慎吾の閉ざした心に
一方、3課においては庶務担当が忌引きを取っていたため、そのメールが開かれたのは休みの翌日、5月13日木曜日の朝一だったが、3課は大騒ぎになってしまった。
慌てた課長は事情を説明し、慎吾をすぐに帰らせたが、噂はあっという間に社内に広がってしまった。
不意を突かれた川本彩子は、社長室を訪れると
「申し訳ないです。間に合いませんでした」と深く頭を下げた。
「仕方ないよ。彩ちゃんにだって限界はあるよ。ただね、ちょっと不可解なことがあってね。彼からは父親は服役中に亡くなったって聞いているんだけど、メールによると仮釈放されて北海道で……」
「そうですか…… それはおかしいですね」
「うん……」
「でも、彼はもうこの会社にはいられないですよね」
「うん、知り合いの印刷会社に出向させようと思っている」
「一度彼に会いたいのですが……」
「うん、よろしく頼むよ」
社長は懸命に生きていこうとする若者の足をすくう者がいる、そのことが悲しくてならなかった。
一方、課長からメールの話を聞かされ、アパートに引き上げた慎吾は、部屋から出ることができなかった。
故郷から遠く離れた町で静かに暮らしてはいたが、いつかはこんなことになるかもしれない、彼にはそんな不安が付きまとっていた。
( やはり普通に生きていくことなんてできないのか…… 結局、これが俺の人生なのか…… どこかへ逃げても、また同じことになるんだろうな…… 何のために生きてんだ! くそっー )
何とか前を向いて歩いて行こうと思っていた彼の心が折れてしまった。
その日の夕方、人事課長から電話をもらった彼は、
「すぐに辞表を出しますから」と言ったのだが、
「君の罪じゃない、社長も心配している。とりあえず、明日の午後2時、君の家の近くにある、ファミレス、サンシャインで弁護士に会ってくれ」と言われ、翌日、指定された場所で待っていた彼は、50歳前後の男性をイメージしていたのだが、
「戸田さん?」と、若い女性から声をかけられ驚いた。
彼の前に座った川本があいさつの後
「誰かに恨まれているようなことはないよね」と突然切り出したが、慎吾は、小柄でか細い彼女を見つめながら、
( この人、大丈夫なのか…… )
なぜかそんな印象を持ってしまった。
「は、はい、思い当たる人はいないです。ずっと隠して静かに生きてきましたから……」
「そうよね、社長も、あなたに限ってそんなことはないって言っていたから……」
「社長には迷惑をかけてしまいました。いつかこんなことになるかもしれないっていう不安はあったんです。だけど、社長の温かい言葉に甘えてしまって…… やはり間違いでした。すぐに辞表を出します」慎吾が思いを口にすると
「ちょっと待ちなさいよ。逃げるの?」
川本の鋭い目つきが彼を睨み付けると彼はうつむいてしまった。
しばらく沈黙があった。
「逃げたくはないです。でもこのままだと会社に迷惑が掛かってしまいます。何かあった時には、すぐに辞めようって決めていたんです」
川本彩子は、この誠実に生きて来た若者に触れて悔しかった。逆境に立ち向かって前に進もうとしている人間を誰かが陥れてしまった。彼女はそんな人間がいることが悔しかった。過ちを犯した人間であっても、罪を償えば一人の人間として生きていく権利があるはず。誰もそれを止めることはできない。
まして、目の前にいる若者は父親の罪を責められている。
絶対にこんなことが許されるはずがない。彼女はこみ上げてくる怒りに唇をかみしめた。
「だけど、社長は、逃げないと思うよ」
「えっ……」
「あの人はとりあえず知り合いの会社に出向して欲しいと思っている」
「それはありがたいですけど、またそこで迷惑をかけてしまいます。今までいつもそうだったんです。励ましてくれたり、世話をしてくれた人に、結局最後は迷惑をかけてしまって……」
彼の悔しさがにじみ出る。
再び沈黙があった。
「だけど、その人達は、本当に迷惑だと思っていたの? むしろ力になれなかったことを申し訳なく思っていたんじゃないの……」
「……」
「社長だってそうよ。あの人はそういう人よ。まして、今回は会社内に犯人がいるかもしれないって思っている」
「ええっ、会社の中ですか?」
「そう、かなり確率は高いと思う」
「そんな……」
「もし、君がこのままいなくなって、後から犯人が社内にいたなんていうことになれば社長は苦しむわよ」
「でも……」
「だからさ、とりあえず犯人がはっきりするまでは、ここにいてよ。会社には顔を出さなくてもいいように話しするから、給料だってもらわないと生活できないでしょ」
「でも、犯人がわかっても真実が変わらない以上、会社にいるわけにはいかないです。結局は遅いか早いかの違いでしかないんです」
「それなんだけどね、この期間を利用してお父さんの事件を調べてみたら……」
「えっ……! でも、何をどうすればいいのかもわかんないし……」
彼はここまで、父親の無実を証明するなどということは考えたことはなかった。
町を歩いて、2~3人の人がひそひそ話をしている場面に出くわし、そのうちの一人が自分に目を向けると、「あれが橋本の息子よ」、そんな声が聞こえてくるようだった。
あるいは買い物に出かけ、尋ねた店員の対応が冷たかったりすると、「ふん、犯罪者の息子が……」、そんな声が聞こえてくるようだった。
父親が逮捕されて以来、慎吾は父親を信じるかどうかということよりも、人目を避け、犯罪者の息子であることを隠して生きていくことばかり考えていた。
そんな彼にとって、この川本の言葉は驚き以外の何物でもなかった。
「私も少し調べてみたのよ」
「えっ! 」
「私の親父は警察官でね、親父に頼んだのよ。ちょうど静岡県警に大学の同期がいたらしくて、いろいろ調べてもらったらね、この事件に疑問を持っていた安藤さんていう刑事がいたらしい」
「ほ、本当ですか!」
「その人は、今、警察学校で教官をしていて、あなたのお父さんの末期にも見舞いに行って話したらしいよ」
「……」
「それからもうひとつ、なぜか、あなたのお父さんは仮釈放されて、今は北海道で暮らしているっていう噂が流れている」
「えっ、どういうことですか……! 」
「それはわかんない、でも、ぷんぷん匂うのよね」
「変ですね……」
「この件が片付いたら、私も手伝うからさ、一度、静岡に行ってみたら? その教官は、橋本貴文の息子だと言えば、絶対に会ってくれるそうよ」
「ありがとうございます」彼は瞼が熱くなった。
これまで、冷たい人ばかりではなかった。同情してくれた人、慰めてくれた人、励ましてくれた人もたくさんいた。
でも、ここまで具体的に一歩踏み出す道を示してくれたのはこの川本彩子が初めてだった。
この弁護士に持った最初の印象は消えてしまい、慎吾は一瞬、何か明るいものを見たような気持になっていた。
「実は以前にこんな紙切れが……」と言いながら、最初に投かんされたA4の用紙を差し出した。
『 知っているぞ
お前の父親は橋本貴文、犯罪者だ 』
それに目を通した川本が
「いつだったか覚えている?」と尋ねると
「3月27日、土曜日の深夜だと思うんです。3が28日、日曜日の朝にポストにありましたから……」
「そう……」
結局、慎吾は川本の熱意に押され、形の上だけではあったが出向を受け入れ、この期間を利用してできることをやってみようと思ったが、それでも、川本と別れ帰宅して一人になると
「そんなにうまくはいかないよな、警察だってちゃんと調べたんだろうし…… 」
そんなことを考えてしまい、なかなか前に進んでみようという気持ちにはなれなかった。
ただ、そんな彼にも一つの疑問があった。
その3日後、川本から慎吾に電話が入った。
『静岡の安藤さんには連絡を入れてみた?』
『いえ、まだです』
『そう…… 安藤さんと話ができたら、知らせてくれる?』
『はい…… でも』慎吾は、連絡はしないかもしれないと言おうとしたが、そこはぐっと堪えた。
そして再び三日後、
『ねえ、戸田さん、もう一度会いたいんだけど……』
『はい…… 』
『今夜7時、この前のファミレス、サンシャインで待ってるから』
プチッ
「あっ、もしもし、もしもし」慎吾は考える間もなく電話を切られて慌てた。
そして、午後7時5分前に慎吾がファミレスに着くと、川本は既に席についていた。
「静岡の安藤さんにはまだ電話していないわよね」
「はい、そのことなんですが……」
「君はお父さんが犯人だと思っているの……?」口調は優しいが突き刺してくる。
「い、いえ、そんなことは……」
「今の段階で真実はわからないわよ。でもね、もし、冤罪だとしたら、お父さんがどんな気持ちで旅立っていったか、想像できる? 」
「……」
「もし冤罪だとしたら、その悔しさや無念を晴らしてあげることができるのは、君しかいないんだよ」
「……」この言葉に慎吾は傷口をえぐられたような思いだった。
「君が重い腰を上げないと何も始まらないよ。君が信じてあげないと、あの世のご両親の無念はどうなるの」
諭すように話してくれる川本の言葉に、慎吾の瞼に涙があふれた。




