其ノ八
二年前――。
おつたが霧のように消えてから、半月近く経っていた。
脱け殻になった喜助は、彼女の藍染の着物を抱いたまま、日がな縁側で過ごしていた。
日が昇ると、畑におつたの姿を想い描き、日が暮れると、彼女の着物に身を包んで横になった。
傍らに、酒が入った瓶を置き、時折思い出したように口を湿らせては泣いた。
酒の他は何も口にしていない。それでも生きていられるのは、松次郎の養分のためだろうか。
――ガチャン。
寝返りをうった拍子に酒瓶が縁側から転げ落ちた。ノロノロと身を起こし、喜助は手を伸ばし――
「……つっ!」
うっかり割れた陶器の口で指先を切ってしまった。
右手の中指から鮮血が滴る。流れるままに赤い筋を見つめていたが、徐に喜助は立ち上がり、手近な蔦の根元の土に垂らした。
……ザワ……
枯れ枝ばかりの蔦が動揺した。
「おつた……?」
『外の蔦と私は一心同体』――いつかの彼女の声が聞こえた気がした。
彼女は帰ってくると言っていた。
この蔦の命がまだ繋がっているのなら、本当に帰ってくるのかもしれない。
酒が霞ませていた頭の中が、急に澄み渡っていくようだった。
翌朝、暁の薄明かりの元、喜助は庵を包み込んでいる蔦を丁寧に調べた。
なまった身体でフウフウと鼻息を乱して、隅々まで見て回った。
そして、太陽がすっかり高くなった頃、彼は遂に『約束』を見つけた。
縁側の軒先を覗き込むように垂れ下がった細い弦先に一枚、おつたが残した『道標』が小さな三股の若葉の形で揺れていた。
それからの喜助は、夜叉になった。
道標の蔦葉を手に、近隣の集落を訪れては、人々を庵に誘い込んだ。
ある時は、秘密の賭場があると若者をたぶらかし、またある時は、色目を使って若い女を連れ込んだ。
喜助が補給した養分を取り込むには、まだ蔦の弦自体に力がないことを知ると、連れてきた獲物に酒を飲ませて酔い潰れるのを待ち、首を切り落とした。溢れた養分は、直接蔦の根元に流した。
失血した死体の処分に困るかと心配していたが、ひと眠りしてる間に彼自身が綺麗に平らげており、全く問題はなかった。
十人ばかり与えた頃、蔦に変化が起きた。
季節は秋になり、畑の野菜達は実りを吐き出して、茶色い骸と化していた。
殺風景な畑に霜が降りた朝のことだ。
喜助は初夏の木漏れ日を感じて、目が覚めた。キラキラと緑の風が薫る――。
庵の外に飛び出した喜助は、蔦全体に新芽が吹いている様子を見て、熊の如く唸り声を上げた。
身体中からほとばしる歓喜と、心臓が握り潰されるような慟哭が一度に押し寄せて、我を忘れて叫び続けた。
息が尽き、白露にむせかえってもなお、叫びの余韻が放射状に漂っている気がした。
庵が、かつてのように蔦葉で覆われるまで、更に十人の贄が必要だった。
喜助が訪れた近隣の集落では、神隠しやら妖魔やらの噂が立ち始めた。余所者の来訪にも、酷く神経質になっていた。
喜助は、もっと遠くの集落まで出掛けなければならなくなった。それでも蔦の葉は、望めば人家の見える場所に導いてくれた。目的地までの距離に関わらず、半時も光る道を歩くと、大抵の場所には辿り着いた。
やがて雪が景色を白く変えたが、季節を逆行するように蔦はますます緑の葉を茂らせ、蔦自身の弦から養分を得られるまでになった。
新月の前後を除いて、喜助は五日と開けず、餌を運んだ。
吹雪の前後は、雲の晴れ間を選ぶ必要があったが、峠や街道筋を辿ると、宿に困った旅人を容易に見つけることができた。
そうやって春を迎えた頃には、もう幾十人を喰らい尽くしたのか分からなくなっていた。
畑から雪が消え、陽気に小虫が蠢き出した、ある日。
喜助は、今年の実りに向けて、土起こしに精を出していた。この頃になると、酒で弛んだ腹も引き締まり、随分と精悍な顔立ちになっていた。
今夜は月が無いので、日中目一杯身体を動かすつもりだ。一列、畝を作ると、吹き出した汗を拭い、鈍く軋んだ腰を伸ばす。そんなことを繰り返しながら、畑の半分まで進んだ時、ふと――緑色に輝く庵が目に入った。びっしりと覆った蔦葉が陽光を全身で受け、庵全体が活き活きと歌っているようだ。
……うん? あんなもの、今まであったか……?
目を細めていた喜助だが、縁側付近の葉陰に、見慣れない塊があることに気が付いた。
訝しみつつ、塊に近づく。
よくよく見ると、それは蔦の実のようだった。葡萄色を更に濃くしたような丸い実がひとつ、壁に這った弦先で一尺近くに成長している。
普通の蔦なら紅葉の後に実を付けるものだが、この蔦に限っては、どういう生態か分からない。
喜助は恐る恐る実に触れた。固く、しかししっとりと瑞々しさが掌に馴染む感触には、覚えがある。
「……まさか……おつた、なのか……?」
腕に抱いた時のヒヤリとした肌の湿度を思い出す。 彼は跪いて、その塊に口づけた。蔦の葉達が嬉しそうにサワサワと揺れた。
その日から、喜助は葡萄色の塊に話し掛けるようになった。
慈しみを込めて、朝な夕なに優しく撫でた。
畑の隅の一本桜が花びらを散らし始めた、春の終わりの夜のことだ。
道標を手に、縁側に腰掛けて月の出を待っていた喜助の足元から、バリ……と奇妙な音が聞こえた。
最初、枝葉の擦れた音かと気にも止めない喜助であったが、小さな異音が数回繰り返されると、流石に気味が悪くなった。
縁側から立ち上がり、音の元を探そうと身を屈め――正体はすぐに分かった。
――バリ……ッ
彼が見ている目の前で、蔦の実に大きな亀裂が走る。
二尺を越える程に成長した紫紺の丸い実のあちこちが、はぜるように裂けていた。
パリ……
実の裂け目から、白い指先が覗く。小さな右手が現れ、内部からバリバリと外殻をこじ開ける。細い右腕が、更に左手、左腕が外界に現れた。
「……おつたか……?」
恐々と掛けた喜助の声に、腕がピクンと反応した。黒い髪が見えてきた。そして、殻を更に砕くようにして、両腕でグイと殻を押し、頭部から胸の辺りまで白磁のような肌が露になった。
「――喜助……さん……」
実から半身を出した格好で顔を上げたのは、おかっぱ頭の幼児だった。
見た目の年齢は三、四歳。しかし、その声はもっと落ち着いて大人びた響きだ。彼女は玲瓏な笑顔で喜助を見上げた。黒い切れ長の瞳と赤い唇は、美しいおつたの面影そのままだ。
「……帰ってきてくれたんだな」
驚きは瞬時に確信に変わり、喜助はしゃがみ込んで彼女を抱きしめる。そして、ゆっくりと丁寧に優しく引き上げる。
実の中から腹、下腹部と順に抜け、最後に仔鹿のようなスラリとした脚が出た。
「約束したでしょう? でも、あんたのおかげ。喜助さんが私を帰してくれたの」
ギュウと抱き付くおつたが大人の身体であれば、そのままひとつになる衝動を抑えられなかっただろう。
流石に幼女の身体を求める気にはならなかった喜助だが、愛しさは堪えられずに唇を重ねた。
縁側に上がり、大切にしていた彼女の藍染の着物で幼い身体をくるんだ。長い袖をヒラヒラと振り、彼女は楽し気にふふふと笑った。
「どうした?」
「だって……喜助さんの匂いがする」
幸せそうに着物に顔を近付けている。
毎夜抱いて寝ていれば、自分の匂いも移るだろう。照れ臭さをごまかそうと、そんなおつたを着物ごと抱き上げ、腕の中に閉じ込めた。
「喜助さん……」
不意に、おつたはしんみりと声の調子を落とす。
「うん?」
「あんたに随分と苦労かけたわね……この身体を取り戻すのに、どれほどの養分が必要か知っているわ」
背中から抱き締めているので、俯く彼女の表情は分からない。
「いいんだ。この先もちゃんと運ぶから、心配するな。元に戻るには、まだ必要なんだろう?」
コクリ、おつたは頷いた。
「でも……大人になるには時間ががかるの」
「お前無しで一年待てたんだ。お前が側にいるんだから、何年でも我慢できるさ」
切り揃えた後ろ髪から覗く白い項に唇を寄せる。
くすぐったそうに身をよじり、おつたはくるりと反転すると、喜助の胸に顔を埋めた。
「これからは、月に一人で十分だから……危険なことはしないで」
「そうか。分かった、気を付ける」
彼女を捕まえたまま、胡座をかいて柱に凭れる。
サラサラの髪を撫でると、安心し切った仔猫のように、喜助の広い胸の上で丸くなった。
いつの間にか、紅く細い月が、畑の上から彼らに微笑んでいた。
初夏の宵風が軒先の蔦をたおやかに揺らす。
満ち足りて幸せなのに、どこか切ない――。
喜助は、深く息を付いた。
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生温かい空気が一瞬吹き込んできて、喜助は目を開けた。
奥の部屋からおつたの気配を感じる。
程なく、襖が開いて、藍染の着物姿が現れた。
「……少し、大きくなったな」
清太の養分で成長したおつたは、身長が一尺半程に伸び、十歳くらいに見える。頷く仕草からも幼さが消え、初々しい色気が覗いた。
童顔の丸顔は、やや面長の瓜実顔になった。髪も肩を少し越え、ひとつにまとめることができるくらいに伸びて、大人びた印象を醸し出している。
おつたは真っ直ぐ喜助の元に来ると、ペタリと左側に寄り添った。彼女は酒の匂いがする彼の唇をそっとついばむ。
「喜助さん、何だか……悲しそう」
ドキリとした。不思議そうに自分を見上げるおつたを、喜助はじっと見つめる。
「ああ……そうだな」
指摘されて、自分の淀んだ心から濁りが消えていく。喜助は酷く穏やかな気持ちだった。
「――私のせい?」
「それは違う」
眉を潜めた彼女に、今度は喜助から唇を重ねた。
「お前が養分を得て大人に戻っていく。それは堪らなく嬉しいんだ」
答えながら、彼女の閉じた瞼に、涼やかな額に、柔らかな頬に、順に慈しみを込めて口づける。
「身体中が喜びで一杯になる。……それが悲しい」
「……分からないわ」
おつたは迷子のような戸惑いを湛えた素直な瞳で、小首を傾げた。
喜助は静かに微笑んだ。
「いいんだよ。お前は優しいな」
そして、彼女をそっと壊れ物でも扱うように胸に抱き、伸びた緑髪を何度も何度も撫でた。
分からなくていいと言われた彼の気持ちは理解できなかったが、おつたには自分に向けて溢れ出る愛しさだけは感じ取れた。
畑の薬草の上を舐めるように吹き抜けた凱風が、庵を覆う濃緑の蔦葉をまろやかに揺らして消えた。




