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神様のプロデュース  作者: 江古田景
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アルコールアンドシガレットアクト

まあ、昔はこんなもんでした。主人公にどうしても酒飲ませたかったんですね。

第二章




人生には、三回モテ期が来るという。

 その言葉を信じることが出来るのは、モテた事がある者だけだ。

 当然、牟礼等はモテとは縁が遠い二十年を歩んできた。モテを願い望んでも与えられることは無く、モテる事のないまま人生が終わるのでは、と諦念が湧き上がる夜を幾度となく過ごした。何度起きてもモテという明かるい朝が訪れることは無かった。

 かすみの部屋に入ったとき、等は人生初のモテを確信した。だが、アッサリとその確信を捨てざるを得ない状況に陥ってしまった。

 そんな等に急にモテが来た。

 始まりは今朝の通学電車だった。二日酔いの頭を抱えて黄色い電車に乗り込むと、相変わらずの通勤ラッシュが待ち受けていた。痴漢に間違えられた瞬間に、人生は大分しんどい事になってしまう。等は両腕でつり革を持つことを父親からキツく教え込まれていたので、本日もその教えを忠実に守っていた。

 等の背中に衝撃が走った。

 背にドンしてきたのは、可愛らしい女子高生の頭であった。

電車が急なカーブを切り、立っていた乗客の多くはバランスを崩した。不安定な体勢でいたためか、少女の身体は大きくよろめいてしまったらしい。

 首を向けると、少女はごめんなさい、と等に告げた。

 目が合った瞬間、少女の瞳がうるみだす。 

 前日のショックから、等は女性全般への警戒心を高めていた。睨んだように思われてしまったのだろうか? 泣かれては困る、と視線を外した。車内アナウンスが棟市野駅に到着したことを告げると、人の波を縫ってプラットフォームに降り立つ。改札を目指そうと、階段を見上げると、

「あの、すみません」

等にそう話しかけたのは、先ほどの少女であった。

「え? おれ?」

 等は自らを指さす。少女は恥ずかしそうに頷いて、

「あ、あの、さっきはぶつかっちゃってごめんなさい。あのっ……これ、お詫びです! 蓋はまだ開けてないんで、飲んでください。ついでに……もしよかったら友だち登録してください!」

 そう言って、等にペットボトル飲料を手渡すと、返事を待たずに対岸に表れた先ほどまでの進路とは反対側の電車に飛び乗ってしまった。

 等は呆然と少女を見るが、恥ずかしそうに顔を伏せているだけだ。直ぐに扉が閉まり、電車は動き出す。

ペットボトルに、付せんが貼り付けてあることに気がついた。

 剥がして内容をあらためると、そこにはトークアプリのIDと、フリーのメールアドレスが書かれていた。ドッキリだ。等は確信をするが、四方を見渡しても、何処にもカメラは無かった。

 大学に着き、一限を受けるために講義室に向かった。非現実的な事の連続に、等の頭は痛みっぱなしであった。

 朝九時から始まるのは、舞台創造学の必修『日本舞台史』である。大まかに言えば、アメノウズメノミコトの舞いや舞楽に始まって、日本の近代演劇の成り立ちまでを学ぶ授業だ。単位の認定は若干厳しめで、高い出席率が求められると先輩たちから忠告を皆が受けたからか、広めの講義室は同級生で満杯になっている。

 四月も未だ半ばを過ぎたばかりで、大学の人間関係は固まっていない。先週は運営コースの同期達で集まって授業を受けていたが、今週はどうなるだろうか。

「おー、等、こっちこいよ」

 等の姿を認めた串田宗佑が、軽く手を振った。他の三人も、目線で挨拶を寄越す。

「うーっす」

 等はそう返して、荒木昇平が空けていた、通路側の端のスペース座った。朝の挨拶を滞りなく交わしていく。全員に共通していることがあった。二日酔いである。それぞれ、青い顔をして怠そうにしている。

 等も居眠りをするように上半身を机に投げ出して、昨夜の出来事を思い出す。

 


 かすみが『ボクをプロデュースしろ』と言い、等が差し出された右手を呆然と眺めているとマンションにチャイムが響いた。喋るヘビ――――、ウロぼうが等の拘束を解き、素早く、且つ音も無く姿を風呂場に消し、かすみが「はいはいー」と楽しそうに応対すると、買い物を仰せつかった四人が部屋になだれ込んできた。  

 男達の目は、等への敵意に満ちていた。殺られるかもしれない。かすみは呑気に四人の労をねぎらっている。等は向けられた悪意に怯えてもいたが、かすみの本性や、喋るヘビの存在を訴えようと内心で決意して、全員に今まで何があったかを暴露しようとした。その時。

 等は、また自分が自分を「手放し」そうになっていた事に気がついた。意識を失う、という事ではない。目眩や動悸がした訳でもない。ただ、己の正気と呼ばれるものが、喪失しかけるという事を、本能で解した。おそろしい、と思った。かすみは等を見ると、艶然と微笑んだ。

「かすみママ! 大丈夫? 結婚する?」

 湯元がかすみにそう声をかける。全員が、かすみの周りで思い思いに声をかけていた。

「大丈夫だよー。皆早かったねー」

池袋(ブクロ)から皆でタクったんでー」

 串田がそう返した。小柄ながらも、ヤンキーっぽくて迫力がある。二浪をしていることもあって、自然と運営コース男メンツのまとめ役に収まっていた。

「そうかそうかー。ありがとー」

 かすみが居酒屋同様の媚態を振りまくと、全員が高揚しだした。等がその様子を信じがたい気持ちで眺めていると、三上と目が合った。

「で、おめさ何でここにいんべ?」

 気仙沼出身の三上が、少しだけ地元の言葉のニュアンスを残しながらそう尋ねた。空間に、緊張が満ちた次の瞬間に、かすみがパチン、と指を鳴らし、

「ボクは喧嘩が嫌いだからー、牟礼くんとも『仲良く』しなさいー」

 そう言葉を発すると、四人の瞳から敵意が急に消えた。「おっ、そうだな」「何ワイン飲んでんの? 俺にも飲ませてよ」「大丈夫かいマイ・フレンド」「莫逆の友とは我らの事なり」

 芝居がかっていた。だけど、それが「お芝居」だとも思えなかった。これは、集団催眠か何かなのだろうか? 酒に酔っているとは言え、行動が理屈に合わなすぎる。この女は、一体何者なんだ。神とか言ってるけど、まさか、本当に――――。慄然としていると、かすみの視線が自分に向けられている事に気がついた。かすみは片目をつむり、人さし指を唇に当てた。

 黙っていろ、という事なのだろう。黙っていても、何かを言おうとすると「あの感覚」に襲われるのであれば、もはや何も言うことは出来ない。首を縦に振ると、かすみは満足げに頷いて、こう言った。

「ごめんねー、眠くなっちゃったー。もう皆帰ってちょうだいー」

従順に、等以外の全員が頷いた。



「一寸きみ運営の子だよね? 出席カード横に回してよ」

 短い回想を打ち切ったのは、TA、ティーチング・アシスタントの大学院生だった。

 顔を上げると、アンダーリムのメガネをかけた研究者然とした女性が、唇を尖らせていた。

 等が身体を前倒しにして、スペースを遮っていたため、一列分の出席カードを計算して手渡すことが出来なかったらしい。運営の四人がだらしない体勢を取っていたため、隣に回すことも気が引けるようだった。

「サーセン気をつけやす」

 等が相変わらずのテンションでそう返すと、院生は眉をひそめた。

「あのね、口の利き方気をつけなさいよ……」

 そう言いながら、未出席者による不正防止のために日付がスタンプされたカードを手渡してきた。等は「あざっす」と呟き、数枚の紙を受け取る。かすかに、二人の指が接触をしたことを感じた時、きゅっと袖口が掴まれた。

「? あのー、横に回してぇんで離してもらっていいっすか」

「そそそそ、そうよねそうよね。あの、その、うん」

 急に顔を赤らめて、もじもじと身をくねらせると、手を離して、職務に戻っていった。瞳は怪しく濡れて、まるで恋をしているかのよう。

 等は思う。おいおい、これ、もしかしてモテてるのでは? と。

 幸い、今のやり取りに注視している者はさほどいなかったようだが、一体、自分はどうなってしまったんだ? と等は不安になった。どう考えても、モテの気配しか感じない。本来であれば嬉しいはずなのに、昨日からの出来事のせいで、喜ぶことが出来ない。

 カードを回し、思案に暮れていると、脇から鋭い視線を感じた。

 通路を挟んだ直ぐ隣に、幼女の――――、三浦ハンナの姿があった。昨日と変わらない、侮蔑するかのような目で、等を睥睨している。机に突っ伏している間に、隣に座っていたらしい。 等は前日の屈辱を思い出してむっとした。

「何だ幼女。朝から人を睨みつけるとは失礼なお子さまだ。そういうのダメって幼稚園では教わらなかったのかよ。スコットランドのエディンバラだか焼き肉のタレのエ○ラだか知らねえが、調子ぶっこいてるうちに情操教育の単位は落としてたみたいだなーおい」

 立て板に水の如く悪態を吐くと、ハンナは表情一つ変えずにこう返した。

「名は体を表すというが、お前の無礼さは本物だな。俳優の才はゼロで、その口ぶりでは制作者としてもお前と仕事をしたいと思う者などいないだろう。何故お前のような人間が演劇を志すのか私には理解に苦しむ」

「年上の人間には敬意を払うようにお父さんとお母さんから教わらなかったのかこの幼女は」

「あいにくだが、尊敬するべき要素が見当たらない愚物を先に産まれたという理由だけで持ち上げるような教育を施された覚えはないな」

 バチバチと視線を戦わせ合っているうちに、声が大きくなっていたようで、今度は周囲の視線が自らに集中していることを等は感じた。ハンナも同様だったのか、ほんの僅かに気恥ずかしそうな様子を見せて、ぷいっと目を前方に向ける。

 担当の講師が入室してきた。今日もお気楽な大学生の一日が始まる。それにしても、と等は思う。この短い間に起きた、モテ属性っぽい出来事の連続は何なのだろうか。

 昨夜部屋を後にする際、等の耳元に口を寄せて、かすみはこう言った。

「キミにはー、力を授けておいたからねー」

 思わせぶりな台詞だったが、非現実的な事象が短時間で起きている理由は、彼女にあるとしか思えなかった。

 どうせなら、演技の才能を与えてくれていればよいのに、と等は嘆息した。



 大学生という人種は、総じて回復力に優れている。一限開始時には二日酔いに苦しんでいた

面々も、昼時の今、平気な面でハイカロリーな食事をがつがつと貪り出している。

「で、午後の『総演』のバックステージツアーどうする?」

 串田が、カツカレーの脇に置いてあった「箸休め」のうどんを汁まで全部啜った後に、誰とも無くそう言った。

『総演』とは、『舞台総合演習』の略語であり、舞台創造コースの共通言語だ。入学から間もない一年生達は、大学のコードを身に付けようと、訳知った言葉を使うことがよくある。

「おれらパス。今日スタジオだし」

 熱いお茶の湯気で曇った黒縁メガネのレンズを服の袖で拭きながら荒木昇平がそう返した。「あー、ライヴあるんだっけ」

「そ、GW明け最初の土曜。よかったら来てよ」 

 荒木の傍らにはギターのソフトケースが置いてある。ゆーちゃん、と呼ばれた湯元隆憲は、一眼レフのカメラを巨体の首から下げている。

「え、ゆーちゃんも楽器できんの?」

「違う違う。ライヴの宣材用に練習風景撮って欲しいってしょーちゃんから頼まれてんだよ」

 この中では一番食も身体も細く、早めに食事を終えていた三上は、無言でスケッチブックに向かって作業をしていた。風景描写を描くのが好きだ、と自己紹介時に言っていたとおり、高速道路やビルが立体的に紙の上に出現している。凄く上手いのではないか、と絵心を母体に置き忘れてきた等は思う。チラリと顔を上げると「俺も行かない」とだけ告げてまたペンを走らせる。

「単位には響かないしな。おれもだりぃしパス。等どーすんの?」

「おれは行くけど……つーか、お前等マジで芝居に興味ないのな」

入学してから、彼らが演劇に興味を示した瞬間を見たことがない。

 串田は等の言葉に応えずに、大きな欠伸をしてから、行こうぜ、と皆に声をかけた。のろのろと動き出した同期達と動きを合わせながら、こんなんだからス○ザリン扱いされてるんじゃねえのか、と独りごちた。折角面白そうな奴らなのに、勿体ないな、という気持ちはあるのだが、興味がないと言ってる物事を強制するのは嫌だった。

 等は皆と別れて『総演』のバックステージツアーに参加するために、中ホールへ向かった。



「って、誰もいねーじゃん」

 棟市野美術大学の中ホールには二通りの入り方がある。一つは、観客として入場する正規ルートだ。ムネビの正面入り口を入り細い道を進むと、小規模なスペースが生まれる。

 進行方向からUターンするように作られている階段を上り扉を開けると、中ホールのロビーに入る。学生による舞台発表が行われる際は、オレンジ色の灯りが常燈されている。重厚な作りの扉を開けると、劇場が出現する。

 もう一つのルートで入る人間は舞台創造学科の関係者、少なくとも公演と関わっている者だということを意味する。階段の右手には舞台創造学科の運営室がある。教職員や学科出身の非正規雇用職員が在住しており、学生生活上の手続きはこの運営室を通すことになっている。

 その脇に、ロビーのそれよりも巨大で、頑丈な門扉が存在する。劇場の肝である舞台への入り口だ。公演中を除き、開閉される事は殆どない。入学式の後、学科のオリエンテーションの際も前者の道筋を辿ったのだ。

 等は戯れに、後者で入れるかどうかを試してみた。演劇の準備は通称仕込みと呼ばれるが、暗転や照明の当たりかたのチェックの際に、高水準の「闇」を必要とする瞬間がある。外部と世界を切り離すために、スタッフは命を捧げていると言っても過言ではない。故に、扉には関係者以外が扉を「触ること」を禁止する但し書きがあるのだ。

 等は舞台のイロハを何も知らないド素人であり、残念な人間なので、深く考えずに扉を引いたのだ。昼休み終了直後という事もあってか、奇跡的に人気(ひとけ)がないので悪戯心も沸いた。

 扉は意外にも、アッサリと開いた。ぽっかりとした闇が、目の前に浮かんでいた。

 ぼうっと闇を見つめていると、背後からかすかに学生達の話し声が聞こえてきた。少しずつ会話のゲージが上がっている、ということは距離が近くなっていう事実を示していた。

 等は焦った。見つかったら面倒くさい事になる。ままよ、と闇に向かって飛び込み、扉を閉めた。

 静寂と闇が、そこにはあった。考えればおかしな事だ。これから一年生向けにバックステージツアーが催される予定だったのだから、劇場の中にはスタッフが居なければ理屈が合わないんじゃないか? 

 じっと身を潜めていると、暗闇に段々眼が慣れてくるのが分かった。意外な程に恐怖を感じない。劇場は埃臭さがあったが、嫌な気分にはならなかった。

 スマホをポケットから出すと、LEDライトを点灯させる。人が居ないなら、探検をしてみてもいいだろう。

 今日は西洋舞踊コースの『総演』の仕込みが行われているはずなのだが、灯りをどの方向に向けても、素のままの舞台が広がっているだけだ。光を客席方向にかざすが、観客が不在の肘掛け椅子が、ズラッと下から上まで連なっているだけだ。床には暗転の際に演者の導線を確保するための「場ミリテープ」と呼ばれるテープが貼られていることが多いが、見当たらない。

 緞帳や大幕を昇降させるための太い綱を横目に、舞台の中央に歩を進める。

 世界の中心に、自分が立っている。等はどうしょうもなく高まってきた。

 入学からの、いや、受験からの苦労を思い出す。現役での受験は等の生涯の中でも、黒歴史の最たるものだった。俳優コースに入ることしか頭になかった。筆記は楽勝だったが、問題は実技だ。ここに足を踏み入れるのは今日が初めてはない。試験会場は中ホールで行われた。

 俳優コースの実技試験は、歌唱、ダンス、台詞読み、自己PRの四つのうち、自信のある物を一つ、三分以内で披露すると言うものであった。短すぎる、という声も受験者からは上がったが、二日に分けて二十人の定員を競い、二百名ほどの審議を行うのは大変だ。実技試験後、教授陣との面談を終えて、合否を待つ。

 等は自己PRを選んだ。そして、三分間、放送禁止用語を大声で叫び続けた。審査をする面々の反応は虚無そのものであった。面接の際は、果てしない説教を食らわされた。

 あれから一年が経ち、等はここに帰ってきた。俳優への道は、未だ閉ざされてはいない。

「去年のおれの敗北が……無駄なものでは無かったことの証しのために! 中ホールよ、私は帰ってきた!」

 ガ○ダムのパロディである。大仰に手を広げて等は大声で叫んだ。ジ○ン派だった。すると。

「若いのによく知ってるねぇ」

 背後から、女の声がした。

「うわっ」

 心臓がきゅっと締め付けられる。振り返ると、女の顔だけがそこには浮かんでいた。下から懐中電灯を顔に向けて当てているようだ。

「どうもどうも。幽霊だよ」

 女はそう言って、朗らかに笑った。八重歯が闇の中に、キラリと閃いた。

「ちょっと勘弁してくださいよ。何が幽霊だ。マジでびびったっつーの……」

「いやいやそれはアタシの台詞だよ。何で『こっち側』に来ちゃうかね」

「や、悪かったとは思うけど、さーせん。開いてたし」

「君は『鍵』だから、ある程度の事は予想してたけど、まさかねえ」

 鍵? 

「……アニメとか好きな人っすか」

「三十年以上見てないけど、好きだったね」

 三十年? どう見ても同年代だ。等は一つの天啓を得る。つまり目の前のこの人間は。

「なるほど。ロリババアすか。でもロリ要素弱いなー。育ちすぎでは」

 初対面の人間に対しての台詞では無かった。しかし、目の前の人間はどう見ても二十歳を超えている。化粧っ気は全くない。大きな瞳と太めの眉がしっかり者の印象を与える。笑うとちらりとのぞく八重歯が、人なつっこい感じがして、可愛らしい。

「君ナチュラルに失礼だな。ババアって言い方辞めなさいよね」

「で、ババアは何故ここに」

「あーのーなー。嗚呼、本当にガチでナグリで殴りたいのに、届かないのが歯がゆい」

「言葉二つ重ねてるぞババア」

「……アンタ、ガチとかナグリって言って何のことか分からないの? 本当に舞台の学生?」

「知らねぇっす」

 はー、と溜息をつく。

「ガチは『かすがい』だね。言ってもわかんないか。コの字型の釘で、舞台の仮止めに使ったりする。ナグリはトンカチとか金づち。ちなみに、腰にぶら下げる為のホルダーはガチ袋って呼ばれてるよ。これのことだね」

 そう言って、光をすっと胸から腰の辺りに下ろした。全身を黒で統一しているらしい。確かに、細い腰の横に、革製の袋が取り付けられていた。

「じゃあババアは『総演』のスタッフ? え、でも今日全然舞台出来てないっすけど」

「だーかーら。ババア辞めてよ。スタッフだったけど! ここ、『狭間の世界』だからね」

「……昨日から変なことを言う人ばっかりが周りにいるんすけど、勘弁して欲しい件」

「アンタ、かすみちゃんに会ったんじゃないの? アタシのこと聞いてない?」

「え」

 かすみの名前が出て来たことに、ぎょっとした。ロリババアにかすみについでにハンナと、短期間で変な出会いが多すぎる。

「聞いてるはずなんだけどなあ。まぁいいや。客席灯りおねがいしまーす!」

 女がそう叫ぶと、中ホール全体が一気に光に包まれた。

「うわっ! 眩しっ! って……何すかこれ? ちょっと他に人居るなら言ってくださいよ」

「ははは、ごめんごめん。ちゃんと姿見せてあげないとなって思って」 

 等は改めて全身を現した女を見る。セミロングの少しくせっ毛のある黒髪をポニーテールに束ねている。黒色の薄いパーカーに同色のTシャツ。ブラック・ジーンズに、足下は足袋と雪駄だろうか。いかにも舞台のスタッフ然としている。小柄なのだが、出るとこは出ている。

「……先輩なのは分かってるんですけど、四年生すか?」

 今日の『総演』は四年生の発表だから、スタッフもそうなのか、と推量した。

「んー……永遠の二十二歳なんだよね」

「おいおい」

 歳を取らない人間など、この世にいるはずがない。

「本当なんだよね。まぁいいや、君、ちょっとアタシに触ってみなよ。触れれば、だけどね」

「え? 触るって……」

 等は朝から今までの出来事を思い出す。よく分からないが、モテの気配は感じる。思い返せば、JKもTAも身体が触れた事をきっかけに、等に好意を示した気がする。で、あれば。

 BBAもイケるのでは、ないだろうか。

「どーんとこい、どーんと。おっぱい触っていいよ」

「……マジで?」

「張りには多少の自信があったんだよ」

 ごくりと生唾を飲む。ばーん、と突き出されたそれは、確かにナイスな張りを感じさせた。

 合意の上ならハラスメントにはなるまい、と等は距離を詰めて。

「え、マジで行きますよ?」

「おーけー」

 えいやっ! と手の平を胸部に向かって押し出した。すると。

「……は?」

 手の平が、身体を貫通している。

「……殺ってしまった?」

「いやいや、むしろアタシはもう死んでいるから」

ニコニコ笑いながら、女は言った。等はそのまま手を戻し、もう一度前へ出す。結果は変わらない。はっ! と横に薙ぎ払っても何の感触も得られない。

「嘘だろ……」

「んー、まぁ、刺激は強いかもね。でも、最初にアタシ、ちゃんと正体ばらしたんだけどね」

「……もっぺん、教えて貰ってもいいすかね」

 女は、八重歯がハッキリ見える程に口を大きく開けて笑い。

「だから、幽霊だよ。聞いた事あるでしょ? 『チューホー』さん。あれ、アタシ」

「……これ、おれが頭おかしくなってるって事なんすか」

「いやいや、アンタは正常だよ。ただ、ちょーっと不思議な力を手に入れちゃっただけ。まぁ、神様から与えられちゃった力だからね。かすみちゃんにアンタの事を教えたのアタシなんだけど」

「つまり、黒幕はパイセンだと」

 等の口調に、怒気が込められた。

「いーやー、それはちがうよー」

 客席から、のんびりとした声が響いた。

「どっちかって言うとー、黒幕はボクかなー? あ、でもでも、本当の黒幕はペンテウスかなー? ま、もうそんなことはどうでもよいんだけどねー」

 舞台の中央から、客席を見上げると、真正面にかすみがいた。傍らには巨大なヘビ、ウロぼうがとぐろを巻いている。

「ああ、来てたんだかすみちゃん。凄いねこの子。こっち来ちゃった」

「ねー、中々やるよねー」

 かすみは悠然と客席を離れ、ウロぼうを引き連れて劇場まで上がると、芝居を始めた。


「ここーテーバイ人のー、国を訪れた私はー、ゼウスの息子のー、ディオニュソスであるー」

 

 メチャクチャ下手だった。棒なんてものじゃない。語尾伸ばしはどうにかならないのだろうか。妙にドヤ顔をキメて、ふんす、と鼻を膨らませているのが痛い。

「……エウリピデスの、バッコスの信女でしたっけそれ」

「アンタ若いのによく知ってるな。テクニカルな事は何も知らないくせに」

「俳優志望っすからね」

「ゲンジちゃんに切られてたじゃん、無理無理」

「ちょっ、何でそれ知ってんすか」

「内緒」

「……」

 かすみはドヤったままポーズをキメていたが、相手をされていないことに不服そうな顔で、

「ちょっとー、ボクの事をー讃えなさいよー」

 ウロぼうが、かすみの周りで芝居を褒めちぎっている。人語を喋る上に感情まで表出するとは、は虫類の風上にも置けない。かすみとウロぼうが近づいてくる。

「等くんー、ねーねー、ボクの芝居どーだったー?」

「ゴミでしょ」

「えーーひーーどーーいーーー。ねーねー、チューホーちゃんはー? どうー?」

「少なくとも裏方として支えたいとは思わないね」

「もーーー」

「いや、それはそうでしょ。つうか、かすみ、悪いんだけど、ちょっと機材のチェックしたいから、そろそろ出てって。その子連れてってあげな」

「んじゃー詳しい事はー部屋で話そうかー」

 かすみは、等の手を引くと、劇場を下りて、客席の間にある狭い階段を上がっていく。

「え、ちょっ。なんすか」

「ママが詳しい事話すって言ってるんだから黙ってろ人間! オイラ、お腹すいてるから今ならお前なんて丸呑みだぞ!」

 二人の後ろを、ウロぼうがついてくる。等は自分が頭から飲み込まれる様を想像した。

 中ホールとロビーを隔てる、重厚な扉にかすみが手をかける。

「じゃーねーチューホーちゃーんー。あとはよろしくーー」

「はいよー。んじゃ、照明さん、全暗転おねがいしまーす!」

 扉を開くが前方がよく見えない。二人と一匹が飛び込むと背後に完全な『闇』が生まれる。

 その時、誰のものとも分からない、声が聞こえた。


火を付けろ、まぶしい 稲妻のたいまつを。

 

 光が煌めく。今自分が何処にいて、何をやっているのか、分からなくなった。等はまぶしさに耐えきれず、瞳を閉じる。少しすると、周囲の色が落ち着きを取り戻している。

 等が眼を開けると、見知った部屋の玄関に自分が立っている事に気がついた。

 

 馬上かすみの住居。なんだこれは。ワープか。

 

 呆然としている等を横目にかすみは冷蔵庫に向かい、ボトルを掲げた。


「日の高いうちにー、飲むお酒もー、いーもんだよー?」

 またワインか、と等はげんなりした。



 酒に酔う、という行為は、どういう事なのだろう。

 酔いに身をまかせながら、等はそう考えていた。

 意識はここにあるのに、身体は、意思の力を上手く働かせることが出来ない。

 高校生の頃に読んだ、無頼で知られる作家の本に、身体が夢を見ることだと書いてあったけど、その通りかもしれない。ふわふわして、気持ちがよい。

「で、なんすか、神? 神ですか」

「そーそー、あのねー、ボクはディオニソスなんだー」

 目の前には自称神がいる。オリンポスの十二神に数えられる事もある、んだそうだ。ヘスティーアと入れ替わることがあると、スマホで調べたらウ○キに書いてあった。

「ギリシャ神話の神様が何で現代日本にいるんすかね。転生先間違ってるでしょ」

「だーかーらー、人間の分際でー、ペンテウスがーへんな円つくってー、精神がその中に入っちゃってー気がついたらボクは人間の赤子になってたのー」

「設定乙っす。精神安定剤とアルコールはカクテルしちゃダメらしいっすよ。気をつけてくださいね」

「あーのーねー」

 ベッドに立てかけられたデジタルの時計を見る。まだ、十五時を少し過ぎたばかりだ。だというのに、等は完全に出来上がっていた。朝に暫く酒は辞めておこう、と誓ったのに、もう飲んでしまっている。

「ワインも中々旨いっすね。高いんですかこれ」

「いーやー? 普通のハウスワインだよー。コンビニで買えるやつー。やっぱほらー、美人と呑む酒はそれだけで価値があるって言うでしょー」

「……」

 素直に頷くのは癪だったが、赤い液体を次々に煽り、眼をとろり、とさせているかすみは妖艶という単語が相応しい。

「でー、今日から急にモテだしちゃった気分はどうー?」

「ぐふっ」

「おい! 人間! ママの部屋を汚すのは許さないぞ!」

「うっせえヘビ。零してないだろうが」

 ウロぼうは、少し離れたところで「おやつ」と書かれたフリーズパックに口を突っ込んでいる。冷凍化された齧歯類や、愛らしい生物が見えた気がするが、認識できていないことにする。

「……アレも、先輩がやったんすか」

「そだよー。鏡見なよー。キミが普通に生きていてモテるはずないじゃんー」

わかってんだよ、と等は呟く。スマホで調べ物をする手を止めて、

「だいたいディオニソュソスって、女装はするけど男神なんじゃないっすか?」

 皮肉を込めてそう言った。

「まーそーなんだけどねー。フツーに女の子なんだよねー。ついてないよー。確かめるー?」

「……いや、いいっす。色々怖いんで」

「ひーどーいー。もー、さっきから神様の話しちゃんと聞いてないのよくないんだよー」

「元の世界に戻って、『エリシュオン』で暮らしたいですか? 『エリシュオン』って神々に目をかけられた人間が死後に行く世界って話しですけど、ディオニソスはかーさんと嫁さん連れて天上に昇ってるのに、なんでまた」

「伝承ではそうなってるみたいでー、実際あっちでも『肉体』はそーかもなんだけどー、もーボクだいたい人間なんだよねー、たぶんあっちに戻ってもこの身体は持たないからー。精神だけ残して『エリュシオン』で暮らすのがいいなーってー」

 持たない、という言葉に引っかかるものがあった。

「持たないって、どういうことですか」

「んー、すぐ死ぬんじゃないー?」

「怖くないんすか?」

「意味が分からないよー」

 ケタケタと笑いながら、かすみが言った。

「で、何で元の世界に戻るのに、芝居やる必要が?」

「キミはーボクが演劇の神様だってことくらい知ってるんでしょー」

「世界最古の公共劇場ってアテネの『ディオニソス劇場』ってーのは今朝聞きましたけど」

『日本舞台史』の授業中に、少しだけ触れられていたのを覚えていた。

「そーそー。ボクが赤子としてこっちに来たときにーあの中ホールで主役をやることがー戻るための条件だっていう啓示があったんだよー」

「……神様って基本何でも意のままっぽいんすけど、やりゃあいいじゃないっすか勝手に」

 等は欠伸をしてそう言った。「自分を失う」感覚は怖かったが、それよりも酔いが心地よい。眠ってしまいそうだ。

「それが出来ないんだよねー、だってー、ボク、芝居下手らしいしー」

「……自覚ないんすか」

「あるんだけどー……この喋り方と同じになっちゃうんだよー」

 この語尾伸ばしでは、役が与えられる事は無いだろう。

「だから最初からー、運営コース狙いだったんだよー。こうなることは分かってたからさー」

「だいたい、何処まで何をわかってるっつーんすか」

「あのねー、ボクは神だよー? 大体わかってるにきまってるじゃんー」

 何でも神様が最後に物語を解決しちゃうデウス・エクス・マキナを好んでいたのは、「バッコスの信女」の作者エウリピデスだったな、という事を等は思い出す。

「つーかもうそれ夢オチじゃないっすか。わかってるんだったら巻き込まないでくださいよ」

「分からなかったこともいくつかあるんだよー」

 かすみはそう言って、滔々と人生を語る。ギリシャ神話の世界から一緒に消えた男はペンテウスだということ。中ホールに人に見えない扉があるが、『鍵』と呼ばれる存在が現れないと開かないということ(等のことだ)。出身が山梨だということ。酒を呑めるようになるまでは普通の人間と何も変わらなかったということ。

「……山梨っすか」

「そー、葡萄の名産地だからかなー?」

 酒を呑んで男をたぶらかしても、力はそれほど復活しなかったと言うこと。学内の恋愛関係をメチャクチャにしたら『カスみ』という蔑称がつけられたということ。一人にだけ、本来持っていた神性を非常に弱い力で付与出来ると言う天啓があったということ。

「神性って、アレすか……あの、モテ現象すか……」

「そー。っていうかー『ひとたらしの能力』ー。演劇プロデューサーにーピッタリだねー」

「ひとたらし……?」

「そーそー。元々ボクが持ってた『神性』だねー。一人にしか授けられないんだよー。異性にしか働きかけられないのがー残念ポイントなんだけどー」

「いや、おれ、俳優になりたくてムネビ入ったんすけど」

「もう無理だよー。だってー、キミの中に僅かにあった俳優の素養はー、能力を付与した代償で消えちゃったしー」

「……はい!?」

「だってー、そもそもゼロに近かったしー」

「アンタなんて事してくれやがりますかこのカスビッチ」

酔っ払っていた。強い言葉が口から出た。かすみはニッコリと笑い。

「ウロぼうー。ゴー」

齧歯類を咀嚼し終えて、まどろんでいたウロぼうが素早く等を組み伏せた。我慢できる程度の、しかし無視は出来ない程度の痛みが等を襲う。

「いだいいだぃイダダダダダダいだぃイダダダダダダサーセンセーセンマジサーセン」

「ママ! もうコイツ食べちゃっていい?」

「だめー。あのねー、昨日から何か勘違いしてるみたいだけどー。最初から選択肢なんてないのー。ボクを主演女優にしてー『グッドバイ・中ホール』のプレゼン通す以外に生きていく道ないのー」

可愛らしい口調だが、完全な脅迫だ。等は、昨日から幾度となく訪れている不幸を呪った。

「な……なんでおれがこんな目に……」

 泣きそうな声が出てしまう。ここまで酷い目にあわなければいけないような罪を犯していたのだろうか? 等は自分の二十年の人生を回想した。無礼な振る舞いを数多く行ってきたから、あるような気がした。そうだ、と思い立って、おそるおそるかすみに尋ねてみる。

「いてぇ……かすみパイセンの正体、バラしたらどうなります? ってぁぁぁあいてぇよ!」

「えー? もっとファニーになるからー、試さない方がー、いいんじゃないー?」

 昨日自分の身に起きた恐怖を思い出して、等は震えた。あれよりって、どういうことだよ。

「昨日はー、握手して貰えなかったからー、今日は約束して貰うよー」

 かすみは酒をくぴくぴ飲みながら、右手を差し出した。ウロぼうが、等の右腕だけが自由になるよう、力を緩める。

「そんじゃー、ボクを頑張ってプロデュースしてねー。プロデューサーさんー」

「……アンタ、人間の心とか無いんすか……。おれが何したって言うんだ……」

 涙目の等を見下し、かすみはそっと等の瞼に唇をつけてから、こう言った。

「神様ってー、人間の事情を忖度しないのー」

 差し出された右手を掴む。神様なのに、柔らかくて、暖かで、女の子らしかった。



 等は千鳥足で池袋駅を降りると、駅近くの大型書店に向かう。エウリピデスの『バッコスの信女』の筋は何となく覚えていたがディオニソオスがキリシャ神話でどういうポジションなのかはわからないこともあった。ネットレビューで評判のよい入門本を読んでみようと考えた。何か、あの女を倒せるいいヒントがあるかもしれない。

 検索機で、目当ての本の在庫を確認する。エスカレーターを上り、神話の棚を目指す。手前のアート棚を眺め、見覚えのある幼女の――――。幼女っぽい、大学生の後ろ姿を見た。

 三浦ハンナがそこにいた。服装が今朝と一致していたし、栗色の髪のナチュラルさは、日本人のそれでは無い。見つかるのも億劫なので、反対側の棚に隠れて通り抜けようとする。

 演劇の関連本でも探しているのだろうか? 見つかる恐れがないことを確認し、様子を伺う。

 なるほど。あのミクロな生物は、その体格故に、高所の書物を手に取る事が出来ないのか。

 ハンナは顔を赤くしてつま先を立て手を伸ばすが、すぐに宙で力尽きてしまう。店員を呼べばよいのだが、近くにはいない。客足もまばらで、誰も彼女を気にはとめない。

「……」

 キャラじゃないな、とは思った。だけど、身体は素直に動いていた。

「おいロリ。おれがお前を助けてやろうと思うんだが、どれを取ればよいのか五秒で答えろ」

 ハンナがピクリ、と肩を震わせる。等の姿を見咎めると、わかりやすくジト目を作り、

「牟礼等か」

「おう、どれ?」

「お前のような阿呆に手助けをして貰う義理はないな。大方貸しを作りにきたのだろう? 私の願いはたった一つだ。今すぐ私の視界から消えて貰えないだろうか?」

「まぁまぁ、どれだよ小さきものよ」

「人の話を聞いているのか? ああ、頭でも下げればよいのだな。この通りだ。消えろ」

 ハンナはしゃなりと頭を下げた。

 等は、頭を掻く。

「いや……別に善意の押し売りでいいんだけど。どれだよ。渡したら消えるって」

 ハンナは頭を上げて、いぶかしげな表情を作る。等は無視して、棚に手を伸ばす。

「……あれか? あの表紙が黒い奴」

「違う……その隣だ」

「これか? ああ、これ洋書なのか」

少し背を伸ばしてモノトーンの装丁を手に取る。著者の名前は知っていた。若くして鬱を患い自ら命を絶った、イギリスの女劇作家だ。

「ほれ」

「……」

 ハードカバーを押しつける。ハンナは本を胸に抱いて黙っている。

「んじゃ、おれ行くわ」

 少しはデレるだろうか、という期待は若干あったが、無駄なようだ。等がその場を離れようとすると、ハンナが顔をしかめてこう言った。

「お前、酒臭いぞ」

「さっきまで呑んでたんだしそら多少は……」

「何て奴だ。バックステージツアーにも居なかったな。先生方は怒っていたぞ」

 まさか世界と異世界の狭間に居たとは言えない。

「チッうっせえな。反省してる反省してる。んじゃなミニマル。またな」

「おい待て。お前、何で本屋になどいる? 向学心があるような顔立ちはしていないが」

「……別に関係ないだろうが」

「何か捜し物でもあるのか?」

 妙にぐいぐい来る。等は戸惑った。

「ディオニソスについて、一寸調べたいんだよ。簡単な知識でいいんだ……」

 答える気は無かったのに、本当に事を言ってしまった。

「ほう――――。『バッコスの信女』か?」

「筋はまぁ何となく覚えてるんだけど、それ以前何してかとか知らねえし」

「教えてやるぞ」

「は?」

「借りを作ったままお前と大学で会うのは寝覚めが悪い。入門本を買う必要はない」

「え? 何、デレたの? どうしたようじょ」

「五月蠅い。ああ、ついでと言っては何だが、茶くらいは馳走してやろう。酔い覚ましにもよいだろうしな」

等の軽口に付き合わずに、意外な言葉を口に出す。

「いや……別に自分の分くらいは自分で払うけど」

「いいから払わせろ。その代わり、店は私が指定するぞ」

「まぁいいけど……何処行くの? 池袋?」

 ハンナは少しもじもじしてから、こう言った。

「星が見える店だ」

なるほど、と等は思う。やはり幼女か。


 池袋一の賑わいを見せる通りの入り口に、星が輝く店がある。店内の装飾は勿論、メニューや食器までコンセプトを統一している。所謂デートスポット、若しくは女子用の店だ。

「ふわぁ……」

 ここに、テンションがマックスの女子が一人いた。ハンナであった。

「……あ、二人っす」

 ウェイターにそう告げて、キラキラと瞳を輝かせているハンナに、席に着くように促す。

「ほう! ほう! そうか、十二星座の名前を冠にしたパフェがあるのか。これは素敵だ」

「甘ったるそうな飲み物しかねぇな……」

「何だ? 甘いものは嫌いなのか?」

「あー……や、サーセーン。えーと、おれはおうし座のパフェで……お前どうすんの?」

「ぁ……ゃぎ座……」

 もじもじしていた。

「……やぎ座のパフェで。はい。よろしゃす」

 ウェイターが、微笑ましそうに二人を見つめて去る。

 まさか、とは思うが。

「お前、人見知り?」

 ビクっ! と身体を震わせる。

「な、何を言うか。公共の場で不適切な言葉を使うとはやはりとんでもない愚物だなお前は。私のコミュニケーション能力に問題があるだと? 私は演出家だぞ。演出家とは全てのスタッフワークのみならず俳優とも密に関わる人間だ。演出家の能力はコミュニケーションに依存する部分が大きい。そんな私が――――」

「本屋で店員呼べなかったのも、人に声かけるの恥ずかしかっただけ?」

 等の一言に、ハンナは黙りこくってしまう。上目づかいで。

「……内緒にしては、くれないだろうか?」

 いじらしく懇願した。等はなんだかゾクゾクした。嗜虐的な気分になり、

「どーしよっかなー、『俳優基礎実習』で恥かかされたしなー」

「私は間違ったことを言っていないぞ」

「……」

 反撃をしたつもりが、真顔でリアクションを返されて等は傷ついた。おれ、やっぱりそんなに才能無いのか。ハンナも気まずくなったのか、二人とも黙ってしまう。

「お客様、おうし座とやぎ座のパフェ、お待たせしましたー」

 永遠とも思える数分間の沈黙を破ったのは、先ほどのウェイトレスだった。

「あ、あざっす」

 等はほっとして頭を下げる。ハンナもぺこり、とする。パフェは思ってたよりずっとデカい。

「……とりあえず、喰う?」

「うむ……」

 ハンナは再び瞳を輝かせて、甘味をスプーンですくって食べ始めた。

「ん~~~~っ」

 手足をばたつかせて喜んでいる。完全に子どもだ。

 暫くは無言で巨大な山嶺を思わせるパフェに挑みかかる。ハンナは体格に似合わずに早食いのようで、等よりも先に食べ終えて、ほうっと幸せそうに放心している。

「美味かった?」

「ここは……天国だ」

「さよか」

 パフェを食べ終えると、ハンナはぎゅっと手の平を握りしめて恥ずかしそうにこう言った。

「なにぶん、日本の飲食店に一人で入る機会が無くてな……入ってみたかったのだ……」

「え、お前高校生の時には日本にいたって話し聞いたけど」

 昼休みに、舞台創造学科の同級生がハンナの噂をしているのを耳にしていたのだ。

「ああ……だが、なにぶん、学友が皆無だったのでな……」

 コミュ障でぼっち。中々に、役が揃っている。

「まぁ、大学で作ればいいじゃん。皆いい奴だし」

 本音が出た。大学に入ってから等は思っていた。ムネビの学生は基本的に皆、人がよい。

「そうだな。だが、今日の所は、お前に礼を言わねばなるまい」

「何か偉そうだなーお前」

「それはお互い様だ。あの……」

「なんだよ」

 意外にも、目を真っ直ぐと見て、それでもどうしても照れくささを隠せずに、

「本を取ってくれたのもだが、この店に連れてきてくれたことも、嬉しいぞ。ありがとう」

 邪気のない笑顔を作り、可愛らしく、ハンナはそう言った。

 等の胸は、妙に高鳴っている。

「お、おう」

 目を逸らしながら、等は吸いもしないのにエア煙草を作り、ふーっと吐いた。

 ハンナはクスっと拳を口に当てて笑い、

「で、お前が知りたいのは、ディオニソスについてだったか?」 

 エウリピデスの悲劇、『バッコスの信女』の筋の要点はこうだ。

 古代ギリシャの都市国家テーバイの王、ペンテウスはディオニソスを神として認めない。ディオニソスはペンテウスに怒る。ディオニソスの力に、ペンテウスの母であるアガウェーを始めとしたテーバイの女は憑かれる。ディオニソスを排斥しようとしたペンテウスは、母親にメチャクチャ残酷な殺され方をする。

 本当に単純な話しなのだが、話しのベースになった、神話を理解していくと面白いのだ、と語り、ヘラクレスと同じく、人間の女の腹から生まれた神の伝説をハンナは説明してくれた。

 話しを聞いている間中、照れくさくてハンナの顔を見ることが出来なかった。



 気がつけば、とっくに夜だった。

 会計は、怒り出しそうなハンナを制して等が持った。直近のパチスロで連戦連勝を収めていて、バイト代の充てもあり、懐には余裕があった。

 今朝方から女性と接触をすると妙なことになるのを思い出して、釣り銭の受け取りに気をつかった。

「可愛いですね。ホームステイの小学生ですよね?」

 会計時にウェイトレスはそう言った。いい人だが、言葉は残酷であった。ハンナはどんよりと目を曇らせた。

 四月半ばとはいえ、夜になるとまだ肌寒い。緑色の電車に乗り帰宅すると言うハンナと、何となく駅まで一緒に行くことになった。等は、気になっていたことを聞くことにした。

「あー……あのジーさんの授業、あの後どうだった?」

「ああ、皆中々熱意があってよいな。技術は未熟だが、見込みはある」

 等は溜息をつく。

「まぁ、見込み以前の問題でクビになったやつもいるわけだが」

「あ……」

「いやまあ、しゃーないんだけど」

「……お前は、本当に俳優になりたいのか?」

 駅の入り口まで辿り着いたところで、ハンナは等を見つめて、そう言った。

「なりてぇよ」

「……なりたいものと、なれるものは、違うのだぞ。お前は何処かで、俳優や、演出家と言う存在を、上位の人間だと思っているのではないか?」

「……」

「お前は、俳優にはなれない。一応私も元『プロ』だから、それは断言できる」

「あ……っそ」

「だが、きっとお前は、いい制作者にはなれると思う。これは私の勘だがな」

「……そら、どうも」

「うむ……そうだ、お前は、合宿には行くのか?」

「あ? ああ、行くけど」

 毎年GW前半に行われる舞台創造学科のレクリエーションだ。一年生から四年生だけでなく、教授陣も、軽井沢にある大学所有のが合宿所に集う二泊三日のイベントだ。

「そ、そうか」

「……」

 嬉しそうに見えるのは、気のせいなのだろうか。

 別れ際に何となく、ハンナに連絡先を聞いてみた。ハンナは顔を真っ赤にして、通信アプリのIDを交換した。

「では、また大学でな」

 ハンナは、ひらひらした服をはためかせて、改札へと消えて行く。

 あんな服で、転んだりしたら大変だろうに。完全に保護者の目線になっていた。

 ぴろん。

 ジーンズの中にしまい込んだばかりのスマホが音を立てた。

 ハンナからのメッセージだった。幾つものスタンプと、本を取ってくれたことのお礼と、店に同行した感謝と、ギリシャ神話についての補足知識が書き連ねられていた。

「ははっ」

 等はスマホを眺めて、一人笑う。その声に、嘲りの色はない。ハンナへの好感が、増していくのを感じた。後でまとめて返信をしようと決めて、ポケットに収める。また、スマホがメッセージの着信を告げる。手をせわしなく戻し、内容を見ると。

 お前を見ているぞ。

 え。再び、ぴろん。

 うしろ、みろ。

 振り返れば、そこには運営コース同期の男四人がいた。

「ちょ……いつから?」

 等の声は、うわずっている。

「店出たあたりから」「いやー、いい空気だったな」「ロリ王爆誕である」「おまわりさんこいつです」「つーかママはいいのかよ」「あ、そういやそうだ」「ママを讃えよ!」

 等々。どうやら、荒木のバンドのスタジオ練習に湯元以外も見学に行っていたらしい。

 終了後、荒木が律儀にも同期との付き合いを優先し、飲食を共にすべく店を探しているところに、喫茶店へ繋がる半二階の階段を等とハンナが降りてくるのを見たらしい。

 面白がって、尾行をしたのだ。

 大声ではしゃぎ廻る彼らに、通行人たちが迷惑そうに一瞬だけ視線を向ける。

 彼らはひたすらに、自由に見えた。飲みに行こうぜ、とはしゃぎだす。池袋には、安酒を飲ませる店はいくらでもある。棟市野駅に戻ってもよい。

 等も酒を呑んではしゃぎたかった。ハンナとまるでデートのように歩いているところを尾行された事に、ネガティブな感情は芽生えなかった。むしろ、こそばゆいくらいだ。

 若者達は誰ともなく肩を組みながら、街を転がり歩く。

 等は昨日の夜の『やぐら』での出来事を思い出す。かすみの正体を正確に知っているのは、恐らくは自分だけだ。

 大学生活は、まだ始まったばかりだ。俳優になる夢はまだまだ捨てたくないし、気のよい同級生たちと過ごす時間は楽しい。それは正気で無いと、味わえないのだ。

 あんなイかれた神様に、人生を支配されるなんて、最悪だ。

 で、あれば。等は決意を固める。

 主演女優でも何でもやって貰って、とっととこの世界から退場して貰おう。帰りたいと言うのなら、帰してやろうじゃないか。

 表現者への道のりは少し遠のいたが仕方ない。

 かすみの家を出る前に、無理矢理交換させられた連絡先に、等はメッセージを入れる。

 プロデューサー、やりますよ。プレゼン勝ちに行きます。よろしくす。

「やったらぁ!」

 等は大声を出す。四人はとりあえずノリで、おー、と合わせる。

 彼らはサワーが一杯百円代の大衆居酒屋になだれ込んでいった。

 

 翌日、全員が三日酔いになった。


こっぱずかしい。

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