彩子のシナリオ
携帯と、事件の打ち合わせから録音していたUSBメモリを受け取り、東京に引き上げた川本は、いざ裁判になれば彼女は逃げるかもしれないと思っていた。そのため二人の会話を録音はしていたが、それが証拠として採用されることはないと考えていた。
それは吉田が差し出した携帯電話とUSBメモリについても同じことが言えるが、それでも、これは世論を動かすだけの価値があると確信していた。
彼女の狙いは、再審請求は行うが、そこにはなかった。吉田の証言で再審の扉が開かれるとはとても思えなかった。そのため、彼女は民事で、中杉の会社に対して慎吾の母親が賠償した3千万円の返還請求をしようと考えていた。
中杉が支払わなければ直ちに訴訟に持ち込み、仮にその裁判がどんな結論になろうとも、吉田の告白で、世論を味方にすることができる。これらが証拠として採用されなくても、絶対に世論は納得する。彼女はそう考えていた。
その夜、彼女が自宅に帰ったのは深夜の0時を過ぎていた。
ソファに腰を下ろした彼女は珍しく興奮していた。
彼女はここに至るまで、こんなに大きな案件を経験したことはなかった。
事態が考えていた方向に動き始めたことで、高揚感がこみあげてくるが、その一方で
( 思惑通りに行くだろうか、本当に世論は動いてくれるのか、もし失敗したら…… )
そんな不安も付きまとっていた。
そんな中で、慎吾の思いだけは確認しておかなければ…… と思った彩子は、
彼を事務所に呼び出した。
「慎吾君、吉田が認めたわよ」
「えっ、本当ですか!」
彼女は状況を説明したうえで、
「それでね、冷静に聞いて欲しいんだけど、吉田の証言があっても再審の扉が開かれることはないと思うの、それにもし扉が開かれるにしても、早くて3年、下手すると5年先になる」
「そ、そんな…… じゃあ、結局、どうにもならないってことですか」
「違う、私は、この吉田の告白をもとに、中杉開発に対して、あなたのお母さんが支払った3千万円の返還請求をしようと思っているの」
「あの家を売って支払ったお金ですか……」
「おそらく中杉とは裁判で争うことになる、その裁判だって勝てる保証はない。吉田が裁判で証言台に立つかどうかはわからない」
「ど、どういうことですか」
「でも、裁判で勝てなくても、この吉田の告白には、世論が動く、世論が動けば無実と同じことになる」
「よ、【世論】って、そんなもので何ができるんですか……」
素人の慎吾に世論の本当の意味が分かるはずはなかった。
彩が懸命に世論の恐ろしさを説明したが、慎吾はピンとこなかった。
「正直に言うと、本当に世論が動いてくれるかどうか、不安はあるの、でも、私は、ずっとこの形を思い描いていたの、私が思っていたように動くとすれば、裁判の結果がどうなろうとも、お父さんの冤罪は社会が納得するはず」
初めて弱気を見せた彩子に
「よくわからないですけど、でも、彩子さんがそう思うのならそれでいいです。要は、親父の無実は世論に訴えるしかないっていうことなんですよね」
慎吾は応えたものの、釈然としない思いがあった。
「そう、世論に訴えるしかないと思っている」
「じゃあ、それでいいです」慎吾は想像していたのとは違う形に意気消沈したが、それしか方法がないのなら仕方ないと諦めに近いような思いだった。
「ただ、中杉開発にしてみれば、公にしたくないっていう思いもあるはずだから、場合によっては、お金で解決しようとしてくるかもしれない」川本が口をきりっとさせた。
「それは、3千万を支払うってことですか?」
「そう、話し合いに持ち込んで、3千万のうちの一部を支払って、それで終わりにしたいって思うかもしれない」
「つまり、裁判にはならない?」
「そうね、お金で済ませるっていうことは、内内で済ませるっていうことになる」
不安になっていた彩子は、慎吾がお金をもらって済ませるという選択をしても、それはそれで仕方ないと思っていたが
「裁判で勝てないんだったら、いくらかもらって、それで終わらせるっていうのも有ですよね」
父親の無実は証明できないかもしれないと思い始めた慎吾が答えた瞬間
「馬鹿っ! 」彩子が語気を強めた。
「……」
「あんた、自分の人生はいいの! 自分の人生を取り戻したいとは思わないのっ!」
「で、でも…… 」
「お金が手に入るんだったら、これからもこそこそ生きていく人生で我慢するの? ご両親の無念はどうでもいいのっ! 」思わず出てしまった言葉に彩子自身も驚いた。
「…… 」
しばらく沈黙があった。
「私はね、あなたに胸を張って生きていって欲しいのよ、だってそうでしょ……! お父さんは無実よ、その3千万だってもともとあなたのものよっ、あいつらの悪事が無ければ、あなたは橋本慎吾として幸せな人生を送っていたはずなのよ、過去はどうにもならない、だけど、ここからの人生は胸を張って生きていって欲しいのよ」諭すように話す彩子の思いが慎吾に突き刺さってくる。
( そうだ、彩子さんの言うとおりだ、俺の人生なんだ、彩子さんが諦めていないのに、俺が諦めてどうするんだ)
「すいません。こんなに思ってくれているのに、諦めようとしていました。本当にすいません。どうなっても構いません。彩子さんの思ったように進めてください」
慎吾が微笑むと
「ごめん、本当は弁護士失格かもしれない、あなたの気持ちを優先するべきなのかもしれない、でも…… 」
「彩子さん、大丈夫です。あなたが導いてくれた道だから、どんな結果になっても大丈夫です」
彩子はこの言葉に救われるような思いだった。
彼女は、もし上手くいかなければ、3千万は、何年かかってでも自分が賠償しようと思っていた。
「ありがとう、慎吾君が納得してくれて、すっきりした。明日から、準備を進めるから」
「お願いします」
「うん、じゃあ、景気づけに居酒屋に行く?」彩子はなぜかうれしくて、飲みたいと思ってしまった。
「えっ、ええ、うれしいですけど、またキスしてくれるんですか?」
「はははっはは、今日は絶対に一杯で止めるから大丈夫よ」