刹那、彼女以外の音が消える
はるか遠く、地平線すれすれまで沈んだ夕日の手前を分厚い雲が横切った。
途端に辺りは薄暗くなり、夜の気配が訪れる。
地平線まで伸びていった線路は冠水しており、ホームを出ていった後の行き先は誰にも分からない。
寂しい駅に張り詰めた水面が静かに揺れた。
――オーシンツクツク、オーシンツクツク……
さっきから遠くでツクツクボウシが鳴いている。
「雲……かかっちゃったね……」
少年は少し離れた所に立つセーラー服の少女に視線をやった。
彼女は遠くの消えかかった夕照を眺めている。
少し強めの風に彼女の肩口まで伸びた黒髪があおられた。
「ああ。けど俺は嫌いじゃない……かな」
少年は首をもたげ、彼女への視線を上空に向けた。
夕陽と闇のグラデーションが藍鼠色の海をつくっていた。
そして、その海原を小さな雲片が群れを成して泳いでいる。
くすっ、と少女が笑う。
「嘘つき」と小さく呟くが、彼には聞こえない。
「ね、✕✕✕君。もし、私がこの世界から居なくなっちゃったらどうする?」
少年は唐突に掛けられた質問に眉をひそめた。
視線を彼女に戻す。
彼女は彼の方を向いていた。
両手で革製の黒いスクールバッグを手前にぶら下げている。
薄暗いので、バッグの持ち主が今どんな表情をしているのか彼には読み取れない。
「別に」
彼は問いの答えにすらならない返事をよこす。
「——そっか」
少しの間の後に彼女は小さく納得した。
それが彼女の求めていた答えだったのだろうか。
今の彼にはそれが分からない。だが……
「なんか嬉しいな」
彼女の声音は弾んでいた。
反射した夕光で僅かに見える彼女の口元は柔らかく微笑んでいる。
「私もね、✕✕✕君が居なくなったら寂しいよ」
「……?何言って……」
――ブツッ
『——えー間もなく、電車が参ります。ホームにいるお客様は白線の内側までお下がり下さい』
少年の言葉はスピーカーから発される駅員のアナウンスに掻き消された。
彼女の後ろ、水面の向こうに一点の光が見えた。段々と大きくなりつつある。
それは水面を叩きながら走る煉瓦色の電車だった。
「私、帰りはこれだから」
「待て、ゆか。俺は……」
「いいよ、✕✕✕君。幼馴染だもん。分かるよ」
少年の言葉の続きを彼女は望まなかった。
彼女の後ろから射してくる電車のライトの眩しさに彼は目を細めた。
彼女は彼の傍に歩み寄る。
目の前のホームに煉瓦色の電車がやかましい金属音を立てながら止まった。
唸るエンジン音がここまでの行程の労苦を語っている。
彼女は屈み、ベンチに座る彼の耳元に囁いた。
——刹那、彼女以外の音が消える。
「ありがとう……」
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――プシュー
電車のドアが空気音を立てて閉まった。
彼女は扉越しに振り返ると小さく口を動かす。
彼女が「またね」と言っているのか「さよなら」と言っているのかまでは分からない。
だが、別れの言葉であったことだけは確かだ。
彼はそのとき、胸の内に尋常ではない孤独を感じた。
「ゆか……待ってくれ、行かないでくれ……ゆか……ゆか、ゆかっ!」
電車はまた唸りを上げて動き出した。それは力強く水面を縦に割りながら遥か向こうへと遠ざかっていく。
少年に許されたのはただ立ち尽くし電車の、彼女の後ろ姿を見送るのみだった。
ただ一人取り残された少年は肩を落として呟く。
「俺は……馬鹿だ……!」
――オーシオーシオーシ、ジィーーーーー
人気のない駅にはツクツクボウシの鳴き声がいつまでも響いていた。
――バシッ、ビビビ
点けられたばかりの蛍光灯が少年の背中を無遠慮に照らした。