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過去を覗いてしまった男  作者: 此道一歩
24/25

取り戻した人生は

 一方、慎吾と川本は、彼女の事務所で中杉開発から送られてくる記者会見の様子を映し出しているパソコンに釘付けになっていた。

 慎吾は、社長の説明が始まると、目頭が熱くなるのを懸命にこらえていたが、

記者の「橋本さんは冤罪だったのですか!」と言う質問に

「はい、疑う余地はないと考えています」と社長が答えると、その瞬間に涙が滝のようにこぼれ落ち、彼は俯いて泣きじゃくった。

 それを見た川本も瞼に涙を浮かべ、

「おめでとう、おめでとう、良かったね」と言いながら、彼の背中に手を回すと懸命に抱きしめた。

 彼は

( この人のおかげだ、この人がいなかったら何もできていない、この人のおかげだ…… )

 そのぬくもりを感じながら、ずっとこの人のそばに居たいと思った。


 その夜、彼は静岡県警察学校で教官を務める安藤智信に電話を入れた。

「良かった、本当に良かった、川本さんからも、何度か連絡をもらっていたのだが、私もあの人に救われた。」

 状況を聞いた安藤の声が涙を思わす。

「本当にありがとうございました。安藤さんの言葉で前へ進もうって思ったんです。本当にありがとうございました」

「私なんて何の役にも立っていないよ。川本さんだよ、冤罪が証明できないと、君が一歩も前へ踏み出せないって、涙ながらに語る彼女の執念みたいなものを感じて、彼女ならやってくれる、絶対に大丈夫だって、信じていたよ」

「……」慎吾の瞼に涙があふれる。


「愛なんだろうね、俯きながらも一歩ずつでも前へ進もうとする人に対する彼女の愛なんだろうね、また、ご両親のお墓にも参らせてもらうよ、本当におめでとう」


 慎吾は、安藤の話を聞きながら、川本彩子という人間のことを考えていた。

 名誉も地位も、金もない俺のために、どうしてここまでしてくれたんだ、なぜなんだ…… わからない、「理不尽が許せない」って、いつか言ってたけど…… 


 考えてみれば、慎吾が初めて、川本に対面したのは5月の半ばであった。わずか2ヶ月半の間にここにこぎつけた川本の偉大さに彼は驚くばかりだった。彼にすればもう1年くらいは過ぎたのかもしれないという勢いだったが、それでも、川本が取り戻してくれたこの人生は大切に生きていこうと思っていた。


 その翌日からマスコミはこぞってこの事件のことを取り上げた。

 裁判で有罪が確定していた事件を、被害者側が冤罪であると明言したのだから、警察関係者は大慌てであった。


 加えて、被告は冤罪の罪を背負ったまま、既に獄中で死亡しており、その妻も、その翌日に交通事故で亡くなっているのだから、世論は大きく動いた。


 しかし、日本弁護士会の会長から

「もし、このことで不当な力が働けば、あなた方は、弁護士会を敵に回すことになりますから」と連絡を受けた県警は、心あるもの達の誘導によって、静かにこの成り行きを見守ることとした。


 その一方で、川本の事務所は電話が鳴り続け、取材やテレビへの出演依頼が殺到し、彼女は慌ててしまい、そのうちには留守番電話にしたまま、出かけてしまった。


 こんなことを想像していた中杉開発の中山が、総務課の女子社員一人を連れて、上京してきた。

「川本さん、この山本はわが社の社員なんですが、経理もできますので、しばらくお手伝いをさせていただきます」

「えっ、でも、とてもお給料が払えないですよ」

「大丈夫です。わが社はあなたに救われました。このくらいのことはさせてください。」


「えっ、本当ですか! 助かります。もう、電話対応ばかりで参ってたんです、訳が分かんなくなって……」


 その時だった。

「先生、水が出ないんですけど…… 」お茶を入れようとしていた山本が慌てた。

「いやー、お恥ずかしい話です。ガスと水道、止められてんです」

「ええっ! あなたって人は…… 」

 中山は平気でそんなことを話す川本を見ながら、この若さでなりふり構わず、突き進む彼女の信念みたいなものを感じて、目を細めた。

「あっ、でも、あさってには30万円はいってきますから、大丈夫です」

「それは?」

「会社の顧問弁護士、やっていますので……」

「ふうー、 ちょっと通帳見せてくれますか? 」

「えっ、」

「すぐにいくらか振り込ませますので、」

「そんな、御社から援助を受けるわけにはいきませんよ」

「いや、うちも顧問弁護士になっていただきたいんです」

「はあーっ、ここは東京ですよ」

「まあ、いいじゃないですか、何かあった時に対応していただければそれでいいんですよ。社長はとにかくあなたとのつながりを持ちたいんですよ」

「そうですか…… もう、訳わかんないけど、よろしくお願いします」

川本が通帳を差し出すと中山は山本に指示してすぐに会社に連絡を入れた。


「川本さん、わが社との契約は任せていただけるということでよろしいですね?」

「も、もちろんです。助かります。お恥ずかしい話ですが、まさか、ここまで激しいことになるとは……」


「ははははっはは、そりゃそうですよね」

「でも、中山さんは想像していた? ですよね」

「そうですね、大変なことになるとは思っていました。なんと言っても、問題になる事柄が多すぎますよね、まして吉田の名前を出さないんですから、マスコミは必死ですよね。まあ、うちの社長の処にも取材がありますけど、どちらかと言うと、始末をどうつけるのかと言うことがメインですよ」

「はあー」

「だけど、そりゃ川本さんは、今や時の人ですからね、むしろ戸田さん以上かもしれないですね」

「もう中山さん、何とかしてくださいよ」

「とりあえず、記者会見を開かないと収まらないでしょ」



 結局、収拾のつかなくなった川本は、3日後、ホテルに避難させていた慎吾を伴って記者会見を行ったが、これをすべて仕切ったのは中山総務部長であった。


 この中で、慎吾が「すべては川本弁護士のおかげ」と称賛を繰り返し、その様子が詳細に報道されたため、弁護士川本彩子の名がさらに高まることとなり、その翌日から依頼相談が後を絶たなかったが、山本が優先順位を考えながら取捨選択し、これを華麗にさばいていった。それでも一人で対応するには限界があった。


 そんな時、

『彩ちゃん、大変そうだね』

 日本弁護士会、会長の北川信二が電話を入れて来た。

 この北川信二は、彩の父親の昔からの友人で、彼女が弁護士を目指すきっかけとなった人であった。

『あっ、先生、お久しぶりです』

『やったね、大したものだ』

『先生、忙しくて大変なんですよ。先生の相手なんてしている時間はないですよ。もう、猫の手も借りたいくらいなんだから』

 子どもの頃から大事にされていた彩子は遠慮しない、むしろ信頼しているから平気で肉親に語るような言葉を口にする。

 一方、娘がいなくて、息子の嫁からは敬語で話される信二は、そんな彩子が愛しくてならなかった。


『はははっはは、一人、応援に行かせるよ、猫の手よりはましだと思うよ……』

『えっ、給料は払えないですよ』

『大丈夫だよ、彩ちゃんががんばっているのにさ、私にも手伝わせてよ』

『ええっ、先生、感謝します』

『2年目の新人弁護士が、君のところで勉強したいっていうから、そちらへ行かせるよ。本人が納得するまでおいてやってくれないか?』

『先生! もう、感激です。やはり先生ですね、親父なんてガスと水道を止められても知らん顔ですからね、全く使えないですよ』

『ええっ、ガスと水道?』

『そうですよ』

『わっ、わかった。もう、今日から行かせるよ』


 この結果、1週間もすると事務所は落ち着きを取り戻し、川本事務所の新しい形が整い始めた。


 一方、慎吾への賠償問題については、中山総務部長を信頼している川本が、中杉開発と慎吾の話し合いには同席しないで、すべてを中山に任せていた。

 川本と慎吾が記者会見を行った2日後、


 中杉社長と中山は、上京し、あるホテルの会議室で初めて戸田慎吾に接見した。

 中杉社長に感謝する慎吾を前に、中杉も恐縮してしまい、何度もお詫びを繰り返した。

 中杉の提案は、

 まず、返還する3千万円については、年6%の複利計算で、4200万円、さらに賠償金としては、基準になるものがないため、亡くなった父親が生涯中杉開発に勤めたとした場合の所得を基準にして、

退職金も含め、1億円が提案されたが、その金額に驚いた慎吾は4200万円は受け取るが、1億円の受け取りは頑なに拒否した。


 その結果

「戸田さん、本音を言わせていただくと、この賠償金を受け取っていただかなければ、わが社の責任が果たせないんです。あれだけ、世論を動かしたわけですから、ここが無っていうわけにはいかないんです」中山が説明すると

「でも、会社だって大変でしょう」慎吾が会社の経営を気遣う。

「そこは心配ご無用です。この会社は何もしなくても、賃貸だけで年間2億円を越える営業利益があるんです」

「でも、なんか、両親が亡くなって、そのことでお金をいただくっていうのが、なんか、気になって……」

「わかりました。実はわが社は、今後、川本さんに顧問弁護士になっていただこうと考えていまして、社内に法制担当部署を設けようと予定しています。戸田さんには、わが社の取締役に就任いただいて、川本さんとわが社のパイプ役として動いていただくというのはどうでしょうか?」

「と、取締役ですか!」

「あくまで名目です。取締役に就任いただければ、年間で約800万円を報酬としてお渡しすることができます。ただ、税務署のこともありますので、仕事はあくまで法制担当と言うことで、東京に在住いただいても全然問題はないです。わが社の取締役会にだけ出席いただければ、それで十分です」

「そ、そんなこと言われても……」

「戸田さん、せめてこれだけはお願いします。社長のお母様は、あなたの父上の人柄を良く知っていたのに、亡くなった裕也さんの父上を支え綴けてくれたのに、何もできなかったことをとても悔やんでいます。」

「でも、他の社員や役員の人達だっているんだし……」

「何を言っているんですか、他の社員たちも、何もできなかったことをどんなに後悔しているか、今回の記者会見前に、社員一同を集めて説明会を行ったのですが、ほとんどのもの達が涙を流して、手を合わせたんですよ」

「……」


 慎吾は、人の思いには答えるべきだという中山に説得され、これを受け入れることとした。


「それでわかれば教えていただきたいんですけど……」突然慎吾が尋ねた。

「何でもどうぞ……」

 慎吾は、川本に支払うお礼の額で悩んでいた。

 最初は、報酬はいらないということでスタートしたが、4000万円も受け取ることになれば、そういうわけにもいかないと思った慎吾が、中山に尋ねたのだが、

「3千万円までなら、10%+諸々なのですが、4000万円っていうのは率が変わって、逆に下がったりしておかしなことになるんですよ。まあ、決まりがあるわけじゃないんですけど、訴訟の準備もされていたでしょうし、500万円が妥当じゃないですか?」

「そんなのでいいんですか…… なんか気持ちとしては、半分くらい払いたいような思いなんですけど……」

「でも、それは受け取ってくれないでしょう」中杉が微笑むと

「社長、そうでもないんですよ。あの人は不思議な人ですよ。持っていない人からは絶対に取ろうなんて考えていないですけど、持っている者が出すと言えば、喜んで受け取りますよ」

「ええっ……」

彼が水道とガスを止められていた話をすると、3人で大笑いをしていしまった。

「戸田さん、とりあえず、今回は500万円にして、またの時に助けてあげればいいじゃないですか?」

 中山が結論した。


 翌日、銀行で1000万円、川本彩子宛の小切手を用意した慎吾が、事務所を訪ねると、様変わりして3人の女性がせわしく動き回る事務所に慎吾は驚いたが、川本から二人の女性を紹介された彼は、さらに困惑した。



 あの中杉一郎に会って、どうしようもなくなった思いを彩子にぶつけてしまった時、彼女が涙を浮かべながら自分を諭してくれたあの日から、慎吾は川本彩子に魅かれてしまった。

 漠然としたその思いは、中杉開発の記者会見の日、社長の言葉に泣き崩れてしまった慎吾を、彩子が抱きしめてくれたあの瞬間、彼はずっと彼女のそばに居たいという切望に変わってしまった。

 それが愛だとは思わなかったが、彼女に魅かれてしまった彼は、彼女のために何かしたい、あの時計があれば必ず彼女の役に立つことができる、そんな思いの中、訪れた事務所の様子に、自分の居場所はないと思ってしまい、彼は愕然とした。


「あの、川本さん、二人で話したいのですが……」慎吾の言葉に力がない。

「いいわよ」彼女が答えると二人は、奥の小さな仕切りの中に腰を下ろした。


「これ、この度のお礼なんですが……」

 慎吾が封筒を差し出すと、

「いいわよ、いらないって言ってたでしょ」彩子が微笑む。

「いや、あの時は、私も苦しかったですけど、今は……」

 彼が中杉建設との交渉結果を話すと、彼女はとても喜んだ。


「だからぜひ受け取って欲しいんです」

「でも、本当にいいの?」

「ガスと水道の話も聞きました。俺のせいですよね。親父のことで走り回っていたから、他の仕事ができなかったんでしょ」

「そんなの関係ないわよ、良くあることなのよ」

「そ、そうなんですか……」

「でもうれしい。ありがとう。正直言って苦しいのは事実なのよ、助かるよ」

 そう言いながら封筒を開けた川本は

「うわっ、これもらいすぎよ。いいとこ400万、いや、あなたの力も借りたから、200万かな……」

「えっ、俺の力って?」


「あのね、吉田を落とすときにね」身を乗り出した川本の声が小さくなった。

「はい……」

 慎吾も身を乗りして前かがみになると二人の顔が近づく。ほとんど化粧もしていない川本のほんわりとした石鹸の香りが彼をほんの一瞬だけ夢の世界にいざなってくれる。

 はっとした彼が、とっさに身を起こすと

「あっ、ごめん、臭う?」ドキッとした彼女はさっと右手の甲を匂いながら

「ちゃんとお風呂には入ってんだけどね」と続けた。

「い、いえ、ドキッとしただけです」ほんのりと頬を染めた慎吾は、彩子に目を向けることができなかった。

「良かった。2~3日、お風呂に入っていないと自分でも臭いのよ。だけど、ここ何日かは、毎日入っているからね」 なれない雰囲気に、彩子がとぼけた。


「あ、彩子さん、そんな話、しないでください。」それでも彼は清潔感のあるこの女性が不思議だった。


「あ、それであの時にね、金庫の隣の3段ボックスの話をしたのよ」

「そうなんですか!」

「そしたら、私のことを【視える人】だと思ったみたいで、私も勢いに乗って、天は全てを知っていますよ、って……」川本もその時の状況を説明した。

「そうですか…… お役には立てたんですね」慎吾はとてもうれしかった。

「それどころか、あの情報が無かったら、吉田は白状していなかったかもしれない」

「そうですか、よかった」

「だけどさー、本当に3段ボックスから携帯だしてきたからびびったわよ」

「そ、そうですか」

「夢でも見たの?」

「まあ、そんなところです」

「でも言えないのよね」

「はい、すいません」


「ふうー、」

「どうしたんですか?」

「うん、なんか今回のことで、マスコミが敏腕弁護士とかさ、切れる女とか、騒いでいるけどさ、私自身はそんな大したことなんて、やっていないのよ。慎吾君の情報があったから、吉田を落とせただけで…… 参ってんのよ」

「で、でも、あの情報を信じるかどうかということもあるし、信じたからと言って、うまく活用できるかどうかっていうこともあるでしょ」

「だけどね、次からはあんなにうまくいかないわよ」

「いえ、俺がいれば大丈夫です」

「えっ、そうなの?」

「俺はずっとそばにいますから、何でも言ってください。」

 慎吾は思いを伝えたつもりだったが

「君、うれしいこと、言ってくれるね」

 微笑んだ彼女には全く伝わっていなかった。




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