才能なんて気にしない
2017年に別名でGA文庫大賞予選通過した作品です。演劇とギリシャ神話モノですね。
プロロゴス
「金をいくら積んでもいい」
神である私の眼前で、男は目の色を変えてそう言った。
気色ばんでいるのは双眸だけではない。贅の限りを尽くした衣服に包まれたレスリングで鍛え上げられた巨軀が、性の愉悦を知るために震えている。
人間とは愚かな生き物だ。
この男は人の身にしては賢しいところもある。それは私も認めている。
だが、それは本当の意味での知恵ではない。
私を愚弄した罪は重い。死をもってあがなって貰う。
雄々しい事だけが誇りのこの生き物でも、冥界に落ちれば気がつくだろう。
何を? と問われればこう答えよう。
私――――、我々が人にとって最大の恐怖を与えるものであると同時に、最も優しいものであるという、天地が生まれて以来の普遍かつ永久の真理を、だ。
幾つかの言葉をやり取りし、男が屋敷に戻るのを見届けてから信女達に命を与えて、王の住処に足を踏み入れた。約束通り、一国の長たる男の着付けを手伝ってやろう。
罠にかかった男の瞳は、今や蕩けきっている。ドレスを着込ませ、冠を被せ、松かさの杖を手渡して、「女」に変えるのは造作もない事だった。この者の死を肴に葡萄酒を啜るまであと少しだ。私は心の中でほくそ笑んで、男に声をかける。
「王よ、とてもよくお似合いです」
「おお……そうか……」
男は茫洋とした声でそう答えると、我が信女達の真似をして頭を天に突き上げて踊り狂いだした。巨体が揺れる度に床に振動が伝播する。仕込みはこの程度で十分だろう。もう笑いを隠す必要はない。私はにっこりと微笑んで踵を返す。男が踊っている姿などこれ以上見るに値しない。屋敷を出て頃合いを見ておびき寄せればよい。門に歩みを進めるとしよう。
ふいに。
空気が歪められたような音が背後から私の耳を打った。不穏を予感させる響き。不穏? いや、私が人との関わりの中で不安を感じる――――? そんなことが有るはずがない。思考をうち捨てた、その直後。
「人間を舐めるなよ。できそこないの神、ディオニュソスよ」
背後から男の声が聞こえた。すると、唐突に。
闇が――――。全ての始まりである混沌を感じさせる暗黒の気配が周囲に纏わりついた。私の肉体が一瞬で方向感覚を失う。視界がぐにゃりと歪んだ。思わず、声が出た。
「なっ!?」
身体が意思に反して浮かび上がる。体が少しずつ男に近づいていくのを感覚した。
全知全能の父が人と契りを結んだ結果として私が世界に産み落とされてから、味わった事のない――――否、父ゼウスの不貞に怒った正妻ヘラの力によって、一度だけ感覚した感情が――――わき上がってくる。しかし、その感情に付ける名前を思い出すことはできない。
人間の分際でヘラと同様の力を持つことなど、有り得るはずはない。この男は、必ず殺さなければいけない。そう心に念じて、私は大音声を屋敷に轟かせた。
「おおおおおおおおおおおお!」
咆哮を上げて力――――゛神性〟を振り絞り、男と相対することに成功する。
だが、体を自分の意思で動かすことはできない。まるで見えない鎖に磔にされたような感覚だ。
勝ち誇り、笑みを顔に貼りつけた男の傍らで、混沌が大口を開いている。それを認識した瞬間、『何か』を感覚し、私の体が震えだした。男は私の体を見て、哄笑をあげた。
「よい顔だ。お前は今、人と同じものを感じているのだ。言葉では知っていても、感覚したのは狂を発して以来ではないか? 存分に噛みしめるがよい。それが『恐怖』の味なのだからな!」
「……なぜ……人にこんなことができる?」
「消え行く者に説明をする義理はあるまい。罠にかかったのは我ではなくお前なのだ。予言者は我を狂っていると言ったが、お前を超える狂気こそが力の泉だとだけ伝えておこう。さらばだ。できそこないの、狂気に取り憑かれた神よ。混沌へ去れ!」
男は右腕を空気を切り裂くように振う。私を超える大きな力によって、ぐんぐんと漆黒の中心に引きつけられていく。神を凌駕する力。そんなものが存在する可能性を、私は考えたことがなかった。自らを、稚児が戯れに作った砂の落とし穴に呑み込まれゆく蟻のように感覚した。
私はあの中に吸い込まれてしまうのだろうか? 否。神が人間風情に屈する訳にはいかない。神性に仇為す者を、罰するために私はここにやってきたのだ。怒りが力を引き出す。人間の分際で不遜にも男が口にした、我が名を思いだせ!
そう、我が名はディオニュソス。数多の神秘を使いこなす、半神なのだ。
「エウ・ホイ!」
信女達が私を崇める為に発する言葉を、あらん限りの声を張り上げて叫ぶ。父ゼウスよ、力を与えよ! そう万能の神に祈りを捧げても、私の゛神性〟は輝きを失っているのを感覚した。
まるで、無能な人間のようだ。
円は目前に迫っている。一瞬でいい。この男を殺さなければならぬ。例え決して死が訪れる事のない我々が、人と同じ終末を迎えたとしてもよい。この男を殺せるのであれば、私は過去のように、私であることを捨てる事すら厭わない。そう覚悟を決める。すると。
不意に――――両腕に、かすかな自由が戻るのを感覚した。
私と男の距離が、どんどんと近づいていく。男は自らの勝利を確信しているようだ。私の感覚が戻っていることに気がつく素振りを見せず、大穴の横で間抜けな笑みを浮かべている。
普段なら造作もなくできること――――あの男の首を引きちぎる――――それ程の力はない。
私は、私の体を引きずり込む力をそのまま利用することにする。男と交差するその瞬間、戯れに習得したタックルの要領で男に向けて両腕を伸ばし、男の逞しい腰を掻き抱いた。
確かに――――強い――――が、今の私と、膂力の差は殆どないことはすぐに理解できた。思わず笑みがこぼれそうになった瞬間に、男が事実を理解して言葉を発する。
「な……に……?」
私は男の目を見上げてから優しく微笑んでやる。私を円に向かわせる力は、そのまま男にも伝わるようだ。必然的に私と男の体は、大穴にゆっくりと近づいていく。男はなんとか抱擁から逃れようと、私の背中に肘を打ち下ろすが、人間の打撃に私が痛みを感じる事はない。
私は男に本心を口にする。母以外の人間に贈る、初めての賛辞。
「褒めてやろう。人間にしては上出来だ。喜ぶがよい。哀悼をもたらす男。不完全なテーバイの王、ペンテウスよ」
男――――ペンテウス――――が大音声で私を罵倒するが、何を言っているのかがわからない。今私は不思議な感情に包まれている。殺してやろうと思っていた男に、憐憫と、ほんのすこしの愛着を感じている。どこに行っても私は私だという確信が、満ちていく。
力を、意思を込める。ここに残るためではなく、何処かに行くために。
私たちを引きつける力が、速度を上げた。闇はもう目の前だ。ペンテウスの絶叫がかすかに耳目を打った。
そして、円の内部に飛び込むかのようにペンテウスと私の身体は呑み込まれていく。
今や、私たちは円の中にいる。闇に飲まれた。ここは、何もない空間だ。ペンテウスは私を打擲し、絶叫を続けるが、私の心は安らかですらあった。
円の外の、異常な光景を見るまでは。思わず、声が出てしまう」
「ペンテウス、我々があそこにもいるぞ」、
円の外で、床にくずおれている二人の男の姿が見える。まるで人形のようだが、逞しい胸部が上下に動いているのを見ると、生きている事は明白だった。
男もそれに気がついたのか、私の背中を打擲する手を止めて、呆然と呟きを漏らす。
「バカな……」
男の言葉と同時に、円が少しずつ小さくなっていく。闇がその深さを増していった。
ありとあらゆる知覚が、失われていくことがわかる。
円が線になり、やがて「あちら」と「こちら」の境界が小さな点になる。
全てが漆黒に染まった刹那、神である私と不完全な都市国家の王は、世界から消失した。
一次予選通って嬉しかった記憶あり。