突然の嵐
しかし、その嵐は突然押し寄せた。
翌週火曜日5月11日の昼前、営業と称して会社を出た西本和典は、簡単な訪問を済ませ、カフェ・ローゼに向かうと、そこから4回目のメールを第3課あてに送信したのだった。
『以前より、お客様相談室あてに、御社には犯罪者の息子が勤めていることをお知らせしているのですが、全く無視されています。私は以前、お宅でマンションをお世話いただいて、当時の対応がとても良かったことを覚えています。そのため、御社に何かあってはいけないと思い、お知らせしたのですが、私の気持ちは届かなかったようです。
そのため、3課の皆さんに直接お知らせいたします。
3課にいる戸田という人の父親は橋本貴文、7年前、会社の金、3千万円を横領し実刑判決を受けました。今は仮釈放され、北海道で暮らしているらしいです。このような方がいては、御社の営業に差し支えるのではないかと心配しています。
それにそんなことを隠して平気な顔で仕事をしているこの人に、罪悪感はないのだろうか思い、怒りがこみ上げてきます。もし交際している女性でもいるのでしたら、その人は知っているのでしょうか。あまりにも身勝手な人だと思うのです』
彼は実行を押すと、先日来よりクレームが殺到している賃貸マンションに向かい、仕事を終えるとそのまま帰宅してしまったが、その夜、ふと経理課の栗田玲奈に電話を入れた。
『久しぶり、元気そうだね』
『ええ、ありがとう』
『ところで、変なことを聞くんだけど、戸田とは付き合っているの?』
『えっ』彼女は気づかれないようにしているつもりではあったが、やはり知られていたのかと思い驚いてしまった。
『ごめん……』
『ええっ、どうして謝るの? なんとも思っていないし、あいつとは仲もいいんだから、そんなことは全然大丈夫なんだけど、大変なことになったね』
『えっ、何かあったの?』
『まだ、耳には入っていないか……』
『どうしたの?』
『今日3課にメールが入って、戸田の父親は橋本貴文という犯罪者で、会社の金、3千万円を横領して逮捕されたらしい。今は仮釈放されて、北海道で暮らしているらしいけど、何とかしろって言うような勢いのメールだったらしいよ。俺はたまたま話を聞いただけなんだけど、3課は大変な騒ぎだよ』
『まさか……』
『俺としては、まだ真実かどうかわからないし、あいつはいい奴なんだよ。できれば見捨てないでやって欲しいんだ』
『……』
しかし、玲奈の心は乱れていたが、それを感じた西本は高揚感を抑えることができなかった。
西本からの電話を切った後、彼女は慌てて慎吾に電話を入れたが、彼は、今日1日、ゴールデンウィークの代休を強制的に取らされたらしく、まだメールのことは知らない様子だった。
慌てて、彼のアパートに向かった彼女だったが、あいにく彼は食材の買い出しに出かけ留守だったので、彼女は勝手に部屋に上がり込むと、彼の帰りを待ちながら話すべきかどうか悩んでいた。
一方、食材を買ってアパートに向かった彼は、突然降りだした雨に足を速めたが、アパートの入り口にたどり着くと、錆ついた自転車置き場で、しゃがみこんでいる老婆を見て驚いた。
「おばあちゃん、どうしたの? 大丈夫?」駆け寄ると老婆はびしょぬれになって震えていた。
「息子の家を訪ねて来たんですけど、地図を無くして、迷ってしまって……」
彼女は慎吾を見上げるとか細い声で答えた。
彼がふと見上げると、自分の部屋の電気がついていたので、玲奈だと思った彼は、すぐに電話を入れた。
『うちにいるの?』突然慎吾が尋ねると
『うん……』
『すぐにお風呂にお湯入れて! 』
『どうしたの?』
『すぐに帰るから、お願いだ』
玲奈は訳も分からずすぐに蛇口をひねった。
一方、慎吾は
「おばあちゃん、歩ける? 俺の部屋はすぐ上なんだ。とにかく乾かさないと風邪ひいちゃうよ」
「いや、こんな汚れた年寄りが他人様の家に上がるなんて……」
「何を言ってんの、そんなにきれいなところじゃないから大丈夫だよ、さっ、行こうよ」
彼は老婆を抱えるようにして階段を一歩ずつ慎重に昇った。
部屋にたどり着くと、驚いたのは玲奈だった。
びしょぬれで髪を振り乱した老婆を抱えるようにして入って来た慎吾を見た瞬間
「ごめんなさい。お父さんから急用の電話が入って、すぐに帰って欲しいって」
「ああ、いいよ。大丈夫だよ」彼が微笑むと玲奈は逃げるように帰っていった。
「ごめんなさいね、こんな汚い年より見たら逃げるよね、大事な時間をごめんなさいね」
「おばあちゃん、大丈夫だよ。それよりお風呂に入って温まらないと」
「ほんとにごめんね」
「一人で服を脱ぐことができる?」
「はい、大丈夫です」
しばらくして、彼女が浴室に入ったのを感じると
「おばあちゃん、エアコンで服を乾かすから持っていくよ」彼が声をかけると
「そんなことまでしてもらったら罰が当たります」
「いや、それはいいんだけど、パンツが」
「パンツはバッグに予備がありますから、バックを持って来て下さったら大丈夫です」
彼はバックを脱衣室に置くと、彼女の衣服を室内物干しにかけて、エアコンの暖房を入れた。
その時だった。
ピンポーン
チャイムに慎吾は、玲奈が帰って来てくれたのかと思って微笑んだ瞬間
「失礼します。こちらにうちの大奥様がいらっしゃるのではないかと……」身なりのきちんとした40歳前後の男女が入り口に足を一歩踏み入れて来た。
「はっ?」慎吾があっけにとられていると
「スマホの位置情報では、こちらにいらっしゃると思うのですが……」男性が口にした。
「えっ、さっきのお祖母さん?」
「はい、その衣類は大奥様のものです。間違いないと思います。今はお風呂をいただいているのでしょうか?」
「あっ、はい」
「失礼してよろしいでしょうか」
「あ、はい」
慎吾が頷くと女性は微笑んで上がると脱衣所に向かった。
女性が持参した衣類に着替え、髪を整えて出て来たその老婆は、全く様子が変わってしまい、慎吾は、確かにどこかの大金持ちの大奥様なのだろうと思った。
丁重にお礼を言われた慎吾は、大奥様から
「お礼です」と言われ見たこともないような腕時計を渡され驚いた。
「……」
「人には行ってみたい過去がありますよね。自分の目で確認してみたい過去だってあるでしょ……」
「は、はあ……」
「時間を合わせて、赤いボタンを押せば、どこにだって行くことができますよ。でも、その秘密を誰かに話すと、その時計はただの時計になってしまいますからね」
「は、はあ……」
( このお祖母さん、ちょっとおかしかったのか )
慎吾がそんなことを思って二人の付き人に目を向けると、彼らは静かに微笑んだ。