父の冤罪
翌日、川本から教えてもらった携帯へ電話を入れると、静岡県警察学校で教官を務める安藤智信がとても喜んでくれた。
さらにその翌日の夜7時、安藤の自宅を訪ねた慎吾に
「橋本さんの息子さんに会えるなんて何かの因縁かな」
彼はふっと遠くを見つめると最後に会った慎吾の父親の無念に満ち溢れた表情を思い出して唇をかみしめた。
「私は今でも君のお父さんは冤罪だったと思っている」
「ほ、本当ですか?」
「ただ、何もできなかったことが申し訳なくてね……」彼は目を閉じると俯いてしまった。
「そんな…… 信じていただいただけでもうれしいです」
「あの事件は最初から疑問が多すぎた」
「……」
「着服したとされる3千万円の行方がはっきりとしなかったこともあるし、誰に聞いても『君のお父さんがそんなことをするはずがない』という答えしか返って来なかった。それに金庫に3千万円もの大金があったこと自体がおかしかった」
「理由がはっきりしなかったのですか?」
「ああ…… 社長が言うには、不動産の買取を現金で希望する人がいて、用意していたが結局現れなかった。だから君のお父さんに『現金を自宅へ運んでもらうように指示したんだ』ということだったのだが……」
「現金で買い取りなんていうのがあるんですか?」慎吾は不思議だった。
「ああ、それ自体は珍しいことじゃないんだ。会社の業績なんかが急に悪化して、このままだと不動産を抵当に入れられた上に借金が残るような場合、所有権移転の申請と同時に現金を受け取って逃げてしまうなんていう話はよくあるんだが……」
「……」
「ただ、その相手方がはっきりしないっていうか、結局、誰だったのかわからずじまいになってしまった。 相手が会ったこともないような奴なのに3千万円の取引をしようとしたっていうのがどうも腑に落ちない」
「社長は、そこのところは?」
「うん、社長が言うには、『物件に問題がなくてその価値があれば、相手のことなど、知らなくても問題はない』っていうんだが……」
【事件の概要】は次の通りであった。
夜間、無人になる事務所に大金を置いておくことを心配した中杉開発㈱の社長が、経理担当をしていた慎吾の父、橋本貴文に、それを自宅に届けるように指示をした。
玄関前に車を用意したのは慎吾の父、橋本貴文で、トランクに3000万円の入ったアタッシュケースを入れたのは社長の中杉一郎、中杉がトランクを閉めると橋本は車を出発させ、中杉の自宅へ向かった。
これが午後7時半のことであった。
しかし、中間地点で、当日は休みだったドライブイン前で、車のハザードランプをつけ、そのそばに一人の女性が立って手を上げていた。
車を止めた橋本は、その女性が何度か行ったことがあるスナックのママだと気づき、車を降りて
車のカギをかけ、「どうしたのですか?」と尋ねた。
「車が動かないんです」と言われ首を傾げた瞬間に後ろから睡眠薬をかがされ意識を失ってしまった。
橋本によれば、その時にママは前方にいたので、後ろにいたのは第3者、力が強かったので男だと思うということだった。
おそらく1時間くらいと思われるが、目が覚めた橋本は車のトランクが開けられ、中のアタッシュケースは、鍵穴が鋭利な刃物で傷つけられた跡があり、中が空になっていることに気づき、ふらふらしながらも社長の携帯に電話を入れた。
着信履歴から、これは8時32分であることがわかっている。
これが橋本の説明であった。
社長が警察に連絡し、パトカーが現場に到着したのは8時55分、橋本から話を聞いた警察官は、スナックのママ、吉田由紀子にすぐに連絡を取った。
しかし
「そんな所へは行っていない、名古屋から訪ねて来ていた母親とアパートにいた。その母を今駅まで送っているところ」と彼女が答えたため、すぐに母親に電話を代わってもらったところ、母親も間違いないと証言したため、警察は、橋本による狂言ではないかと疑い始めた。
翌日から周辺の捜索が開始され、アタッシュケースをこじ開けたと思われる、フォールディングナイフが発見され、そのナイフの先端に付着していた金属片が、アタッシュケース鍵穴の金属と一致し、さらに橋本貴文の指紋もついていたため、警察は橋本貴文の犯行と断定して、自白を得ようと厳しい取り締まりが始まったが、橋本は決してそれを認めず、時間だけが過ぎて行った。
話はもどるが……
「私は、社長の中杉が吉田のスナックに通っていたという情報があったので、二人は深い関係にあったんじゃないのかって思って、調べていたんだが…… 早く決着させろと言う上からの圧力で、課長が幕を下ろしてしまって、もうどうにもならなかった、本当に申しわけない」
「いえ、とんでもないです」
その後、犯人は橋本、金の所在はわからず、最後までそれを言わなかった橋本は、「全く反省していない」とされ、懲役5年が言い渡された。
「それに何より、君のお父さんは亡くなる前まで、『悔しい、何もしていないのに犯罪者のまま死んでいくのが悔しい』って、涙を流していた」
「そうですか……」
「私は仕事柄、何人もの死を前にした犯罪者に接してきた。彼らは皆、死を目前に控え、罪を後悔していた。皆、涙を流しながら自らの罪を悔いていた。誰一人として例外はなかった。人間にとって、【死】というのはそういうものなんだろうと私は思っている。でも、君のお父さんには悔しさしかなかった」
「……」
「その時、私は冤罪だと確信した」
「ありがとうございます」
「とんでもない、本当に申しわけなく思っている。私も逃げてしまったんだ。でも、君のお母さんが亡くなったのを知って、罪の意識からもう一度調べ始めた。吉田由紀子が、社長の女ではないのかと言う者がでて来て、彼女を追ってみると、ちょうど君のお母さんが亡くなった頃、彼女は名古屋に帰り、クラブを開いたんだが、改装費を含めて2000万円近く必要だったはずなんだ。その金がどこから出たのかと言うことも疑問だった」
「……」
「私は、そのクラブに客として行き、吉田にゆさぶりをかけたんだ。君のご両親が亡くなって、罪の意識はないのかって……」
「そしたら?」
「明らかに動揺していた。あの女が絶対に絡んでいる。橋本さんの言ったことが真実に間違いない。ただ、悲しいかな、証拠がない」
「そうですか……」
「でもね、2度目に行った時は、あんなに慌てていた吉田が、笑顔で自信満々だったんだ」
安藤は眉をひそめて首を傾げた。
「誰かに何か言われたのですかね」
「うん…… 1回目の時に感じた罪の意識を2度目には感じなかった。誰かに何かを言われたくらいで、あの罪の意識が消えるとは思えない。そこがまたわからない」