憎しみはクライマックス
川本と別れた彼は、何を見ても何を聞いても、所詮他人には言えない世界の話で、言ったとしても信じてはもらえない、結局、証拠がなければ川本だって何もできない、そんな焦りの中で、彼はついに、中杉開発の社長に会ってみることを決意した。
( 人に罪を擦り付けているのだから、正常ではいられないはずだ、吉田だってあんなに動揺していたんだから…… )
秘書から、橋本慎吾の友人と聞いた社長の中杉一郎は、先日の吉田由紀子の件もあったため、会ってみようと思った。
挨拶の後、
「お忙しいのに申し訳ないです。…… 実は、先日、同級生から橋本慎吾君が亡くなったことを聞いて、驚いています。 何かご存じのことがあれば教えていただけないかと思いまして…… 」と、慎吾が切り出した。
「どうして、私がそんなことを知っているのかね、私は被害者だよ。犯罪を犯した者の家族の情報なんて知るはずがないだろう 」
「やはりご存知ないですか、すいません、もしかしたらと思って…… 」
「君は事件のことを調べているの?」
「えっ、いや、事件の真相はわかりませんが、友人が亡くなったのを聞いて…… お母さんの葬式には行ったのですが、それ以来、彼には会っていなくて、突然、の話だったもので驚いて、本当に亡くなったのかと言うこともちょっと疑問に思っていて」
「ほおー、それはどうしてかね?」
「彼は、絶対に父親の無実を証明するって言っていたんです。」
「無実? 」
「はい」
「君、裁判は決着しているんだよ。再審請求でもするつもりなのか?」
「い、いえ、私に言われても、そこまではわかりませんが……」
「ああ、すまん。確かに、そうだな」
「私も、最初は、あの橋本君が? って思ったんだよ。でも、警察も自信をもって起訴したし、裁判でも、彼が犯人だと確定してしまった。おまけに彼の奥さんは家を売って3000万円を弁償したんだよ」
「でも、それは止むを得なかったのではないでしょうか、彼の母親は、最後まで無実を信じていたらしいです。夫が犯人だと思って弁償したわけじゃないと思うのですが……」
「やけに詳しいね」
中杉は、この男は橋本の息子、慎吾だろうと思ってはいたが、なぜ今頃動き出したのか、そこのところが不可解だった。
( 何か、証拠でもつかんだのだろうか、いや、知っているのは健二と由紀子だけだ。健二は絶対に言うはずがない。由紀子だって、この前の電話じゃ、何かを言ったような様子はなかった。
なぜ今頃……? )
「ええ、慎吾が言っていたんです。最後に会った、お母さんの葬式の時に……」
「何を言ってたんだ?」
「真実は、慎吾のお父さんの言っていた通りだって…… 吉田由紀子と話している間に、後ろから芝山っていう人が、睡眠薬を嗅がしたんだって…… 最初からアタッシュケースにお金は入っていなかった。柴山はそのことを知っていたけど、吉田は知らなかったって…… 」
この瞬間、中杉の目が大きく見開かれたのを慎吾は見逃さなかった。
「慎吾君、」
「えっ」
「君は戸田慎吾だろ?」
「いや、私は……」
「下手な芝居は止めろ!」
「金が入っていなかったということが何を意味するのか分かっているのかね? 君が父親の無実を証明したいと思って動くのは、それは仕方ないだろう。でも、君は私が真犯人だって言っているんだぞ、こんな侮辱が許されるのか!」
「あなたが犯人かどうかは知りません。でも、確かな情報です」
「だいたい、どこからの情報なんだ、言えるものなら言ってみろ」
「それは言えませんが、一部始終を見ていた人がいるんですよ」
「ふん、いるわけがない、そんな奴がいるんだったら、証言するはずだ、でたらめ言うんじゃないよ」
「そうですかね、でたらめですか? アタッシュケースにお金が入っていないまでなら、まあ想像ができますよ。でも、そのことを芝山は知っていたけど、吉田は知らなかったなんて、誰が想像するんですか?」、
まだ若い慎吾に威圧感はなかったが、それでもあまりにも詳細なことを知っているため、中杉は返答ができずに慌ててしまった。
「ふん、さすが犯罪者の息子だな、家族のことがあるから、できるだけ騒がないようにしていたんだ。本当はもっと罵倒してやりたかったけど、お前たちのことを考えて、沈黙していたんだ。それを、私が犯人だせなんて、良く言えたものだな」
中杉にもいくらかの罪悪感はあった。しかし、焦ってしまった彼は、侮蔑の言葉を選択してしまった。
慎吾はこの言葉にはらわたが煮えくり返りそうだった。俯いて唇をかみしめると握り拳に力を込めたが、何も言わなかった。
「これ以上、訳の分からないことを言うのなら、弁護士が動くことになるからな、お前の会社にも抗議そせてもらうぞ、未来都市㈱ だったかな?」
( 調べていたのか…… 吉田の話で不安になったのか……)
「どうぞ、好きにしてください。次に来るときは、証拠を持ってきますので…… 」
会社を後にした慎吾は、【さすが犯罪者の息子だな】と言った中杉の言葉が耳から離れなかった。
彼は唇をかみしめ、目頭が熱くなるのを懸命に耐えながら歩き続けた。
他人を犯罪者に仕立て、のうのうを生きている悪人に、犯罪者呼ばわりされた彼の頭の中で何かがプツンと切れてしまった。
完全犯罪だ、あいつらは完全犯罪をやってのけたから証拠がないんだ。完全犯罪なら許されるんだ。
神や仏は、完全犯罪をやってのけた奴は許すんだ。
そうだろ、彼は天を見上げて悲しい笑みを浮かべ、殺してやりたいほどの憎しみを中杉に抱き始めていた。
彼は父の事件以後、父親を遠ざけ、自分が橋本貴文の息子であることを隠して生きて来た。
少なくても、会社に暴露のメールが届くまで、彼はそう生きていくしか道はないと思っていた。
しかし、川本に背中を押され、調べ始めた頃、もし、父親が冤罪であれば、もうこそこそと生きていく必要はない。胸を張って生きていくことができるかもしれない、漠然とそんなことを思っていた。
だが、父親が無罪であることを確信した今の彼は、その無念を晴らすこと、恨みを晴らすことだけに執着してしまい、証拠が見当たらない中で、
法が裁いてくれないのなら、俺が裁いてやる!
彼はそんなところまで追いつめられていた。
一方、慎吾が立ち去った後、中杉は、慌てて吉田由紀子に電話を入れた
『由紀子、この前、お前の所に来た奴は、橋本の息子だ、変なことは言っていないだろうな』
『ええっ、死んでいないの! 』
『今日、俺の所にやって来た。慎吾の友達だって言っていたけど、間違いない。何かを知っているみたいだった。でも、健二とお前しか知らないんことだ。おそらくは想像で言っているんだろうけど、もう相手にするんじゃないぞ』
『わかったわ』
『昔の証拠なんて、持っていないだろうな、命取りになるぞ、持っているのなら早く処分しておけよ』
かつて、事件の直前、吉田は中杉から指示を受けたことを録音していた。
いざという時には、これを使おうと考えていたのだが、店の開店資金、その後の運転資金も、中杉が気持ちよく応じてくれたため、彼女は、これを表に出すことはなかった。
『そんなもの、何も持っていないわよ』
吉田はそう答えたものの、
( この男はまた嘘を言っている、私が何か持っていることに気づいて、証拠を処分させようとしているんだ…… いざという時には、甥の芝山と口裏を合わせて、私に全て押し付けるつもりかもしれない、また、私を騙そうとしている )
もう中杉の言っていることは信じられないと思っていた。