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神様のプロデュース  作者: 江古田景
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クズの力と恋心

恥ずかしいもんです。

 第三章




 大型連休の入り口の早朝、池袋駅西口のバスターミナルに大学生の大群が発生した。舞台創造学科の学生達が、合宿地に向かうために集まっている。

 大半の学生は、学年ごとにカラーが異なる厚手のパーカーを着込んでいる。舞台創造学科の実行委員会が製作していて、購入の義務はないのだが、着ていると学年がわかりやすい、という理由で着用が推奨されていたりする。

 そんな中、運営コースの面々は完全に浮いていた。

 まず、参加者が極端に少ない。というか、一年生は男メンツだけで、上級生に至っては、かすみしか参加をしていない。

「朝酒もー、いいもんだねー」

 かすみはペットボトル入りのワインを鯨飲しながら、ゴキゲンであった。

「これからバスで長時間移動だっていうのによく呑めるっすね……」

 等はげんなりした様子でそう答えた。

「ボクの血はー、ワインで出来てるからー」

「さいですか……」

 かすみを取り囲む一年も、非常にテンションが高い。串田は、かすみにまけじとウィスキーのボトルに直接口を付けてラッパ飲みをしている。三上は「ママを描く」と宣言し、飲酒に興じるかすみを描くべく、スケブに手を走らせている。荒木はアンプも無いのにギターを歯で弾き、湯元は巨体を揺らしてカメラのシャッターを意味も無く切った。

 端的に言えば、迷惑な連中になっていた。そして、誰も委員会のパーカーを着ていない。

 点呼の時刻まであと少しだ。

 騒ぎを見かねたのか、大型バスの前で書類に目を通していた灰色のパーカー姿の男が、かすみ達に近づいてきた。背が高く、落ち着いた雰囲気の男だ。

 くすんだ色を目にして、等はこの男が四年生なのだ、ということを理解した。

「馬上さん、悪いんだけど、ちょっとこの子たちどうにかしてくんない?」

「えー、みんないい子たちですよー、いいんちょ、堅物ー」

「いや、頼むよ。僕たちにも流石にメンツってものがあるんだからさ」

「ぶー。みんなー、ちょっと、おとなしくしなさいー」

 かすみの声に、一年生は素直に頷き、騒ぎを辞める。男は微苦笑を浮かべて、

「相変わらずだね、馬上さんは。一応酒はNG……って、建前的にはなってるんでよろしく」

 お願いをするように、手の平を胸の前で合わせて、去って行った。等はかすみにこう尋ねる。

「あー、今のって、委員長……」

「そーそー。碓井さんー」

 碓井天人うすい てんとの名前は、等にも聞き覚えがあった。演出コースの学生だが、制作者として複数の『総演』を手がけているし、委員会のトップでもあり、学科では有名人だ。

「仲よさそうでしたね」

「妬いてるのー?」

「……」

 かすみと碓井のやり取りに、気安さを感じていたのは事実だった。黙っていると、点呼が始まった。全員大学生なのだが、遠足を前にした小学生とテンションの差はない。

 バスに乗り込む段になり、委員会からの挨拶があった。新入生を歓迎する事が主眼の合宿なので、一年生から四年生までをランダムに配置している事や、緊急事態への対応方法が説明され、ぞろぞろと数百人単位の学生達が車内に収まっていく。

 で。

「なんでこの並びなんすかね……」 

「そんなことボクに言われてもー」

 二人がけシートの窓側に向かって等はそう言った。かすみはバスでの飲酒を禁止されたことに不服を漏らし、伸びをすると早々に目を閉じてしまう。

「ついたらおこしてー」

「いや、自分で起きてくださいよ……」

 等の訴えを無視して、くうくうと寝息を立て始める。胸が呼吸に合わせて上下するのが、艶めかしい。正体さえ知らなければ、ドキドキして仕方が無かったのだろうな、と等は思う。

「なんだ? 運営の先輩はもう寝てしまったのか?」

 等が小物入れを棚の上に詰めていると、狭い通路を挟んだ背後から、等に声をかけるものがいた。ハンナだ。等はハンナを見ずにこう言った。

「この人酒飲んでないとダメ。迷惑なんだよなー」

「ふむ。しかし、お前とはずいぶん親しいようだな」

「そうでもないぞ」

「恋人なのか?」

「んなわけねぇだろ」

「ふ、ふむ。まぁ、私にはお前が誰と交際をしようが一切関係がないが」

「……お前、こういうイベントに来るんだな、意外だ」

「私も行くかどうか迷ったのだが、両親や、ここにいる碓井先輩が、参加を勧めてくれてな」

 等は改めてハンナに向き直る。通路を挟んだ隣の席にちまっと座っている。当然と言うべきか、委員会のパーカーは着てはおらず、春めいた甘ロリ服を着こなしている。パジャマとかどうしてるんだろうこいつ、と等は想像した。

「早熟の天才演出家にも、同年代の人間との交流は必要だと思ったからね」

 ハンナの隣、窓側の席から碓井が語った。ハンナは、碓井に対してはもじもじとしている。

「君は、運営の一年だよね。演出コース四年の碓井天人です。よろしく」

「……っす」

 目礼を返す。爽やかな挨拶だったが、何故か癇にさわるものがあった。ハンナは等の対応に何かを言いたげな表情をしていたが、彼の装いに違和感を見つけ、そちらの方に関心が移ったようだ。

「何だ、お前その手は」

「ああ……自衛?」

「?」 

 ハンナは不可解そうに首を傾げる。等は、指に穴のあいたグローブを手に嵌めていた。

 かすみにキスをされて以来、異性と肉体的な接触をすると、不可避にモテが発生するようになってしまった。同性との接触では何一つ異変が起きなかったが、難儀なのは、日常の買い物だ。コンビニなどで釣り銭を受け取る際に、女性店員と触れてしまい、そのままぼおっとした目線で手を離されない事も、ままあった。できるだけ男性店員を選んだが、全てそうするわけにもいかない。

 それ故に、指ぬきグローブを付ける事を選んだ。

「お前、バイクにでも乗るのか?」

「いや、免許持ってないし興味ないな」

「……オタク、というやつか」

「ほっとけ。お前の服だって見ようによっては相当キツいぞ」

 やりあっているうちにバスの出発時間になった。等は座席に腰を落ち着けて、この合宿でやらなければいけないことを考えて、憂鬱になる。バスの振動が、軽く足に伝わった。


「はーい、そんじゃー皆さん、出発でーす。あとでマイク回すんで、軽く自己紹介をして貰いまーす」

 二年生の女子が、自己紹介をしつつ、元気に声をかけた。各台に配置された、司会者の一人だ。舞台創造学科の学生達は総じてノリがよいので、レスポンスも肯定的なものだった。中学高校の頃は、こういう場では嫌がる声が上がることが多かったな、と等は思う。

「じゃー、私の次は、委員長の碓井先輩から挨拶をして貰いまーす」

 マイクが碓井に回る。出発前にも委員長として挨拶をしたというのに、またするのかよ、と等は内心で突っ込みを入れた。何となくだが、好感を持てない。

「演出コース四年の碓井です……ってのは、散々もう皆さん聞かされてると思うんで、ちょっと違った事を話します。今年は舞台創造学科にとって、節目となるイベントがあります。中ホールを建て替えるかどうか、という選択が、我々学生によって行われるわけです」

 等の隣で、気配がうごめいた。どうやら、かすみが起きたらしい。

「建て替えに関しては、棟市野の街の人達や、ムネビの先人達から大きな反発があります。耐震審査を経て、存続の声が高まっていることを僕も感じています。僕自身も、高校生の頃からムネビの公演を中ホールで見て、学生として沢山の公演を行ってきました」

 学生達は、碓井の話しを傾聴している。人の視線を引きつける、声と仕草があった。

「中ホールに思い入れを持つ舞台創造学科の学生は沢山います。勿論、僕だってそうです。あのホールが未来永劫残ればいいなと考えていました。でも――。本当にそれでいいのか? と僕は言いたい」

 そこまで言って、碓井は言葉を切った。等はかすみの方をちらっと見る。目を閉じてはいるが、寝息は立てていなかった。碓井の話しに集中していることは明白だった。言葉が続く。

「変わるものと変わらないものがある、という事が大切なんです。シェイクスピアの演劇は、今後もずっと上演されていくでしょう。チェーホフだって同様です。世阿弥の芸道論、風姿花伝を日本の演劇人達は学び続ける。でも、劇場はやはり、変わり続けなければいけない」

 等は新歓コンパのことを思い出す。熊倉と同じ事を、碓井は言っていた。ただ、周りの注目度は、段違いだ。食い入るように、皆碓井の話しを聞いている。

「皆さん、演劇が他のジャンルに比べて、優れている所って何処だと思いますか? 君はどうかな?」 

 碓井は近くに座っていた一年生の女子に水を向ける。話しを振られた側は「えっ」とまごついて、瞬時に答えることが出来ない。碓井はにっこりと笑って、

「いきなりでごめん。でも、意外とこういう事って答えづらかったりするよね。僕は、演劇が他のジャンルよりも優れていると思うところは、ライヴである、という事と、立体的であることだ、と考えています。では、それを可能にするものは何か? それは、劇場です」

 無言の賛意が、車中に広がっていることを、等は感じた。

「音響技術一つをとっても、三十年前にはオープンリールがあり、そこからカセットテープがあり、MDに続き――――、今やPCでオペレーションをするのは当たり前です。技術が進むことは誰にも出来ないし、また、止まってもいけない、そうは思いませんか? 三浦君」

ハンナは、眉をピクリと上げてから、静かに、おずおずと、だが、ハッキリと回答した。

「その通りだ……。賛同しよう」

「ありがとう。だから、僕は――――、夏明けのプレゼンに名乗りを上げます。今と、これからの為に、ムネビに新しい劇場を。二十一世紀に相応しい、発表の場を作りたい。そう考えています。って、合宿と関係ないこと喋っちゃいましたね。これじゃまるで政治家だ」

 おどけるように肩をすくめると、どっと笑いが満ちた。完全に車内の空気を掌握している。

「長々とすみません。まー、それはそれとして、合宿、皆で楽しんでいきましょー!」

 拍手喝采。わかったことがある。碓井天人が中ホールの建て替えに賛成していて、プレゼンテーションの場に出てくること、そして、カリスマ性を持っていること。

 等が、競わなくてはいけない相手が、この男だということ。

「マジかよ……」

 等はそう呟く。どう考えても、強敵なのでは無いだろうか。言っていることにも筋が通っている。つんつん、と隣から肩が突かれた。横を見ると、かすみがニッコリと微笑んでいる。なにわろてんねん、と突っ込もうとすると、耳に口が寄せられた。

「だいじょうぶー。キミなら楽勝だよー。優秀なスタッフを落とすだけだからー」

 等は、げんなりした。落とすって何だ。ギャルゲーかよ。気楽なもんだな人を脅す側は。

 かすみの酒臭いくせに甘い吐息に耳朶を打たれながら、逆方向からハンナの鋭い視線が自分に突き刺さっている事を感じた。目には怒りの色がこもっている。何怒ってんだあの幼女は。

 自己紹介のマイクが等に回ってきた。よし、ここは受けを取ってやろう。

「どーもー、運営コース一年の牟礼等でーす。えー、ゴールデンウィークの最終日と言えば、端午のセックスですが……」

 全員に、完全に無視をされた。等は軽井沢に着くまで、無言で頭を抱えていた。

 


「おいおい、ゆーちゃん、背中が透けてるぜ……ロン!」

「げっ、マジでー!」

 合宿初日の夜。酒宴と麻雀に打ち込みだした同期を見て、等はコイツら何なのだろう、と思う。舞台創造学科の同期達が、コースに関係なく振り分けされるように部屋決めをされていたはずが、等のいた部屋に、串田も三上も荒木も湯元もなだれ込んできた。同室の別コースの人間達は、関わりたくないのか、アッサリ彼らを受け入れて別の部屋に消えて行った。

 串田は室内禁煙のルールをアッサリと破って、ビールの空き缶に吸い殻を突っ込んでいる。

 彼らはバスの中でも周りから完全に浮いていたようで、食事時に周囲から突き刺さる視線は大分厳しいものがあった。舞台創造学科の学生達は身内びいきの意識が強い、という事を彼らは学んでいたが、その色に馴染むこと無く、運営コース一年生は半ば愚連隊化していた。

「皆、多目的室でやるイベントは行かんの?」

 等はそう彼らに声をかけたが、彼らは牌を合わせたり並べたりに夢中でなおざりな返事を返すだけだった。等は、残量が少なくなった気の抜けた缶ビールを煽った。

「あのさー、前話したこと蒸し返して悪ぃけど、何で皆そんな演劇に興味ないの?」

 三上が、牌を切る手を止めて、こう言った。

「全く無いってことじゃねーけど。一回おれ装置コースの授業受けに行ったし」

「え、マジで? どうだった?」

「最悪だね。図面の書き方とかロクに教えてくれなかったよ。おれより明らかに、線ロクに描けて無い奴とかいたけど、まぁしゃーねえわな」

 三上くん早く切ってよ、とせっつかしながら、湯元もこう言った。

「おれも照明コースの授業行ったんだよね。シュート? っていうのかな。バトンに吊った照明を決まった位置に当てるっての、やってみたかったんだけど」

 初耳だった。湯元はカメラが趣味なので、考えて見れば不思議では無い。等は「で、どうだったの?」と目線で答えを促すが、湯元は巨体を恥ずかしそうに縮ませると、

「照明の先生って、体育会系でおっかなくてさ……、授業の雰囲気も怖くて、途中でフケちゃった」

「ゆーちゃんは気が小さいよね、まぁ、僕も音響の授業出たけど」

 荒木の言葉に等はビックリした。大分酒に酔ってきたらしい串田が声を荒げながら、「おれも演出の授業出たよ。幕の畳み方とか教わりたかったし」と追従した。

「え、クッシーまで? 何で?」

「何でって、おれ二浪じゃん。親が大学行け行け五月蠅かったからムネビ受けたけど、まぁ適当にバイトしてて、半分フリーターだったんだよ。で、イベント設営系のバイトよくやってた」

「親不孝モンだ」

「うっせえ。仕事は好きだったんだって。だから、ステージ作りの仕切りとかには単純に興味あったんだけど、荒木と一緒に行ったらはじかれた」

「……」

「おめーも、演技の授業ではじかれてただろ。まぁ等の場合は人間性の問題デカいとは思うけど。まーでも当然じゃね? 身内の学生が、可愛いでしょ」

 舞台創造学科の中にも色んな学生がいて、すべての学生が演劇のスタッフを目指すわけじゃない。俳優コースに入っても、一般就職を目指す学生は実はかなりいる。ただ、スタッフコース、特に照明や装置は、プロとしての道を歩むものが多い。

 年功序列の世界故に、結束力が非常に高く、統率が取れている。学内でもそうだが、合宿所でも、スタッフコースはガッチリと固まっている事を、等も感じていた。

「どんな授業でも学科の生徒だったら聴講出来るってことになってるわけでしょ」

「建前上はな。本音は別でしょ。しょうがないって」

 新しい煙草に火を付けてから、串田はそう吐き捨てた。

「いや……でも、俳優コースには教えるプロがついてるし、西洋舞踊だって有名なバレリーナがガッツリついてるわけでしょ」

「ああ。照明もそうだし、装置もそうだわな。作劇コースだって、演劇の劇作家も映画の脚本家も呼んでるっしょ。演出は密に関わるから何処行ってもキッチリ教われる」

「……おれらって、何なの? ぶっちゃけ、何も教わってなくね?」

「それな。でも、そんなの分かってたじゃん。やりたければ自分でやれって事なんじゃねえの」

「一応、おれらってさ、プロデュースが専門じゃん。でも、具体的に何すればいいのか、全然わかんねぇよな。『総演』の制作だって、演出が持ってくし……」

 ぶつぶつと呟く等が面倒くさくなったのか、三上がこう言った。

「等、もうすぐ何かイベントなんじゃねえの?」

 スマホで時刻を確認すると、新入生歓迎イベントの開始時刻が迫っていた。等は慌てて腰を上げる。全員にもう一度誘いをかけてみたが、イベント後でよいので、歩いて二十分のコンビニまで酒を買ってきてくれたら二千円出す、というドライな言葉が返ってきただけだった。

「あー、等、ついでに煙草買ってきて、マヴメラ」

「おっけ」

串田の言葉に応えながら、マヴメラって何だっけ? と思った。まぁ、いいや。

 多目的室に足を踏み入れると、そこは殆ど劇場になっていた。

 奥側に簡易かつ頑丈そうな作りの舞台があり、床の袖を縫うように、様々なケーブルが固定されて伸びている。灯体がいくつも並べられて舞台に向かって構えられていた。

 右手と左手――上手と下手に、音響や照明をオペレーションをする為のスタッフがいる。インカムを装着しながら、舞台の幕が上がるのを待ち構えていた。ケーブルが踏まれる事を防ぐためだろうか、上級生達が一年生の動きに目を光らせている。

 余興とはいえ、委員会の面々のテンションは、真剣そのものだ。

 床には、桟敷が並べられていて、遅れて入った等は、最後尾に腰を下ろした。合宿に参加している人間の殆どが集っているため、室内は熱気に満ちている。

 BGMとして薄く流れていたダンス・ミュージックがどんどんゲージを上げて行き、暗転と同時に音楽がカットアウトすると、次の瞬間には煌々と照らされた舞台に着流しに模造刀姿の男女が立っていた。


「待ってました!」

 場内から、そんな声が飛ぶと、三味線などの和テイストが盛り込まれたテンポの速い音楽に乗せて、剣劇が始まった。殺陣だ。

 ひときわ目立つ、白装束の男を複数の男女が取り囲んでいる。男が、刃を舞台に見せつけると、声を上げて男女が飛びかかっていく。男は舞うように白刃の煌めきを躱し、一人一人と切りつけて行く。斬られた人間達は、目をカっ! と見開いて、客席の手前までよろめく。

 断末魔の叫び声を彼らが上げる度に、客席から声が飛んだ。「殺される」姿が、見せ場なのだという事が等にも分かった。ムネビの殺陣研究会は、数多くの殺陣師を排出しているとは聞いていたが、パフォーマンスを目の当たりにしたのは初めてだ。

 余興は、次々に行われていく。アニメーション・ダンスや日本舞踊や、コンテンポラリー・ダンスといった、「踊り」のパフォーマンスが多かったが、どれも、等にはとてもレベルの高い物に見えた。三年生や四年生によるパフォーマンスが多いのか、二年生がしきりに声援を飛ばしている。どの出し物もレベルが高い。アマチュアの遊び、という域ではない。

 胸がずきん、と疼くのを等は感じた。自分は、何故こちら側で「演者」を眺めているだけの存在なのだろう? 歓声を浴びる側には、一生なれないんだろうか?

 長ランに身を包んだダンス・チームはパフォーマンスの合間にコントを盛り込んでいる。笑うのは口惜しかったが、クオリティを認めざるを得なかった。

 等の胸に、こんな言葉が不意に襲いかかってくる。内面に居る、「誰か」の呪い。

 

お前には表現をしたいという欲求だけがあって、表現したいことなど、本当は何も無いのだ。


 高校生の頃に読んだ、ある青春小説に書かれていた言葉だった。当時も、もしかしたら、おれってこの言葉の通りなのではないか? という思いは持っていた。だけどそれは、自分がムネビという「特殊な」大学に入れば、変わるはずだと信じていた。

 違う。ステージに立つ、彼らを見て、等は思わざるを得ない。おれは、人前に立てるような人間じゃ無い。あんなふうに、自分を振り絞る事は出来ない。

「――――っ!」

 不意に、胃が蠕動するのを感じる。気持ち悪い、吐いてしまいそうだ。進行を管理している上級生の一人が、等の異変に気がついた。バスで司会を担当していた女子だ。等に近づいて、

「ウンエーの一年、牟礼君だよね。どした?」

 心配そうに、優しく肩に触れようと手を伸ばす。等は慌てて、バッと身を跳ね上げた。

「何でもないっす。さーせん、ちょっと酔っちゃったみたいで。ははは」

「いや、呑んでちゃダメじゃん。いいから、救護室行こうよ」

 腕を掴まれそうになるところを、なんとか避けた。

「ちょっと吐いてきます」

 引き留めようとする上級生を無視して、出口を目指す。幸い、他の学生達は催しに夢中になっていて、等に注目が行くことは無かった。逃げるように多目的室を飛び出すと、喉がカラカラになっていることに気がついた。呼吸を整えて、合宿所の入り口を目指す。外に出て、気持ちを落ち着けたかった。暗い廊下に浮かぶ自販機の前に、見知った女の姿があった。

「どこいくのー?」

 かすみが、ワインボトルを片手に、座り込んでいる。最初に部屋を訪れたときと、同じ服装だった。目の前には紙コップが散乱していた。

「ちょっと、コンビニッす」

「ふーんー。まーじゃあー景気づけにー、ちょっとお酒飲んでいこうかー」

 ぷらぷらと、ボトルを振った。辺りに人気は無い。等は黙って、かすみのかたわらにあった綺麗な紙コップを手にした。注がれた杯を、一息で飲み干すと、胃の底に力が沸く気がした。

「おー、いい呑みっぷりだねー」

 ニコニコしながら、かすみはお代わりを注いでくる。一杯、一杯、そして、また一杯。

 急ピッチで赤い液体をきこしめした等は、簡単に出来上がってしまった。この自称神様、ディオニソスの生まれ変わりのおかげで、大学生活が完全に狂ってしまった。ハンナから聞いた伝説を思い出す。ディオニソスは神々の王ゼウスの子だが、母親は普通の人間だ。

 人を孕ませた事に嫉妬したゼウスの正妻ヘラに発狂させられたディオニソスは、世界をそのまま彷徨い、女神に治療と不思議な踊りを授けられたのだという。その踊りに独自のアレンジを加えて、ディオニソスは祭りを考案したのだという。対象は女だ。

 人里離れた場所で女達は踊り狂い、信じがたい馬鹿力を得たという。でも、と等は思う。

「なんか、かすみ先輩ってしょぼくないすか?」

「あははー、喧嘩売ってんのかなー? またおかしな事にしちゃうよー?」

「喧嘩じゃなくて……だって、所詮狂わせてるの、ウンエーのおれらだけじゃないですか」

「あー、まー、ねー」

 かすみがディオニソスだと言うなら、誰しもを狂わせて、とっとと目的をかなえればいいのに、舞台創造学科でのかすみは単なるビッチキャラだ。

「噂で聞きましたけど、先輩、学科の飲み会、殆ど出禁になってるらしいっすね」

「そーなんだよー。ひどいよねー」

「先輩が男を食い散らかしてしまうせいで、人間関係に軋轢が生じまくりって、総演の座組とか潰れまくったって聞いてますけどね」

「濡れ衣だよー。だってボク、処女だもんー」

「うせやろ?」

「ひーどーいー、ほんとなのにー」

 ぷんぷんと、頬を膨らませている。この姿を見ているだけだと、可愛らしいのにな、と等は嘆息した。女性陣のかすみを見る目が、何処に行っても敵意に満ちていることを知っていた。

「とーこーろーでー、本題なんだけどー、キミ、何でそんなグローブしてるかなー?」

「ファッションすね。ミステリの作家で、グローブ付けてる人居るじゃないですか、真似です」

「キミの頭の出来じゃーみすてりーなんてー読んでも無駄でしょー」

「……」

「キミは無礼なクズだからー力をあげたのにー、使ってくれないとー」

「……、何で、おれなんですか?」

「んー? 単純な啓示だねー。神性を授けられるのは、一人だけだったんだよー。キミが適格者だってことは入学決まった頃に、チューホーちゃんがすぐに教えてくれたよ」

「いや、それは前に聞きましたけど……」

「最も芝居の才能が無くてー、それを望んでいる者にー、与えることに決まってたんだよー」

「……じゃあ、何ですか、おれがこうなるのは、最初から決まってたって事ですか」

「そーそー、だからー、逆らっても無駄ー」

 等は黙り込んでしまう。何処かで、本当のところは分かっていた。自分は人前に立てるような人間では無い、という事を。そのための努力を、ちゃんと出来ない、という言葉も真実だと思った。だけど、まだ、諦めきることが出来ないのも事実だった。

「……優秀なスタッフを落とすって、具体的に、何をするんすか」

「簡単だよー。キミの力は異性にしか効かないんだけど、今から言うスタッフは皆女だからー、キミが触っていけばいいだけー」

 かすみは嬉々として、一人一人の説明を始めた。全員合宿に参加しているらしい。

「今夜と明日しか時間ないからー、積極的に落として行こうねー」

 等は無言で頷くと、買い出し頼まれているんで、と告げて合宿所を後にした。

 五月が始まったばかりの軽井沢の夜は、しんしんと冷えていた。生い茂る木々の間に舗装された道をスニーカーで踏みしめながら、等はコンビニへ歩みを進める。

 雲一つ無い空に星が瞬き、ぽっかりと月が浮かんでいる。東京に生まれて育った等には、こういった自然の趣は、心の不安を助長させるものだった。

 生まれてからずっと見慣れているコンビニの灯りを見つけて、ほっとする。ふと、幼女の姿に気がついた。

 ハンナが、コンビニの前にぽつんと立ち尽くしている。しかも、ジャージで。目が合った。

「おう幼女。こんな時間に外を出歩いちゃダメだろ。補導されっぞ」 

「お前には何を言っても無駄なようだな牟礼等。一応、外出は禁止されているはずだが」

「いやお前も出てるじゃん。寝る前の牛乳買いに来たか。身長は遺伝だからな。意味あんまり無いぞあれ。それともあれか? まさか……赤飯炊くか?」

「ふむ。お前、何か、嫌なことでもあったのだろう」

 等はギクッとした。なんだこの幼女。鋭いぞ。

「なんだお前。エスパーか。それとも魔法少女なのか? お前がなれるの魔法幼女だけどな」

「お前は怠惰で能力が低く卑屈で虚栄心が強く猜疑心の塊でついでに言えば女性への眼差しも汚らわしいの一言だが、人を傷つけるような悪人では無いと私は思っているし、人を見る目には多少の自信があるのでな。何があった?」

酷い言いようだが、フォローをしているつもりらしかった。

「……別に、お前には関係ねぇよ」

「ふん。水くさいな。我々は同期だろうに」

 ハンナの瞳には優しさがあった。等はちょっとだけ、心を許して、こう言った。

「おれ、そもそもムネビに来たのが間違いだったのかもしれねぇなーって」

 冗談めかした言い方ではあったが、本音だった。どういうリアクションを取られても構わないと思った。ハンナは「三浦」と書かれたジャージの、つつしまやかな胸の部分をきゅっと握って、

「それは、私も同じかもしれんな」

 そう、絞り出すように言った。二人の間に、静寂が流れる。心なしか、ハンナの声には、自嘲の響があった。どういうことなのか、気になった。だけど、踏み込んではいけないような気がした。黙って、駐車場の白線をきゅきゅっと踏みならすことしか出来なかった。

「おや、運営の一年の牟礼君じゃないか」

 沈黙を打ち破ったのは、コンビニから、大きな袋を両手にぶら下げて出てきた碓井天人だ。

 ハンナは、少し恥ずかしそうに碓井を出迎えた。なんだか、いい空気にも見える。

「あー、どもっす」

 酒に酔っていた分、出発前よりも、堂々と碓井に対峙することが出来た。酒様々だ。

「丁度よかったよ。悪いけど牟礼君、荷物一個持ってくれないかな?」

「いや、おれもコースの皆の分の酒買ってかなきゃいけないんで無理です」

「おかしいな、運営の一年で成人してるのは君と串田君だけなのに、そんなに呑むのかい?」

「……何でそんなこと知ってるんすか? 正直キモいっすよ」

 等の挑発に、碓井は微笑を浮かべ、こう返した。

「僕は実行委員会の委員長だよ。この合宿の責任者でもある。あらゆるリスクを考慮し、対策を練るのは当然のことだよ。とは言え、あんまり五月蠅い事を言うつもりはないけどね」

「パイセンも、酒の買い出しですよね。いいんすかそんなことして。幼女連れ出したり」

「建前と本当のことは違うよ。三浦君とちょっと話したくてね。牟礼君も一緒に呑む?」 

 応えずに、等は無言でコンビニに入店をして酒を購入していく。串田の煙草も買う。どうせ明日も呑むのだろうから、両手が塞がるくらい買ってやろう。店の窓から、大きな袋を手に持とうとしているハンナが見えた。見ため通りに非力らしく、必至の形相でポリ袋を細い指に食い込ませている。何かを見透かしたかのような瞳で、碓井がこちらを見ていた。

 くそったれ、と悪態をついて詰め込んだ酒を半分棚に戻す。会計を済ませ店を出て、一言。

「幼少期の過度な筋力トレーニングは成長を妨げると言う。ミニマムよ、無理をすんな」

 ハンナは、等を見上げて、嬉しそうな顔を作った。要するに、碓井に嵌められたのだ。

 合宿所までの帰り道、都合三つの袋のうち、二つの袋を等が持った。重かった。

部屋に戻ると、全員が爆睡していた。等は、ビールのプルタブを開けて、こう言った。

「お疲れ……頑張れおれ……」

 こいつらの分まで呑んでやれ。等はガンガン酒を呑みだした。

 当然、次の日は二日酔いだった。朝食のオムレツの匂いを嗅いだ瞬間に、吐きに走った。



 遠くで、扉を叩く音が聞こえる。夢特有の曖昧さがうっすらと意識から剥がれていき、ああ、これは来客だな、と認識する。誰だろう? 応答をしようとするが、口の中がカラカラで、上手く声を出すことが出来ない。

 仰臥していた身体を横に向けると、目の前に水の入ったペットボトルがあった。蓋を開けるのにも意思の力を要した。内容液を口に含むと、エチルの味がした。

「……」

 不思議なことに、力が漲るようだった。アルコールで自分は身上を潰すのではないか、と等は本気で考えた。まんじりとしながら、部屋に備え付けられた洗面所に二日酔いの身体を芋虫のように這わせて、水を飲んだ。生き返るような気持ちだ。

 洗面所は玄関の近くにあるため、一定のリズムを刻み続けている音も、よりクリアに聞こえてきた。「はいはい」となんとか声を出して、ドアを開ける。目線の下に、三浦ハンナがいた。

「何だこの部屋は、酒と……これは煙草か。臭いぞ」

「ああ、吸う奴いるから……って、なにしにきたの」

「見舞いに決まっているだろう。朝のあの様子をみれば二日酔いなのはわかる」

人を慰めにくる態度では無かった。腰に手を当ててふんすと胸を張っている。ジャージで。

「部屋汚いから、上がらない方が身のためだと思うんだが」

「来客をはねつけるとは相変わらず無礼な奴だ。上がるぞ」

 そう言って、ハンナは男スメルの立ちこめる汚部屋にずかずかと侵入してきた。脱ぎ散らかした靴下や、微妙に中身が残ったペットボトル等を蹴散らしてスペースを作ると、ちょこんと座って、等を見上げた。

「なんだ? 眠らないのか?」

「もーちょい寝るわ……」

 等はもそもそと布団に潜り込む。時計を見ると、十時を少し過ぎた所だった。今日はやらなければいけないことが多いが、どうせ合宿の本番は夜だ。そう考えて、目をつむろうとしたところに、頬にひんやりとした感触が走った。ハンナが、ゼリーを押しつけているのだ。

 指抜きグローブを外していた等は、ハンナの手に触れないように慎重に容器を受け取った。

「くれるの?」

 こくん、とハンナは頷いた。心なしか顔が紅潮しているような気がする。二日酔いの喉に、ゼリーの感触は気持ちがよかった。等は無言で、ゲルを口に含んで、水で飲み下す。ハンナも何も喋らないが、部屋の空気に気まずさは無かった。何か礼でも言った方がいいかな、と等が逡巡していると、ハンナが先に口を開いた。

「今夜は、何人かで班を作って、先生方の部屋を回るのだったな。学生と酒を酌み交わすのが好きな人も多いらしい。それまでに、体調が治るとよいな」

 この合宿に舞台創造学科の教授陣が交通費を自腹で切って参加をすることは習慣化しているらしく、二日めの夜に酒宴が組まれる。

「あー、まぁ、怠いけど、行くしかねぇな」

 等がそう答えるのには理由があった。舞台創造学科で最高の技術力を持ったスタッフ達は、お偉方のお気に入りであり、音響・照明・装置・舞台監督のそれぞれの人員を部屋に呼び、技について語り合うのが慣例になっているからだ。

 接触のチャンスがあるとすれば、今日だ。

 碓井天人が相手になるのであれば、積極的に能力を使って、「落としに」かかる。物理的に接触すればよいだけなのだから、それほど難易度は高くない、と等は判断した。気が進まないが仕方ない、と覚悟を固める等に、ハンナが声をかけた。

「昨日のことなのだがな……」

何か大事な事を話そうとしているのだ、ということは、流石の等でもわかった。ハンナは手の平をぎゅっと閉じたり、開いたりを繰り返す。決意を固めたかのように見えた次の瞬間。

「うぇーい、等、大丈夫~」

 串田を始めとした、コースの一年生が部屋にドカドカと入ってきた。かすみもいる。当然のように、全員が酔っ払っていた。十の眼がハンナを認識した。沈黙。後、起動。

「警察を呼んだほうがいい」「幼女にジャージ着せてやがる。マニアックすぎる」「幼女に母性を感じるようになったら人間としてお終わりだと思うな」「棟市野の街の平和を脅かす存在だ」「ろーりーこーんー」

酷い言われようだった。人見知りをするハンナは酔っ払いのテンションに戸惑っていた。かすみはそんなハンナに「かーわーいいー」と言って飛びかかっていった。ハンナはきゃあ、と短く悲鳴を上げるが簡単に抱き締められてしまう。

「百合だ」「百合百合だ」「尊い」「キマシタワー」とはしゃぐ同期達。ハンナはかすみに抱き締められて顔を真っ赤にしている。

「いやちょっと子ども相手に何やってんすか」 

子どもでは無い、とわめき立てるハンナに触れないように気をつけて、かすみの腕を取って引き剥がした。

「ヘイ、キッズ。ゲラウト。あと、ゼリーありがとな」

「誰がキッズだ! ぁっ……やめ……んっ……」

 かすみが等に抱えられながらも腕を伸ばし、ハンナの耳や唇を怪しく撫でる。えっちだ。

 何とか、かすみを制するとハンナは涙目になって、雄部屋を飛び出していった。

「……あれ、トラウマになったらどーすんすか?」

「キミがー、責任取ってあげたらーいいじゃんー」

 ケラケラと笑っていた。この女は悪魔だと思った。



 狭い室内にはいくつもの灯体が立ち並び、煙が焚かれている。

「ロスコの匂い……照明の匂い……本番ね」

 鼻腔をひくつかせ、呟く女がいた。

「ロスコって……」

 等がぽつりと零すとロスコ・フォグマシーンに決まってんだろ! と、突っ込みが入る。どうやらこの煙を出す照明装置のことを言うらしい。女は皆を制して、

「まぁまぁ、シロートさん達には分からないわよね。本当はDFー50を焚きたかったところなんだけど」

 どっ! と照明コースの面々が沸くが、部屋を訪れた一年生(照明コースを除く)でその言葉の意味を解する者は一人もいなかった。隣の照明コースの一年が「消防の許可がいるロスコみたいなもん」と言ってきた。

 合宿二日めの夜。一年生が班を組み、各教授の部屋を回る、合宿の恒例行事の時間だ。

最初に訪れたのは、照明コースの二年生から四年生までの呑み部屋だった。少数の教授に信頼されたスタッフしか、ここにはいないとのことだ。

 教授の隣に座っている上級生が、面妖な言葉を吐いた張本人だ。

「あのー、パイセンが塩見さんすか」

等がそう問いかけると、眉をひそめる学生もいたが、問いかけられた本人は鷹揚に返事をした。

「ん? そうよ」

 三年生の塩見悠紀子しおみ ゆきこ。脱色した明るい髪を肩まで垂らし、Tシャツに黒いジーンズというラフな出で立ちだが、スタイルのよさも相まって引き締まった印象を与える。

 早くから演劇の専門技術者を派遣する会社にスカウトされていて、今年の『総演』では全ての演目の照明プランを担当している。

等が接触をする、最初の目標。直球で行こうと等は決めていた。

「あー、運営一年の牟礼等っす。よろしくす。早速何すけど、中ホールの存続のために、プレゼン出るんで、おれの企画に協力して貰っていいですかね」

 沈黙が、部屋に落ちた。照明コースの教授も、黙って等を見ている。

「学内で何の実績も無い『運営』の一年の勧誘を、私が受けると思う?」

「そこを何とか、頼みますよ」

「人にモノを頼む態度じゃないわね」

 等は一切悪びれる様子を見せずに、指ぬきグローブを外すと、

「あのホールに、思い入れあるんでしょ?」

 塩見に近づき、肩をポンポンと叩いた。等の態度とそれに怒りを見せない塩見に、室内中が戸惑っている。塩見は、表情を一変させる。

「……思い入れは、あるわ」

「うん、じゃあ、よろしく頼みます」

「……ええ。わかったわ」

 周囲がざわついている。洗脳をされたかのように、従順に等の言うことを聞いている塩見の姿は、異様だった。照明コースの教授が、ゆっくりと口開いた。

「塩見、お前、それでいいのか?」

「はい。やはり私たちにとって、大切な場所ですし」

「お前がそれでいいなら、反対はしないが」

 塩見は、自らの師に、ハッキリとこう言った。

「私はこの子のプランに乗ります」

照明コースの四年生が何を言っても、後輩がしっかりしてください、と声をかけても、塩見は決意を曲げなかった。等は、じゃあよろしくす、と告げて、ぽかんとしている引率の二年に声をかけた。

「んじゃ、次行きましょうか」

その日の夜、舞台創造学科の合宿所に衝撃が走った。

 運営コースの一年生が中ホール存続のプレゼンに名乗りを上げ、照明コースの塩見悠紀子、演出コース四年で音響の藤川麻衣ふじかわ まい、装置コース三年の浜口加代はまぐち かよ、演出コース四年で舞台監督の桑原沙也香くわはら さやかというムネビ最高のスタッフ達が、周囲の反対に耳を貸さずに、一斉に座組に入る事を表明した。

 現場を見た者達は、皆、口を揃えてこう言った。

「まるで、新興宗教の信者のようだった」



 運営一年のたまり場は、祝勝会場と化している。

 何時ものごとくワインを飲みながら、かすみは上機嫌だ。

「勝ったねー」

「勝ったって言うんすかねあれ……」 

 死屍累々と横たわる同期達を眺めながら、等はそう呟いた。教授詣でを終えて、部屋に戻ると、かすみが一人で杯を傾けていたのだ。同期達は「寝かせた」との事だった。

「あの子達が味方に付いたのは大きいよー。結局この大学、スタッフの力が強いしー」

「まだまだ、問題山積みだと思うんすけど」

「なにがー?」

「いや……演出が決まってないし、あと、かすみ先輩を主演にしたりとか、実際のプレゼンとか、何で中ホールを残すべきなのかとか……その辺り、全然理屈立たないでしょ」

 等は、ずっと思っていた疑問を口に出した。舞台の華は、主役であり、作品のクオリティの責任を負うのは演出だ。そして、設備が使用に耐えるとはいえ、何故老朽化している中ホールを「残さねばならないのか」という理屈づけが、この計画にはない。何故かすみがこんなに強気で居られるのかが不思議だ。

 自分の事を大きな棚に上げて言えば、あの酷すぎる演技が、仮にも多くの著名人を輩出している舞台創造学科の正式な公演として、人の目に触れてよいのかという気持ちもあった。

「大丈夫ー。だってー、スタッフ集めはー、保険みたいなもんだもんー」

「保険? どういうことっすか」

「プレゼンの審査員の面子ー、全員女だよー」

「え」

「演出家の鈴木理恵でしょー、宇田川パブリック・シアターの支配人の長尾みどりでしょー、あとー、演劇ブロガーの浜野しのぶー」

「ムネビの卒業生っすか?」

「全員ちがうよー」

「……」

「クマセンがー、独断で決めたんだよねー」

「熊倉さんって、そんな権力持ってんのか……」

 確か、どのコースの人間でも役職を問わず参加が出来るように手配をしたのも熊倉だ。

「いざとなったらー、プレゼン中にーキミがちゃちゃっと触っちゃえばいいだけだしー」

「じゃあ、このスタッフ集めって意味ないんじゃ……」

「保険とー、あとはー。パフォーマンスだねー」

「パフォーマンス?」

「そーそー、ムネビのスタッフってーすごい身内意識強いでしょー? 皆が集まってる状況で口説いて貰う必要があったんだよー」

「……」

「合宿って状況も得なんだよねー、キミがやったことをー、目撃者が勝手に噂をしてくれるからねー、でー、出来上がるものがあるんだよー」

「出来上がるって」

 かすみは、無邪気に微笑んで、こう言った。

「空気、だよー。キミたち人間がー、ていうかー、若者が一番大事にしてるものー」

「このやり方って、反発を生むだけなんじゃないっすか」

「反発は織り込み済みだよー、でもー、最終的にはー、塩見ちゃんたちの選択を受け入れざるを得ないねー。実力主義だからねー」

「……」

「要するにー、殆どの子たちがー塩見ちゃんたちのー、世話になってるからねー、仕込みとかー、バラしとかでねー。恩に人間は逆らえないんだよー」

 スタッフコースの結びつきの強さ、というものを等は肌で感じていた。信頼と実績を積み重ねてきた四人の出した結論であれば、反発があっても結局は受け入れる事は想定できた。

「手段を、選ばないんすね」

「当たり前だよー、キミも折角だからー、美味しい思いしときなってー」

「なんつーこと言ってるんすか」

「おかしいなー、キミの性格ならー、ヤりまくると思ったんだけどなー」

 露骨なワードが飛び交う。身に起きた超常の現象から、狂を発していないのであれば、かすみが神だと言うことは受け入れることが出来る。現実として、今、モてている。折角得た力なんだから使っても罰は当たらない。なんせ、神様のお墨付きだ。

 だが、どうしても、そう言う気にならない。かすみの部屋に行った最初の夜以来、異性との接触を極端に避けてきた。等は、かすみにこう尋ねる。

「パイセンを『エリュシオン』だかなんだかに送ったら、この力消えますよね?」

「っていうかー、ボクが念じたらすぐ消えるよー」

「マジすか。じゃあ、プレゼン勝ったらすぐ消してくださいよ」

「ふーんー。意外だねー。ま、いいよー。神様嘘吐かないー」

 言質を取ると、等はちょっとご不浄をば、と言って腰を上げた。かすみは行ってらっしゃいーと、ひらひら手を振る。可愛い、と思ってしまうのが悔しかった。

 等はトイレに向かい、用を足して、酔い覚ましの為に顔を洗う。じっと鏡に映った自分の顔を眺めると、ものすごく卑屈な顔をしているような気がして、げんなりした。

 部屋に戻るかどうか悩んだ。かすみといても疲れるだけだ。いっそのこと、力を使って「落とした」四人の所に行き、あられもないことでもしようかな、とも思ったが、周囲のガードもあるし、実行する気にならない。ふと、ポケットの中にある、違和感に気がついた。

 煙草とライター。串田に煙草の買い出しに頼まれていたのだが、マヴメラという商品名だけを覚えていて、似ていると感じた「マヴボロ」という銘柄を買ったら、違うとの指摘が入った。どうやら、メンソールの煙草を所望していたらしい。

 何時も吸ってるの普通の煙草じゃない? と言ったらたまに吸いたくなるんだよと応えられた。通常のマヴボロは好みでは無いらしく、やるよと言われて、ポケットに突っ込んでいた。

 何となく、気分を変えてみたかった。喫煙経験は無いが、大人なんだからいいだろう。

 トイレを出て、喫煙所があるロビーへと向かう。日付の変わる瞬間の合宿所は、真っ暗だったが、どの部屋も喧噪に満ちているのが伝わった。

 合宿所内は名目上「室内禁煙」を掲げているが、ムネビの、特に舞台創造学科の学生の喫煙率は高く、殆どの学生が室内で煙草を吸っていた。詣での際に教授陣だってスパスパやっていたくらいなのだ。故に、ロビーは閑散としている、はずだったのだが。

 ゲンジ・タダノを中心に俳優コースの一年生たちが集まっていた。ゲンジはムネビ専属の講師では無いのに、何故だろう? 引き返すのも悔しい気がして、ちょっとだけ離れた椅子に座り、包装用のフィルムを剥がし、一本取り出してみた。

 通りすがる際に、いくつかの視線を感じたが、幸いスタッフコースに比べて等への注目度は低い。

 おそるおそる、煙草を咥える。ライターを擦り、立ち上った火を葉につける。

「?」

 焦げ臭い匂いがしただけで、煙が生じない。臭いだけだ。

 口内に少し生まれたヤニの匂いが不快で、水が張ってある角型の灰皿に煙草を捨てると、時間を持て余してしまった。部屋に帰るのも面倒くさい。どうしたもんか、と思案に暮れていると、先ほどよりも学生の声が大きくなっていることに気がついた。

「先生、三浦さんに演出をやってもらうの、正直納得が出来ないんですが」

 一人の男の声に、等は思わず顔を上げた。三浦さん――――。ハンナのことだ。周囲の学生達も彼の言葉に同調しているように見えた。

「合う、とか合わないじゃなくて、彼女って実際何もしていないですよね? 黙って見ているだけで、やる気を感じないんですけど」

「凄い人なのかなって思ったけど、あれじゃ……」

 ハンナのことを糾弾している、ということは明白だった。ゲンジのフォローも何処か歯切れが悪く、学生達に押され気味に見える。等は何故か、苛立ちを覚えた。

 立ち上がり、俳優の卵たちに近づいて行き、こう言った。

「寄ってたかって本人居ないところで悪口言ってんじゃねーよ。直で言え直で」

 視線が等に集中する。気まずさと、反発が見て取れる。等は構わずに、

「オッサンもオッサンっすよね。アンタがあの幼女推したんでしょーが。ちゃんとフォロー入れてやれよ。夜泣きしたらどうすんすか」

「いや……だって牟礼君、あの後、授業がどうなってるか知らないでしょ」

 不服を最初に申し立てた男が、等に言った。そう言えば、不思議と、ゲンジ・タダノによる授業、『俳優基礎演習』の話しを学内で耳にすることは無かった。追い出された身として、情報が入ってこないのは気が楽ではあったが。

「何だよ、あの幼女の暴言にでも困ってんのか? しょうがないだろ、アレ、子どもなんだから言葉づかいとか分かってないんだ――――」

「ちがくて!」

 強い調子で否定された。思わず等も黙ってしまうほどの剣幕だった。

「三浦さんが、演出をしてくれるならいいんだ。でも、彼女は文字通りなにもしない」

「は? どういうこと?」

「そのまんまの意味だよ。俺たちは発表に向かって稽古をしている。ゲンジ先生の演技の授業はすごい勉強になる。でも、彼女は俺たちを前にすると、何も演出が出来なくなるんだ」

「え? 何で」

「そんなことは俺達が知りたい。演技のきっかけも与えてくれない。ぼーっとしてるだけだ」

「……あいつって海外の演劇賞出てたりするんじゃないの? ググると天才とか出てくるし」

「昔のことは今の俺達には何の関係も無いよ」

 吐き捨てた言葉に、等と壮年の男を除いた全員が首肯した。

ムネビに来たことは間違いだった、と口を滑らせた等に、ハンナが自分もそうだ、と言ったこと。昼間に見舞いに来てくれた時に、何かを言いかけていたこと。

 検索エンジンに三浦ハンナと打てば、賞賛の言葉を見つけることは簡単だ。演出不可能と言われるドイツの戯曲『ギムレット・マシーン』に新解釈を産みだした天才演出家。二十一世紀の演劇を彩る逸材と書かれた書評はいくつもあった。

 だが、ハンナは何年も新作を発表していない。フランスでの公演をキャンセルした、という記事から、三年が経過している。

「皆さんの言い分は分かりました。確かに、彼女は俳優コースの学生ではありませんし、不満が高まるのは、もっともだと思います」

 黙ってやり取りを見ていたゲンジが口を開いた。全員の視線を受け止めて、こう続けた。

「僕の仕事は皆さんを役者として高い次元に導くことです。ハンナ君だけを特別扱いし続ける訳にはいきません。残念ですが、彼女には演出を降りて貰った方がよいでしょう」

「ちょっと待てってオッサン」

 等はそう口を挟んだ。

「何だい? 君は完全な部外者だよ」

「ここにいる皆とあの幼女の同級生なんで、インサイダーでしょ。当人居ないところで決めるのって、公平じゃ無いっすよ。せめて本人含めて決めてあげてくださいよ」

「僕としても、本音を言えばそうだと思うが、ここに居る皆の意見もある」

「おめーらよー、大学生にもなって、影でこそこそやんなよ。つーか、もうちょっとチャンスやれよ。演出やってくれないなら降りて貰うっていう事前通達くらい必要だろ?」

 俳優コースの一年は、顔を見合わせている。いけそうだな、と等は判断した。

「つーことで、次の授業で本人に通達。で、次の次で演出出来なかったらさようなら。これでフェアだろ? はい、反論ある奴いる? いないね、じゃー決定。センセもそれでいい?」

 ゲンジは、黙って等を見つめて頷いた。勢いに呑まれて、その場の全員が了承してしまう。

「はいじゃー決定。つーことで、解散!」

 等は場を支配していた。不満げな顔をする人間もいたが、三々五々と部屋に戻っていく。

 ロビーには、ゲンジと等だけが残った。ふー、と等は溜息をつく。

「驚いたな。君には何も見るべき点が無いと思っていたんだが」

「オッサンそれディスってんすか? まぁ……いいっすよ、それ事実何で」

「いや、君には、人を説得する力がある。能力を見誤っていたようだ」

「ふぁっ」

 変な声が出た。褒められることに慣れていない悲しい男の性だった。

「煙草は、火を付けたあと吸わないと煙が出ないんだよ」

「……見えてたんすか」

「あれじゃあ、残念ながら芝居の才能はやっぱり無いね」

「いやそれ関係あります!? やっぱディスってますね。おれ、行きますわ」

 等はこの場を離れようと決めた。かすみはまだ部屋にいるだろうが、疲れたし、酒をもう少し呑んで寝てしまおう。立ち去ろうとした等に、ゲンジは待ちなさい、と声をかける。

「君に話しておきたい……いや、相談したいことがある。ハンナ君のことだ」

 


 新緑が晴天に照らされる爽やかな軽井沢の朝、等は敵意や蔑視や嫉妬と言った、ネガティブな眼差しを受けていた。身の危険をリアルに感じるが、等のモテは止まらない。ハーレムの様相を呈している。塩見悠紀子は目にわかりやすくハートマークを浮かべてこう言った。

「牟礼君、私の心のサスを当てるのは君よ……」

「なんすかサスって」

 等の問いに、ゴツいヘッドフォンを首にぶら下げた音響の藤川麻衣が答える。

「サスってーのは、舞台に居る一人の人間に当てるライトのこと。ウチの気持ちを八の字に巻いてくれるのは等くんだけ」

「日本語でおなしゃす……何言ってるかわかんねぇ……」

「コッチが説明するね。八の字巻きは、音響スタッフがケーブルを巻くときの決まり事。これやんないとよじれちゃう。牟礼君はコッチの心の平台……ロクキュウくらい頼もしいよ」

 しっかり者の雰囲気を漂わせていた、舞台監督の桑原沙也香がそっと胸にしなだれかかる。

「いやいやいや皆見てますから、平台? ロクキュウ? 分かる言葉で! 頼みますって」

「ヒトくん平台もわからんの? 平台は中ホールにもあるやろ? 木の平たい台やで。ロクキュウは六尺×九尺の平台よ。なんも知らんで、かわいいなぁ。お姉さんが色々教えたげるわ」

 はんなりとした関西弁で質問を返したのは、装置コースの浜口加代だった。よしよしと頭を撫でてくる。要するにめっちゃデカい台ということだ、と等は理解した。

 舞台創造学科の春の恒例行事も、後は解散式を残すばかりだった。合宿所の前で点呼をしたら、碓井天人の号令と共に一斉解散になる。行きと違いバスが用意されていないのは、大型連休の後半を実家で過ごす地方出身者のためだ。

 人目もはばからず等に四人の女が纏わり付いている。昨夜合宿所を駆け巡った噂の真相を学生達は知ることとなった。運営の一年に憧れの存在がまるで待女のようにかしづいている現実を直視できない人間もいる。一夜にして、等は学科内一の注目を集める存在になっていた。

 委員会の面々は等たちをわかりやすく無視し、事務処理を済ませていく。点呼が終わり、じゃあ委員長お願いします、と声がかかり、碓井が全員の前に立った。

「えー、皆さんおそろいですね。今年も、大きなトラブルや病人を出すことも無く、この合宿を終えることが出来てよかったです」

 碓井の様子は、出発前と全く変わっていない。

「連休明けも大学で会いましょう。遠足は帰るまでが遠足ですが、大学生なのであとは自己責任でヨロシクです。でも、ちゃんと帰ってくださいね。じゃあ、解散です!」

 拍手と歓声が蒼穹に伸びる。合宿が終わった。

 学生達の反応はまばらであった。その場をすぐには離れようとしないもの、とっとと目的地に向かうもの、酒を煽りだすもの(かすみと運営一年)など、様々だ。

 等に纏わり付いている女たちは、名残惜しそうに等との別れを惜しむと、軽井沢の駅に向かって行った。全員が地方出身者な為、実家に帰るらしい。

 ケタケタと騒ぐかすみ達に酒席に引きずり込まれそうになるのを振り切り、等は小さな姿を探す。

 いた。合宿所の玄関に上る小さな階段の前で、ハンナは碓井天人と何かを話し込んでいる。

 ハンナの表情は沈んでいて、彼女の周りの空気だけ、重力が加えられているような気がする。

「おう、ちっこいの」

「……お前の無礼さにわざわざ腹を立てるのは、馬鹿らしいな。何だ」

「幼女が一人で新幹線に乗っていたりしたら周りの人が気をつかうだろ。おれが保護者になってやろう。帰るぞ」

「えっ……」

「何だよ、嫌なのか。しょうがねぇな、新幹線でジュース買ってやるよ」

「いや、そうではなく、碓井先輩とだな……」

「え、なんすか碓井パイセンロリコンすか。社会出てから苦労しますよ? 治療しときましょ」

 割って入られた上にぶしつけな言葉をぶつけられた碓井だったが、莞爾と笑って、

「僕の話しは終わっているよ。彼女を送ってあげて欲しい。頼んだよ」

 爽やかに等に目線を飛ばした。相変わらずいけすかない。

「あー、おけっす。オラ、いくぞ幼女」

 等はそう言って、思わずハンナの手を引きそうになっていたことに気がついた。

 危ない危ない、と腕を引っ込める。グローブから出た指の先を、じっと見る。

「……では、碓井先輩、失礼をする」

 挨拶をして、その場を離れようとするハンナに、

「あ、ちょっと待って三浦君」

「……」

「よい返事を、期待しているよ」

 碓井天人は期待を込めた声をかけた。ハンナは無言で頭を少しだけ下げる。

合宿所から軽井沢の駅までは歩いて二十分ほどなので、散歩には適切な距離だと言える。但し、大荷物が無ければ、という条件が付くが。

 等は自分のバックパックを背負い、ハンナのキャリーバッグを引きながら歩いている。

 なんとなく、そうしたい、と思ったのだ。

 正直に言えば、楽ではなかった。五月とは言え、汗が噴き出そうになる。

「なぁ、大丈夫なのか?」

「余裕っ……だって……」

 ぜぇぜぇ言いながら駅までの道を歩く。

「碓井パイセンと何話してた? 一見ああいう爽やかなのがロリコンだから気をつけろよな」

「お前には、関係がないだろう」

「まぁ、そう言うなって。あんだけ深刻な顔してると気になるっつーの」

「演出のことだ」

「ふーん。お、着いたぞ」

 三角形の屋根が見える。新幹線で東京まで一時間と少しだ。

「何だ、聞いておいて無礼な」

 少しだけわざとらしく、頬を膨らませて怒るハンナを見て、こう言った。

「軽井沢って、アウトレットがあるってーのは、幼稚園で習ったか?」

「お前の暴言はともかく、知ってはいる」 

「おれは疲れたので、甘い物が喰いたい。アウトレットは広いのでより疲れるかもだが」

「?」

「小さきモノよ。よくここまで歩いた。褒美をやる。ということで、甘味屋へ行くぞ」

「え……」

「何だよ、嫌なのか?」

 ハンナは首を振って、等を見つめてこう言った。

「行ってみたいと思っていたのだ。嬉しい」

邪気のない子どものような笑顔が、観光地を照らす陽の下で輝いた。



 新幹線でも、ハンナのテンションは高かった。洋菓子や紅茶の美味しさや、軽井沢の気候が如何に素晴らしいのか、等、延々と語っていた。好みの洋服は見つからなかったようだが、アメカジ趣味の等の買い物にも嬉々として付き添い、ああだこうだと口を挟んできた。

 体格に似合わずハンナはよく食べる。今も駅弁を平らげたばかりだ。

「楽しんだみたいだなお前」

「うむ、楽しかった!」

 素直かよ、等は苦笑した。楽しかったのならいい。だが、

「合宿は、どうだったんだ? 授業は?」

「……」

 沈黙は答えそのものだった。わかりやすいやつだ。等はハンナに問いを重ねる。

「日本の学生なんてレベル低くて一緒にやってらんねぇって事か」

 ハンナは嘆息して、

「まさか。その逆だ。私には彼らと共に仕事をする資格が無い」

「でも、碓井パイセンには、プレゼン要員として誘われてると」

「意外に勘が鋭いんだな」

「あの光景見れば誰にでもわかるだろ」

「それはそうだな。お前の言うとおり、演出として座組に入るように依頼されている」

「そうか。受けるの?」

「……先ほど、言った言葉を覚えていないのか。資格が私には無い」

「演出が出来ない演出家でも、ネームバリューだけあればプレゼンでは十分だろ」

 ハンナは等の顔をじっと見つめて、人形めいて整った顔に苦笑を浮かべた。

「何だ、お前、私が無能なのを知っていたのか」

「人のことを馬鹿にしまくっておいて何だよっていうね。謝罪を要求するよおれは」

 冗談めかした言い方をしたつもりだった。本気ではない。だが、

「そうだな。お前には、酷いことを言った。申し訳ない……いや、ごめんなさい、だな」

 誠実な態度で、ハンナは等に頭を下げた。等は面食らってしまう。慌てて言葉を返す。

「おいなんだよ調子狂うな。何? スランプってやつ。そんなの誰にでもあるだろ」

「スランプ? スランプなどではない。四年近く、何も出来ていない」

「……」

「四年も打席に入っていないバッターを、野球ファンはスランプと呼ぶか?」

「いや、それは……」

「それが、私の実力だ。子どもの頃におだてられて、調子に乗った者の末路だな」

 自嘲して、ハンナは笑った。二人の間に、沈黙が流れた。

「……読書感想文って、あるだろ? ああ、お前ドイツだから無いのかな」

 等の唐突な問いかけに、ハンナは戸惑ったような視線を返した。

「日本の小学生は、国語教育の一環で、本の感想文を書くんだよ」

「……」

「これが結構皆苦手なんだよな。書けないやつが多い。で、おれは、すっげぇ得意だったの」

「よいことではないのか?」

「悪いことでは無いと思うけどな。おれは、ガキの頃大人がどういうコトすれば喜ぶのか、わかってたんだよな」

「作為があった、ということか」

「そう。でも、そういうのって、少し時間が経つと皆にバレるんだよ。だから嫌われる」

「いや……」

「別に、演劇じゃなくてもよかったんだ」

「え?」

「演劇は好きなんだけどな。映画と比べて、そんなにかっこよくなくても、目立てるし」

「……」

「本を読むのも好きだよ。映画を見るのも、演劇を見るのも、音楽を聴くのだって好きだ」

「お前は、意外にモノを知っているからな」

「まぁな。でも、『受け取り手』にはなれても、『作り手』にはなれないんなって」

「……」

「大きな規模じゃなくていい。合宿の時の演し物でもいい。おれは、あそこにもいられない」

ハンナは、どう答えたらわからないようだったが、

「そんなことは、ないだろう」

そう、絞り出すように言った。等は笑って、

「おれのトラウマ告白はどうでもいいんだけど。お前は違うだろって話し」

「私は……」

「何かを出来る人間なんだからさ、昔の事故の事なんて、いつまでも引きずってんなよ」

 ハンナの表情が硬直した。目からは力が失われ、作り物に形容される相貌が、より一層その印象を強めた。少しして、唇を震わせた。

「それも、知っていた……いや、聞いていたのか。ゲンジ・タダノも口が軽い」

「あのオッサンも立場があるからな。何時までもお前が使い物にならないと困るんだろ」

 ハンナは小さく笑って、こう言った。

「私もお払い箱と言うわけだ。演出などという、身分不相応な仕事をすることもなくなるな」

 静かな諦念がそこにはあった。

 等は何かを言おうとした。でも、かける言葉は、何も出てこなかった。

 頑張れと言いたかった。応援をすると言いたかった。

満員の新幹線が、東京駅に着いた。

 

 沢山の人が、プラットフォームを行き交うのが見えた。

「じゃあ、また、休み明けに学校でな」

「ああ……すまんな。妙な空気にしてしまって」

 東京駅で別々の電車に乗り、二人は別れる。ハンナはあれからずっと、黙り込んでいた。

「気にすんな。子どものやることだろ」

「……お前なあ」

 等が乗る電車が先にやってきた。挨拶を交わし、乗車口に身体を向けつつ、ハンナに言う。

「おれ、中ホールの存続プレゼン出るんだけどな、チームの演出はお前だからよろしくな」

「えっ」

 答えを待たずに、等はGWの山手線に乗り込んだ。

 ドアが閉まり、電車が動く。ぽかんとした顔のハンナとの距離が、どんどん開いていった。

   


恥ずかしいもんですね。

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