彩子の思い
その1週間後のことであった。
川本の事務所を訪れた慎吾が
「川本さん、色々ありがとうございました。とても感謝しています。でも、もうここまでにしませんか。いくら考えてもどうにかなるとは思えないです。吉田のあの携帯を手に入れなければ何もできないです。ここからはあなたに迷惑が掛かってしまう。」
思いつめたように言葉にすると
「何を考えているの……?」川本は胸騒ぎをどうすることもできなかった。
「いや、何かを考えているわけじゃないです。でも…… 」
「でも、どうしたの?」
「真実がわかっても証拠がない。証拠がないっていうことは完全犯罪ですよね」
「そうとは思わないけど……」
「でも、証拠がないんだからどうしようもないですよ。完全犯罪なら、神や仏は許すんですよ。見て見ないふりをするんですよ、それだったら俺だって……」
彼が唇をかみしめたその時だった。
「馬鹿っ! なんでそんなこと言うのよ、馬鹿っ…… 」
川本が瞼に涙を浮かべ、声を荒げた。
「か、川本さん……」驚いたのは慎吾の方だった。今まで意識して彩子さんと呼んでいたのに、突然、川本と言う姓が出てしまった。
「なんでそんなこと言うのよ、ここまで来て、なんでよ」
「川本さん……」彼は言葉が出なかった。
「なんで、自棄を起こすのよ。そんなことしてお父さんやお母さんが喜ぶと思うのっ、ありがとうって言ってくれると思っているの! もし、あんたが手を汚すようなことになったら、私だって弁護士なんてしていられないわよ、あんたの背中を押したのは私なんだから!」
零れ落ちる涙をぬぐいもしないで、懸命に訴える川本の渾身の思いが伝わってくる。
「……」
慎吾は、川本が取り乱したのを初めて目の当たりにして、はっとした。
中杉に会って以来、罪を犯してでも、彼を地獄に落としてやりたいと思い続けていた彼は、川本の涙に俯いてしまった。
「そりゃ、再審請求は難しいかもしれない。でも、何か、世論を動かすことができる何かが一つでもあれば、絶対に無実は証明できる」
「すいません…… とんでもないこと考えてました」慎吾が目を上げると川本はほっとして体の力が抜けていくのを感じた。
「何かあったの?」
「中杉に会ってきました」
「えっ、本人に会ったの……!」
彼は中杉とのやり取りを説明した後
「あんな屑みたいなやつに、『さすが犯罪者の息子だな』って言われて、もう、はらわたが煮えくり返って、どうしようもなくなって…… 」
「そう…… でも、ひとこと相談して欲しかったよ。あいつを追いつめるのは、まだ早い。それにあいつは大した男だと思うよ。あれだけの事件を仕組んでのうのうと生きているのよ、一筋縄ではいかない」
「……」
「まっ、だから君もどうにもならないって思ったんだろうけど…… 」
「はい、その通りです」
「だけどね、吉田は違う。吉田はきっと落とせる。今、そのシナリオを考えているの、近いうちには彼女のところに行ってくる。だから、もう少しだけ待って、絶対に軽率なことはしないって約束して、お願い」
川本に確信があったわけではなかったが、彼女は、とんでもないことを考えていた慎吾に慌ててしまった。
「はい、本当にすいませんでした。こんな良くしていただいているのに…… 本当にすいません」
帰宅した慎吾は涙にぬれた川本の大きな瞳を思い出していた。
父親の事件以来、こんなに心を打たれたことはなかった。誰かが自分のために涙を流してくれる、誰かが懸命に自分を制してくれる、おびえながら俯いて静かに生きて来た彼の中で、弁護士としてではなく、女性としての川本彩子がその色を濃くしていった。