田宗佑をリーダーに、他三名も既に『むねしの芸術劇場』さんに研修に行っています」
舞台の世界ではド素人はどやされまくる。毎日のように串田達から「ころされる」「おまえをゆるさない」と言う抗議のメッセージが届いていることは、勿論言わない。続けて、
「オープンリール等のロストテクノロジー化を防ぐと言うのも一つの目玉ですね。劇場は常に新しくなるべきだ、だという碓井先輩たちの意見は尤もですが。私は、この棟市野の街が誇る歴史ある劇場を、『神の奇跡』が顕現する劇場として、世に広く知らしめていきたいです。そして、アマチュアの特権を生かし、今一度、プロの指導をお願いしたいと思っています」
等は、息を大きく吸い込んで、
「神は、死にません。そして、劇場も。私のプレゼンテーションは以上です。どうか、中ホールの存続に、力を貸してください」
ハンナは、等をじっと見て、胸が高鳴る。私の恋人は、中々やるじゃないか。何もない人間なんかでは断じてない。しかし――――。碓井天人が、口を開く。
「競合相手のプレゼンに口を挟むのはマナー違反だと承知はしているけど、牟礼君のチームもルールを破っているから、言わせて貰うよ。いいかな?」
等は無言で頷く。
「君のチームには、演出がいないね。ハッキリ言ってこの時点で失格だろう」
丸井も同意した。
「碓井君の言うとおりだ。牟礼君、これじゃプレゼンとして成り立ってないよ」
他の審査員からも、厳しい視線が飛ぶ。等はこともなげに、
「演出は、そこにいる三浦ハンナさんに担当して頂きます。この場で、碓井先輩の座組からは抜けて、こちらに署名をして貰います。最終的にルールに触れるのは碓井先輩です」
「はははっ。馬鹿な事を言うね」
急展開にハンナはたじろいでしまう。等が電話で言っていたのは、この事だったのか。
「牟礼君のチームの主演って、馬上さんだよね? あんまり言いたくないけど、芝居が出来るような人じゃないよね。あの喋り方が直らないんじゃあ――――」
「そんなもん、関係ないですよ」
「え?」
等は、碓井を見ずにハンナを見つめてこう言った。
「三浦さんは、確かにムネビに入る前からプロフェッショナルな仕事を経験しています。才能も、桁外れでしょう。でも、今は、アマチュアの学生なのです。ついでに言えば、ムネビの『総演』は原則無料で行われています。我々は、この国で最も無責任に生きられる生き物なのです」
等は向き直り、審査員を堂々と見つめ、
「成功を目指すのは勿論です。しかし、我々には、失敗をする権利もあります。三浦さんは、いずれプロになるでしょう。だからこそ、彼女は『今、ここで』我々と仕事をする必要があります」
等は、最後に笑ってこう言った。
「ハンナ、お前、こっちに来いよ」
碓井の顔面が、引きつっている。
「三浦君、冷静に考えてくれ――――」
「碓井先輩、誠に申し訳ない」
ハンナは、心の底から申し訳なさそうな顔と声で、そう言った。
「おいおいちょっと」
碓井は思わず手をハンナに向けて伸ばしてしまうが、斉藤に軽くたしなめられてしまう。
「碓井君、暴力はよくないね。まぁ、俺が言っても説得力無いか」
ガッハッハと豪快に笑うと、碓井はうなだれてしまう。
ハンナは、碓井に向けて頭を深く下げると、審査員の三人の居る席に向かい、碓井のチームの書類に二重線を引き、等のチームの書類に自らの名前を付け足した。
「等。訂正印が必要だろう? 印鑑を持参していないが、どうすればよいのだ?」
「あ、しまった。忘れた」
「お前……」
ジト目を作るハンナに、意外な助け船を出す男がいた。
「訂正印なら私が押しましょう。教授の物なのですから、問題ないでしょう」
「あー、熊倉先生、あざまーす」
熊倉が二重線の上から印鑑を押す。ハンナは熊倉にも深く頭を下げて等の元に歩み寄る。
「おう、お帰り」
ハンナは笑って、こう答える。
「偉そうに。言っておくが、馬上先輩へは容赦しないからな。私の舞台に失敗などあり得ない」
審査員たちは、突然の展開にお互いの顔を見合わせて、困ってしまっている。
熊倉が、審査員にこう告げた。
「本日この時間に決着をつけて頂かないといけません。皆様、ご回答を願います」
等が中ホールの扉の前にやってくると、熊倉に声をかけられた。
「やぁ、牟礼君、おめでとう」
「あ……熊倉先生、どもっす」
プレゼンの終了から、二時間が経っていた。夏が近いとは言え、もうとっくに日も暮れている。
「君は、三浦君と『やぐら』に行っていたんじゃないのかね?」
「ちょっと、確かめたい事があって、先に行って貰ってるんです」
今頃、串田が中心となって、どんちゃん騒ぎをしているはずだ。
結果を言えば、プレゼンは、等の勝利に終わった。
解体記念公演は存続記念公演になるという。
これから、大学は騒がしくなるだろう。解体が既定路線だったのだ。
等は、本当にこれでよかったのかな? と思わずにはいられない。
プレゼンで言ったことは、ハッタリに近い。斉藤とのことも、運が味方した。
自分が決めて引き起こした事なのに、少しだけ後ろめたいのは何故だろう。
その感情の正体が、等にもわからない。
「見事なプレゼンだったね。私もコース担当として鼻が高いよ」
熊倉は中々等を解放してくれない。
等は焦る。今日なら、かすみにも、チューホーさんにも、ついでに言えばウロぼうにも会える気がしているのに、熊倉に扉の前に陣取られてはたまらない。
不審がられてもまずい。話しを適当に会わせるしかない。そう言えば、と等は疑問をぶつける。
「熊倉先生は、中ホールが存続するのと、閉鎖するの、本当はどちらがよいと思っていたんですか? 新歓コンパの頃は、新しい方がよいって言ってましたけど」
「私の意見は変わらないよ。本音を言えば、劇場は建て替えるべきだと今も思っている」
熊倉はそう言うが、等には納得が出来ない。
コースの括りを撤廃したのも熊倉だし、何処かで存続側に寄っていたような気がしてならない。それが言い過ぎでも、混沌を望んでいたような――――。
「牟礼君、中ホールに何か用なのですか?」
思考を遮られ、等はハッとする。怪しまれている気がする。
「ああ、いや、特に何もないっす――――」
「狭間の世界」
熊倉は、等にそう言った。
「え?」
オウム返しをする等に構わず、熊倉は言葉を続けた。
「エリュシオンと、扉」
「……なんで?」
口の中が、カラカラしている。耳になる音が、自分の声だとは思えない。
「牟礼君、君にはお願いがあります」
熊倉に距離を詰められて、腕を掴まれても、等は全く抵抗が出来ない。
「私には、どうしても会いたい人がいます。君だけが、そこに行けるらしい」
「何を……」
「その扉を、開いて貰いましょう。私も同行します」
抵抗することが出来なかった。等は、操られたように、中ホールの扉に手をかける。
絶対に施錠されていなければならない扉が、ゆっくりと開いていく。
目の前には、ぽっかりと浮かぶ闇。
顔は見えないのに、背後にいる熊倉が、笑っている気がする。
「おお……」
熊倉の、感に堪えないと言った声が聞こえる。
等はままよ、と闇の中に飛び込む。
何処でも無い場所。
何時でも無い時。
等だけが、見つけることの出来た、『狭間の世界』
そこに、熊倉二郎と立っている。
「ここが……そうか……」
劇場の中央に立つ熊倉は、一人得心した様子だ。等はそんな熊倉が薄気味悪くて、何も話すことが出来ない。
「牟礼君」
「!」
熊倉の声に、等は過剰反応してしまう。恐怖で、身体が震えている。
「ああ……いや、申し訳ない。君を怯えさせるつもりは無かったんだ」
声には優しさがあったが、等はより怖がってしまう。
「アンタ、なんなん……すか」
「ああ、そうだね。それは、彼女が一番よく知ってるんじゃないかな?」
そう言って、芝居がかった表情を作った。
すると、舞台上が暗転し、熊倉にサスが――――舞台に居る一人の人間に当てるライトが照らされる。
まるで、演劇だ。
備え付けられたスピーカーからは、女たちのハーモニーが鳴っている。
熊倉は、両手を大きく広げて、腹の底から声を轟かせた。
「そうだろう。出てこいディオニソス!」
コーラスが鳴り止み、劇場に残響が漂う。
客席から、舞台へ歩む靴音が響く。
舞台は、地明かりを取り戻していた。
闇の中から、靴音の持ち主の正体が浮かび上がる。
女は熊倉に向けて、芝居がかった口調で、こう言った。
「人間如きが、頭が高いぞ」
続けて。
「ペンテウスよ」
人語を解すヘビを引き連れた馬上かすみは、狂気を目に宿して、そう言った。
等は、いつの間にか舞台から転げ落ちていた。「板の上」にいるのが、怖かったのだ。
でも、何かを言わなくてはいけない。喉から声を絞り出す。
「かすみパイセン……」
舞台の上から、かすみが等を見つめる。目に宿っていた光が、打って変わって穏やかなものになる。
「あー、等くんー。おひさー。プレゼン勝ってくれたんだねー」
「いやいやいや! もう、なんなんすかこれ! 訳わっかんねぇですって!」
「訳なんてないよー。キミたちの理屈でー、ボクたちは動いてないからー」
「普通に喋れるなら、最初からそれでやってくださいよ!」
ぎゃあぎゃあと二人は会話を交わす。今までと何も変わらない、たわいも無いおしゃべり。
「いやー、なんかー、いきなり普通に喋れるようになってー」
二人のやり取りを黙って見ていた熊倉が、おもむろに口を開く。
「お前が、人の、それも女になって生まれ変わるとはな」
からかうような口調に、かすみもこう返す。
「ふん――――。マッチョが売りだった貴様も、今やくたびれた中年ではないか」
等は神話や『バッコスの信女』を思い出す。
テーバイを訪れたディオニソスは、「女のように」優美な、一人の美青年の姿に扮して現れる。ディオニソスの信仰を広めるための、祭司として信女たちを指導したのだという。
神の力に、人が逆らえるはずも無く、そこからはディオニソスがペンテウスに完勝するはずだった、のだが。
「貴様、一体どうやって、私をこの世に飛ばした?」
熊倉は、口の端に笑みを浮かべて、
「私はただ、お前が――――。神が気に入らなかったのだよ。あの盲目の予言者。テイレシアースは私にお前の存在を認めるように忠告をした後こう言ったよ」
また、芝居がかった声を作る。
「不憫な男よ、貴君は何を言っているか分かっていない。以前からも分別を失っていたけれども、とうとう狂ってしまった」
わざとらしく、腹を抱えて哄笑する。
「ハハハハハハっ! 狂っていたとして、どうだというんだ? 私は願ったよ。神などいない世界をな! 何が神だ! 狂気の淵を除いたとき、『穴』と力は我が屋敷にあったのだよ」
かすみは悔しそうにこう言った。
「貴様の正体に、全くもって気がつかないとは、私も間抜けだったな。まぁ、貴様のことなどは今はどうでもよい。私は『エリュシオン』へ行く。貴様はそのまましなびて、この世で朽ちるがよい」
二人のやり取りに、等はついていけていない。
「ちょまっ! マジでっ! 日本語で! 日本語でおねがいしますよ!」
「えーとー、まぁーとりあえずー? 結果オーライみたいなー?」
「意味分かんねえっ! その切り替えやめてっ!」
「まぁまぁ、牟礼君はよく頑張ってくれましたよ。私はここに来たかったんです。そのまんまの世界だと『彼女』に会えないからね。ありがとうございます」
「熊倉先生までっ!?」
等は完全に混乱している。一つ分かるのは、どうやら、この二人が、今バトルをして殺し合いになる――――。そういう展開にはならなそうだ、という事だ。
そしてまた一つ、疑問が生まれた。熊倉が言った、『彼女』って誰だ? まさか――――。
そう思った時には、舞台の上に、もう一人の登場人物がいた。
「チューホーさん」
等がそう声を漏らすと、何時もの優しい笑顔を等に向けて、
「や、おひさ」
そう言って、手をひらひらと向けた。
等は泣きたくなった。実際、この幽霊さんが、大好きだった
嗚咽は、予想外の所から聞こえてきた。
「おお……」
熊倉二郎の頬から、滂沱として涙が落ちる。劇場の床が、濡れている。
等は、大人の男がこんなふうに泣く姿を初めて見た。
「あーあー、汚しちゃって、全くもう、シロウトはこれだから。しょうがないなー」
チューホーさんの、触れることが出来ない瞳も、涙に濡れていて――――。
「三十年ちょっとぶりだね、二郎ちゃん」
熊倉が、嗚咽を漏らしながら、答える。
「会いたかった……純子」
「うん、アタシも会いたかったよ」
かすみが、チューホーさんにこう問いかける。
「ねーねー、こんなのの何処がいいのー? オッサンじゃんー」
「二郎ちゃん、三十年前はソース顔でかっこよかったんだけどねぇ……お腹出ちゃって」
「ソースー?」
「イケメンってこと、だねえ」
等は思う。この人たちには人間らしい心の動きが無いのかよと。
「ちょっ! ちょっ! 熊倉先生泣いてるから! つーか、どーいう関係っすか?」
等の問いに、何故か熊倉が恥ずかしそうに答える。
「純子は、私の恋人でした」
「純子って! 甘酸っぱいっすね! ってそうじゃなくて、チューホーさんもほら! 感動の再会ですよ!」
「アタシ、もうエッチ出来ないからなあ。今の二郎ちゃん、臭そうで嫌」
「ひっでえええ!」
女とは死してなお、リアルなものだと等は知った。熊倉は、酷いことを言われても、朗らかに笑っている。
「いや、いいんですよ牟礼君。それが当然のことなんです。人は老いて、異臭を放ち、朽ちます。老いぬのは、死者と神だけですからね。まぁ、私は神は嫌いですが」
かすみがふん、と笑い、
「一体貴様は、何が目的だったのだ?」
「まぁ、もうディオニソス――――。馬上さんでいいでしょう。単純ですよ。私は、迷っていたのです」
等は意味がわからない。熊倉は、なおも言葉を続ける。
「そのままですよ。私は、もう一度純子に会いたかった。純子が『ここにいる』ことも、私がそこには行けずに、馬上さんだけが行けることも分かっていました」
「碓井パイセンは……」
「彼は、カモフラージュですね。幸い馬上さんは自分の神性を十分に戻していませんでした。彼のような優秀な人材は、誤認させるには的確でしたね」
かすみがまた、舌打ちをした。
「人間如きに一度ならず二度も図られるとはな」
「もうその話し方はいいでしょう。疲れるでしょう?」
等が、イライラして言った。
「いやもう何でもいいんすけど、迷ってたって何をですか」
熊倉は、チューホーさんを哀しそうな目で見つめて、こう言った。
「中ホールを取り壊して、純子を成仏させるべきなのか。それとも、このまま、幽霊としてこの世にとどまらせた方がよいのか、という事です。牟礼君に私は言いましたね。本当は、建て替えた方がよいと思っていると。あれは嘘です。本音は……迷っていました」
「……」
「だから、コンペの結果に任せようと決めていたのです。どちらでも、私には力が及びませんからね。ただ、牟礼君を現役の受験で始めて見たとき、直感しました。この子が、命運を定めるのだろうな、と」
「……俳優コース、入りたかったんすけどねえ」
「それは無理です。才能が無いですから」
酷いな、と等は思う。でも今は、もうとっくに、受け入れられている。
「牟礼等君、私をここに連れて来てくれて本当にありがとう。そして純子、すまない。君をあと、何十年とこの世に縛り付けることになった」
チューホーさんは、あっけらかんと答える。
「かすみちゃんが居なくなっちゃったら、完全なユーレイに元通りなんだろうけどねえ」
等は、目を伏せる。
かすみは人間の事を、どうとも思っていない。死ぬ事も怖くない。
チューホーさんと別れる事も、かすみの中で、大して意味をなさないのだろう。
おれとのことも。
訳も無く、腹が立った。気がついたら、声に出していた。
「かすみパイセン、おれ、彼女出来たんですよね」
かすみは笑う。
「知ってるよー、ロリの子でしょー。おめでとうー」
「それが目出度くねぇんですよ。どっかの誰かに初チュー奪われちゃって。なんすかほんと、散々怖い目にも遭わせるし、責任とってくださいよ」
かすみは、ぽかんとしている。等は言葉が止まらない。
「や、ほんと、マジで。神様だかなんだか知らねぇですけどね、全部自分の思い通りで消えるとか、そんな格好いいこと、おれ許さないっすよ。責任取れよ責任!」
「ボクにそんなこと、言われてもなぁ」
等は心の底からの欲求を、かすみにぶつける。かすみの目が少しだけ、揺れた気がする。
「かすみパイセンと出会って、死ぬより怖い目遭わされて、ほんと、人生狂っちゃいましたよね。だから――――」
だから。
「先輩、おれらともうちょっと、この世界で遊んでください。何処にも行かないでください」
等は、かすみに頭を下げる。
劇場には、静寂。
かすみは、ぽつんとこう漏らした。
「ちょっとだけー、迷っていたんだよねえー」
その姿は、年齢相応の女性らしくて。
「人間ってのもー、悪くないのかなってー」
「だったら――――」
「ここで引きこもってみてー、ちょっとじっくり考えてみたのー」
「……何をですか」
「老いるとかー、死ぬとかー、どういうことなのかなーってー、そこのオッサンみたいにー」
熊倉は、笑った。かすみも笑って、
「まー、保留ー? 保留でー、いいかなーって」
「……いいんすか? 人間結構アッサリ死にますよ。事故とかもあるし」
「そーなったらー、どこにいくんだろうねー?」
「知らねえですよ」
かすみは、最初に出会った頃のように、等に右手を差し出して、
「まー、もーちょっと、よろしくー」
等がその手を掴もうとすると、クイっと身体を引き寄せられて。
「――――っ!」
「んっ……」
人生でする、二度目のキス。
唇が離れる。心なしか、かすみの目は、潤んでいた。
「年上の女もー、悪くないでしょー」
「……人前で、勘弁してください」
「人ってーオッサンしかいないしー」
熊倉も、チューホーさんも笑っていた。
今までずーっと黙っていた、ウロぼうがすさまじい速度で等に近づいてきた。
喰われる、と思ったがそうでは無かった。感情の見えない爬虫類の瞳から、喜びのようなものが伝わってきた。
「おい! 人間! なんかママ機嫌いいからお前にいいものやるよ! 齧歯類喰うか?」
等は、こう答えた。
「いらねーよ」
エピローグつきます