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神様のプロデュース  作者: 江古田景
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酒神さまと無能男と天才少女

ダンまちでヘスティアが流行ってたんで逆張りしたんですよね。モデルは日本大学芸術学部です。

 第一章



   

「俳優王に、俺はなる!」

 青年の自信満々の声に、冷たい言葉が返ってきた。

「残念だけど、君は俳優にはなれないよ。諦めなさい」

 出会って五分の断定に、リノリウム貼りの床の温度が数度下がるのを学生達は感覚した。空間の権威者たる五十絡みの男が発した言葉に怒りや冷たさは含まれていない。むしろ、いたわりや慈しみの色が濃い。

 こういうのって、何て言うんだっけ? 牟礼等(むれいひとし)は受験勉強で脳内に蓄積されたことわざの中から、高速で相応しい言葉を見つけ出す。

 (そく)(いん)の情ってやつだ。何かをかわいそうに思う気持ちの事を表す言葉だ。

 一年間の浪人生活は無駄ではなかったな。等は内心でそうほくそ笑むが、語彙を増やしたところで現実を正面から受け止められない性分は容易には変わらない。

 流石は高名な俳優教育者だ。心の底から、気の毒に思っていることが伝わってくる。

 リアルだ。しかし、想定内の”お芝居“でもある。ここで引いてはいけない。

 ゆーてセンセ、ちゃんとフォローしてくれはるんでしょ、と生まれも育ちも東京のくせに、デタラメな関西弁が口から漏れそうになるのをグっと堪える。

「あ…なんか、ダメな感じでした? スイマセンちょっとアプローチが良くなかったみたいっすね。もうワンテイクおなっしゃす! 俺、絶対にプロの役者になるんで!」

 両腕を胸の前で交差して、勢いよく腹の横に引きつける押忍のポーズをキめながら、等は元気よく声を張りあげた。

 リテイクの機会は直ぐにやってくる――――。

 等は都合のいい確信を持って指導者の返答を待つ。これはやる気を試す試練なのだと疑わない純真さと、いくら何でも本気でそんな事は言わないだろうという打算がある。大学も慈善事業ではない。近年急速に進む少子化のご時世にあって、学生は大切なお客様のはず。神様とまでは言わないが、授業の名の下に行われている演技指導の場では、全ての学生が均等な扱いを受けてしかるべきだとイキって鼻を膨らませる。

 男は室内だというのに鼻にかけたままの薄いサングラス越しから等を軽くねめつけて、ふーっと大きく息を吐いた。男を中心に車座になった男女混合の学生達の視線が、等と男の間を何度も往復する。この間、等の思考をそのまま言葉にすればこういうことになる。

 このオッサン、溜めが長くてめんどくせぇな……サクっとワンチャンくれよ……

 心中でどれほど屁理屈をこね回したとしても、所詮は浅薄な大学生である等の考えは甘々ちゃんであった。 その上、ちょっとした妄想癖の持ち主。先般二十歳の誕生日を迎えて、大人の仲間入りを果たしたとは思えない程に夢見がちだ。

 等は嘆息の後ウンともスンとも言わない男と遅々として進まない状況に倦怠を覚えて空想に耽りだした。この失敗を将来成功した際のエピソードに使おう。美人記者から取材を受けるシチュが良いな、等と愚にも付かない妄想を繰り返えす。脳内で『ミナ』と名付けた金髪チャンネーとあられもない夜を過ごすところまでイメージをした。こんな感じで。


「HITOSHI程の世界的なアクターでも、キャリアがスタートする前は失敗だらけだったのね」

 ミナは瞳を丸くしながら言葉を零した。豪奢の限りを尽くした室内で、テーブルにポツンと置かれたICレコーダーだけが、世界と釣り合いが 取れている。


「今も毎日がトライ&エラー、そしてスクラップ&ビルドだよ。演技の女神(ミユーズ)は怠け者には微笑んでくれない。君もアートの信徒なら分かるだろう? 芝居で恥を掻いたとしても、アルコールやギャンブルで問題を解決することは不可能だ。芝居で返すしか無いのさ」

 もっとも。

「美しい女性と過ごす夜は、観客の前で披露する演技の次に素晴らしいものだけどね」

 ミナは艶然と微笑んだ。口元から見える白く健康的な歯が、五つ星ホテルのスィート・ルームに負けない輝きを放っている。

「貴方ならどんなレディでも『お気に召すまま』と言ったところかしら?」

「ノウ。僕は実生活じゃそれほど器用な男じゃないんだ」

 HITOSHIの返答は笑えないジョークとして受け止められた。桃色の薄い唇を可愛らしく突き出して反論を試みる。

「あら、この前ニューヨークで演ってたチェーホフの『かもめ』の千秋楽の夜公演、私も見に行ってたのをもう忘れたのかしら?」

「君があの時来ていた黒いワンピースはとても素敵だったよ」

「私は不幸な女ですからね」

『かもめ』の冒頭の台詞を、ミナはオマージュする。HITOSHIは笑ってこう答えた。

「君は本当にじゃじゃ馬のようだね、ミナ」

「では、慣らしてみたらどうかしら?」

 HITOSHIはミナにゆっくりと近づき、その服に手をかける――――。


 稽古場に、新たな声が響いた。幼さが残る高い声だが、強烈な自尊心を感覚させた。

「そこの愚物。皆の貴重な時間をお前の自己満足の為に潰すのがどれほど罪深い事なのか、少しは想像が出来ないのか? 先生はお前にそこから離れろと仰っているんだ」

 等の妄想は一瞬で撃ち砕かれた。脳内に浮かんだミナの映像が消える。ちなみにミナは、等の「想像上のパートナー」で、交際歴は約七年だ。閑話休題。

 パワー・ワードが連続した教室は、水を打ったように静まりかえった。リノリウム貼りの床のひんやりとした感触がその場にいる者達の体温を奪い、寒さを助長した。

 声を発したのは少女、というよりも、幼女であった。自然な栗色の髪の毛と青い瞳は、西洋の血筋を感じさせる。殆どの人間がジャージ姿なのに、甘ロリチックなピンクのワンピースをキメているのも場に強烈な違和感を与えている。流石に靴下姿ではあるが、複雑な刺繍と輝きを放っていて、等は「俺の持ってる一番いいジーンズより高くねえか?」と推測する。背丈は一四〇センチあるかどうかだ。

 等は、胡乱げに幼女を見下ろしてこう言った。

「何で大学に小学生がいんの?」

「私は十八歳だ。お前とは入学式でもオリエンテーションでも顔を会わせてるだろう。話しを誤魔化しても無駄だ。早くその場を去れ」

「ぅゎょぅι゛ょっょぃ」

 等は受けを狙った。場の小さな承認を狙う人間が、「面白い話しをするよ!」と前置きをしてから話し出すと自分で笑ってしまう事があるが、今の行為はそれに近い。

 イタくて、寒い人間なのだ。

 周囲の反応をチラチラと伺って、仲間を求めている。当然浅ましい作為から発生した行動は賛意を得られない。稽古場には大きな鏡が張り巡らされているが、そこに映る受講生達の顔には空気を読めない者への怒りが生まれつつある。勿論その対象は等だ。

 断定的な言葉を放ってから何も話すことのなかった男が、静かに、だが良く通る声でこう言った。

「そういうところ、なんだよなあ」

 皆の視線が、一気に男に集まる。

「君、名前なんだっけ」

 サングラスを外して、頭をぽりぽりと掻きながら男は等に尋ねた。

「あ、忘れちゃいました? やだなー、さっき芝居やる前に言ったじゃないですか、牟礼等ですよ、センセ」

「牟礼君か。君は、俳優志望なんだよね?」

「そうっすね。つうか、俳優王っすね。キングっす」

「なれないよ」

「え」

「僕は数十年間フランスで俳優学校の講師をやってきたし、若い頃は自分でも俳優を志していたんだよね。色んな人間を見てきたけど、これだけは外した事がない。俳優を目指すことそのものが間違いの人間が志望者の中にたまにいる。それは不幸な事なんだよ。君は、俳優にはなれない。芝居とは別の関わり方を模索するべきだ」

 男の言葉は真剣そのものだ。勘の鈍い等にも、冗談ではない事が伝わった。本気で人間を断ち切ろうとしているテンション。呆然としている等に男は言葉を加える。

「バカにされている、と思っているね」

「いや、どう考えてもバカにしてやがりますよね。大体、やってみないのにどうして分かるんすか」

「君には俳優として大切な資質がない」

「あの自己紹介だけで、それわかるんすか?」

 ほんの少し前、男は、一人一人の学生達に、「僕に自分をアピールしてください」と言ったのだ。等は指名もされていないのにおもむろに立ち上がり、カマしたつもりだった。何ごとも先手必勝が、彼の信念なのだ。

 男は、淡々と言った。

「芝居には、心が必要なんだよ。元々持っている者もいる。努力によって勝ち取ることが出来る者もいる。それは天分の差だ。でもね、適切な努力をする事が出来ない人間はどうしょうもない。実りようがないんだ。君は、努力をすることが出来ない人間だ」

 等が反論を試みようとした瞬間、男は大きな嘆息をした。不思議な威圧感が含まれている。等は沈黙を余儀なくされた。男は今度は優しい溜め息をついた。そして、場を等にこう言った。

「週に二度、僕も対価を貰ってこの仕事を引き受けている。君にはこれ以上時間を割けない」

だから、と言葉を続ける。

「そこを退きなさい。さぁ、次の方、どうぞ」

 助けを求めるように、等は学生達を見やるが、皆下を向いて黙っていた。

 唯一、幼女だけが等を睥睨している。低い視線から、追い打ちをかけてきた。

「同じ事を三度言わせるのか? 愚昧の極みだな。ここは俳優を真摯に志す者の、聖域だということが何故分からない」

「……おいそこの幼女。お前、ガキのくせに何を言ってくれやがりますか。センセ、コイツもどう考えても子役しか使い道なさそうじゃないっすか?」

 苦境に立たされた際、非難の矛先を他者に向けるようなそんな卑怯さが彼にはある。口を開こうとした幼女を手で制して、男が口を開いた。

「君は、彼女がどういう人間かがわかっていないんだね。彼女は演出家だ」

えんしゅつか。演劇の表現に統一と調和を与える作業をする人間。だがしかし。

「これ演技の授業っすよね。演技やる気のない人間がいるのおかしくないですか?」

「彼女にこの授業に出てくれるように頼んだのはこの私だからね。責任者の依頼にケチをつける学生がいるとは思わなかったよ。彼女は既にプロフェッショナルだよ。なぁ、ハンナ君」

 ハンナと呼ばれた幼女は、顔を赤らめた。

「過剰な褒め言葉だな。私はもう一介の大学生に過ぎない」

「過度な謙遜は学生にとっては嫌みになりかねないよ。特に、君のような才能を持つものがそれを言うのは残酷だ」

「……」

 男とハンナのやり取りに、稽古場がざわついている。

「いやいや、センセー。この幼女がプロ? ロリのプロって事ですか」

 等がそう口を挟むと、男――――、ゲンジ・タダノは呆れ果てたように、

「世界に名を轟かすスコットランドの演劇際に十四歳で招待された演出家に向けて君は何を言っているんだ。アートの世界では年齢などただの数字に過ぎない」

「辞めてくれ。私は……」

 そこまで言って、ハンナは口をつぐんだ。ゲンジは、優しくハンナを見つめる。

「君が演劇の世界に戻ってきてくれて嬉しいよ。同年代の俳優を志す者達との共同作業は、君に必ずよい影響を与えるはずだ」

「いや……私は……」

 ハンナの返事は歯切れが悪い。小さな体ゲンジは構わずに、学生たちにこう告げる。

「五月の後半に、実習発表として皆さんには一時間以内の芝居をやって頂きます。演出は、ここにいる()(うら)ハンナ君に担当して貰います。改めて言いますが、彼女はプロです。職業的な俳優を志す皆さんにとって、実りのある時間となるはずです」

 プロ、という言葉に生徒達の姿勢が伸びる。

「技術よりも、皆さんの熱意に私は期待します。ただ闇雲に情熱を見せつけるのではなく、観客に『観られる』演技を、内面から作り上げてください。私も協力を惜しみません」

 熱が、教室に伝わる。黙っていたハンナが、おそるおそると話し出す。

「授業を遮って申し訳ない。改めて――――、三浦ハンナだ。私も皆さんと共に学び、成長をしたいと願っている。授業とはいえ遊びでやるつもりはない――――、いや、芝居とは、楽しいのだ。全力で遊ぶつもりでいる。俳優を志す者といい仕事がしたい。よろしく頼む」

 言葉づかいとはうらはらに、ぴょこん、と幼い仕草で頭を下げた。一人の学生が控えめな拍手をしたことがきっかけになり、場に歓待が広がった。ハンナは少しだけ嬉しそうな表情を見せる。

 ほんの僅かにブレンドされた、憂いのこもった瞳は、場の学生達に強い印象を残した。

 そんな空気を邪魔する者が、ここに一人。

「いやー、これ勝ったな。優勝でしょ。まぁなんつーんすかね、プロだってことくらいはおれも最初に分かってたんですけどね。あえて? の外しですよね。おう、ヨロシクな幼女!」

 スっ……っと握手を促した等の声が聞こえた瞬間に、教室が静まりかえった。

 ハンナが、ゲンジと顔を合わせる。ゲンジは鷹揚に頷いた。ハンナは等に笑顔を向ける。

 デレたな。チョロいやつだ。ハンナはニッコリと微笑み、こう言った。

「この稽古場から、出て行け」


 

 棟市野(むねしの)駅の北口改札を出て、電車が埼玉県に向かってのろのろと走り出すのを追って線路沿いに歩みを進め、突き当たった一つ目の坂を上ると、朝夕のラッシュ時には近隣住民から「一時間のうち五分くらいしか開かない」と囁かれている開かずの踏切が見える。

 夜が深まるにつれて、人を通す時間も伸びていく。今現在、午後の八時ともなればストレスを感じることも無い。遮断機を目にしたら、手前で左手に身を滑らせて背の低い二階建ての古いテナントビルに入れば上下に続く階段がそれぞれ目に止まる。

 半地下を降りると、二店の居酒屋が存在する。階段の近くにあるのは自動ドアが設置された全国展開している格安チェーン店で、両店の客が共有で使用するトイレの奥に軒先を構えているのが、引き戸の上に歴史を感じさせる暖簾がかかった大衆向けと言った趣の居酒屋だ。

 硝子戸を横に引くと、棟市野美術大学、通称『ムネビ』の舞台創造学科の現役学生や卒業生のみならず、教員までが御用達にしている大衆酒場『やぐら』の店内に入る。

 東京を彩った桜の花が地に落ちきったこの季節、棟市野駅周辺は、大学の新入生を歓迎する宴で毎夜毎夜狂ったような騒ぎが巻き起こる。今夜も店内は大興奮に包まれている。

 四月には人の頭のネジを一つ二つ飛ばす魔力がある。賢人でさえ正気を失う者がいるのだから、特権的なモラトリアム期間を丸四年間も与えられた大学生にビールや冷酒を呑ませれば、簡単に大馬鹿者の集団が完成する。新入生を混ぜた集団はその傾向が顕著に見られる。

 等は中ジョッキに含まれた黄金色の液体を喉に勢いよく流し込んだその勢いのまま、揚げ物や味の濃い魚料理が所狭しと並べられたテーブルに容器をドンっ! と叩きつけた。

「意味わかんねぇですよ! 何だあの爺と幼女は」

 等を稽古場から叩き出した男は、フランスのアクトゥール・アトリエという有名な演劇学校で、演技を指導する事を許された唯一のアジア人だという。

 幼女――――。三浦ハンナは、ドイツ人の父と、日本人の母を持つ、ハーフなのだという。

フランスだかドイツだかロリだか知らねぇが、気に入らねえ、と等はひとりごちる。

 等の叫びを聴いた、リクルートスーツ姿の男は呵々と笑う。

「何お前、演技の授業出てたんだ? ウンエーが出たってどうしょうもねぇのに」

「おれは俳優になりたいんですよ……って、ちょっ、辞めてくださいよ煙いんで」

 くだを巻く等の顔に、メンソールの紫煙を吹きかけたのは男と同じく就活スーツに身を包んだ女だった。美人なのに、酔眼朦朧としている。電子煙草全盛のこのご時世だというのに、紙巻き煙草の喫煙率が異常なのが、時代遅れ感が否めない。成人学生の喫煙率ってすごく低いんじゃなかったっけ? と等は思う。流石ムネビだ。等に向かって、女はくだをまく。

「さっきから五月蠅いっつーの、こっちは就活で疲れてるんだから少しは気を使いなさいよ一年生。あと、ウンエーいる時点でそういうの無理だから諦めな」

「いや、これ新歓コンパっすよね!?」

 等の抗弁に構わずに、男女は戦場の情報交換に夢中になる。

 圧迫面接、エントリーシートは大体跳ねられる、から始まり、卒業してからの初任給、有給や退職金の有無、ボーナスが何ヶ月分あるか(出ない会社も多数)等、カネの話しに終始して、「鬱だ……」を連発し、落ち込むことに飽きたのか、ガンガンと酒を煽り、チェーン・スモーキングを始めた。

 放置された等の心は荒みっぱなしだ。屈辱からまだ五時間ほどしか経っていない。講師はあの後、熱心に指導を行った。褒められた者もいた。厳しい言葉を言われた者もいた。だが、拒絶されたのは、等だけであった。等は酔いの回ってきた頭で店内を眺めた

 目線の先にある少し離れたテーブルで場の空気を支配しているのは、馬上(うまうえ)かすみという名の三年生だ。妙に語尾を伸ばした喋る方をする。

 黒曜石の如き輝きを放つ黒髪は、背の辺りでほんの少しだけウェーブがかかっている。ぱっつんに切られた前髪の下には、上品に整えられた眉が添えられていて、一見、清楚を絵に描いたような容姿をしているのだが、両の眼は蠱惑的な輝きに満ちている。アルコールの影響か、白い肌を桜色に染めて、周囲の異性に媚態を振りまくその様を、等はこう形容した。

 シー・イズ・ア・ビッチ。

 欧米諸国で声に出したら国際問題に発展しかねない言葉を独りごちた等であったが、出来れば自分もかすみの席に混ざりたいと考えていた。何せ、かすみが四方に侍らせている全員が等の同級生、舞台創造学科運営コースの一年生達だからだ。

 高校卒業後、一浪をしている等だが、同窓の男メンツにはわりと素直に好感を持っている。共通の経験は人間関係をより強固にする、という事を人生経験から等は学んでいた。大学生活は出来れば楽しい方がいい。親睦を深められるチャンスだ。問題は席の空きがない事である。

 仲間に混ぜて欲しい、という願いを込めて念力を飛ばすと、同級生の一人、全体的にラージサイズの服をつけて安っぽいアクセサリーを首からじゃらつかせている三上亘(みかみわたる)から、おめーの席ねーから! と、言わんばかりのメンチが切られた。等は暴力の匂いに怯む。次の瞬間、

 かすみの甘い声が等の耳朶を打った。三上の眼力から必死に逃げて目線を声の方向に向けると、最年長の同級生、(くし)()(そう)(すけ)といちゃこらしている。

「ボクの事は名字じゃ無くてー、下の名前で呼んでくれたら嬉しいなー」

「え? 馬上先輩マジすか」

「冗談でこんな事言わないよー。こんな醜女(しこめ)を名前で呼ぶのは嫌かなー?」

「嫌なはずないですって。いいんですか? えーと、じゃあ、かすみ……先輩」

「あ、なんかー、今ー、胸の奥の方がー、きゅんってした…」

「きゅん、ですか?」

「あははー、変かなー? おねーさんなのにねー」

 かわいらしく照れだしたかすみを見て、全員がざわつきだしだ。

 ヤンキー然としているがモテそうな串田は調子に乗ったのか、こんな言葉を続けた。

「あの……ママって呼んでもいいっすか?」

 等はその言葉にビックリする。三上も串田もいかついが、三上が何処か朴訥とした雰囲気を持っているのに対して、串田からは千葉や埼玉の中心部、東京でのアクセスが容易な都市のヤンキーが持つ独特の圧を感覚していたから、意外だった。

 いや、と等は考え直す。アメリカのヒップホップミュージシャンのマザコン率が異常なように、ヤンキーだって家族が大好きじゃないか! 偏見に近い言葉が頭の中で駆け巡って、思考回路がショートしかけたとき、またかすみの声が聞こえて来た・

「ママー? えー、どうしよー」

 もじもじと身をくねらせている。酒でほんのりと赤みがった肌や、揺れる黒髪がエロい。等は三浦ハンナが昼間にした同じ動作と比較する。幼女よ、残念だったな。お前はこの域に達することはないだろう、と等は心で手を合わせる。かすみはたっぷり焦らしてからこう言った。

「一人だけだと不公平だからー、みんながかすみをママにしてくれるんならー、いーよー」

 その時等は、同級生達の背後から情欲の炎が立ち上るのを見た。比喩的にではなく、リアルな映像として、蒼と朱が入りまじった(ほむら)が見えたのだ。三上や串田だけでなく、学年一の巨漢である()(もと)(たか)(のり)と、大きな黒縁メガネをかけた(あら)()(しよう)(へい)からも焔が燃えさかっている。

「?」

 酔いが回りすぎたのだろうか。等はオヤジくさく、まだ温もりが残っているおしぼりを目に当てて、目をつむったまま首をぶん、と振る。

 瞳をひらくと、火は消えている。意味が分からない。アニメか。混乱する等を気にとめる人間は誰もいない。ママ宣言に、一年生達は沸いた。

「ままー」「バブいっ!」「出会ったときに思いました。あなたは俺の母になってくれるかもしれない女性だと」「心が子宮に戻っていくようだ……」「かすみお母さん! もう一度僕を妊娠してください!」 

 思いの丈をぶちまけていく後輩たちをよしよしとあやしながら、かすみは慈愛に満ちた笑顔を振る舞っている。手元には居酒屋に不似合いなワイングラスがあった。目の前に置かれた氷で冷やされたワインの瓶。

 等が幻視のインパクトから立ち直れずに呆然としていると、煙をふきかけてきた四年生が舌打ちと共に等に忠告を挟んだ。

「またあのカスい女大人気だわぁ。アンタも気をつけなさいよ。アレ、ヤバい女だから」

カスい、とは酷い形容だが、真剣なテンションでそんなことを言われると、どんな人間なのか気になってしまう。

「ヤバいって何ですか。訳わかんねーんでサックリ教えろくださいよ」

「アンタ就活苦労するぞそれ」

「サクッと在学中にデビューするんで就活しねぇっすわ。いいから詳しく頼んます」

 四年生は緑色の箱から新しい煙草を取り出して火を付けると、橙の灯がともる天井に向けて大きく煙を吐いた。

「一年の時はあんなんじゃ無かったんだけどね。酒は成人するまでは絶対飲めません、つってたし、服もダサいし地味だったんだよ」

「え、でもめっちゃ可愛いじゃないっすか。酒もクイクイ飲んでません?」

「いや、だから酒なんだよ。あいつ、飲むようになっていきなり変わったんだよね。完全に別人。最初はキャラチェンジかって皆笑ってんだけど、急にモテだした」

「それ、モテないパイセンの僻みって事でよいです? 等のここ、空いてますよ」

 等が自らの脇にスペースがあることを示すと、火の付いた煙草が飛んできた。

「ちょっ! 熱っ! 傷害罪だからそれ!」

「アンタほんと、その性格どうにかしろよ」

「反省してまーす」

 当然、嘘だった。反省してますの前には小声で「うっせぇな」が挟まっている。四年生は等の目の前に落ちた煙草を拾ってまた大きく煙を吸い込むと、

「アレ毒婦だから。気をつけろよ。狂わされるからね」

 真剣な表情で、そう言った。

 毒婦。等がその現代的ではない言葉の響きに戸惑っていると、いらっしゃいませ、という声と共に店内に歓待が広まる。視線を向けるとスーツ姿の中年が立っている。クマセン、クマーと学生達から気安く声をかけられているというのに、ニコニコと微笑んでいる。

「やーやー、今年も皆さんヨロシク」

 運営コースの指導教授、(くま)(くら)()(ろう)はそう言いながら、酒席を一望できる上座に腰を下ろした。コンパの幹事が、ビールの入ったグラスを片手に、声を張った。

「はーい、みんな注目してください。熊倉先生から一言頂きたいとおもいまーす。じゃ、先生お願いしまーす」

 店内はコースの貸し切り状態であるため、従業員を除く全ての瞳が老人一歩手前の中年に注がれることとなった。熊倉は咳払いを一つしてから、こう言った。

「あー、どうも。新入生の皆さんにも何度かお目にかかっていますが、舞台創造学科で教授を務めております熊倉です。あらためまして、入学おめでとう。えー、我が運営コースですが、一部では舞台創造学科のスリザ○ンなどと言われているみたいですね」

 店内に卑屈な笑いが満ちた。彼らの所属しているコースがベストセラーファンタジー小説の闇の魔術に精通した学生を集めた寮に例えられているという事は、周知の事実なのだ。

「創作や表現を手助けする人もまた舞台創造の上では欠かせない、という事実は見逃してはいけません。消費行動も同様です。我々の専門、企画や制作と言った部分は花形ではありませんが、消費をしてくれる観客と一番近い所にいるのは、私たちなのです」

 せんせー、おれらの学費、殆どが大学の木の植え替えに化けてるって本当ですか? と酔っ払った二年生からのヤジが飛ぶ。熊倉は苦笑を浮かべる。

「そういう噂を君達から直接指摘されるとは思っていませんでした。ただ、今年から、そう言った風評が流布することはもう無くなると思いますよ」

 熊倉の口ぶりに、冷やかしの目を向けていた学生達が関心を示した。

「今年の秋に、中ホールの解体記念公演があるのは皆さんご存じでしょう」

 等は、こそっと隣の先輩に伺いを立てる。

「中ホールってなんすか」

「アンタねぇ……入学式の後学科ごとにで集められた劇場あるでしょうが」

「あーあのぼろっちい」

「あんまそれ人前で言うなよ……」

 居酒屋は喧噪に満ちていたが、二人の会話を耳ざとく聞きつけた熊倉が反応する。

「そこの男の子、君は……」

「うっす。無礼等です。在学中にプロの舞台俳優、つうか俳優王になって中退するんでヨロシクです」

『やぐら』の店内に、いたたまれない空気が流れる。皆、恥ずかしそうに顔を伏せている。

 熊倉は笑ってこう言った。

「では君は何で俳優コースに入らなかったのですか?」

「えっ、いやそれは、あれっすよ。まぁ見識を色々深めてっていうか」

「運営コースは、ムネビの中でも入学が容易ですからね」

 酒の勢いも手伝ってか、店内の自虐的な笑いは加速している。

 舞台創造コースの花形、俳優コースの一般受験の倍率は十倍倍近い。某西の歌劇団ほどではないが、俳優要請のための教育機関としては、かなりの難関であることは間違いない。

 運営コースの倍率は二倍を切っている。ムネビ、最も入学がし易いコースなのだ。

「おれたちは最初から『やる側』の人間じゃないんだってお前早めに気づいとけよなー」

 三年生の男子の野次に、一年生以外の殆どの人間が賛意を示す。

「ムネビのブランド使ってー、就職すんのが一番いいんだって。早めに折れといた方が得だよ?」

 四年生の女子の一人がそう言った。ムネビのブランド。実際、ムネビ出身の有名人は多い。著名人だけでなく、所謂表現全般の業界に対して、一種の影響力を持っているのも事実だ。

 運営コースの面々も最初から一般就職を希望している者ばかりではない。出会いを、チャンスを、表現者になる事を理想に掲げて大学に入って来る者が殆どなのだ。

 だが、ムネビに入ると、殆どの人間は残酷な事実に躓く。才能を持つ一握りの学生との彼我の差を。才能があるからと言って、表現で生計を立てられる人間など殆どいない、という事を。

「じゃあなんすか、ウンエーは何もやんなって事ですか」

 等がむくれてると、熊倉が言葉を挟んだ。

「そうではありません。寧ろ、今こそが運営コースの存在感を示すときなのです。話しを戻しましょう。解体記念公演のタイトルは『グッドバイ・中ホール』です。演目も、俳優も、演出も、何もかもがまだ決まっていません。何故だと思います?」

 熊倉は、幹事の二年に唐突にそう語りかけた。不意を突かれた幹事は思わず本音が漏れた。

「え、ぶっちゃけ決定してる取り壊しに、反発してるOBばっかだからですよね」

 熊倉は嘆息して答えた。

「そうです。昭和の時代から五十年近く舞台創造コースの発表の場として使われてきた中ホールが無くなる事への心情的な反発は、非常に大きいのです。理事会は、取り壊しの中断を現在検討しています」

「は? 新しいホール立て直すって話しにもう何年も前に決まってんのにそんなことありえますか?」 

「本来なら有り得ません。ただ、OBの声を無視はできず、二年ほど前に耐震テストをした際、老朽化している劇場としてはあり得ない程の強度があることが分かったのです。設備も古いものばかりなのに、現役で使用するに耐えるものばかりでした。大学も出費は抑えたいのです」

「三十年くらい幽霊出るって言わてるあのボロホールが、ですか?」

 チューホーさん成仏させてあげなくていいんすか! という野次が飛ぶ。等は隣の四年生にチューホーさんとは誰かと尋ねた。

 どうやら、三十年以上前に中ホールで事故死した女学生がいたらしい。以降、ホールには幽霊が出る、とまことしやかに囁かれるようになったとの事。

「あんまバカにすんなよ。フツーに出るし、公演前は酒を神棚に捧ぐのが慣例だからね」

「ほーん」

 熊倉は、こう言った。

「あの事故は……本当に、痛ましいものでした。私も、当時は学生でしたからね」

少しだけ、店内がしん、と静まりかえる。

 話しを戻しますよと断りを入れてこう言った。

「やはり、温故知新がよいのです。演目は古典だとしても、劇場は時代と寄り添うべきだと考えています。しかし、それを私たちが決めてよいのかどうか、という所で理事会は紛糾しました。そこで、学生達に、コンペをして貰う事になりました」

「コンペ、ですか?」

「中ホールを取り壊したらよいのか、存続させる方がよいのか、君達が決められるということです。有志でグループを作って頂きます。賛成・反対どちらでも構いませんし、双方数は問いません。俳優は主演を一人立てて頂ければ構いません。ただ、スタッフを一通り揃えて、六月末にプレゼンテーションをして貰います」

 等が話しに割って入る。

「で、それが、ウンエーとどう関係あるんすか」

「今まで中ホールを使った公演で、企画制作以外には運営コースは不干渉でした。スタッフコースや、俳優コースの面子がありますからね。ただ、それでは従来と何も変わらない。なので、今回はコースの括りは撤廃します。学科長の私が、他の教授の反対を押し切りました」

「って事は、おれが主役やるチャンスがあるって事っすか!」

店内を嘲笑が包んだ。熊倉は苦笑いを浮かべる。

「可能性はあります。あくまでも、実際の公演では無く、プレゼンで勝負をして頂きます。条件はメインクレジットされるスタッフを全て舞台創造科の学生で固めること。サブスタッフであれば外部の協力者は可とします」

「へ? 実際芝居やんないんすか?」

「プレゼンで勝ち残ったグループ一つのみ秋の解体記念公演で公演をして頂きます。勿論、存続が決まれば、存続記念公演ですが。芝居の面白さを競うものではありません。あくまでも、ムネビのこれからを、あなたたちがどうしたいのか、というヴィジョンを見せて頂く勝負です」

 運営コースは、建前上演劇プロデューサーを育成するコース、という事になっている。

「有志が集まらない可能性を考慮して、プレゼンテーションの勝者グループには、六〇万円ほどの奨励金を出すことも決定しています。学部の教授達が一口ずつ協力をしてくれました」

生々しい金額に、コースの面々がどよめいた。学生にはちょっとした大金だ。

こほん、と熊倉は咳払いをした。

「どうも歳を取ると話しが長くなっていけませんね。ただ、これは舞台創造学科の中で、日陰者のイメージがつきまとうあなたたちが、決定的な仕事をするチャンスです。コースの担当として、健闘を祈ります。では――――、乾杯」

 熊倉がグラスを上げると、皆が慌てて動作を真似て、声が重なった。

 自分たちにも、何かが出来るかも、という期待の空気がかすかに存在した。

 等はこう呟いた。

「これは……おれが主役を演じて優勝だな……」

 店員がビールをピッチャーで運んできた。等は液体の入った大きな容器を持ち上げると、周囲の制止を振り切って、一気に口腔に叩きつけて、優勝だ! と雄叫びを上げる。

 夜は、これからが本番なのだ。


 

 棟市野駅の南口は学生達の聖地だ。典型的な学生街である駅周辺には、ムネビを含めて三つの大学が存在する。棟市野音科大学、通称『ムネオン』に通称『イナホ』こと稲穂大学。長い歴史の中で、三者はそれぞれ暗黙の了承のもと、棲み分けをするようになった。

 ざっくりと言えば、ちょっとオシャレなカフェや飲食店はムネオンの領土で、全国規模で展開されるようなチェーン店で幅を利かせるのはイナホの人間で、昔から棟市野の街に存在する古い店を縄張りにするのはムネビの学生だ。

 ムネビ生は、概して「自分たちこそが古くからある街の経済に貢献している」という自負を持ちたがる傾向にあり、駅周辺でここは自分たちの領土だ、とでも言いたげな振る舞いを他の大学にすることがある。芸術を学ぶ学生達は、意外と保守的だったりもするのだ。

 故に、決して広くない南口は、ムネビの学生達の独壇場と化していた。

 ムネビは美術大学だが、学科は細分化されていて、一つ一つが舞台創造コースにおける『やぐら』のようなひいきの店を持っている。

 駅の名前を記した看板が中空に煌々と光っているが、その明かりに吸い寄せられる羽虫のように、学生達は飛び回っている。

 喚きながらスマホをで自分たちを撮影する者、中高時代のトラウマがアルコールによって蘇ったのだろうか、誰も聞いてない自分語りをいきなり始める者、異性と近づくために策を弄する者(成功するのはイケメンか可愛い女子だけだが)等、フリーダムな様相を呈している。

 そんな中、等は完全に出来上がっていた。顔面は紅潮し、目は濁り、ろれつは回らず、真っ直ぐに歩くことが困難になりつつあるようだ。

「次どこ行くんすかつぎー!」

 等は大声で尋ねた。手には駅前のコンビニで買い求めた発泡酒の缶が握りしめられている。

 他の一年生も、かすみを中心に興奮状態に突入していた。「ママを讃えよ!」とはしゃぎながら、スマホで記念撮影を始めている。ネットライブ放送でも始めそうな勢いだった。

 新歓コンパとは言え、上級生達からすれば全くもって面白くない状況が続いていた。

 救いは一年生の女子三人が酒の場にも大学生活にも慣れておらず、皆いい娘である、ということだけだ。かすみと一年生の男子は、三十人を超える集団の中で、完全に邪魔者だった。

 そそくさと一本締めを行うと「じゃ、後は仲の良いもの同士で」とかすみと一年男子に告げて、その場を後にした。熊倉も彼らについていってしまった。かすみとその従者達は、自分たちが取り残されたことに気がついていない。

 等はまだかすみと挨拶すら交わせていなかった。他の四人がブロックをしていて、近づくことが出来ないでいたが、絡む人間がいなくなってしまった以上、これ以上迷っていても孤独になるだけだ。そう泥酔の中判断をして景気を付けるために、発泡酒の残りを一気に飲み下した。少し離れてたむろするかすみ達に、グングンと近づき、

「うぇーい、そろそろおれも混ぜろよー」

 板に付かないウェイ系の口調で、仲間に入れて貰おうと画策した。が。

 絶対零度の拒否反応が、八つの瞳から帰ってきた。ものを言わずに拒絶をしているのが、完全にガチを感じさせた。かすみも先ほどまでの饒舌と打って変わり、黙って等を眺めている。

 これはちょっといくらなんでも、四年間を共に過ごす同期の桜に、当たりがキツすぎやしないだろうか。

「え……いや、なんか、おれ今空気読めてない?」

 受け入れなかった事による怒りよりも、自分は何か致命的な事をやらかしてしまったのではないか? という恐怖を無礼と鈍感と傲慢を地で行く等も理解しはじめていたのだ。

 ゆらっ……と同級生達が、身体を等のいる方向に向けて動かす。

 静かな動きの中に、暴力の匂いがした。

 殴られる。半ばそう覚悟を決めたところで、

「ボクちょっと酔っちゃったみたいだからー、誰かお水買ってきてくれないかなー?」

 かすみの声に対しての、一年メンズのリアクションは超速だった。全員が全員、自分が買ってくると主張して、大役を他者に譲る姿勢を見せなかった。お嬢様にかしづく執事のようだった。執事としてのルックスに相応しいのは串田ぐらいだが、ヤンキールックなのが惜しいと等は感じる。

 かのお嬢様は牟市野駅のドラッグストアには置いていないフランス製の硬水と、薬剤師がいないと販売許可がおりない鎮痛剤と、大手のゲームセンターにしか置いていないクレーンゲームの景品を所望した。ちなみに女児向けアニメのキャラクターがプリントされた、キーホルダーであった。理由は「急に顔が見たくなったので」とのこと。

 どう考えても無理難題なのだが、等以外の男全員がミッション達成に燃えだした。

「こんなこと、キミ達にしか頼めないー」の一言でテンションはマックスまでブチ上がり、気炎を上げて彼らは棟市野から池袋を目指して、改札口までの階段を駆け上がっていった。

 南口に残された運営コースの人間は、二人だけになった。等は、狐につままれたような顔をしている。

 あれだけおれが場に侵入するのを嫌がっていたのに、こんなに簡単に二人きりの状況を許すだなんて、言動に一貫性がなさ過ぎるのではないか。

 かすみと接近する、という飲み会が始まってからの願いが叶ったにも関わらず、展開の不合理さに等はついていけずにいる。すると。

「あれー、二人っきりになっちゃったねー」

 嬉しそうな声で、かすみが声をかけてきた。等は、酒と不条理のダブルパンチでクラクラしていて、「そうっすね」と小さく呟くしか出来なかった。

 唐突に等の頭にふわっとした感触が伝わる。

 かすみが、手を伸ばして頭を撫ではじめたのだ。

「酔っちゃったんだねー。大丈夫ー? ダメだよねー? ちょっと休まなきゃだよねー?」

 返答に困っていると、こう言葉を重ねてきた。

「うち、近いからー、ちょっと寄っていきなよー」

 棟市野の夜は、更にふけていく。



等の酔っ払った頭に、シャワーの音が鳴っている。

 ガーリッシュなデザインのマグカップを両手に持ちながら、等はある確信を持っていた。

 幼年期が終わり、少年が大人になる時がやってきた。端的に言えば、

 致せる。つまりグッドバイ・チェリー。ボーイではなくなってしまったのが残念だが、何ごとにつけても凡庸な言葉で自らを鼓舞する癖のある等は、「遅すぎるなんてことはない」と気を持ち直した。ちなみに、「明けない夜はない」とか「日は又昇る」とかもよく使う。

 だが今回ばかりは等の思考は見当外れとも言えない。と、言うよりも。

 状況的にそうとしか考えられなかった。他の一年生との絡みつつも、要するに自分の事が気になっていたのだ。

 この部屋に来る道すがら、かすみはやたらと「大丈夫ー?」を連発し、等の手を自ら引いてきたり、背中をさすったりを繰り返してきた。

 手の動きが、扇情的なものに感じられたのは、酔いのせいだけではないだろう。どう考えてもある種の交渉を前提としている、と等は思った。

かすみは「これでも飲んでてー」と素早く白湯を作ると、酔いを覚ますと言ってバスルームに直行した。致すのであれば身を清めるのは理屈が通っている。

 上手く致せるかどうか。それだけが問題だった。自信は全くなかった。

 かすみの部屋は棟市野駅北口からムネオン方向に坂道を少し下りた音楽スタジオが一階にあるビルの五階で、学生の身分にはそれなりに贅沢な作りに思えた。

 フローリングの八畳間にこぢんまりとしたリビングとダイニングキッチンが添え付けられ、風呂とトイレが別になっている。一階のスタジオは電子楽器を主とする類の音楽用ではなく、クラシックピアノ用のスタジオのようで、マンションはオートロックで防音もしっかりしているようだ。

 音楽の専門大学がある街らしく、この手の物件が山の手の相場よりもかなり安く借りられるのも、棟市野の特徴だ。

 とは言え、流石にこれだけの物件であれば、牟礼市野価格でも家賃は七万円を超えるのではないだろうか。同期の地方出身者は三上亘だけだが、仕送りはかなり厳しいと聞く。

 ムネビの学費はハッキリ言えば異常に高い。諸般の事情を鑑みた上で、等は現状をこのように理解した。

 馬上かすみの家はかなりのお金持ちだ。

 金持ちの令嬢と致した結果として、学生の身分では責任の取りようのない事態が引き起こる可能性はあるが、おそらくは大丈夫だろう、と等は見積もっていた。何故なら、彼の財布には、真新しい薄いゴム製の袋が常時二つ入っているからだ。

 高校二年生の時から、三年目に突入したこの習慣にかかった費用は、結構なものであった。

 当たり前だが、今までに袋を実戦で使用したことはない。そもそも、高校を出るまでは使用行為そのものが条例違反だ。だが、

「時は来た――――、それだけだ」

 等はそう呟いて、震える心を落ち着けようとした。ややあって、キュッっという音が聞こえてきた。シャワーが終わったらしい。スマホで時刻を確認すると、部屋に入ってから数十分ほどが立っていることに気がついた。女性ってシャワーにもこんなに時間をかけるんだな……と等は、生唾を呑む。

 リビングへ繋がる部屋の扉は閉められているが、その先には一糸まとわぬ姿のかすみがいるのだ。緊張は、ピークに達しようとしている。

「眠っちゃったりしてないよねー」

 彼方からかすみがそう問いかけてきた。今、部屋着に着替えているのかもしれない。妄想が止まらなかった。

「ギ……ギンギンっすよ! ギンギンっ!」

 うかつな言葉が口をついた。

「そっかー。元気があるのはいいことだー。酔いは少しは覚めたー?」

 呑気な言葉が帰ってきた。元気すぎて痛いくらいだった。

「全然余裕ですよ。つーか酒飲みてえっすね」

「えー、若いから回復力もすごいんだねー」

 回復というか、収まって欲しいが無理そうだ。等の脳は、全ての言葉をえっちな解釈をする翻訳ツールになりつつある。

「ねーねー、じゃあ、ちょっとこっちおいでよー」

 かすみがそう呼びかけてきた。等は、今立ち上がるとこう、膨らみとかがバレてしまうのではないだろうか? と不安を感じるが、試しに立ち上がると特段違和感は感じなかった。器を知り、悲しかった。

 飲みかけの白湯が入ったカップを片手に等は扉を開ける。

 

 目に飛び込んで来たのは、爬虫類。巨大なヘビを枕に、弛緩しているかすみがそこにいた。


「あ、来た来た。じゃー、ボクと飲みなおそうー」

 にぱっと、人なつっこい笑顔を作る。

 等の身体は完全に固まっていた。手にした容器を落としそうになったが、すんでの所で指に力を込めることに成功した。一部の固まった部位だけが、急速に萎んでいく。何か言わなくては。だが、言葉が出てこない。

 かすみの全身を覆い尽くしているこのヘビは、一体何処にいたんだ? 

 薄いキャミソールとショートパンツ姿のかすみの目はとろんとしていて、相当に酒が廻っていることが伺える。そういえば、『やぐら』でも相当飲んでいたな、と酒席を反芻する。

 気の利いた何かを言わねばなるまい。素敵なサムシングを。等は白湯を飲み干してから、

「は虫類好きってキャラ立ってるっすね! サブカル感あってフツーじゃない私を上手に演出が出来てる感じがしますよ!」

 グっ! と親指を立てた。

「あははー、キミー、空気読めないってよく言われるでしょー?」

 相好を崩したまま、そう答えた。起き上がると、冷蔵庫を開けて、ワインボトルとコップを一つ持って来る。

「家呑みだから、適当でいいよねー? キミはそのお湯飲んでそのまま使ってくれる?」

「あー、意外とズボラなんすね。おけっす」

「ひどーい。ボク、繊細なんだけどなー」

「またまたー、その一人称もキャラ付けが過剰ですよ。変人アッピールきっついなー」

「もー、もー」

 等のマグにワインを注ぎ、頬を膨らませてぽかぽか殴るフリをしてくる。可愛らしい。ただ、とぐろを巻いているヘビが異常に怖い。怖いが、これ以上触れるのは辞めよう。見えないものとして扱うことに等は決める。

かすみは自らのコップになみなみと赤ワインを注いで、くいっと飲み干す。

「先輩ワイン好きっすね。店でもずっとワインだったし」

「んー? だってね、ワインを作ったのはボクだからねー」

 またなんかおかしなこと言ってるな。だが、とりあえず女子の言うことは全肯定しておけばよいとまとめサイトに書いてあったので、適当な相づちを繰り返した。

 かすみは、もう一杯赤い液体を胃に収めた。こくこくと白い喉が上下するのが、なまめかしくて目のやり場に困る。あんまりガン見するのもどうなんだろう、と等は先ほど存在を無視すると誓ったはずの、ヘビを眺めてしまう。

 感情という言葉を当てはめるのが難しい、空虚な瞳がそこにはあった。

 獲物を求めているかのように、チロチロと舌を出している。生物としての戦力差を感じずにはいられなかった。かすみがまたヘビにしなだれかかるが、人間を簡単に呑み込んでしまいそうな巨体の持ち主は一切の抵抗を示さない。

 等のスマホが音を立てる。ディスプレイには三上亘の名前が表示されてる。

「出ないのー?」

 今通話をしたら、如何なる罵倒をされるか分かったモノではない、と判断して等はスマホの電源を切る。

「母親っす。あんま遅くなると心配して電話入れてくるんすよ」

「いいお母さんじゃーん。でも、帰っちゃやだなー」

 嘘だ。牟礼家は放任主義である。等の確信はより深まっていく。この女……誘ってやがる!

「飲み足りないんで大丈夫っすよ。余裕っす」

「でもでもー、キミ、ワイン呑んでないじゃんー」

確かに、等は液体に口をつけていなかった。酒飲みにも得手不得手はある。等にとってワインとは、悪酔いをもたらすものだ。

「実は結構苦手なんすよね」

 正直に口にする。出来ればワイン以外の酒が呑みたい。かすみは、ぷうっと頬を膨らませてこう言った。

「美味しいのにー。ちょっとキミ、こっち来なさいー」

 ヘビの身体を、ぽんぽんと叩いた。

 等はたじろいだ。人間は見たくないものは見ないと言うが嘘だ。ヘビ、超でけえ。

「先輩をさみしがらせちゃダメだよ?」

 虎穴に入らずんば虎児を得ずという言葉を思い出したが、ヘビの側に行かねば、事を成せぬということであれば行くしかない。覚悟してかすみの側に腰を下ろした。

 ふしゅう、というヘビの息づかいを感じる。怖い。

「ん、よしよしー。よく来たねー。ご褒美をあげようー」

 かすみはそう言うと、等に向き直り、ワインを口に含み――――。

 キスをして、液体を口移した。

「ッッ!」

 ワインの度数はそれほど高くはない。なのに、等の喉は、火傷しそうなくらいに熱い。

「んっ……」

 かすみが吐息を漏らす。液体を全て等に移し、唇を強く押しつけた。

 こくっ、こくっと喉が鳴り、等の胃の腑にワインが落ちた。

 等は自らの内面に、炎が燃え上がっているような気がした。

かすみが唇を離す。目は、情欲の火がついている。

 これはいける。そう判断し、等が自分から唇を重ねようとした、その時。

 かすみの身の下にいたヘビが、凄まじい速度で等に巻き付いてきた。

「えっ? あ、痛っ! いってえええええ!」

 ヘビは等の太ももの辺りを締め付けている。人生で経験のしたことのない痛みが走った。

「ウロぼう、あんまり痛くしないであげてねー」

 かすみは等に向けてそう語りかける。ウロぼうとは、誰だ?

「こんなヤツにママが唇を重ねる価値なんてないよ!」

ヘビが人語を操っている。しかも、子どものように甲高い声だ。

 人間は想像も出来なかった事態に直面したときに笑うことがあるという。

 等も思わず笑ってしまっていた。夢を見ているか、それとも自分が未明の世界に突入しているか、そのどちらかだ。かすみがヘビに向かって言葉を返す。

「んー、でもしょうがないかなー。彼でしょ、チューホーちゃんが言ってた『鍵』ってー」

「全くもう! こんな無礼なクズに『エリシュオン』への扉が開けるなんて、オイラには信じられないね!」

「まぁまぁ。もうボクもほぼほぼ人間になっちゃったしねー。彼には頑張って貰おー。とりあえず痛いのやめたげてー」

拘束力が弱まり、ようやく等は痛みから解放される。心を落ち着けてこう言った。

「えっ、なにこれ。中の人どこ?」

「オイラに中のひとなどいない! 呑み込むぞ! 人間!」

 ウロぼうと呼ばれたヘビの声は、小学生くらいの男の子に近い。痛みはないが、動くことは不可能だ。かすみは笑ってこう言った。

「キミほんと人間性がどうしょうもないんだねー。まぁいいや。えーとねー、キミには二つ選択肢があるんだけどー、一つはボクのお願いを聞いて頑張るかー、もう一つは、ちょっとファニーな精神状態になって一生を過ごすかなんだよねー」

 言葉はわかるが、意味を咀嚼することは難しかった。今、何て? 等はこう言った。

「三つ目は幸せなキスをして終了っすかね」

 脚にまた、激痛が走る。

「いたいいたいいたいいたいすんませんでしたすんませんまじかんべんしてくだっ……ひぃぎぃいいいいいいいいいっ」

 完全に雑魚キャラであった。涙と鼻水が、顔から噴き出た。

「逃げても無駄だよー。キミには『種』を仕込んだからねー。残念だけど選んで貰うよー」

 何を言ってるんだこのおかしなおねーさんは。

「……これ、なんなんすかマジで……家帰りてぇんで帰してくれませんかね……」

「うんうん、おかーさん心配しちゃうしねー。とりあえず言うこと聞いてくれたら帰してあげるよー。ボクも眠いしー」

「……訴えますよ」

「だからー、訴える前にファニーになっちゃんだってー。試してみるー?」

 かすみが指をパチっと鳴らした瞬間に、

 等は、

   自分を

     失った。

 

 

 もう一度、指が鳴る音を聞いたとき、本能で悟る。

 自分の事が、分からなくなってしまう事ほど、おそろしいものはない。

「わかったー? 言うこと聞くー?」

 力なく首肯する。理屈ではない部分で、逆らえないと感じる。

「……なに、すればいいんすか?」

「そんなにビビんないでよー。クマせんが言ってたやつ、アレだよー」

 ちょっと前の『やぐら』の出来事が、遠い過去のようだ。かすみは、等にこう言った。

「ボクは神の生まれ変わりなんだー。知ってるかなー。『ディオニソス』って言うんだよー。中ホールにはーボクがいた世界と繋がる『扉』があってねー」

「……先輩ってアレですか、あの、アニメとか好きな人ですか」

 等の精一杯の皮肉は、完全に無視される。

「でー、『扉』を管理してるのは、キミ達の言葉で言うと『幽霊』なんだけどー、困ったことに中ホールが無くなっちゃうと、『扉』も一緒に消滅しちゃうって言ってんだよねー」

「……」

「でー、ボクは元の世界に戻って『エリュシオン』で愉快に暮らしたいわけなんだけどー、困ったことに、中ホールで輝かないと、扉は開かないんだー」

 なるほど。自分はもう、大分おかしくなってるな。

「牟礼等くん、キミにはボクを主演女優としてプロデュースして貰うよー。よろしくねー」

 かすみはニッコリと笑って右手を差し出した。等は、この人は頭はおかしいけど笑顔はメチャクチャ可愛いな、と萌えてしまう。

 少しだけ自由に動く首を巡らせて、備え付きの小さな窓から空を見ようとしたけど、視界に入るのは、隣のビルの壁面だけだった

主人公の性格はほぼ俺です。

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