其ノ九
夏の終わりが、虫の声で告げられた夕暮れ時。
里美は痛めた左足首を恨めしげに見つめ、もっと怒りを込めてタブレットを睨みつけた。
『圏外』――その表記を残して、端末の画面はあっけらかんと固まり、更に十分前には無情にもバッテリーが切れた。
「文明の利器ってヤツも、こうなればただの板だわ」
泣きそうな気持ちを奮い立たすつもりで、わざと憎まれ口を叩く。
とはいえ、聞いてくれる相手は彼女の周りに誰もいない。
進学した大学で、同じゼミの先輩に一目惚れした。彼が山岳部の副部長だと聞いて、アウトドアにはちっとも縁がなかったのに、即日入部した。彼に注目して欲しくて、流行りの「山ガール」を気取り、バイト代を最新用具一式につぎ込んだ。
基礎体力の無さに喘ぎながらも、先輩の気持ちを引こうとトレーニングも頑張った。
ところが……彼は、山と男にしか興味がなかった。
「まるで道化だわ」
オレンジ色に暮れる夕日を見送りながら、唇を噛む。
山奥のひなびた温泉に誘おうと、先走って二人分登山ツアーに申し込んだが、今頃彼は「彼氏」と穂高にアタックしている。
失恋旅行にもならないが、悔しいので一人でツアーに参加した。
ところが、現地集合・解散の「宿だけ手配」のインチキツアーで、登山口の「山麓駅前」に来てみたら、旅行会社の担当者と名乗るオヤジに宿のチケットだけ渡された。
そのまま帰るのも虚しかったので、行き掛かり上、温泉に浸かって泣いてやろうと入山した――が、午後になって道に迷った。
「地図では枝道なんてなかったのよ」
誰に愚痴るともなく呟く。
迷った挙げ句に足を滑らせ、左足首を捻挫した。もう踏んだり蹴ったりだ。オマケにスマホは圏外で、SOSも居どころも送れない。
「こんな所で野宿か……」
低い笹藪に囲まれているが、近くに木もなく吹きっさらしだ。20m程動けば低木が群れているが、足の痛みが酷く、這うこともままならない。
太陽が姿を消すと、山の空は急速に夜が来た。
せめて星空に癒されるか――頭上へ視界を移した時、
……ガサガサガサッ
どこからともなく、笹が激しく擦れる音が聞こえた。
まさか、熊か猪か――?!
「……お嬢さん、大丈夫かい?」
「ひゃああ?!」
幽霊でも見たような情けない叫び声を上げ、身体を縮める。
「道に迷ったのかい?」
「――あ、人……」
里美の前に現れたのは、30代半ばとおぼしき男性だ。山高帽を被ってはいるが、茶色いベストをさらっと着た姿は、ちょっとそこらまで散歩に出かけた帰りみたいに軽装だ。手にした懐中電灯で里美の身体を照らしているのは、彼女が眩しくないようにという配慮かもしれない。
「俺は、この先に住む喜助っていう者だ」
「もしかして、温泉宿の方ですか?」
「温泉? いや、俺は猟師で、狩りから帰る所だ。お嬢さん、歩けないのかい?」
「はい……足首を捻ってしまって」
冷静になると、今しがたまでの自分の態度に顔から火が出そうだ。里美は思わず俯いた。
「そりゃ辛いだろう。家内が手当てしてくれるから、家に来るといい」
「本当ですか?!」
助かった。ついてない一日の終わりに、何て幸運が舞い込んだことだろう。
それに男の一人住まいに行くのは怖い気がしたが、奥さんがいるのなら安心できそうだ。
「ああ、麓に連絡するから、迎えが来るまで休んで行ってくれ。さ、遠慮せず、しがみついて」
男は彼女に広い背中を向けた。一瞬、躊躇ってから、里美は筋肉質の両肩に手を置き、グッと力を込めた。それを感じた男は、静かに立ち上がると、彼女を背負った。見知らぬ男の背に揺られながら、その力強さにドキドキしている自分に気付く。
馬鹿だな。こんなオジサンにときめいている?
それに、奥さんがいるって言ってたじゃない。
失恋したての弱った心のせいだろう。里美は苦笑いしつつ、感情を自制するように、天空を仰いだ。
いつしか東の方角から幅広の花弁のような白い月が覗いている。
「すみません、あたし重いでしょ?」
10分も沈黙が続くと、何だか気まずく、里美はポツリと問い掛けた。
「いいや。昨日捕まえた猪より軽いよ」
「えっ、猪?!」
予想外の返事に、頓狂な声が出た。
「ちょうど今夜は牡丹鍋なんだ。家内の料理は旨いんで、ぜひ食べてくれ」
「はい! ありがとうございます」
里美はニコニコと明るく答えた。
自分が猪と比べられたことなどケロリと忘れ、初めて口にする野趣味溢れる鍋料理が楽しみでならない。
笹藪を越え、登山道に出た。男は「よいしょ」と里美を背負い直し、懐中電灯を消した。
突然、闇が彼らを包み、里美はギュッと男の背に身を寄せた。
次の瞬間、彼らの前に白く輝く一本道が現れた。
「――え……っ」
里美は目を丸くして、辺りを見回した。
「大丈夫、あと10分くらいで着くよ」
男は優しく背中に声を掛ける。その左手には、懐中電灯ではなく、里美の掌くらいの葉が握られている。
この人――魔法使いみたい……。
馬鹿な発想だ。21世紀の科学の時代に「魔法」なんて。
だが、科学の粋を極めたスマホが役に立たない世界では、科学で説明の付かないルールが支配しているのかもしれない。
白い道の両脇は、高い木も山のシルエットも見えない。見渡す限りの草原が、波のように月明かりに揺れていた。
こんなに不思議な体験をしているのに、奇妙なことに恐怖は感じていない。元々物怖じしない性格だけれど、まるで現実感がないからだろう。
あたし……もしかしたら夢をみているのかも。さっきの笹の中で眠ってしまって、このオジサンは夢で出会っている人なんじゃないのかな。
「ほら、杉が見えるだろう? あの杉の裏側が俺の家だ」
ぼんやり考えていた里美は、示された道の果てに立つ大木をじっと見た。
良かった。『あの木の上が俺の家だ』なんて言われても、おかしくない気がする……。
「……お嬢さん? 大丈夫かい?」
「あっ、はい! あの……里美です。あたし、首藤里美って言います」
このタイミング、このシチュエーションで自己紹介するなんて。
顔が見られていないのが幸いだ。今度こそ、里美の顔は炎上中だ。
「はは……。里美さんというのか」
少し面食らったように男は返すと、辿り着いた杉の幹の裏側へ器用に回った。
すぐに、一軒家があった。
「わぁ……昔ばなしの家みたい!」
宵闇で全体の様子ははっきりしないが、屋根から壁までを、蔦の葉がびっしりと覆っているようだ。
「おぉーい、帰ったぞ!」
男は、これまた昔ばなしで描かれるような古びた木戸を叩いた。
すぐにガタガタと音がして、ガラリと木戸が大きく開いた。
男の肩越しに、細身の女性の姿がある。
美しい黒髪を弛く結い、鮮やかな藍染の着物を纏っている。自分よりやや年上だろうか。どんなコスメを使っているのか、羨ましい程の美白の肌に、色気が集中する紅い唇。同性でも溜め息が出る程の和美人だ。
ますます昔ばなしの住人みたいだ。出てきた女の外見をまじまじ見つめていると、
「……あら、可愛らしいお客様ね?」
澄んだ鈴音のような高い声がコロコロと笑い、彼女は里美に気づいて切れ長の瞳を細めた。
「里美さんと言うんだ。山道で足を挫いたんだそうだ。手当てしてやってくれるか?」
「ええ、もちろん。私は、おつたと申します。すぐに楽にしますわね、里美さん」
おつたは妖艶に微笑んだ。
喜助に背負われたまま庵の中に入った里美は、ふと――居間の片隅に立て掛けられた猟銃に気付いた。そして、この夢が覚めない悪夢かもしれないと血の気が引くのを感じた。
その夜の内に、蔦庵の葉達は燃える深紅の輝きを放ち、更に豊かにワサワサと歓喜の波が広がった。
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「……あら、着替えたの?」
縁側で柱に凭れている喜助は、見慣れた灰色の着物姿だ。
「ああ。何度着ても、どうもしっくり来ないんだ」
彼は苦笑いして、左腕をおつたに伸ばした。
襖をタン、と閉め、彼女は定位置の喜助の左側に寄り添った。
その柔らかな身体を更に抱き寄せる。
「久しぶりの若者だったな」
艶やかな髪を指で鋤きながら、官能的な唇に触れ、生命力に満ち溢れた彼女の肌を求める。
応えながら彼の背に回したおつたの指先が、背骨の右に残る砲瘡に触れた。
男盛りの喜助の胸と背には、懐かしい傷痕が残っている。松次郎に撃たれた弾が貫通して付いた砲痕だ。消そうと思えば消せるのだが、喜助がそれを望まなかった。
「たまには、あんたが補給してもいいのよ」
「まだいいよ、俺は」
彼女が悲しむから、喜助は二、三年に一度は仕方なしに補給している。
補給を拒めば、やがて身が朽ち、命は尽きるだろう。
おつたは胸の傷痕に口づけた。その口を塞いで、二人は愛しさを重ね合わせる。
大人の身体を取り戻してからは、以前より頻繁に養分を必要としなくなったが、若さを保つために年に数人は摂取している。
人間とは違う時の流れに巻かれながら、彼女との日々を続けるために、喜助はこれからも養分を運び続けていくだろう。
人の世の隣には、緩やかに四季が移ろう蔦庵があり、美しい女が住んでいる。
どんなに時代が変わっても、月夜には蔦の葉を懐に忍ばせた男が、光る道を辿って狩りに来る。
「……どうしました? お困りでしたら、家で休んで行きませんか? なぁに、この先、すぐに着きますよ――」
【了】




