酒乱の女
そして二日後、午後7時、慎吾は初めて、川本の事務所を訪れて驚いた。
テレビなどで目にする弁護士事務所は、どちらかと言えば、高級感があって、自分には少し場違いかもしれないというイメージを持っていた彼は、古い店を改造したような事務所の入り口は引き戸で、中はあまりにも殺風景で、彼は愕然とした。
デスクで書類に目を通していた川本は、
「驚いたでしょ」目を上げると微笑んだ。
「えっ、ええー、ほんの少し」
お目当ての居酒屋は、歩いて5分ほどのところで、壁際に席を取った二人は、一瞬目が合って、慎吾はドキッとした。
何かお礼をしたいという気持ちが慎吾にあったのは事実なのだが、それにもまして、彼はこの川本彩子という女性にすごく興味があった。
かつて中学3年の夏休み、彼は、近所の女子大生が夏休み限定で開いた英語の塾に通ったことがあった。
その春、大学に入学したばかりの彼女は、とても明るくて、彼はそのきれいなお姉さんに勉強を教えてもらえるのがとてもうれしかった記憶がある。ただ、その頃の歳の差4歳は、とてもかけ離れていて、まさに大人と子供という感覚があったが、今、25歳になった彼にとって、4歳という歳の差は、決して遠い存在とは思わなかった。川本のふとした仕草に、かわいいと思うことさえあって、彼は、自分の思いに戸惑っていた。
「川本さんは、彼氏がいるんですか? 」
「聞きにくいこと聞くのね」川本が微笑むと
「すいません、ちょっと気になったもので……」
「いないわよ、こんな仕事しているとね、誰かとお付き合いしたとしても、維持していくのが難しいのよ」
「でも、お互いに好きになれば、すれ違いがあっても……」
「なかなかね、そうもいかないのよ、向こうが絶対に一緒に居て欲しい時に、こっちは依頼者に会わなくっちゃいけなかったりすると、『どっちが大事なの?』って、そんなことになるのよ」
彼女は、別れた日のことを思い出していた。
「えっ、そんな理由で別れたんですか?」
「慎吾君、君、鋭いね。相手がいたことも話していないのに、よく、わかったね」
「なんか、川本さんを見ていると、誰かを助けることしか考えていなくて、自分の幸せなんて考えていないようにみえます」
「自分の幸せね…… 考えてはいるんだけど、なんか遠いのよね」
「ところで、先生の彩っていう字、とても素敵ですよね」
「えっ、彩って、【いろどり】のこと?」
「はい、あの【彩】っていう字、大好きなんです。中学の時、彩花っていう女の子と、名前が好きで付き合ったことがあるんです」
「へえー、面白いね。それで続いたの?」
「いや、なんか続けていくと、【彩】っていう文字のイメージが悪くなりそうで、すぐに別れました」
「ははっはは、慎吾君って、面白いね、うちの実家にも同じようなのがいるよ」
「えっ」
「親父がね、【彩】っていう字が好きでね、それだけの理由で彩子って名付けたのよ」
「そ、そうなんですか……! 」
「だけどさ、それだったらせめて彩花とか、彩奈とかさ、せめて彩、一文字にして欲しかったよ。彩子って、なんか昭和の臭いがぷんぷんするでしょ」
「ははっ」
「何がおかしいのよ」
「いや、でも、彩花とか彩奈っていう感じじゃないですよね」
「はあっー、そんなかわいい感じじゃないってか?」
「いや、そうじゃなくて彩子さん…… あっ、ごめんなさい」
「いいわよ、これからは一心同体でやっていくんだから、彩子って呼び捨てにしてもいいわよ」
「そ、そんな無茶な……」
「それにね、【先生】って呼ばれると、なんか20歳くらい年取ったような気がして嫌なのよ」
「そんなものなんですか? なんか【先生】って呼ばれるの、かっこいいですけどね」
「私は嫌なのよ、だから【先生】って呼ばれるくらいなら、【彩子】って呼び捨てにされる方がましよ」
「なんか、先生って、あっ、いや、彩子さんって変わっていますよね」
「よく言われるけど、自分じゃわかんないのよ」
「テレビなんかで、30歳位の切れる女性弁護士ッて、ブランド物の高いスーツ着て、きりっとしてて、とても俺なんかが話しかけれるような感じじゃないけど、彩子さんは、なんか、高いところにいるのに下に降りてきてくれているようなところがあって……」
「その弁護士だから高いところにいるっていう概念はおかしいと思うよ。弁護士だって人として最低なやつだっているんだから……」
「まあ、でも、一般的には社会的地位のある人だから……」
「そんなことないわよ」
「まあ、彩子さん、そこはいいじゃないですか、それより何か飲みませんか?」
「いや、私は止めとく、慎吾君はどうぞ」
彼女は自分が酒癖の悪いことを良く知っていた。昔、わからなくなるまで飲んでしまって、友達から敬遠されるようになったことがあって、それ以来彼女はできるだけ外で飲むことは控えていた、仮に飲んでも意識がしっかりしている間に店を出るようにしていた。
「私ね、飲みだすと止まらないのよ。最近は家で飲んでいても知らない間に眠ってしまって」
「大丈夫ですよ、眠ったら送っていきますから……」
「えっ、そうなの? 」
出てくる料理がおいしくて、彼女は焼酎が飲みたくてしかたなかったのだが、それを懸命に堪えていた。
しかし、慎吾が懸命に進めてくれるため、つい、( まっ、いいか、じゃあ一杯だけ)と思ってしまった。
「そこまで言ってくれるんだったら、じゃあ、一杯だけ、焼酎のお湯割り、レモン乗せてもらってね」
飲み始めると、川本の口がさらに流ちょうに、そして早口になった。
一杯だけが二杯、三杯となり、四杯目を注文する頃には目は座ってしまい、慎吾は慌てた。
「おい、慎吾!」
「は、はい」
「お前さー、グジグジ言うんじゃないよ、親父さん信じてやれよ」
「は、はい」
「だいたいさー、おかしいよ。絶対に冤罪、ふうー、少し酔ったかな……」
そのうちに瞼が重くなり、こくっ、こくっ、となり始めたため、慌てて支払いを済ませた慎吾は、彩子を抱きかかえるようにして店を出たのだが、
「おい慎吾……」彩子は彼に身体を密着させると、両手を彼の首の後ろで結び、突然、唇を寄せて来た。
「うっ」やや中腰になった慎吾は一瞬驚いたが、ふらふらしている彼女を抱きしめるように、彼も彼女に応えた。舌を押し込むと彼女も絡まってきて、歩道を歩く人の視線も気にしないで二人はしばらくの間、目を閉じたまま遠いところに行ってしまった。
しばらくすると、
「おい、慎吾、お前、なかなか上手いじゃないか、おんぶしろ」
「えっ」
「御姫様抱っこでもいいぞ」
「えっ」
いまにも眠ってしまいそうな彩子を慌てておんぶした彼は、事務所に向かいながら
「軽いなー、この人、ちゃんと食べてんのか…… 」ふとそんなことを思ったが
「ちょっと、いやいやいやいや、今のキス、何なんだ!」酔いのさめてしまった彼は慌ててしまった。
すれ違う人が微笑みながらふりむいたが、慎吾にはそれを気にする余裕もない。
しばらく進むと
「おい、慎吾、おろせ」
「は、はい」
彼女を背からおろして
「大丈夫ですか?」振り向いた瞬間、2度目のディープキスに襲われた慎吾は目をぱちくりしながら、左手を胸にあてようと思ったが、その瞬間彼女がずり落ちそうになってしまうため、それもかなわずただ舌をからめあうことしかできなかった。
「この人、キス魔かっ!」
二度目は彩子がなかなか離れなかったため、彼は彼女をお姫様抱っこして、ようやく事務所にたどり着いたが、
「彩子さん、鍵は?」尋ねると
「空いてんだろが……」ぶっきらぼうに【おっさん】みたいな返事が返って来る。
そう言えば……
事務所に入ると
「奥だ、あっちに行け」
彩子の寝室らしき奥の部屋に入って、腰をかがめ、彼女をベッドにおろした瞬間、突然目を見開いた彼女が、また慎吾の首に手を回して、3度目のキスを迫って来た。驚いた彼はベッドのそばで跪き、彼女に応え、今度は自由な左手で、彼女の胸のふくらみをもみほぐそうとしたが、仰向けになっていることもあって、あまりにもその貧しさに、彼は慌てて左手を離すと、彼女の前髪を優しくかきあげた。
だがその時、彼女が深い眠りに落ちていることを感じた彼は、静かに掛け布団を胸のあたりまで上げると、そこに座り込んだまま、彼女の寝顔に見入っていた。
(とんでもないことになってしまったな…… こんなので大丈夫なのか? 弁護士なのに、やばいぞ、他に被害者はいないのか? ) 慎吾はそんな心配をしていた。
部屋の電気を消して、事務所に下りた彼は、デスクの上に鍵を見つけ、帰ろうと思ったが、外に出て、鍵を閉めた後、どうするか悩んでしまい、結局彼は事務所のソファで眠ってしまった。
朝方、
「ううっー、頭が痛い…… 」
事務所に出て来た彩子の唸り声で目が覚めた慎吾は、そのまま眠ったふりをしていた。
薬を飲んだ彩子が、
「ふうっー、どんなにして帰って来たんだ?」
その時、ソファで眠っている慎吾に気づいた彼女は
「あ、あんた、そんなとこで何してんの!」
慌てて飛び起きた慎吾は
「あっ、おはようございます」と微笑んだが、
「な、何してんの?私を襲いに来たの?」真面目な顔をして尋ねる彩子に
「ええっ、覚えていないんですか……?」慎吾も驚いた。
「な、なにがあったの?」彼女は首を傾げて思い出そうとするが
「うっ、いてててっ……」頭が痛くて何も思い出せない。
「昨夜、居酒屋で…… 」
「待って、言わないで……」彼女は顔をしかめて、頭痛に耐えながら昨夜を思い出そうとした。
確か、居酒屋へ行って……
そうか、飲んだのか、ううっ、痛い、だけどどうして1杯で止めなかったんだ……
そうか、2杯目を彼が注文したんだ……
やっちまったのか…… あれは直っていないのか、参ったな……
「あっ、あんた、私の醜態を見たのね」
「そんな、醜態だなんて、ただキスしたくなるだけでしょ」
「くかっー、やっぱり……」
「何杯、飲んだの?」
「4杯目の途中で…… 」
「よ、4杯!」
「はい、3杯目からはほぼロックでした……」
「げげっ、あ、あんた、私の胸、触っていないでしょうね」
「えっ、そ、そんなことは……」彼が俯くと
「さ、触ったの!」
「す、少しだけです、」
「ど、どこで触ったの」
「ベッドに横にして……」
「はあっー、あんた、訴えるわよ」
「先生、それは冤罪です。俺は無理やり引っ張られて……」
「『先生』って言うなっ、馬鹿!」
「す、すいません」
「私の秘密、誰かに話したら殺すわよ」
「そ、そんな…… でも歩道で…… みんなが見てましたよ」
「そっちじゃないわよっ、胸よっ!」
「そ、そっちの話ですか!」
「そうよっ!」
「でも、胸が小さいくらい、なんてこと……」
「言わないでっ!」
こんなやり取りの後、帰途に就いた慎吾はなぜかうれしかった。
胸が小さいことなど、なんてことはない。
問題はキスの方だろう……
歩道では、彼女の顔はわかりにくかっただろうし、まっ、大丈夫だ、だけど、今までどうしてたんだろう? 外では飲まないようにしていいたのか…… じゃあ、どうして昨日は飲んだんだ?
彼は彩子の秘密を知って、そこに小さな二人だけの世界があるような錯覚に心が弾んだ。