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神様のプロデュース  作者: 江古田景
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消えた酒神と才能の多寡

大学生の性交未遂シーンはわりときにいってます

   第四章



 

 この空間は、一体何なんだろう。ここは、『狭間の世界』なのだという。そして、目の前にいる女は、自らを幽霊だと言っている。何もかもが理解を超えているのに、等はここで過ごす時間が気に入っていた。自分は何処にでもいるし、何処にもいないという感覚が好きだ。

 チューホーさんは、「本当は舞台の上で水分飲むのはダメなんだけど」と言いながら、真空断熱タンブラーで珈琲を飲んでいる。飲み口から、湯気が立ち上っているのが不思議だ。

 というか、どうやって、体内にこの人は飲み物を吸収しているのだろう。たまに「ちょっと厠へ」と言って、消えることがあるが、意味が分からなすぎる。

 とは言え、異性との接触を極端に避けざるを得ない等にとって、触れることの無いチューホーさんと過ごす不可思議な時間は、心安まるものであった。

「アンタ、ここに自由にこれるようになっちゃったねえ」

「あー、なんか、念じてたらテキトーに」

 平台。サブロク、と呼ばれる標準的な三尺六尺の台に腰を据えて、チューホーさんの問いに等は答える。

 合宿が終わり、大学が再開してから数日が経った。合宿以来、等は学内の有名人になっている。かすみと二人でいると、『ブレイ&カッス』だ、と囁かれることがある。

 無礼と、カス。なるほどな、と等は思う。かすみと二人の時はまだいい。塩見や藤川達、等の「信女」達といると、学科中の敵意を向けられる羽目になる。

 これから梅雨時にかけて『総演』が無い時期に突入しているのが幸いだった。運営室の周りに人気が無いことを確認して、中ホールへの扉に手をかけると、必ず扉は開き、ぽっかりとした闇の中に飛び込むことが出来た。連休終わりから等は毎日ここに来ている。

 帰る時は客席からロビーに出る扉を開ける。そうすると、かすみの家の玄関に辿り着く。

 かすみからは、合鍵を貰っていた。全く等のことを気にしないようだった。

 現実の中ホールと異世界の狭間にある幽霊が管理している劇場に、等は今日もいた。

「あー、チューホーさん、ちょっと音欲しいです」

 等がそう言えば、チューホーさんはしょうがないな、と笑って、

「すいませーん、音響さん、ゲージ低めでなんかお願いしまーす!」

 そう叫ぶと、備え付けられたスピーカーから、ピアノが流れてくる。

 エリック・サティの『ジムノペディ』は、等のお気に入りだ。

「アンタ、ずいぶんここでリラックスしてるね。かすみちゃんに毒されたな」

「あー、まぁ、あの神様といれば図々しくもなりますわ」

「アンタのそれは地金だと思うけどね」

「いやいや、わりと繊細ですよ?」

 どうだか、と笑うチューホーさんに、等は尋ねた。

「舞台での事故って、多いんすか?」

 メチャクチャ多い、と答えが返ってくる。舞台には危険がいっぱいだ。アマチュアだけではなくて、プロですら死亡事故例は山のようにあるらしい。特に多いのが、綱元の事故だという。

「綱元?」

「んー、演劇の装置って、基本的に何で吊ってるか、知ってる?」

「いや、しらねっす」

「だよね。まぁ、『バトン』なんだよ、要するに、『鉄管』とか『パイプ』だね。全部一緒」

「ふーん」

「バトンには手動で昇降するモノと、電動式があるんだけど、ここは手動だね。まぁ、言うより見て貰った方が早いか、こっちおいで」

 そう言って、等を舞台袖の壁面に誘導する。壁面に、「立ち入り禁止」と記された、網で囲まれたエリアがあった。

「こっちこっち」

 網の中に身体を入れる。目の前にはロープがあり、足下には鉄製のリングがあった。目線を上げると、重量感のあるスポーツジムのウェイトのような物質が滑車の下に浮いている。

「あっち見てみ?」

 チューホーさんが指を示したのは、劇場の天井だった。確かに、パイプが見える。

「バトンおろしまーす!」

 大声を出して、足を鉄製のリングの上に乗せて踏んでから、手前のロープを引いた。

「おおっ」

 思わず声が出てしまった。天井のパイプがゴゴゴ……と音を立てて降りてくる。思わず、

「すげぇっすね」

 チューホーさんに近づいて――――。

「触るなシロート!」

 ブチ切れられた。基本的に温厚な幽霊なので、等はビビった。チューホーさんは、真剣な表情でロープを引く。バトンが劇場の床近くまで落ちきった事を確認してから、またリングを足で強く蹴った。どうやら、手の力では締めきることが出来ないらしい。

「バトン落ちましたー!」

 そう言って、ロープから手を離しすと、手でもリングを締めた。

 唖然としている等を見て、気まずそうに、

「あ、ごめん。つい……」

「いや、なんか、すいませんっす……」

「ま、ここは現実世界と違ってアレに当たっても死なないけどね。悪かったよ」

 そう言って、「バトン上げまーす!」と声を張り、リングを蹴って今度は奥側のロープに手を伸ばした。ロープを引くと、下がったパイプがまた音を立てて元の位置に戻る。

 等も流石に今度は声をかけない。

「よしっ――。バトン上げましたー」

 先ほどと同じ手順を繰り返し、リングの締まり具合を確認して、ふう、と息を漏らす。

「これが『綱元』の操作。めっちゃ危ない」

「……っぽいすね」

「つーか、実際アタシこれで死んだから」

「え」

「どう死んだか、知りたい?」

「……」

「アタシが悪いんだよ。留め具をちゃんと締めずに、舞台にチェックに出ちゃって、で、勘違いした子が、留め具を外してバトンの下敷き」

「痛かったすか?」

「やー、幸い即死だったね」

 質問も馬鹿っぽかったが、返答もあっさりとしたものだった。等は質問を変える。

「人間を、吊ったりする演出ってあります?」

「あるね」

 なるほど、やはり、あるのか。

「で、何で人間?」

 返答に困っていると、客席から「それはねー」という、語尾を伸ばした声が響いた。かすみが、ウロぼうを引き連れて、舞台に上がるのが袖から見えた。

「ハンナちゃんはー、人間を吊ってー、落としちゃったんだってー」

「何で、かすみパイセンがそれを知ってるんすか」

「んー? 碓井さんに合宿で聞いたのー」

「……あの人、何者ですか」

「たぶんー、ペンテウスー」

 ペンテウス。古代ギリシャの都市国家テーバイの王。神々に敵意を剥き出した、王たる気質を兼ね備えすぎた、母親に身体を生きたまま引き裂かれて死んだ男。

 だが、かすみによると、この世界に、ディオニソスとペンテウスは同時に転生したのだという。今、我々が認識している神話は人間による創作物では無く、異世界の中で現実として起きた出来事なのだと。

 伝承される神話と悲劇の中でペンテウスは命を落としたが、決着は未だ付いていない。

馬上かすみは中ホールを必要として、碓井天人は無くしたいと考えている。だが。

「碓井パイセン本人に、その自覚あるんすかね?」

「んー、ないと思うなー。だってー、元カレなんだけどー。そんな感じしなかったしー」

「え?」

 チューホーさんが、笑って突っ込んだ。

「そういや、去年付き合ってたね」

 ディオニソスとペンテウスが交際してよいのだろうか。ていうか、

「処女ってマジすか」

「マジマジー」

「ちなみに破局の原因は?」

「酒癖がー悪すぎるってさー」

 普通かよ。合宿に行く際の妙に親しげなやり取りは、そういうことだったのか。何を神様と王様が凡庸な青春に明け暮れているんだと突っ込みたかった。

「で? あの子は、人を落としちゃったんだ」

 等は頷く。

「あいつフランスの劇場で公演が決まってたらしいんすよね」

 若き天才の新作に、期待は募った。予算も潤沢だったという。劇場を一ヶ月以上前から独占して制作をしていたそうだ。ハンナは、趣向が盛りだくさんの演劇を作ろうと、評価された素朴な、しかし強度のある演出を忘れ、奇をてらった演出を連発した。

 そして、事故が起きた。舞台の天井にロープでたくさんの人間を吊り、一つの縄が切れた。

 勿論クッションは用意されていた。だが、首から落ちた俳優は、重傷を負った。

 俳優はまだ若く、ゲンジ・タダノの教え子だった。彼の俳優生命はそこで終わった。

「それは、演出の責任だけとは言えないとアタシは思うけどね」

等の話を聞いていたチューホーさんが、そう口を挟んだ。

「オッサンもそう言ってたんすけどね。あいつ子どもだったから、参っちゃったらしくて」

 ゲンジも演技のスーパーバイザーとして、劇場にいた。制作チームは俳優の代役を立て、稽古を再開しようと試みた。結果は、無残な物だった。ハンナは、一種の失語状態に陥ってしまったらしい。若き天才という看板は機能せず、公演は中止を余儀なくされた。

「でー、あの子はー日本に逃げてきたんだねー」

 かすみは笑ってそう言った。この人、本当に人間の心無いな、と等は改めて認識する。

「あいつ、母親日本人っすからね」

「そっかー、そうやってー、辞めればいいのにー、しがみついてんだねー」

「……」

「今日はー、『はいきそ』の日でしょー? チューホーちゃん、あの子どー?」

 はいきそ、とは俳優基礎演習の略で、稽古場は中ホールと繋がった上階にある。チューホーは現実の世界――中ホール周辺で起きた出来事は、全て「わかる」のだという。

「ダメそう、だねぇ」

 俳優基礎演習の講義日は、月曜日と金曜日。今日は、金曜日だ。今週の月曜は休講だったので、等が合宿の時に取り付けたリミットまで、あと一回しかない。

「演出としてチーム入って貰う予定なんで、本人にやる気が無いの困ったっすね」

「ふーん、ま、ボクは勝てれば何でもいいけどねー」

「勝算は上げとかねーと、何があるかわかんねぇっすからね」

 気がつくと、かすみだけではなく、チューホーも等を見てニヤニヤと笑っている。

「なんすか?」

 ごめんごめんと笑って、不幸な事故で亡くなった元人間は等にこう言った。

「青春してるなって」

 等はわざとらしく舌打ちをする。笑い声が劇場に響いた。

 

 

 どこでもいい、何もない空間――それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。一人の人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もう一人の人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。


 吉祥寺の街を歩きながら、どやぁ、と朗読をする等に、ハンナは呆れ顔でこう言った。

「ピーター・ブルックの言葉をそらんじただけで、自慢げに振る舞うとは蒙昧な」

「……」

「いきなりなんだ?」

「いや……アドバイスをしてやろうと思ってだな……」

 実は等も、ピーター・ブルックなる演出家が、どれほどの業績を残した人間かと言うことをよく知らない。ただ、大学の課題で読めと言われた本の冒頭が格好良くて、悩める演出家へのアドバイスとして適している気がしただけだった。

 ハンナは苦笑を返すだけだ。二人の間に気まずい沈黙が流れる。少し歩いて足を止めると、

「お……ここだ」

 等は言葉を発する機会が生まれた事に安堵する。ラブホテルや彩色豊かなネオンの輝きがちりばめられた界隈に、「ビター・スパイス・カフェ」と小さな看板が掲げられたライヴハウスがあった。受付に荒木昇平の名前を告げ、二人分の代金を払いドリンクチケットを貰う。

 二階構造になっていて、ステージは地下にあった。平坦な床ばりの店内に小さな丸いテーブルが均等に配置されて椅子が周りを囲んでいる。段差が無いので後方はステージが見えにくそうだ。ステージから見てど真ん中のテーブルに、見慣れた面子が陣取っているのが見えた。

「おおっ、等。三浦さんも来たんだ」

「うっす」

 串田が等とハンナに声をかける。隣には三上がスケッチブックを抱えていた。ヒップホップ文化に傾倒している三上の挨拶は大仰で、両手をがっしりと組んでからお互いの肩をくっつける挨拶はチェイっ。ウェイの文脈とは非なるものだと言い張るが、恥ずかしさは変わらない。

「チェイっ(恥)。って、あのでけぇのいないじゃん」

 湯元の巨体が何処にも見当たらない。

「後ろ後ろ」

 三上の言葉に振り返ると、入店時には姿が見えなかった湯元が、二階からカメラを首に下げてこちらに手を振っているのが見えた。二階のトイレにいたらしい。

「三浦さん、うぃーっす」

「ぁ……」

 ハンナは黙って頭を下げる。『はいきそ』で喋っているのを見たとき、ハンナは堂々とした態度を崩さなかった。実際に彼女がそう振る舞えるのは演劇の場でだけであって、等に接しているように人と会話をしているのを見たことが無い。

「なんかの呑む? 酒はダメだな。でも、牛乳はないからな」

 抗議の目線を無視して、等はドリンクカウンターに向かった。料理等の注文が殺到しているらしく、ドリンクの受け渡しにたっぷり五分は待たされた。

 自分の分のビールとハンナのためのオレンジジュースを仕入れて席に戻ると、三上とハンナが向き合っていた。

「何してんの?」

「三浦さん喋らないからなんかコミュろうと思って三上に似顔絵描いて貰ってる」

 三上の手元を見つめると、もの凄い勢いでペンを走らせている。ハンナは恥ずかしそうに前を向いていた。少しして三上の手が止まると、満足げに、

「おっし、出来た。見て」

 そう言って、紙面を全員に見せた。上手い。思わずおーっという声が起こった。

 黒いペンで描いているから当然色彩はないのに、ハンナの少し憂いをたたえた瞳や長いまつげや鼻梁が、完璧に再現されている。意地悪な目というものがそこには無く、好意を感じさせる。

風景ばっか描いてるというわりに人物だって十分上手いじゃないか、と等は驚嘆する。胸にちくりと何かが刺さったような気がしたが、その痛みを無視してハンナに声をかける。

「おお、可愛く描いて貰ったじゃん。よかったな」

「おまえっ……」

 顔を赤くして、俯いてしまう。嬉しいんだろうけど、上手いというと自分を褒めているようで、言いづらいんだろう。串田と三上も可愛い可愛いと褒め称えている。

「いやー、結構いー感じで描けたわー、はい、これ貰ってよ」

 三上はゴツい素材の鞄から大きめのクリアファイルを取り出して、ハンナに手渡した。

 ハンナは少し戸惑った仕草を見せる。そして、知らない人から菓子を貰うときに、親に許可を求める子どもみたいな視線を等に飛ばした。等は笑って、こう返す。

「貰っときゃいいんじゃねえの?」

 ハンナはこくん、と頷いて、

「三上……くん、だったな。ありがとう」

 ハッキリとした声で、そう言った。

「タメっしょ。いいよ三上で。つーか三浦さんあれでしょ、出身ドイツでしょ。おれ気仙沼なんだよね。地方出身のつらみ共有しようよ」

「ドイツと気仙沼は一緒じゃねぇだろ。あとこいつベルリンだから。首都」

 駄話は尽きず、最初は戸惑っていたハンナも、やり取りを見て控えめに笑ったり、言葉を返したりしている。

 気晴らしにでも、とダメ元で誘ったら、ハンナは意外にもあっさりと了承した。

 連れてきてよかったと思っていると、ステージに荒木がギターを持って現れた。黒縁のメガネを光らせて、ニコニコしている。ドラムに、ベースに、キーボード。

 荒木は自分の音楽を『ポストロック』と言っていたが、始まった演奏を見て、その言葉の定義が余計に分からなくなってしまった。が、聴いていて何か凄い事をやっている気はした。

 後半、荒木の演奏方法は独特なものになった。椅子に座って、太ももの上に赤いギターを置いて、弦を激しく叩きだした。

 激しい仕草とは裏腹に、旋律は美しかった。芸術じゃないのこれ、と等は思った。

 演奏が終わると、はにかんだ笑顔を浮かべて、荒木は袖に引っ込んでいった。

 ライヴハウスに鳴った万雷の拍手が、いつまでも等の耳に残っていた。



 桜が散って、一月近くが経った夜九時の井の頭公園は、木々の濃い匂いに満ちていた。肌に感じる湿度から、早くも初夏の気配が漂っている。あちこちのベンチで、恋人たちが肩を寄せ合っている光景が目に付いた。

 身長差が顕著な男女が微妙な距離感を保ち、土の道を神社に向かって進めている。

「何処に行くんだ?」というハンナの問いに「いいとこ」と、等は答えた。 

 荒木の出番だけ見届けると、串田の号令で呑みに行くことになった。入学以来、彼らの生活は酒に塗れていると言っても過言では無い。

 他の出演者を無視して等達に付き合った荒木は三鷹出身で、安くて美味しい、洒落た飲み屋に連れて行ってくれた。

 彼らはよく飲み、よく食べた。ハンナも時折相づちを打つだけでは無く、自分から喋ることがあった。棟市野に戻って飲み直そう、との提案を等は断った。彼らはかすみと飲むのだと言う。「ロリコンは不治の病だから仕方ない」という不名誉な同情のために了承された。

 中央線に乗り込む彼らを見送り、等はハンナに「酔い覚ましに散歩でもしないか」と声をかけた。ちらりと時計を見て、一瞬の逡巡の後、「行きたい」との返答が帰ってきた。

 酒のせいか、それとも、別の何かの感情のせいか、等の顔は赤い。

 闇の中に真っ赤な神社が見えた。池にかかる橋の欄干までが、紅に染められている。

「弁財天」

等は、ハンナにそう言って、言葉を続ける。

「元々はヒンドゥー教の神様なんだってさ。芸術の神様らしいぜ。ご利益あるんじゃねーの」

「サラスヴァディーか。何だ……験を担ぐんだなお前も」

「たまにはな」

 ハンナはスマホを取り出すと、フリック入力をキメて、少し顔を曇らせて、

「私は無信仰なのでな。参るなら一人で済ませてくれ」

 妙につっけんどんにそう言った。

「なんだよ、細かいこと言うなって、行こうぜ」

 とは言え、手を引くわけにも行かず、等が困っていると、もじもじしている。

「どしたんだよ」

「これ……」

 と、スマホを見せてきた。所謂、ガーリーな情報が満載のサイトがディスプレイに表示されている。曰く、弁財天は嫉妬深いからカップルを別れさせる、とのこと。

「……」

「いや、違うのだ。あのな、これはその」

「おれら別に付き合ってるわけじゃないんだから、大丈夫だって、行こうぜ」

「あ……ああ、そうだな。うむ。そうだった」

 微妙な表情で頷いて、橋を進む等に続いた。適当に財布から小銭を取り出して、パンパンと手の平を叩く。罰が当たりそうな仕草に、ハンナは眉をひそめる。

「お前、敬意に欠ける所は本当にどうにかするべきだぞ」

「神様とは、ここんところ色々とありすぎてな。ムカついてんだよ」

 そう言って、等はスマホを見た。電車はまだ十分にあるが、あまり遅くなりすぎない方がいいんだろう。帰ろうぜ、と声をかけると、ハンナは少し足が疲れた、と返した。確かにこの幼女はいつも歩きにくそうな靴を履いている。出来るだけ清潔なベンチを探して、腰をかけた。

 ハンナは、常になく饒舌だった。特に絡むことが無かった運営コースの一年生達、串田の仕切りのよさを、三上の画力を、荒木の音楽性を、湯元の写真を褒めていた。

「彼らは、中々に面白いな」

 蛍光灯の下で上気した顔を見て、彼女の上機嫌さに一役買っている飲料の存在に気がついた。

「お前……吞んでるだろっ!?」

「何のことだ? 私は十八歳だぞ。オレンジジュースなら沢山飲んで腹がたぷたぷだがな」

 等は頭を抱える。等が席を外している隙に、串田達がそそのかしたのだろう。飲み慣れていない人間が巻き起こす悲惨な出来事の数々を等は知っていた。

「後で全員に説教だな……ったくよー」

「甘くて美味しい牛乳が入った飲料もあったな。今度はもっとちゃんとしたやつが飲みたい」

「……成人したら、連れてってやるよ」

「それでは遅い。私はそれまでに、大学を辞めているだろうからな」

 さらっと。まるで、明日の予定を告げるようなテンションでハンナはそう言った。等はハンナを見る。四月から出会って今までで一番、朗らかな表情をしているように見えた。

「子どものくせに、そんな冗談を言うのは辞めろよな」

「冗談では無いぞ? 演出が出来ないのであれば、演劇と関わっていくつもりもないしな。私も日本で生きて、働いていかねばならない。大学を入り直す事になるだろうな」

 お前はそれでいいのかよ、等はそう言いかけて、言葉を呑み込む。

 自らの、これまでの人生を考えた。怠惰で、他人を見くびり、調子に乗りやすく、自分に甘く、夢見がちな人生の道程に、酒に酔った頭で思いを馳せてみた。

 荒木や、三上や、湯元を思った。彼らは他人に自分がどう思われるか? 何ていうことを考えたりはしないだろう。だいたい、自分の俳優になりたいという欲求だって、実際何処まで真剣だったのか、考えてみるとだいぶ怪しいのではないだろうか? 

 では。

 おれには、一体何が出来るのだろう? たぶん、狂を発してはいない。あの我が儘なアル中の神様に狂わされる可能性はあるけど、それは今じゃ無い。

 おれには力がある。望んだ物では無いけど、力がある。等は、そう考える。この力を、自分以外のためには誰に使うんだろう。

 そんなの、一つしかないだろう? 等はそう、自らに問いかける。

好きな女のために。

 等は思う。これは凄く卑怯で、最低な事なのだと。今自分に向け入れられているのだと感じるハンナの素朴な好意を、泥靴で踏みにじるような行為なのだと。でも、それでも。

 このままハンナが、苦しんでいるのを見るのは嫌だ。何かをやるべき星の下に産まれた人間が、能力を発揮出来ないなんて、こんな最悪な事があるのか? 

「なぁ」

 口が渇き、舌がもつれる。上手く声が出せているか、自信が無かった。話しながら、ずいぶん手に馴染んできた指ぬきグローブを外す。ハンナが等を見た。

「お前、好きなやつとかいんの?」

「なっ……!」

 吸うべき酸素を失った金魚のように、口をぱくぱくとさせている。きこしめした飲料のせいだけではないだろう。顔はゆでたタコのように赤く、玉のような汗が、首筋に浮いている。

「おれ、お前のことが好きだ」

「……」

 本心だった。ずいぶん早い段階から、等はハンナに惹かれていた。ハンナが、等の事をどう思っているか、という事も分かっていた。だから、触れたくなかった。

 公園に、さあっと風が吹き、木々の葉が揺れてお互いの身体をぶつけ合う音が聞こえた。

 ハンナはふーっと大きく深呼吸をして、んっ と喉を鳴らし、口を開いた。

「私も」

 すき。

消え入りそうで、泣きだしそうな声だった。等の胸は熱くなり、そして、今から自分がやることを思い、冷めていった。両思いなら良いじゃないか、という声と、好意につけ込んでもよいのか、という声が内面で渦巻いた。

 自分たちは両思いじゃないか、と等は思い直す。これは、プレゼンの勝利の確率を高めるための安全策なのだと自分に言い聞かせる。最悪のシナリオは、プレゼンに負けて、かすみに狂わされて、ハンナがムネビを辞めてしまうことだ。後ろめたさを感じる必要なんてない。

 それでも目の前のハンナに触れることに抵抗があった。人間として間違った事だという気持ちは、抑えようが無かった。

「?」

 沈黙が続いていることに不安を感じたのか、ハンナが上目づかいで等を見た。少しだけ、媚びるような視線が癇にさわった。好きな異性と両思いになる、人生で夢見た瞬間なのに、高揚よりも、罪悪感が上回っている。いや――――。等はぶん、と首を振った。

 ハンナの頬に手を伸ばす。肩を震わせ、唇と瞳を、キュッと閉じている。

 等は自らの指を柔らかい肌の上にそっと乗せて、こう言った。

「お前は、演出をやるんだ」


 

 文字通り「何もない空間」だった。稽古場は素のままで、一切の装飾を排していた。鏡に幕すらかけていない。俳優達の衣装は黒いTシャツとジーンズで統一されていて、化粧をしている者は一人もいない。

 ハンナが手を叩くと同時に、舞台は幕を上げた。

 シンプルな、ストレート・プレイ。音響も照明も何もない、会話劇。それなのに、退屈さとは無縁だった。人は死なず、大声を張り上げず、大仰に動かず、しかし、静かな演劇でも無かった。自分が潜在的に持っていた「意識」に、働きかけられているような錯覚を覚えた。

 終焉まではあっという間だった。

 芝居が終わっても、俳優コースの一同は、頭を下げることすらしなかった。「これで終わりです。ご来場ありがとうざいました」と述べただけだ。

 実習室の入り口から演技スペースにかけての狭いスペースに、すし詰めになった観客達は、慌てて手を叩きだした。

 ハンナは軽く会釈をすると、ゲンジに視線を投げる。それを受けて、

「発表にお付き合い頂いてありがとうございました。彼らの今後を応援して下さい」

 ゆっくりと、そう語った俳優教育者に向けて、もう一度拍手が起こった。

 等も拍手をしようとしたのに、何故か、賛意を送ることが出来なかった。

 大学の、演技の授業の発表。小さなスケールの芝居なのに、観客達の反応は、巨匠の仕事を観測した人間達のようだ。等は何故か、辛くなってしまう。正面を直視できずに、本能の指示通りに実習室の出口を見た。

熊倉二郎と、碓井天人がいる。碓井の手には、ハンディカメラが収まっていた。

 実習が終わり、運営室の周りで固まっていた運営コースの一年生達は、一種の放心状態にあった。ハンナが有名人だとは知っていたが、彼らにとっては同級生でしかなかった。

「なんか……アレだな。圧倒されたっていうか……」

 串田が、火をつけた煙草を吸いもせずに手に挟んだまま、そう呟いた。その場にいた全員が無言の肯定を返した。等も黙ったまま、先ほど目の前で起きた、本来であれば大学生の自主発表にしかすぎない小一時間を思い返していた。湯元が、ぽそっと言葉を漏らす。

「いるんだなぁ……才能ある人って」

 才能。仲間うちで「センスあるね」と褒め合うような、生やさしいものではない。人を圧倒して巻き込んで破壊して、魅了するもの。

 目撃した者の、世界への視座を有無を言わせずに変えてしまう力を、ハンナは持っている。

 等は何も言葉を発することが出来ない。黙っていると、実習室へ繋がる階段からがやがやと人声がして、俳優コースの一年生と観客達が外に出てくるのが見えた。

 観客達は口々に、俳優コースの面々を褒め称えている。若き俳優の卵たちの顔には、自信の持てる仕事をした者特有の謙虚さと誇らしさがあった。等の胸は複雑に疼く。自分とは関係が無い、と言い聞かせた。

 たくさん人の群れの中からひょっこりと、ハンナが姿を現した。等たちを見つけると、嬉しそうにぱたぱたと駆け寄ってくる。

「待っていてくれたのか」

「おお、お疲れ」

 等は近づいてきたハンナに動揺を悟られないように、平静を装って答える。

「串田君たちにも、礼を言わねばな」

 ハンナが来場に感謝を示すと、同期達も、おそるおそると感想を口にしだした。

 語彙は様々だが、才能に対しての畏怖と敬意が感じられた。

 等は黙って、彼らから視線を外す。人だかりに目をやると、ゲンジと目が合った。こっちへ来てくれ、とゲンジが手招く仕草をしている。場を外せるなら好都合だ。等はちょっと外すわとハンナに呟いて、壮年の男に歩み寄り、

「っす。お疲れっした」

 フランクに声をかけた。ゲンジの廻りにいた、俳優コースの学生達も、等のノリには慣れてきたらしく、師への無礼な態度にも苦笑を漏らすだけだ。

「牟礼君、ちょっと煙草でも吸いにいこうか」

 そう言って、実習室から少し離れた、舞台創造学科以外の学生達も使う喫煙所へ等を誘導した。自動販売機では見かけないフィルターの短い煙草に火を付けると、独特な芳香が漂う。

「何すか改まっちゃって」

「感謝を、申し上げたいと思ってね」

「いや、別に……」

「君との出会いが無ければ、ハンナ君は演劇から離れていただろう。大きな才能を、失うところだったんだ。本当に……感謝する」

 

 井の頭公園でのやり取りから二日後の月曜日。『俳優基礎演習』の授業が行われた。

 ハンナに残された、最後のチャンス。授業の主眼が読んで字の如く俳優の基礎能力の体得である以上、ハンナがその役に立たないのであれば、等と同様に排除の対象になるのは無理も無い話しだった。学生達は、ドライにハンナを切り捨てようと考えていた。

 ゲンジによるレッスンが一息つくと、ハンナを無視して、彼らは課題の戯曲を演じ始めた。

 ハンナの指示は、唐突で的確だった。

 一度芝居が止まると、おもむろに口を開いたのだという。ハンナの演出には、曖昧さという物が無かった。身体の角度を、どれくらい開くべきか。台詞を掛け合う俳優との距離を、数センチ単位で指示し、発生の音量や、拍の取り方をまるで楽譜を作るように決めていく。

 彼らの多くは、中学や高校で演劇を学んでいたが、感情をどう表出するのか、ということばかりを指導されてきた為、ハンナの演出に全員が戸惑った。

 しかし、試してみると、効果はハッキリと出た。自分たちの芝居が、上質な物へと変容していく喜びを、彼らは素直に享受していった。ハンナは、たった一度の稽古で、一月近い不信を払拭してみせたのだ。ゲンジはここまで説明してから、こう言った。

「才能とは、そういうものだよ」

「……まぁ、よかったんじゃないすかね。ウィンウィンっつーんすか、優勝っすわ」

 等は、わざと投げやりにそう言った。

「人間には、役割があるんだよ。僕は実根が俳優では無い。だけど、教えることはプロだ。君を授業から追い出したことは、全く間違った事をしたと思ってない」

「……こっちが許してんのに、いい加減しつこくねぇっすか? 怒りますよ」

「君には君の才能があるんだよ。牟礼君。君には『ひとたらし』の才がある」

「いやっそれは」

 自分に備わっていた物ではない、とは、言えなかった。

「不思議だね。最初見たときには、何一つとして才を感じなかったけど、間違いだった」

 間違いなんかじゃない、と言いたかった。合ってるよオッサン。黙っていると、ゲンジは、

「これからも、ハンナ君を頼むよ。彼女を支えてやってください」

 そう言って、頭を下げた。等は何も答えることが出来なかった。


 

 十七時の開店直後から始まった『やぐら』での飲み会は、盛大なものになった。

 クリアファイルに挟まった書類を手に、かすみは等にこう尋ねた。

「この書類の提出ってー、いつまでだっけー」

「六月十五日までっすね」

「そっかー、だいぶ署名が集まったねー」

「まぁ、だいたい」

 企画制作者 牟礼等 

 舞台監督 桑原沙也香

 照明プラン 塩見悠紀子

 音響プラン 藤川麻衣

 装置プラン 浜口加代

 俳優代表 馬上かすみ

 かすみは書類を叩き、満足げに頷いている。同席している等の『信女』たちも同調した。

「私たちが牟礼くんと中ホールを守るだけね」

「ウチらがついてるから大丈夫だって~」

「そうそう、コッチが等くんを支えるしー」

「ヒトくんおらんかったら生きてけんよ」

 四人は等にベタベタと触れて、陶然とした表情を浮かべている。 

 かすみの廻りにも運営コースの一年生が張り付いていて、『やぐら』は祝宴の場と化している。皆がハイペースで酒を煽り、ガツガツと食事を貪った。『信女』たちの食欲は特に旺盛だった。等はかすみにボソッと尋ねる。

「この人たち、食い過ぎでは?」

「そういうもんだよー。生肉とかあったらー、獣みたいに食べると思うよー」

「……あんま見たくねぇっすね」

 等はハンナから聞いたディオニソスの「祭り」の話しを思い出す。女たちは笛や太鼓を鳴らし、踊り狂い、興奮して、とてつもない膂力を発揮したという。

「祭り」が行われるのは山奥で、女たちは素手であたりの獣を捕まえると、八つ裂きにし、生き血を啜り、肉を生で食べたと言われている。

 祭りの最中の女たちは、武装した男たちでも太刀打ちが出来ず、無敵であったという。

 等の『信女』達も、興奮状態にあった。貸し切りでは無いので、気のよい店員達も注意をするかどうか、迷っているように見える。

 怒られるのは面倒だな、と思っていたところで、カウンターに座って一人で飲んでいた男が席を立ち、祝宴に近づいてきた。等達よりも先に、『やぐら』にいた、碓井天人。

「碓井さん、どーしたのー?」

「馬上さんに牟礼君、こんばんは。ちょーっとばかし、声のゲージを落として欲しいなって」

「えー、ボク達楽しんでるのにー」

「そこを何とか、頼むよ。牟礼君も言ってやってよ。塩見さんたちもさ」

 丁重に頭を下げる碓井に、等は頷き、

「ちょっと静かにおなしゃす」

 等の声に反応し、『信女』たちは一気におとなしくなる。かすみが止めないので運営の一年生がうるさいのは変わらないが、半分になっただけ、店内の喧噪はだいぶマシなものになる。

「牟礼君、君凄いね。塩見さんたちは気難しいのに」

 基本的に舞台創造学科のスタッフは年功序列だが、それ以上に実力主義的な考え方が強い。塩見と浜口は三年生だが、並の四年生の言うことは一蹴してしまう。彼女たちをコントロールすることは、質の高い芝居を行うためには必須で、制作者達は皆苦労をする。

「君はもう、うちの学科の最重要人物だなぁ。こんな一年が出てくるとは思わなかったよ」

 あくまでも友好的な態度を崩さずに、碓井は等に語りかけてくる。

「碓井パイセンって、腹の底が見えないって人に言われません?」

「そんなことは初めて言われたな」

「ボクもー、付き合ってる時ー碓井さんがー何考えてるかーわかんなかったー」

 割って入ったかすみの言葉に、串田達が一気にざわつく。「付き合っていた?」「突きあっていた可能性も」「ヤっていたのか」「この男を殺るしかない」「ヤるならやらねば」

 碓井に詰め寄る一年生達にも、碓井は動じない。

「あれ、君串田宗佑くんだよね。お、それ『ワローズ』の『無双連戦』Tシャツじゃん」

「え」

「何、君ヤンキー漫画好きなの? 実は僕も結構好きでさー。そういうの似合うのいいなー」

「あ……そうなんすか? ちなみにおれ『無双』じゃないけどバンジャマンが好きで」

「あー、わかるわかる」

 一気に距離を詰めて胸襟を開いた碓井に、松戸のヤンキー上がりの串田は簡単に落ちた。チョロすぎるにも程がある、と等は思ったが、即落ちしたのは串田だけでは無かった。

 返す刀で碓井は三上のスケッチブックに目をつけて、ちょっと見せてと言った。機先を削がれた三上が絵を見せると、絶賛しつつ、さりげなく「こうしたらよくなるのでは」と感想を挟んだ。三上は大きく頷いて、「ちぇぃっ」と握手を求めた。碓井も照れずに三上の手を握る。

 荒木が使用しているドイツ製のイヤホンに目をつけ、「何か面白い音楽教えてよ」とニコニコと話しかける。荒木は嬉々として等には耳馴染みの無いジャンルの音楽の話しを始め、碓井もそれに応えた。等も音楽は好きだったが、知識の量がまるで違う。

 巨漢のわりに、気が優しい湯元は誰よりも碓井になつくのが早かった。カメラだけではなくて映画も好きな湯元はレイアウトやコンテを熱っぽく語り、碓井はいちいち大げさに頷いて、感性を褒めた。

 碓井は、簡単に場を支配してみせたのだ。等はちらり、とかすみを見たが、酒の神は特に気にとめた様子もなく、ワインを身体に投入し続けている。

 天性の『ひとたらし』の姿がそこにはあった。碓井に比べ、自分はなんと薄っぺらい存在なのか、と等は気落ちしそうになり、いや、と考え直す。碓井がペンテウスの生まれ変わりなのだとしたら、王の資質を兼ね備えているのだから、当然か。

「馬上さん、この子達、中々面白いね」

「でしょー」

 かすみと碓井は、仲睦まじく酒を酌み交わし合う。二人の姿に文句を言うものはいない。

「……」

 等は、何となく面白くない。自分にも『信女』はいるけど、天性の力で獲得をしたものでは無い、というのがつらい。大体、塩見達のことは、操っているようなものだ。

 等のスマホが、音を立てた。内容を確認し、三千円を机に放って席を立った。

「すんません、おれちょっと約束あるんで行きますわ。ついてくるのはダメっす」

 えー、という『信女』達の声を無視して、店外を目指す。

 店を出るときにちらり、と酒席を見ると、碓井がこちらを見ていた。

 余裕の表情に見えて、めちゃくちゃムカついた。

 


 棟市野駅の南口はいつもの通り、学生達で賑わっている。等が駅に近づくのを見つけた、ひときわ小さな個体が、パッと顔を明るくさせた。

「等」

 三浦ハンナは、牟礼等を、そう呼んだ。 

「おー。『はいきそ』のメンツとはもういいの?」

 等の顔も、自然とほころんだ。

「ああ、ゲンジ・タダノももう帰られたしな。皆はカラオケに行くと言っていたが」

「あっそ。お前も行けばいいのに」

「私がカラオケを楽しむようなキャラに見えるのか?」

「プ○キュア歌ったりしないの?」

「……あのな」

「腹は……減ってないよな。どうする?」

「池袋がよいな」

ハンナのリクエストに応えて、二人して黄色い電車に乗り込んだ。一九時を回ったばかりの都心に向かう電車はそれほど混んではいない。座席に座り、やくたいもない会話を交わす。

 二人は、あれからおずおずと交際を始めた。つまり。

 恋人同士だ。

等にとって、人生で初めての「彼女」だ。幼女に見えるが、十八歳のため、完全に合法的な男女交際である。今も車内のあちこちから犯罪指数が高い人間に向けられる視線がいくつか飛んできているが、リーガルだと等は心で叫んでいた。

 ハンナは等と交際を始めた直後に、演出としての能力を取り戻した。そのことを、等も素直に喜んでいた。『はいきそ』の発表が終わったら、二人で細やかな打ち上げをしようと約束をしていたのだ。

昨日の夜、ハンナからアプリにメッセージが届いていた。

 必ずよい芝居を見せる。見ていてくれるだけでよい。

 自信に満ちた内容だった。

追伸が添えられていた。


二人になったら、伝えたいことがある。

 

 電車が池袋に到着した。

「行くか」

「うむ」

 降車して改札を通り、大型書店を目指した。ハンナは本屋に行くことを好んだ。静謐で、適度に人が居て、会話をするために声をひそめる必要があるのが、楽しいのだという。

 付き合いだしてからわかったことがいくつもある。

 実はハンナは、さみしがり屋で、嫉妬深い。それに……わりと甘えてくる。

 メッセージが既読になっているかどうかを気にしたり、返信が遅いと怒ったり、怒った後に謝ったりと、くるくる感情が変わる。子どもみたいだ、とからかうと、

「私を子ども扱いしたのは等だからな」

 と答え、だから、と前置きして、いじらしくこんなことを言う。

「等には責任を取って貰わないと困る」

 等の心は跳ねた。嬉しかったし、好きな異性に、そう言って貰える自分が誇らしかった。

 二十年の人生で、ハンナとの出会いこそが、最良の出来事だと確信をしていた。

 大型書店に向かうために渡る必要のある横断歩道にさしかかった時、往来の邪魔にならない街の隙間にハンナは等を誘導した。

「なに?」

「それは……外して欲しいのだが」

 そう言って、等のグローブを指さした。

「なんで」

 等は、ハンナからの答えが聞きたくて、わざと意地悪な口調でそう問いを返す。

「私は等と手を繋ぎたい。だから……それは外して貰わないと困る」

 恥ずかしそうに、でも、堂々とハンナは彼女としての権利を主張した。自分という存在を好きな相手から真っ直ぐに求められると言うことの心地よさに、等は酔っていた。

「しょうがねぇなー」

 余裕の表情を崩さずに、等はグローブを外し、自分とは関節が一つは小さな手を優しく招き寄せる。ハンナは喜んで、等の手を握った。

 二人が触れあうきっかけになった、アート系の棚が並ぶエリアを目指した。ハンナは品揃えの少ない演劇の洋書を熱心に眺めた。ドイツ語どころか英語もからきしな等は、自然にそれらの書物をひもとく事が出来る「彼女」を世界中に自慢したいとまで考えた。

 等は、完全に調子に乗っている。出会ってからの出来事を思い返し、ハンナの方が、先に自分に惹かれたのだから、この恋愛の主導権を握っているのは自分なのだと考えた。

 牟礼等は、愚か者なのだ。

 それ故に、ハンナの気持ちを、試すような振る舞いをする事があった。演出論が記された書物を棚に戻すと、口を尖らせてこう言った。

「昼休みは、随分と楽しそうにしていたな。あれだけ美人に囲まれていれば当然か」

「……一応、体としては打ち合わせなんだよ」

 合宿以降、等の身辺には、四人の『信女』の姿があった。

 今日の昼休みも彼女たちを引き連れて、等は大学を練り歩いた。これはかすみの指示でもあったが、気分が悪いわけでは無かった。学食の入り口で、ハンナが一人でプレートをつついているのを見つけると、わざと近くの席に陣取った。

 望まずに得た力で、惹きつけた『信女』にでは無く、力を手にする前から、関係を構築していった一つ年下の少女に、嫉妬をして欲しいと願った。

ハンナは、望み通りにこう答えた。

「恋人の私としては、見ていてあまり気分のよい光景では無いな。自重をして欲しい」

「……善処するわ」

「約束してくれ」

「おう」

「なら、よい」

 そう言って、小さな身体を懸命につま先立てて、ぽふっと等の胸に、頭を預けた。

「……公共の場だぞ」

「このフロア、人が殆ど居ないからな」

「防犯カメラがあるだろうが」

 等はハンナの頭をくしゃっと撫でてから、肩に手を下ろして、距離を取った。

「甘い物を所望する。回転式の遊戯で調子がよいのだろう? ご馳走してくれ」

「いいけど。メシ、俳優コースの連中と喰ったんじゃないのか?」

 よく言うだろ、知らないのか、と言って、ハンナは悪戯っぽく笑う。

「甘い物は、別腹だろう」

 

 

 門限、という単語が等の頭をかすめる。等は高校卒業後、帰宅の時間で両親から注意を受けたことは一度もない。他者とトラブルだけは起こすな、満員電車に乗ったら両手を挙げろ。それだけが、父と母から伝えられた教えだった。

「あちら側も散策したい」とのリクエストを受けて、浪漫溢れる通りをハンナと歩くことになった。交番の前を通ると訳もなく緊張をしたが、杞憂に終わった。この街では学生カップルなど、大して金にならない存在なのだろうな、と考えた。

そろそろ帰らなければならないと言うのに、ハンナは「話したいこと」を何も言ってこなかった。「あのメッセージ何?」と聞いてもはぐらかすだけだった。等は、まぁ大した事ではないんだろうと楽観した。

二人の手は、ずっと繋げられたままだ。

「池袋には、プラネタリウムがあるというが、等は行ったことがあるか?」

「あるよ」

「……誰とだ」

「おんな」

「!?」

 小学生の頃、母親とだよ、と笑って言うと、ぐるぐるパンチの要領で上腕を殴打された。詫びを入れて、連れて行ってやるよ、と言うと、笑顔が咲いた。

「なぁ、お前って、門限何時?」

「質問に答える前に、一つ抗議をしよう。私のことを、『お前』と呼ぶのを辞めろ」

 強い意志が、言葉に込められていた。二人は出会ったときから、お互いを「お前」という二人称で呼び合ってきた。交際をするようになってからハンナは等のことを名前で呼ぶようになったが、等のハンナへの呼び方は固定されたままだ。

 正直に言えば、恥ずかしい。だから、照れ隠しをしてしまう。

「なんだなんだ。ベイビーでいいのか」

「……そろそろ、名前で読んでくれてもよいだろう」

直球だった。しかし、付き合いだして日も浅いのに、そろそろと言われても。それでは。

「みうらさん」

 無言の抗議が飛んで来た。マジか。言わねばならぬのか、と等は覚悟をキめる。

「……ハンナ」

 等の手の平に伝わっていた感触が、より熱く、そして強くなる。ハンナは、嬉しさと恥ずかしさが入り交じった顔で、

「私の門限は、二十三時ということになっている。三〇分程度は誤差の範囲内だがな」

「そっか。早いのか、遅いのかよくわかんねぇな」

「成人をしたら不問、と言われているのだがな。おかしいだろう? 妙に古風なのだ」

 おそらく三浦家の生活水準はかなり高い。等にはわからないが、着ている服や、使っている小物などは、高級感が漂っている。バイトをする姿など、想像も出来ない。

「大事にして貰ってるんじゃねーの?」

「そういうことなのだろうな」

照れることも無く頷く。等はスマホで時刻を確認する。二十二時を少し回っている。ハンナの家は目黒だからそれほど遠いわけじゃないが、余裕を見過ぎるのも危ない。と、いうことで。

「駅まで送るわ」

 本日のデートはここまで、ということになる。等にとっても、終電が近づいて行く山手線に乗ることは、デメリットが多い。ハンナは、ピタッと歩みを止めてしまう。

「……もう少し、一緒にいたいのだが」

「んじゃ、もう少しぶらっと歩くか」

 手を握る強度で、無言の肯定を感じた。いつの間にか、二人は、池袋の北口周辺を歩いていた。街の中で、最も怪しい輝きを放つ、闇の深い場所。

「……この辺、やたらとホテル多いんだよな……」

 つまり、そういうエリアである。街中に飛び交う言葉も、日本語以外の言語が増えるし、行き交うスーツ姿の面相も、サラリーマンのソレとは異なっている。

 ハンナは、物珍しさの為、きょろきょろと建物や飲食店の軒先を眺めている。意外にも、怖がったりはしないようだ。欧州を何カ国も旅した経験があるのだから、当然かもな、と等は思う。とは言え、この辺りを子どもを連れて歩くのは、関心が出来ない。と、いうことで。

「子どもの近づいていい場所じゃねーし、帰っか」

 少し強引に、駅に向かおうと身体を翻えそうとした際に、抵抗を感じた。ハンナは、その場を離れようとしない。

「……おい」

「ち、違うのだ」

「何が」

「いや……建築構造に興味があるというか、だな」

「そんないい物じゃねえって」

「……入ったことがあるのか?」

 不安げな顔だった。

「ねーよ。ないけど、想像はつく」

「私はアーティストだからな……門限などという、規則にばかり縛られていたら成長が出来ないと思うのだ」

「この前まで四年アーティスト休んでたじゃねーか。なんでいきなりそんな」

 だって、と唇を震わせて、ハンナは呟く。

「不安なのだ。等の周囲に、綺麗な女性がたくさん居るだろう。私は子どもに見えるからな」

「……まぁ、大人には、見えねぇよな」

 ていうか、成人したところで、ハンナが大人っぽくなる姿は想像できない。チューホーさんは見た目が幼いわけではないが、ハンナの場合は完全にロリ成人になるだろう。

「一応な、コンプレックスなのだぞ」

「……なら、そのひらっひらのお洋服は辞めるべきでは」

「それはそれ、これはこれだろう。ええい、埒が明かない。入るのか!? 入らないのか!?」

いきなり、感情を爆発させたハンナに、周囲の奇異の視線が飛ぶ。泥酔したオッサンからのありゃあ犯罪だな、という下品なダミ声が聞こえてきて、等はそちらにガンをつけた。

「ちょ、ハンナお前、テンパりすぎ」

 気がつくと、ハンナは瞳の表面に水分を浮かべて、上を向いて慣性の法則に懸命に抗っていた。要するに、泣きそうになるのを堪えているのだ。そのまま、等にこう告げる。

「もっと、一緒に居たい」

 等の肉体も、精神も、どうしょうもなく昂ぶっていた。素直な欲望を感じたし、理性の力を働かせるのが難しい状況になっている。移動の度にキめていた酒精の勢いもあった。

「んじゃ、まぁ、社会科見学ってことで」

 冗談めかした台詞だったが、等の声は緊張で震えていた。

等は何となく空を見上げたが、曇り空のせいで月は見えず、不安が募った。



 等は浪人生活で身に付けた予習の重要性を再認識していた。若者として、来るべきに備えてイメージトレーニングを怠らなかった自分を褒めてやりたかった。

ロビーのパネルに、空き部屋が表示されている。色が落ちている部屋は、使用されていることを意味するのだ、という事も知っていた。

 ハンナは緊張の為か、顔を伏せっぱなしだった。なるべくスタンダードな部屋を、と思ったが、何が標準なのかが分からずに、適当に点灯しているボタンを押した。

 落ちてきた札をフロントに手渡すと、スっ……とカードキーが差し出される。

 等はその手つきに見覚えがある。パチンコ屋で景品を受け取った後、「何故か」それを現金に還元してくれる店がある。彼らと同じ、プロフェッショナルのみに可能な動きを、高齢の女性らしき手に感じた。

 ハンナの手を引きエレベーターに乗り込もうとしても、なかなか垂直の箱は目の前に現れてくれない。二人して緊張していると、同じようにド緊張していると思われる同年代のカップルが後ろに姿を見せていた。

 昇降機がようやく一階に到着した。扉が開くと、妙に顔をテカらせた親爺と、二十代とおぼしき派手な装いの女性が二組のカップルの間をぶち破り、外へ向かっていく。

 内部に身体を侵入させると、もう一組のカップルも非常に気まずそうにしている。同年代の大人しそうな男に何階に行くか尋ねる。等達が選んだ部屋よりも、上階だった。

 無限に思えた数秒の後、等がハンナの手を引いて外に出ようとしたときに、男と一瞬だけ目が合った。何故か、お互いに「頑張れよ」と言い合っているような気がした。

 カード型の鍵を、ドアノブの上にかざすと、扉が開く準備が整ったことがわかった。

 と、言うことで、人生初のラブホテルに等は彼女とやってきた。


「えーと、金は……ここに入れればいいのか」

 財布にはだいぶ余裕があったが、何となく現金を投入するのは気が引けた。大学入学直後に作ったクレジットカードを挿入して、精算を済ませる。

「ふむ。中々綺麗な作りだな」

 ハンナは今までの緊張が嘘のように、堂々とした振る舞いで部屋の中をうろつき始めた。アメニティを点検して周り、様々な色に変わる照明を点けたり消したりして遊んでいる。

固まっているのは、むしろ等の方だった。喉が渇いて仕方がない。目についた冷蔵庫から缶ビールを取り出して、一気に喉にぶつけると、ようやく、人心地がつく。

「なんか、余裕じゃね?」

「性的欲求を抱えた人間が劣情を催すように扇情的な意匠が施されているだけだな」

「……日本語でいいぞ」

 ハンナは笑って、ぽふっとベッドに尻をつけて、わかりやすい言葉を使った。

「豪華に見えて、大したことはない、ということだな」

「さよか、期待外れで悪いな」

 いや、とハンナは否定する。

「どうやら店の狙い通りに、私も期待してしまっているらしいぞ?」

 幼いとばかり思っていた恋人の信じられない妖艶さに、等の感情は攪拌された。

ホテルに入るところまでは想定できても、この後自分たちがどうなるか、という事を、具体的には考えられなかった。ハンナをどこかで、本当に子どものように思っていた。

 大きな間違いだと等は考えをあらためる。三浦ハンナは――――。恋人は、女だ。

心臓が痛い。衝動が体内で暴れている。

 触れたい。キスをしたい。

 抱きたい。

 高まりを抑えることが出来ない。

「等……?」

 思考よりも先に、身体が動いた。

 等はハンナを、ベッドに押し倒した。 


「……」


 目線のすぐ下に、ハンナが仰向けになっている。頬はこれ以上ないほどに紅潮し、恥ずかしそうに身をくねらせる。細い喉がコクっと鳴り、なまめしい。

 幼いけど、確かにある、なだらかな丘陵が、緊張で上下している。

 お互いのかすかな息遣いと、空調の音だけが部屋に静かに響いた。

 等は思う。今のおれは酒臭いんだろうな、と。

 構いやしないと思った。勢いが大事なんだと、思いやりが持てない自分を誤魔化す。

唇を重ねようとした、その時。

「等に、話さなくてはいけないことがあるのだ」

「……後でいいだろ」

 ハンナの表情が一変している事に気がついた。『はいきそ』で、初めて会話を交わしたときのように、揺るぎない意志が宿っていることがわかる。等は、思わずハンナを組み敷いていた腕の力を緩めてしまう。拘束する力が弱まった事を確認したハンナが静かに身を起こした。

「すまない。どうしても、今話しておかなければならない。ずっと言い出せなかったのだ」

相貌と同様に、口調まで冷静さを取り戻している。彼氏と彼女の空気ではない。

 等は、完全に気圧されて、狼狽してしまっている。

「何だよ……どうした?」

 ハンナは、ハッキリとこう言った。

「中ホールの公演のプレゼンだが、私は等の座組には入らない」

「は?」

「劇場は、常に『最新のもの』で無ければならない。だから、私は」

「ちょっと」

「碓井先輩の座組に、署名を済ませてきた。等とは、相反することになるな」


 沈黙が、二人の間に落ちた。ハンナの等を見つめる視線は、ずっと、変わらない。

意思を持った瞳。誰からも認められる、才能を持った個体。望んでも、努力をしても、持てない人間はたくさん居るものを、十代前半から獲得していた、才能の持ち主。一度は失いかけた能力。それを取り戻させたのは。


「……誰のおかげだと、思ってるんだよ?」

 声帯から振動をした音が、自分の声だと等には思えなかった。ただ、それは間違いの無い、牟礼等自身の声。もう一度。

「ハンナ、お前、誰のお陰で演出が出来るようになったと思ってるんだよ」

「等には、感謝をしてい……」

「感謝とかはどうでもいいよ」

 等は思う。おれは元々、こういう人間だったじゃないかと。無能で、気が小さいくせに強気に振る舞うことをやめられなくて、強い者には媚びへつらって、弱い者が弱点を見せれば、全力でマウントを取っていく。自虐のループは止まらず、言葉での加虐になった。

「おれのお陰だよな? お前、おれが居なかったら、ムネビ辞めてるよな? 演出から、四年も逃げてたんだろ? そうだろ? そこはちゃんと、恩に報いろよ。おかしいだろ」

 ハンナの頬に、影が差した。

「……だが、演出を実際にしたのは私だ。俳優が板の上に立った時に一人であるように、演出家だって、俳優の前では一人だ。結局の所、稽古場で私は誰の力も借りていない」

 こいつ、何を言ってるんだ? おれがお前に「触れて」命じたから、お前はああやって才能を持った人間として振る舞っていられるんだぞ。等は、そう叫びたくてたまらなくなった。好きな女に、赦して欲しいのに、何でだ? 

「中ホールの機材はまだ使えるんだろ? OBの反発だって凄いし、金もかかるんだぞ。別に建て替える必要なんてないだろ。古いものを残すのも、大事なんじゃねぇの?」

「……私には、等があのホールに拘る理由が全く分からないのだ。上級生のように、公演をしてきたわけでもないだろうに」

「理由なんてお前には関係ないだろ。何で頼みを聞いてくれないんだよ!」

「……どんな理由があったとしても、私の判断は変わらない」

 こいつ、人の命がこのプレゼンにかかっているって事が、分かってないな、と等はイライラした。実際、ハンナだけでプレゼンを勝ち抜くのは無理だろう。塩見達、等には『信女』がついているし、プレゼンの審査員が女なら、等の勝利は動きようがない。

 だけど、不安は心の中に常にある。正気を失うのは怖かった。かすみの事が嫌い、ということでは無く、ただ、訳の分からないことに自分の人生が巻き込まれている、という事を正面から見つめることが出来なくて、酒を飲んで馬鹿騒ぎを繰り返してきた。

 牟礼等にとって、三浦ハンナの存在は、「光」そのものなのだ。なのに、何故、自分が苦境に立たされている今、味方をしてくれないんだ? 

「本当か? マジでおれの身に起きたことを知っても、同じ事がお前は言えるんだな?」

「言える」

「よしじゃあ説明してやるよ――――」 

 等はハンナに今までに起きた全てをぶちまけようとして――――。

 冥府。死者の国。生きた者が、その身のまま入る事が赦されない土地。

 等の意識は「そこ」にいた。かすみの――――。いや、ディオニソスの声がする。

 神様をないがしろにする人を、神様の秘儀は嫌います。

 

……し。……とし。……ひとし。誰かの声がする。女の声だ。誰だ? 


「等」

 目の前に、心配そうなハンナの顔が見えた。

「あ……」

 等は、本能で理解する。この秘密を誰かに話す、という事は、狂を発するよりも、死ぬよりも恐ろしい目にあうのだと。

 等は自分の頬に、水滴が伝わるのを感じた。ぽろぽろと、水は顎をつたい、ホテルの床に落ちる。泣いているのだ。

「等? ど、どうした……」

 ハンナの腕が、等に伸びて、涙を拭おうとしたその時。

「触るな」

 拒絶の言葉が、口から出た。

「え……」

等は、ベッドに備え付けられたデジタルアラームで時間を確認する。門限は回るだろうが、終電にはまだまだ余裕がある。

「ハンナ、お前もう帰れ」

「えっ……? えっ? 等?」

 ハンナは、先ほどまでの態度からは豹変していた。うろたえて、いつかの日か見た、媚びた笑顔を等に向けて、言葉を重ねる。

「怒ったのか? た、確かに、等の意向に添えないのは申し訳ないとは思うが、私と等との関係と、コンペは別だろう?」

「電車だと……クソ、混むなこの時間は。タクると目黒まで……まぁ、足りるか」

 等はブツブツと呟いていて、ハンナの呼びかけには答えようとしない。財布から一万円を取り出すと、ハンナの手に押し込んで、こう言った。

「悪いけど、おれ酔ったし、眠いから送れないわ。ごめんな。親御さんには適当に言い訳しとけよ? 実習発表の打ち上げがあって、皆にしつこく誘われたって言っとけ」

「……」

「タクシー見つけたらすぐ捉まえろよ。声かけられたら無視しろ。いいな?」

 そう言って、有無を言わさずにハンナに自分のバッグを持たせる。

「やだ……」

 首を振り、抵抗を示すハンナを、強引に立たせて、出口に向かわせる。等は無言だ。扉を開けて、小さな身体を、部屋の外に出した。

 等を見上げる、ハンナの視線が、網膜に焼き付く。印象的なのに、感情を読むことが出来ない目の色をしていた。

 扉を叩く音、自らの名前を呼ぶ声、それらが遠く聞こえるのは、ホテルの防音のせいか、それとも、感覚が麻痺しているせいか。

どちらでも構いやしない。のろのろと、備え付けの冷蔵庫に向かって、中身を確かめた。料金表を確認して、こういう所の酒って高いんだな、と等は呟く。随分酒に強くなったと思う。でも、これだけあれば酔い潰れるには十分だろう。



等の意識は混濁している。身体が、悪い夢を見ている。二日酔いも、三日酔いもこの短期間で味わってきた。だけど、どの酔いとも質感が違っている。

 ジーンズ姿のままベッドに寝転んで、首を起こして、じっと靴下の先を眺め続けた。首から靴下までの距離が、自分の身体の連続だとは思えないくらいに、遠い。

熱いのか、寒いのか、それすらわからなかった。山盛りになった灰皿を見て、煙草を吸っていたんだな、と思う。あの様子だと、吸い込むことは出来たようだ。ビールも、高濃度の缶チューハイも、ワインのミニボトルも空になっている。

 身体の脇に置いていた、スマホが何度も鳴っていた。目にするのがうざったいけど、電源を切ることも面倒で放置していた。不意に、鈍磨した感性に、危険信号が飛ぶ。

 強烈な吐き気。

等は全力で意思の力を働かせて、トイレに転がり込む。便器が上がっているのが幸いだった。

 嘔吐につぐ、嘔吐が始まった。吐瀉物の匂いが、周囲に立ちこめた。等は思う。これは、おれの匂いだ。

 胃が空っぽになるまで吐いても、胃液を吐き続ける事になるのだとは知らなかった。

 喉の奥からひしゃげた声がする。自分でも、人間の声だとは感じられない。醜い生き物が出す、おぞけをふるう叫び。

 胃が蠕動し、前立腺が痙攣した。口や歯が酸で腐ってしまうのでは、と感じるほどに臭い。

何分間、そうやっていただろう。ぼやけていた視界も、呼吸器系も、正常とは言えないまでも、だいぶ元通りになってきた。のろのろと、タイルにつけたままの膝を上げて、蛇口を捻って、水で顔を洗い、口をゆすいだ。鏡で顔を見る。見慣れた自分の顔なのに、老けているように見えた。

 明日どうなるかは分からないが、今はそれほど頭の痛みなどは感じない。不快感を紛らわすために、シャワーを浴びて、歯を磨いた。

 ベッドに戻るとスマホが音を立てた。通信アプリの、音声着信音だ。部屋で飲み始めてから、何度か鳴っていた気がする。ハンナかな、と期待をしてしまう自分に、等は自己嫌悪をした。

 ディスプレイを見ると、馬上かすみの名前が表示されていた。

「……」

 放置をし続けても後で何をされるか、わかったものではない。等は通話とスピーカーボタンを押した。等に向かっての呼びかけはない。目の端で時刻を確認すると、午前三時になっていた。

「なんすか? かすみパイセン、用が無いなら切りますよ」

返ってきたのは、今、一番聞きたくない男の声だった。

「牟礼君。こんばんは」

「……碓井パイセン、人のケータイ使って何やってるんんすか」

「牟礼君に電話したのは馬上さんだよ、ケータイを押しつけてきたのは彼女だ」

「意味分かんねぇっすね。眠いんで切りますよ」

「三浦君と君は付き合い始めたらしいね。で、三浦君から、話しは行ってる?」

交際を、特に内緒にしているわけでは無かったが、ハンナが碓井に話しをした、という事実に単純な怒りを感じる。

「ああ……聞きましたよ。まぁお互い頑張りましょうって事で、切りますね」

「報告があと二点あるんだ。まず、塩見さん達四人は、僕の座組に署名してくれたよ」

「はい?」

「馬上さんが持ってた書類にはもう訂正印を押したからね。あと、審査員は全員変更したから」

「……え?」

「ムネビの中ホールの今後を決めるのに、OBを使わないのはおかしいって意見が、教授陣から出てね。熊倉先生も了承されたよ」

「……誰が、審査員に?」

「歌舞伎俳優の海老川伝十郎に、演劇評論家の森田昭彦と、青楽座演出部の丸井章人」

 全員が、男だった。

 等の全身から、力が抜けていく。

 しかし――――。あれだけ自分に纏わり付いていた塩見達が、何故今さら、翻意をするのかがわからない。碓井のブラフなのではないだろうか。いや、そうに違いない。

「塩見パイセン達が、裏切るはずないんすけど」 

自分の声が、惨めだった。よく分からない力で、好かれているだけなのに、等に残された最後のよりどころとして、『信女』の恭順を求めた。碓井の反応は冷静だった。

「確かに、彼女たちを納得させるのは骨だったね。でも、今日の『はいきそ』の実習発表の映像を見せたら、三浦君と芝居をする機会を、彼女たちは選択したよ」

「うそ、っすよね」

「彼女たちは結局舞台人なんだよ。君はそれを、理解していなかったみたいだね」

「……」

「では、プレゼンでまた会おう。ああ……馬上さんが、変われって」

 碓井の声が、フェードアウトした。カットインしたのは、かすみの長閑な声だった。

「困っちゃったねー、もうー、神頼みしか無いかなー」

 神様はアンタだろう。そう突っ込むことも出来ずに、通信アプリを終了させる。

スマホを見ると、ハンナからの連絡がたくさん来ていた。

 あれほど吐いたのに、酒を飲みたくなっていた。冷蔵庫を開けると、一本も酒類は残っていなかった。

等は、冷蔵庫を思い切り蹴っ飛ばして、つま先を痛めた。

  

 

『狭間の世界』で飲んだくれているだけで、六月の初旬はあっという間に過ぎていった。等は完全に酒に逃げていた。家にいても、大学にいても、居場所がない。

 何故か、パチンコやパチスロに行けば連戦連勝だった。数字が揃っても、心は浮かばなかった。生きている者との交流に、等は倦んでいた。と、いうことで。

「チューホーさんってさー、今生きてれば何歳なんすかーっ」

 へべれけであった。抱きついてスケベしようや、とか言いそうなほどの距離の詰め方だった。

 完全に、ヤベエやつだ。チューホーさんは、タンブラーを手に、こともなげにこう答える。

「今年で五十三歳になるねえ」

等がどれだけ失礼な事を言っても、チューホーさんは怒りもしなかった。チューホーさんが怒気を見せるのは、『狭間の世界』の中ホールの備品を等が勝手に操作をしたときだけだ。

 等は舞台の上で喫煙までするようになっていた。今もぷかぷかと紫煙をくゆらせている。

「そういやー、舞台の上で煙草吸ったりする事ってあるんすか」

「アタシが死んだころは、普通に吸ってたねえ。稽古場とかでも吸ってたよ」

 中ホールの歴史は、すでに五十年を超えている。半世紀残る劇場、というのは中々無いのだと言う。

「……このままだと、来年には取り壊し始まっちゃうっすねえ」

「ま、アタシもそろそろ、成仏しなきゃダメってことなんだろうね」

「あー、サーセン、力不足で」

「ま、かすみちゃんが生まれて来てくれたお陰で、こっちも楽しかったんでいいかなー」

 チューホーさんによると、彼女は現実世界にただ存在するだけの普通の? ユーレイさんだったそうだ。中ホールに住み着き、『総演』に事故が起きないよう、影で学生を支えてきた。

 チューホーさんは、舞台監督という仕事を愛している。それは、生きている間も、死んでからも変わらなかったそうだ。

「まーでも、常に学生がいるから、あんまり自由に小屋で遊べなくてね」

「遊ばれても困るっすけどね」

「だから、ここは気に入っていたんだけど、無くなるのは当然かもねぇ」

「やっぱ、劇場って新しくなる方がいいんすか」

「そらね。新しい劇場を嫌がるスタッフなんていないよ。アタシだってそっちに行きたいし」

 そう言って、バトンの上げ下げを例に出す。

「アンタには前も見せたと思うけど、アレ、手動でやったでしょ? でも、本当は選択肢があった方がよいんだよ」

「選択肢ってなんすか」

「ざっくり言うと、アナログとデジタル」

 例えば、この前見せて貰った、バトンの上げ下げ。

 中ホールでは手動での昇降しか出来ないが、劇場によっては電気でバトンを扱う。電動バトンの最大の利点は、ヒューマンエラーが起きない、ということだ。手動に比べ、危険性は激減する。

 ただ、手動特有の味わいは、電動だと再現しずらい部分があるのだという。

 電動バトンを使用した際、昇降タイムを伸ばしたり、短くしたりすることが出来ない。人間の手であれば、流れの中で背景を急に落として、観客の視線を惹きつける事が出来るが、その速度感は機械にはどうしても出すことが難しい。チューホーさんは、一長一短があるんだよ、と呟いて。

「どっちも選択が出来る状況がアタシにとっては……というか、芝居作りには望ましいね」

 電動バトンと、手動での昇降、状況によって使い分けが出来る劇場は存在する。中ホールも建て替えると、どちらも利用が出来るようになるという。

 選択肢の多さは、そのまま表現の幅に直結する。

「んじゃ、あれっすね。やっぱり建て替えた方がいいってことっすね」

「そうだねぇ」

 やはりどう考えても、建て替える事の方が筋道が通っている。ノスタルジックなノリだけで反対をゴリ押す事は無理だ。等は、酒を啜ってからこう言った。

「詰んでるっすね。碓井パイセンに勝ち目ねぇっす。オワタっすわ」

かすみの、あの目も当てられない芝居が中ホールの観客の前で披露されることを想像して、恐怖や気恥ずかしさを感じる事はよくあった。流石にアレを人前に出してはいかんだろう。それくらいの良心は等にもある。だから。

「……これでよかったのかもしれねぇっすね……」

 酒には人に諦めをもたらす力があることを、等は学んだ。どうでもよくなってくる。

 等が欠伸をすると、神様と大ヘビの声がした。部屋に繋がる観客扉から、かすみとウロぼうが現れた。慌てた様子で階段を降りて、舞台へ身を乗り出す。

「ちょっとー、キミキミー。ボクは困るんだよー。『エリュシオン』に行きたいのにー」

「ママの言うことを聞かないなんて馬鹿だな人間! オマエ、頭から呑み込むぞ!」

「ウロぼうー、ボク虐められてるよー」

「ママ、アレ食べていい?」

「もーちょっとガマンー」

 ぎゃあぎゃあとやかましい。等は投げやりにこう言った。

「かすみパイセン、もう無理っすよ。冷静に考えてくださいよ。つーか、神の力、しょぼくねぇっすか? 塩見さん達、簡単に碓井パイセンに転んじゃうし」

「えーー。だってだってー。ボクがチューしたのにー」

「だっても何も、現実として、おれらもう味方いないじゃねえっすか」

 チューホーさんが笑って口を挟む。

「アンタ達、ハデにやり過ぎたんだって。塩見ちゃん達のコーハイ大喜びだよ。かすみちゃんも、碓井君振って嫌われまくってるしねえ」

「え、かすみパイセンが碓井さん振ったんすか」

「そだよー」

「なんでまた」

「あいつ、ペンテウスなんだもんー。人間のくせにすりよってきたからー、一度オッケーして振ったったのー」

「碓井パイセンが、自分をペンテウスって名乗ったんすか?」

「なんかあいつ自覚薄いみたいでー、たぶん分かってないー」

「かすみちゃんのせいで、壊れた座組がいくつあるかねえ。ま、自業自得だね」

 実際、塩見達が去った後の等とかすみに対しての視線は厳しいものがあった。仕事が出来る彼女たちを何の実績が無い等が独占をしていた、というのもそうだが。ただでさえスタッフコースの面々達は中ホールの建て替えに賛成する者の方が多かったのだ。

 合宿で碓井が建て替えに賛意を表明したことが、彼らにとっての追い風になるはずだった。

 牟礼等こそ、彼らにとってはイレギュラーだったのだ。何故かはわからないが、塩見達が等に付いてしまった以上追従するしか無い。皆が口惜しさを抱えてた所に、一発逆転が起きた。

 舞台創造学科の総意は、中ホールの建て替えに固まった。

「つーことで、もう、これ無理っすわ。諦めましょ」

 等は巨大なスルメをライターで炙りつつ、そう言った。かすみは顔をしかめた。

「キミ、そんな態度取れるような立場じゃないでしょー? 頭、ファニーにしちゃうよー」

 ウロぼうが等からスルメを奪い、丸呑みにした。

「そうだぞ! オイラがこんな感じで食べちゃうんだぞ! これ結構美味いな!」

「ちょっ、ヘビてめぇ! 楽しみにしてたのに! って……やればいいんじゃないすか?」

「えー?」

「いや、だから、やりゃあいいじゃないっすか」

 等の言葉に、かすみが狼狽えた。

「意味わかってるのー? 死ぬよりも怖い目にあうんだよー? 体感したくせにー」

「まぁ……そりゃ怖いわ怖いですけど、でも、勝ち目ねぇですし。つーか、やる気出ないっすよ。よくよく考えたんすけど、かすみパイセン、それで満足です?」

「えー? 意味わかんないー」

「このままだとプレゼン負けますよね。で、中ホール取り壊しになりますよね。『エリュシオン』の扉無くなります。で、そんで、おれを狂わせて、かすみパイセンは気が済みますか?」

「……」

「まぁいいですよ。や、よくないし嫌なんですけど。おれを残酷な目に遭わせて、神様として振る舞ったからって、それが、何だって言うんすか? 生きてくんですよね、人として」

 かすみは、何も答えない。何を考えているのか等にはわからないが、言葉を続ける。

「まぁ、期待外れなのは悪いっすけど、ちょっとおれもう無理っすわ。パイセンのプロデュース、出来ねぇっす。好きにしてくださいよもう」

 投げやりな態度で、等はそう言った。ハンナとは、あれから一切連絡を取っていない。何度も何度も連絡が来るが、内容を確認すらしないし、大学で会ってもあからさまに避けている。

 ハンナは何度も追いすがったが、声を荒げて退けることも度々あった。

 牟礼等は、人として、だいぶダメになっている。開き直りと共に、一つの考えが浮かんだ。

 かすみが『エリュシオン』に戻れなかったとしても、おれには関係ないだろう。

 捨てるものが無い人間特有の開き直りがそこにはあった。すると。

「人として……生きるー?」

 今までに聞いた事の無い、かすみの声。未知の概念と始めて触れた人間のようだった。

「もう三年じゃないすか。就職とか? パイセンなら玉の輿に乗るのも余裕ですよね」

 人語を解すヘビを操り、時空だかなんだかを飛び回り、男達を魅了する大酒飲みの元神様。

 だけど、その力は、等一人を狂わすことが出来る程度の、些細なもので、『エリュシオン』への道が絶たれたら、人間馬上かすみとして、この世界で生きて行かざるを得ない。

そのことを、かすみがリアルに考えているのか、等にはわからなかった。

 かすみは、笑ってこう答える。

「就職ー? 結婚ー? キミ、やっぱり面白いなー」

「そっすか」

「『エリュシオン』への扉が閉まったらー、こんな世界にいる意味ないよー」

「……で、どうすんすか?」

「死ぬよー」

 こともなげに、そう言ってのけた。

「……死ぬって、どういうことですか」

「いやー、だからー、自分で死ぬってー。人間やってても面白くないしー」

 冗談ではなかった。等には理解が出来た。かすみにとって、人間として死ぬことは、どんな感情も呼び起こさないのだ。でも、と等は反論する。

「かすみパイセンって、ペンテウスと一緒にこっち来たんですよね。いいんすか、碓井パイセンに復讐しないで」

「んー、最初はねー、凄い酷い目に遭わせてー、殺してやろうと思ってたんだけどー、自覚が無いから、つまんないんだよねー」

等は溜息をついた。結局この人、いや、神様は、何を言っても通じないのか。

「かすみパイセンが、死んだら、どうなるんすかね? このヘビとかチューホーさんとか悲しまないんすか?」

いつの間にか、ウロぼうとチューホーさんは二人(二人?)で戯れている。かすみは部屋でしていたように、チューホーさんはウロぼうの身体に身を預けている。何故だかは分からないが、相互の干渉は成立するらしい。視線が等に向いた。

「え? アタシ? いや別に。アタシ死んでるし。かすみちゃん人じゃないし」

 ドライであった。

「ちょっ……おいヘビ、お前それでいいのかよ。齧歯類とか喰えなくなるぞ」

「ママが死んだらオイラも消えるだけだぞ! 馬鹿だな人間!」

要するに、価値観、というか「存在」として、等と彼女らは、大きく隔たっているのだ。等は、芯からそれを認識する。で、あるならば。

「じゃあ、それでいいんじゃないっすかね。いいっすよおれのことはどうしてくれても。狂わせるなり、喰うなり好きにしてくださいよ。それでお終りにしましょうよ」

 酔いは最高に廻っていた。捨て鉢だった。どうせ、かすみには等を殺せやしないだろうし、狂わせもしないだろう、と考えた。彼女にとって、「面白いこと」ではないのだから。

 その時、等はかすみの顔に、初めて動揺の色がよぎっているような気がした。人間に反撃されるだなんて、思ってもいなかったのだろう。いい気味だ。このまま、ぶちまけてやろう。

「やんないんすか? いいんすよ別に。だっておれもう今だいぶおかしいですし。おら、ヘビ哺乳類だぞ? 好きだろ? 喰わねぇのかよ」

 神様と、幽霊と、人語を解すヘビの姿が、歪んで見えた。酒のストックが無い。買いに行かなければいけない。面倒くさいけど、場を外すのには丁度いいや、と等は思う。

「やんないんすね。まぁ、何時やってくれてもいいっすよ。んじゃおれ、酒買いに行くんで」

舞台を降りて、客席を駆け上がり、古い扉に手をかける。ふざけて、こう叫んだ。

「そんじゃ、暗転おねがいしまーす!」

 目の前に開けた光の中に身体を飛び込ませる。

 背後から、全ての気配が消える。

「?」

『狭間の世界』からかすみの部屋に――――、現実に戻るときは、いつも視界が明るくなっていたが、今日はひときわ、強い明かりに自分が晒されていると感じた。不思議と、目が痛いとも思わないし、不快にも感じない。ただ、目を開ける事は困難で、光量が落ちるのを瞳を閉じて待った。世界が、色を取り戻す。

 瞳を開くと、お馴染みになった玄関にいた。超常の現象なのに、慣れきってしまった風景。

 かすみの部屋は日当たりがよい。締め切った薄いカーテンからも、六月の熱を感じて、蒸し暑かった。等は、先ほど感じた違和感を忘れた。

 冷たいビールで、喉を湿らせたい。『狭間の世界』で酒を呑むときの難点は冷蔵庫が無い事で、専らワインを飲んでばかりいた。

 外に出ると、等を温い風が包んだ。そう言えば、今日は『日本舞台史』の授業日だったと等は思い出す。今となってはハンナと一緒に受講している、唯一の授業だった。この調子で欠席をしていたら、単位の履修は厳しいだろう。

 コンビニに向かいビールを買い求めた時に、ミスに気がついた。

 グローヴをしていない。『狭間の世界』で飲むときは、誰に触れることも無いので、外していたのだ。折の悪いことに、同年代の女性店員で、客の手を両手で包む釣り銭の渡し方をするタイプの人だった。

しまった。異性との接触は、これまで全力で避けてきたのに。

「あの? お客様?」

「え? あれ」

「あの……手を、放していただけませんでしょうか?」

「え? あっはい。サーセン」

 店内からも、不審な者を見る視線が飛んでいる。慌てて手を放して、店を出ようとしたその時、

「きゃっ」 

歩きスマホをしていた女子高生と接触してしまう。幸い、バランスを崩しただけで、特に問題は無さそうだ。「すみません」と謝罪をされる。

 それだけだった。二人とも、等にそれ以上の関心を示そうとはしない。

 何かが、おかしい。泥酔していて、この状態で大学に行くのは億劫だったが、不安の方が勝った。酒臭い息を吐きながら、ムネビにまで戻る。幸い、中ホールの入り口周辺には、人気が無かった。

 扉に手をかけたが、鍵はしっかりと締まっている。焦燥感に駆られ、何度も開けようとするが、結果は変わらない。

 

 神様は、等の前から姿を消した。

とくになし

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