限りなく臭い女
安藤の家を後にした慎吾は、静岡で一泊すると、翌日、名古屋に向かった。
10時前、店が開いているわけもなく、向かいの喫茶店に入った彼は、窓越しに店の入り口を見ていたが
「あなた、若いんだからあんな女に引っかかっちゃ駄目よ」コーヒーを運んできた中年の女性に言われ驚いた。
「大して客もいないのに、つぶれないのが不思議よ。きっと男が付いているのよ」
「ありがとうございます。彼女の知り合いに様子を見てきて欲しいって頼まれただけなんです」
「えっ、知り合いって、まさか、典君?」
「えっ、ええ、まあ……」
「今どこにいるの?」
「えっ…… それは」
「言えない? やっぱりね」
何か曰くのありそうな一言に彼は首を傾げた。
カフェを出た彼は、昼食をとると、パチンコ店で時間をつぶし、夕方6時、ラーメンを食べた後、吉田由紀子の店、【クラブ yuki】訪れた。
カウンターに腰を下ろしたが、そこはクラブと言うよりは、スナックという感じだった。
まだ7時前ということもあって、他に客はいなかったが、
「いらっしゃいませ」と微笑んだママは感じのいい人だった。
おそらく、この人が吉田由紀子なのだろうと思った慎吾が水割りを注文すると
「東京から来たの?」ママが微笑んだ。
「えっ」
「言葉がきれいだから…… 」
「えっ、ええ、出張で…… 『時間があったら覗いて欲しい』って知り合いに頼まれて……」
「そうなの、ありがとう」彼女は息子が頼んだのだろうと思った。
「出身はどこなの?」
「えっ、静岡です」彼が口ごもるように言うと
「ごめんなさい、思い出したくなかったの?」
「いや、そういうことでもないんですけど、親友が辛い目に遭って……」
「そうなの…… 」
「ママはずっと名古屋なんですか?」
「ええ、そうよ。ここで生まれて、ここで育って、ここから出たことはないわ」
「そうですか……」
( なんで嘘つくんだ。やましいことがあるんだろ )
彼はそんなことを思ったが平静を装った。
「高校の時にね…… 」彼は話し始めたものの、迷っていた。
「どうしたの? 私でよければ聞くわよ。嫌なことは吐き出してしまった方がいいよ」
なんとなく温もりが伝わってくる。
「はー…… 実は静岡っていうたびに思い出す奴がいて、俺にとってはたった一人の友達だったんです」彼は最後まで気にかけてくれた親友、長島一樹の顔を思い出していた。
「そう…… そんな風に思える人って大事よね」
「はい、でも、そいつの親父が会社の金を横領して捕まって、獄中で死んでしまったんです」
彼は悲しそうに俯いた。
「えっ! そ、そうなの…… 」ママの動揺が見て取れる。
吉田は、まさか橋本貴文だと思わなかったが、それでもなぜか不吉な予感があった。
「その人はいくら横領したの?」
「うーん、確か3000万円だったかな、でも、そいつの親父は最後まで無実を訴えて、刑務所で首を吊ったらしいです」
「ええっ、自殺したの!」
吉田は動機が打ち始めた。
「結局亡くなってしまったから、真相はわからないんですけどね」
「なんか以前に静岡の友達から、会社のお金を横領してどうのっていう話、聞いたことがあるような気がするんだけど、なんていう人なの?」彼女は迷ったが、聞かずにはいられなかった。
「うーん、橋本、下の名は忘れたけど、俺の親友は橋本慎吾っていうんです」
「ええっ、その名前、聞いたことあるわよ。確か、その橋本っていう人よ。だけど、その人だったら、早くに仮釈放になって、奥さんと二人、北海道で幸せに暮らしているって聞いたような気がするけど…… 」
「いやいや、それは別人じゃないですか。橋本の親父は、獄中で亡くなって、お母さんも、それを知った翌日、ふらっと車道に出てしまって、車に引かれて即死だったらしいです」
「そ、そうなの?」
「ええ、俺は葬式に行きましたから間違いないですよ。橋本に会ったのはその時が最後でした」
「そうなの…… じゃあ、私の聞いた話は別の人かもしれないね」
「そうですよ、でもね、その橋本がどこにいるのかわからなかったんですけど、先日、同級生から自殺したって聞いて……」
「……」
「でも、それを聞いて思ったんですよ。もし、彼の親父さんが犯罪者なら、その家族がおかしなことになるのも、なんとなく仕方ないような気はするんです、だけど…… 」
「……」ママは次の言葉がとても気になった。
「でもね、もし、冤罪だったとしたら、とんでもないことですよね。犯人は橋本達3人を殺してしまったのと同じですよね」
「……」ママは俯いたまま水割りのお代わりを用意し始めた。
「あいつの親父さんは、誰か顔見知りの人に会ったらしいんですけど、その人は知らないって言ったらしいんです。でも、会ってもいないのにそんなこと言うのかなって思うんです」
慎吾が唯一、疑問に思っていたのはこのことであった。
彼は父親が会ってもいない人の名前を出すはずがない、と思っていた。父親によれば、吉田と話していた時に、後ろから睡眠薬をかがされ意識を失ったのだから、父親の証言は、そのまま、吉田が共謀していると言っているのと同じことである。父親が無実の人の名前を出すわけがない。
慎吾はこのことがずっと引っかかっていた。
「だけどもしかしたら、見間違えかもしれないしね」
「ああ、そうか、それもありますよね」
( そんなことがあるかっ、親父は間違いないって言いきっていたんだ……! )
「人生って色々あるよね……」
「あっ、すいません。突然、変な話をしてしまって…… でもあいつが死んだって聞いた時、なんか辛くって、もっと力になることができたかもしれないのにって…… でも、本当にすっきりしました。こんな暗い話、誰にでもできるものじゃないし、聞いてもらって本当にすっきりしました」
「それは良かった」ママは微笑んだようだったが、彼には目を見せなかった。
「また来てもいいですか?」
「名古屋はよく来るの?」
「はい、月に6~7回くらい、日帰りのこともあるんですけど、時間があったらまた寄りたいです」
「ありがとう、うれしいわ、あ、もしよかったら名前教えてもらってもいい?」
「あっ、はい、長島です。長島一樹って言います」
店を出た慎吾は、明らかにおかしいと思っていた。
( 二人とも亡くなってしまったという話に動揺が激しかった。
俺が死んだと言った時、目が泳いでいた、なんか、おどおどしていた、絶対におかしい
それに、親父が冤罪だとすれば、犯人は絶対にこの女に間違いないんだ。
でも誰から、北海道の話を聞かされたのだろう? )
その夜、ひとりホテルで考えていた慎吾の脳裏に川本彩子の笑顔が浮かんだ。
やはり報告しておく方がいいか…… そう思った彼は彼女に電話を入れた。
『やっと動いてくれたのね、ありがとう』
『そんな、俺のことなのに……』
『うん、だけど、ご両親の無念を思うとうれしいのよ』
『すいません、なかなか動けなくて……』
『そんなことはいいわよ、だけど、あせったら駄目よ。お父さんが冤罪だとすれば、吉田が一番怪しいんだから…… ここまで巧妙に逃れているんだから、簡単に尻尾を出すとは思えない。とにかく慎重にね。ただ、彼女が犯人だという前提で考えると、絶対に社長の中杉一郎がからんでいる。二人が未だに続いているのかどうかはわからないけど、もし未だに連絡を取っていることが分かれば、その辺りが糸口になりそうな気はするんだけど…… 』
彼は、翌日も吉田の所を覗いてみようかと思っていたが、この話を聞いて、いったんは神奈川のアパートに引き上げた。