卑劣な男
その翌週の水曜日、会社の休日、モバイルパソコンを手にした西本は、行きつけの喫茶店、カフェ・ローゼに行くと、自らが勤める未来都市㈱ のホームページを開き、【お問合せ】欄に打ち込み始めた。
『御社はいい物件を紹介していますが、犯罪者の息子から説明されても、信じられないですよね。何か騙されてしまいそうで怖いです』
打ち終えた彼は実行を押すと、不気味な笑みを浮かべた。
翌日、休み明けの朝、お問合せメールを確認したお客様相談室の担当、浅井洋子はすぐに顧問弁護士の川本彩子に連絡を取った。
この川本は、29歳、大きな瞳だけがギラギラした細身の女性であったが、ほとんどノーメークで、飾らないため、やや色気にかけているのは仕方ない所だった。彼女は、大手事務所で7年間勤めた後、祖父母が営んでいた小さな雑貨店を改造して個人事務所を開設していたのだが、ほとんど依頼もなく、国選弁護を引き受けては何とか食いつないでいるような生活をしていた時に、ふとしたことからこの未来都市㈱ 社長の中島を救ったことがあり、それを機に会社の顧問弁護士となったのだが、彼女の生活の糧は、いまやこの会社から毎月支払われる30万円がベースになっていた。
そんなことから、会社に何かあった時は、躊躇なくそれに専念できるだけの恩と時間は十分すぎるほどにあった。
すぐに会社にやって来た川本に
「どういうことでしょうか?」担当の浅井が疑問をぶつけると
「嫌がらせかな?」隣にいた室長の長野も首を傾げた。
「でも、なんか漠然としているようでも、誰かを指しているような感じもしますよね」
そう答えた川本の鋭さは、彼女を知る者にとっては定評のあるところだった。
「何か対策が必要でしょうか?」長野室長が尋ねると
「いや、少し様子を見てみましょう。何か思惑があるのなら、次の動きがあるはずです」
彼女はその後、久しぶりに社長室を覗いた。
「ご無沙汰しています」彼女があいさつすると
「彩さん、久しぶりだね、あれ、また痩せたんじゃないの?」
「い、いえ、そんなことは…… 」彼女は俯いてしまったが
「ちゃんと食べてるの?」
「は、はあー」
「よし、ウナギを取ろう。おーい」社長が秘書室に向かって叫ぶと
「はい、どうかいたしましたか?」
顔を覗かせた室長に、彼がうな重を2つ依頼した。
ただ、川本は、ここでいいものを食べさせてもらうと、その後、自宅へ帰ってからの食事がわびしくなるため、いつも複雑な思いだった。
そんなことを思いながら、川本がお客様相談室での件について報告すると
「そうか…… 父親が犯罪者か……」社長が顔を曇らせた。
「社長、心当たりがありますか」彼女がすかさず尋ねる。
一瞬彼女に目を向けた彼は、唇をキット結んで目を伏せたが、彼女はそんな社長をみつめたまま答えが返って来るのを待っていた。
「実は、私と人事課長しか知らないことなんだが…… 」
彼は1年半前に行われた入社試験での面接ことを話し始めた。
当時、最終面接まで残った戸田慎吾は、社長と人事課長を前に自分が犯罪者の息子であることを告白した。
「いいじゃないか、自分がどんなに頑張ってみてもどうにもならないことがある。君がここまでどのような苦悩の中で生きて来たのか、容易に想像ができる。まして君は父上を信じているんだろ?」
「……」慎吾は無言で頷いた。
「私はそのことを背負っている君に来て欲しいと思っているよ」
慎吾はこの言葉に涙を浮かべた。
社長はふっと遠くを見つめると、その戸田慎吾を思い浮かべていた。
話を聞いた川本は
「そうですか…… 人の理不尽が罪のない人を苦しめてしまう、どうしてなんでしょうね。悔しくてなりません」唇をかみしめた。
「一般のゲストじゃないような気がするね」社長がぽつりと呟くと
「そうですね、犯罪者の息子がいるということよりも、彼自身を狙っているような気がしますね」
「となると……?」
「彼に恨みを持つ者、彼の失敗を望む者、ただ、恨みということについて言えば、一度彼と話させていただかなければならないかもしれないですね」
「うん、でも、彼が恨みを買うっていうのはなかなか考えづらいかな……」
「そうですか、社長がそうおっしゃるのであれば、人として問題はないのでしょうね、ただ、恨みっていうのは、本人が全く気付いていないような場合もありますから…… 」
「確かに……」
「いずれにしても次の動きがあるのだろうと思っています。そのアクションがあれば少し絞り込めるかもしれないですね」
「うん、よろしく頼むよ」
その頃、慎吾は栗田玲奈と時間を共有しながらも、心ここにあらずの状態が続いていた。
「ねえ、そろそろ新しいマンション探さない?」
「うん……」
「私の所でもいいけど、ちょっと狭いでしょ」
彼女は気の抜けた返事を繰り返す慎吾に少し苛々していたが、将来に向けた彼との形を早く整えたいと必死だった。加えて、頻繁に彼のアパートを訪れるようになった彼女にとって、そこは将来の夢を見るにはあまりにもみすぼらしく、寂しい感じがしていた。
そして2通目のメールが届いたのは、ちょうど2週間後であった。
『先日、御社には犯罪者の息子が勤めていることをお知らせした者です。単なるいたずらメールだと思ったのでしょうか。サービス業にとってこの手の噂がどれほどの影響を及ぼすのか、想像したことはないのですか…… 早めに何らかの対策を取った方がいいですよ。』
お客様相談室の担当から連絡を受けた川本彩子がすぐにやって来た。
メールの発信は前回と同様、水曜日、会社休日の13時頃であることを確認した川本は、犯人が会社の関係者であることを確信すると
「ねえ、噂を流してくれる?」
「えっ、どうすれば?」
「誰かにこそっと、『変な迷惑メールが来るんだけど、発信は決まって水曜日、会社の関係者じゃないのかって思うのよ』って…… 内容は絶対にためよ、それに私に相談かけていることも口外しないで欲しいの」
そして2日後、その噂を耳にした西本和典は慌てた。
「やべーな…… 次は夜にするか…… いやいや、駄目だ。昼間、営業に出た時だ」
彼は、そんなことを思いながら1週間ほど静かに過ごしたが、会社が何ら対応を取らないことに苛々し始めていた。
一方、2通のIPアドレスを確認した川本は、セキュリティに強い元カレ、田口修一に依頼し発信元の割り出しを始めていた。
「彩ちゃん、俺のこと、いつまでこき使うんだよ?」
「いいじゃない、元カノが困っているんだから、何とかしてあげたいって思うでしょ」
「まあ、そういうことにしてもいいけど、なんか惨めなんだよな」
「じゃあ、セフレになってあげようか?」
「ほ、本当か!」
「うん、いいよ」
「簡単に言うなよ、信じらんないよ」
「それでどうだったの?」彩子が微笑むと
「セフレの話は終わったんかい!」
「だから、なってあげるって、それでどうだったの?」
「うん、結果だけ言うと、元町にあるカフェ・ローゼ」
「ええっ、そんなとこまでわかるの」
「うん、このIPからプロバイダまではすぐわかるんだ。普通、そこから先は大変なんだけど、たまたま、昔の仲間がいてさ……」
「へえー、そりゃ、ラッキー」
帰宅した彩子は、殺風景な事務所の安物のソファに腰を下ろし考えていた。
カフェ・ローゼに行って、防犯カメラの録画を見せてもらえるだろうか……
個人情報だ、なんだかんだと言って、見せてはくれないだろうな
2通とも水曜日の午後1時前後、4月の7日と21日ということだけははっきりしているのだから、録画さえ見ることができればかなりの収穫があることはわかっているのだが、彩子は、このようなケースで過去には何度も足蹴にされたことがあって悩んでいた。
そして、3通目のメールが届いたのは、ゴールデンウィーク明けの5月6日、木曜日の午後3時であった。
連絡を受けた彩子は
(やはり、会社の関係者に間違いない。曜日を変えたのだから、少しは考えている。この日に休むようなことは絶対にしていない。おそらく営業か何かで外に出た時にやったのだろう、でも今回はカフェ・ローゼじゃないかもしれない )そんなことを思いながらメールに目を通した。
『先日から、御社には犯罪者の息子が勤めていることをお知らせしている者です。
ふと、御社では対象者が特定できていないのかもしれないと思い、決心しました。3課にいる戸田という人です。彼の父親は橋本貴文、7年前、会社の金、3千万円を横領し実刑判決を受けました。
今は仮釈放され、北海道で暮らしているらしいです。早く調査して、対応を考えた方がいいと思いますよ』
( ついに名前を出してきたか…… やはり社長の言っていた戸田慎吾が狙われていたのか…… 早くしなければ、次は他の社員にも伝わるようなことをするかもしれない )
彼女は、翌日、変装をしてカフェ・ローゼに出向いてみたが、マスターは人相が悪く、とても協力を得られるような感じではなく、コネも思いつかず、頭を抱えてしまった。