其ノ六
喜助が起き出したのは、日が午後に傾いてからのことだった。
「間に合わせですまないけど……少し待っててね」
藍染の着物に包まれたおつたは、大根を手にしたまま、土間の台所から振り向いた。
養分と喜助を得た彼女は、生気と色香に溢れている。
軽く結い上げたうなじに視線が留まり、ドキリと情がそそられる。まだ身体の芯に熱が燻っているらしい。明け方から何度も抱いたのに。
心底惚れているのだと、喜助は苦笑いした。
「ああ……すまねぇな。ちょっと厠に行ってくる」
出掛けにうなじに唇を寄せると、おつたはくすぐったそうにクスクス笑った。
木戸を開けると、日差しが眩しい。
庵を覆った蔦は、深緑の大きな葉が生き生きと茂っている。夕べ戻ってきた時は、褐色に枯れ掛けていたのだ。確かにおつたの状態と繋がっているのだ、と改めて納得した。
庵の側を回り、裏の畑に出る。おつたは身を細らせながらも手入れしていたのか、野菜達は夏の恵みを浴びて実りを蓄えている。
畑から二間ほど離れた隅に小屋があり、そこが厠だ。
小便を済ませて小屋を出ると、小川から汲み溜めた手水場で手を濯ぎ、着物の袖で拭う。それから、大きく伸びをした。
「――喜助」
突然名前を呼ばれて、ハッと振り返る。畑から厠に続く一本道の途中に、髭面の大男が立っていた。
「松次郎?! どうして、ここに?」
「お前の後を付けて来たんだ」
同い年の友人は、ニタリと得意気に笑みを浮かべた。
「馬鹿なことを! 俺は、もう帰らないんだ。村に帰れ、松次郎!」
「命令するな、喜助!」
野太い声が怒気を含み、松次郎は抱えていた猟銃を構えた。
「――松次郎?!」
銃口は、真っ直ぐ喜助を狙っている。その全身から激しい敵意が放たれている。
「村長は、お前を跡目にするつもりだ! この山あいの辺鄙な村で、嫁を取れる男は少ねぇ! 地位も女も手に入れるなんざ、お前ばかりいい思いをさせるものか!」
一歩、二歩……ジリジリと間合いを詰めながら、猛々しく叫ぶ。
喜助は愕然とした。嫉妬なのだろうか。仲の良かった幼なじみの友人が、殺意を向けるほど、自分を憎んでいるなんて。
「松次郎、待ってくれ――!」
バアァ……ン!!
青冷めた喜助を、容赦なく銃弾が貫いた。胸に焼けるような痛みが広がり、鮮血が溢れてくる。撃たれた反動で仰向けに倒れた喜助は、喉に流れた血で息を詰まらせながら、おつたの姿を強く脳裏に描いた。
青空がみるみる暗くなっていき、ふつりと意識が消えた。
-*-*-*-
バアァ……ン!!
「――喜助さん?!」
銃声が近い。
おつたは囲炉裏に掛けた粥の鍋を混ぜる手を止めた。居間の隅に視線を走らせ――喜助の猟銃が立て掛けられているのを確認する。
ガタガタッ……!
閂が外されたままの木戸が乱暴に開けられる。
「……邪魔するぜ」
木戸を後ろ手に閉めながら、髭面の大男がズカズカと踏み込んできた。
「誰……?!」
喜助の猟銃を手に、おつたは勇ましく侵入者を睨んだ。
「へへ……おめぇがおつたさんか」
松次郎は動じずに、草履も脱がず、土間から畳に上がった。
「おれは松次郎だ。村では喜助の、幼なじみだ」
「松次郎……さん?」
喜助の知り合いと聞かされ、おつたは戸惑った。
「――あっ?!」
その隙をついて松次郎は、思いの外素早く突き進むと、おつたから猟銃を取り上げた。
そしてそのまま彼女の両腕を掴み、クルリと腰の辺りで後ろ手に捻ると、その手首を握った。男の毛深い腕が、華奢な腰に回される。
「何を――」
白い顔から益々血色が引く。松次郎は襖を開けて、敷きっぱなしの布団を見るとニヤリとした。
「話通りのいい女だぜ。喜助は戻らねぇ。おれと懇ろになろうぜ、おつたさん?」
「戻らないって、まさか……あんた、喜助さんを……」
抱いた腰を更に引き寄せ、彼女を吊り上げる格好にして、一気に布団に運び込む。
ドサリと布団に倒したおつたを、逃げないように抑えつける。
「へへ……たまんねぇな」
髭面が下品に笑い、雑な手つきで帯を解き、着物の胸元をはだく。
「喜助は死んだ。撃ち殺してやったぜ」
おつたは目を見開き、黒い魅惑的な瞳を震わせた。
やはり、さっきの銃声は――。
襖ごしの蔦葉達がザワザワと揺れている。
ザワザワ……ザワザワ……、庵を覆う蔦全体が震えている。
「……松次郎さん、と言ったわね?」
艶かしい兎の子を捕えた熊のように、おつたの豊かな乳房を鷲掴みにしながら、松次郎は顔を上げた。
抵抗しない所をみると、女も諦めたか――?
おつたは赤い唇をゆっくり笑みの形に歪め、
「あんたの方が力強いわ。たくましい男が、好き」
そう言いながら、受け入れるように、自ら両腕を男の毛深い背に回した。
「へへ……話が分かるじゃねぇか……たっぷり楽しもうぜ」
ニタリと笑むと、彼女の唇に吸い付いた。おつたはその頭をギュッと抱き締める。
「んっ……? 何だっ!?」
いつの間にか、横の襖の隙間から蔦の弦が何本も入り込み、おつたに被さる松次郎の四肢に巻き付いていた。
「……ヒッ?! うわああっ!」
気付いた松次郎は、振りほどこうとジタバタと手足を振り回す。引き千切ろうとするものの、あっという間に張り付けのように大の字に締め上げられた。
「――うううーっ!!」
首から口までが更に巻き付かれ、叫び声がくぐもった。
松次郎の下から這い出すと、おつたは唇をグイと手の甲で拭った。
「喜助さんが本当に死んでしまったら、許さない」
はだけた着物を掻き纏めると、手早く帯を締め、おつたは外に駆け出した。
銃声は、近かった。
見当を付けて畑に向かうと、厠の前に喜助の灰色の着物が見えた。
「喜助さん!! 喜助さんっ!」
駆け寄ったおつたは、胸から腹まで着物を赤黒く染めた喜助の身体に触れた。
まだ生暖かい喜助の身体に鼓動はなかった。失血が多すぎる。
「いや……死なせやしない――!」
おつたは喜助の両腕を掴み、自分より大きな身体を背に負った。ガクン、と膝を付いたが、全身に力を込めて立ち上がる。よろめきながら、一歩一歩、庵に引き返した。
彼女自身のエネルギーが急速に奪われて行く。
一歩ごとに髪の艶が消え、肌に皺が現れた。
半時近くかかって漸く庵に辿り着いた時には、おつたは白髪を振り乱し、肌の弛んだ老婆の姿になっていた。
「んぅーーっ!?」
寝室で弦に抑え込まれた松次郎は、変わり果てた彼女の有り様に、再びもがきあがいた。
「松次郎さん……喜助さんを返してもらうわ」
背負う力もなく、引きずってきた喜助を寝室の畳の上に寝かせ、おつたはへたりと尻餅を付いた。座り込んだまま、彼の頭を膝に乗せ、青紫の唇に息を吹き込む。バラバラと彼女から白髪が何本も抜け落ちた。
すると、喜助の身体がビクンと跳ねて、右足の膝下辺りからスルスルと弦が現れた。脛に巻き付いていた傷痕から離れ、畳の上をうねうねと蠢いている。
松次郎は脂汗をボタボタと溢しながら、微かに首を振っている。
弱々しく這い出した弦は、程なく獲物の存在に気付いたらしい。松次郎に向かって一直線に伸び出した。そして、まだ弦に覆われていない松次郎の胴にクルクルと巻き付いた。
弦に付いた無数の吸盤が腹を背を喰い破り、養分をグングン貪った。
言葉にならない松次郎の叫びが響く。養分を得るにつれ、弦に赤い葉が生えてくる。ワサワサと蔦の葉が生き物のように松次郎を覆い尽くし、彼の叫びもすぐに途切れた。
血を吸い切ると、深紅の葉の中からは、肉や骨すら砕き喰らう、ゴキ……ボリッという不気味な音だけがしばらく続いた。
喜助のために、激しい飢えを堪えながら、おつたは優しく微笑みを浮かべていた。
襖から伸びた弦が巻き付く対象を失った頃には、庵の外の蔦はすっかり葉を落とし、ただ乾いた枯れ枝を風に揺らすのみだった。
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「――う……」
薄暮の中、喜助は瞼を開けた。頭がフラフラする。それよりも身体中の節々が酷く痛む。
一体、何が――?
頭を押さえながら、ゆっくり身を起こす。
ズキン、と鈍い痛みが走り、思わず胸元を見て――ギョッとした。
着物の前が、暗褐色に染まっている。
そして、思い出した。
「生きて……いる?」
突然現れた松次郎に、猟銃で撃たれた筈だ。
あれは……厠の前だった。
庵の中、寝所にいることに混乱した喜助は、周囲を見回した。
襖の前に、見覚えのある着物が落ちている。松次郎がいつも纏っている白と茶の市松模様の着物だ。確か、喜助を撃った時も着ていた覚えがある。
更に、この状況には、既視感があった。弥太郎の客間で迎えた朝、長兵衛伯父が消えた時とそっくりだ。
また俺は、喰ってしまったのか……?
ガクリと項垂れた喜助は、視界の端に蹲った黒っぽい塊に、もう一度ギョッとした。
「……まさか……おつたか?!」
這い寄ると、やはり彼女の藍染の着物だ。
しかし、着物の中には――干からびたような小さな老婆が、微笑みを浮かべ息絶えていた。
髪はほとんど抜け落ち、おつたの面影は微塵もない。それでも、喜助は確信した。
「おつた! おつたっ!! 俺を置いて行くな、おつたーっ!」
気も狂わんばかりに喜助は老婆を抱き締めた。
皺くちゃの身体は、乱暴に扱うと、砕けて消えてしまいそうだ。
溢れる涙を抑えもせずに、何度も何度も名前を呼んだ。
冷たさもない、体温のない彼女の身体はカサカサ軽く、枯れた植物のようだ。
喜助は血でぐっしょり濡れた着物を硬く絞り、滴った液体を、おつたの唇に流した。一滴、二滴……、赤黒い滴が僅かに開いた唇の隙間を伝って消える。
着物から搾ることができなくなると、彼は台所に駆けて包丁で左手の親指を傷付けた。
ぷくりと盛り上がる鮮血を溢さぬように寝所に戻ると、唇をこじ開けて流し込んだ。
彼女に誓ったように、身体中の血を失っても構わない――祈りながら、数分が過ぎた。
――ペロリ
「おつたっ?!」
口に含ませた親指の先を、確かに舐める感覚がある。
皺深い首筋が、微かにピクリと反応した。
「おつた? おつた!」
名前を呼び続けると、ついに老婆は薄く目を開けた。
「――ん……」
焦点の合わない瞳は、更にしばらく待つと、涙顔の喜助を見つけた。
何か言いたげな眼差しに、迷ったが親指を抜いた。
「喜助さん……」
隙間風のような掠れた声が、彼の名を呟いた。
「俺の血を全部飲め。生き返ってくれ、おつた」
「それは……だめ」
聞き分けのない子どもを諭すように、静かに首を振る。儚く表情を弛めたおつたの目尻から、ツッ……と涙が溢れた。
「私は、帰って来るから――あんたの所に、必ず帰るから……」
朽ちた老木が土に還るように、彼女の身体がポロポロと崩れた。
「待ってくれ! 独りにしないでくれ、おつた!」
「泣かないで……喜助さん……道標を残すわ――」
一瞬、若く美しい笑顔が老婆に重なった。刹那重なると、残りの全てが瞬時に散った。
「おつたぁーーっ!!」
喜助は力の限りに叫んだが、抱き締めた腕の中には、もぬけの殻になった着物だけが残っていた。




