其ノ五
胸丈を越える草原を掻き分けた先に、あの杉のシルエットが見えた。
夢中で進んできた喜助は、杉の前まで辿り着くと、その背後に回ることを不意に躊躇った。
この木の向こうは、人の世ならぬ異界だ。
しかし、来た道を引き返すことも叶わない。
耳の奥に、シロ達の咆哮が甦る。
梢の見えない杉を見上げ、ひとつ頷くと、喜助は猟銃を担ぎ直した。そして、杉の幹をぐるりと回った。
彼の身を取り巻く空気が微かに湿気を増した気がした。
「――おつた! 帰ったぞ! 俺だ、喜助だ!」
月明かりが弱い薄闇の中、庵の前で声を掛けたが、シンと静寂に包まれている。
「……葉が」
木戸に近づくと、あれほど豊かに庵を覆い茂っていた蔦の葉の大半が、枯れ落ちていることに気付いた。
緑の葉も幾らかあるが、全体的に茶褐色に退色した印象だ。
それにしても、おつたが出て来ない。
「どうした、おつた? 具合でも悪いのか?!」
喜助は猟銃を構えながら、木戸に手を掛けた。
閂が掛かっているのか、ガタガタ揺らしても、開かない。
「おつた! 開けてくれ! 喜助だ、戻って来たんだ!」
「――喜助さん?」
弱々しい声が、やっと返ってきた。
やや掠れた低い声は、聞き慣れない女の響きだ。
「おつたなのか? どうした、開けてくれ!」
カタ……カタ……と庵の奥から物音がした。
喜助は猟銃を構えたまま、木戸が開くのを待った。
しばらくすると木戸が揺れ、ようやくゆっくりと開かれた。
「――おつた?」
藍染の見慣れた着物。長い髪に白い腕。
しかし、ユラリと戸陰に立つ細い影は、酷くやつれている。
「どうしたんだ、おつた!」
思わず銃口を下ろして、駆け寄った。
きちんと纏められていない髪には白いものが混じっている。肌には張りがなく、美しかった彼女は二十歳以上も老けて見える。
たった――十日も経たぬ間に、一体どうしたことだろう。
「……見ないで、喜助さん」
おつたは、潰れた蛙のような醜い声で、泣き出しそうに俯いた。
「お前が、異形の者だということは分かっている。だが……その姿は、どうしたのだ?」
髪の間から覗く瞳は黒く、潤んでいる。その瞳だけは、変わらずに美しく見えた。
「喜助さん……外の蔦を見たでしょう? あの蔦と私は一心同体。養分が足りないと、枯れる定めなの……」
「だが、俺と暮らしていたふた月余り、お前は美しかったではないか?」
馬鹿正直な喜助の問いに、おつたは寂しげに口元を弛めた。
「――それは、まだ養分が足りていたから」
「養分とは何なのだ」
「……喜助さん、あんたの足に傷があるでしょう?」
ゾクリとした。
弥太郎の言葉が思い出される――『脛の傷痕が蔦のようだ』。
「やはり、お前は俺を化け物に変えたのか」
喜助の目付きが険しくなる。猟銃を握る手に力が入った。
「あの夜、あんたは酷い怪我と熱で……こうするしか救えなかった。でも、あんたの若い血は、私を随分生き返らせてくれたわ……」
彼女は目を伏せた。その表情は、老けてなお、かつての彼女が時折覗かせた悲し気な表情だった。
喜助の心に迷いが広がる。
庵に着くまでは、腹の底から憎しみが沸き上がるのではないかと思っていた。
自分から故郷を奪い、人であることを消し去った化け物を、撃ち殺すつもりで弥太郎に銃弾をもらったのに。
「――おつた、俺をなぜ生かした? どうして一息に殺さなかったんだ?」
赤みの薄れた唇が、綺麗な弧を描いた。
「それは……あんたに惚れたから」
喜助は嘆息を付いた。
あぁ、俺には無理だ。
正体を知ってなお、醜い姿を恥じて弱々しく佇む彼女が、堪らなくいじらしい。
村に帰るまでのふた月余り、彼女はいつでも自分を喰い尽くすことができた筈だ。それなのに、甲斐甲斐しく介抱し、睦まじく寄り添うことを選んだ彼女を、どうして手にかけられようか。
一歩近づくと、そっと彼女の頬に触れる。弛んで皺の寄った肌は、しっとりと冷たい。
「俺の血があれば、若返るのか」
じっと丸い瞳を喜助に向けて、おつたはコクリと頷いた。救い手を見つけた迷い子のように、素直な眼差しだ。
「……そうか」
喜助はもう一歩進み、身を固くしているおつたを胸に抱いた。
吸い付くような柔肌ではなかったが、腕の中の存在はしっくりと馴染み、自分も同質のものになったことを示しているようだった。
「俺と夫婦になってくれ、おつた」
既に契りを交わした間なれど、改めて口にしてみると、どうしようもなくいとおしい。
「――本気? 私は、こんな身なのに?」
右足に刻まれた蔦と弦には、きっと心まで巻き取られたのかもしれない。
それでも構わない――おつたが繋ぎ止めた命で彼女を救えるなら、それも本望だ。
喜助は、自分を見上げるおつたに唇を重ねた。
夜露のようなひやりとした感触だが、それすら彼の感嘆を誘う。
「嬉しい……あんたの伴侶になれるなんて、夢みたい」
白い腕がキュッと広い背に回される。それを感じ取った喜助は、おつたを器用に抱き上げた。
彼女はびっくりする程軽かった。
「喜助さん?」
反射的にしがみ付いたおつたをしっかり抱え、喜助は片手で木戸を閉め、閂を掛けると、居間を抜けて寝所に進んだ。
おつたが伏せていた布団が、寝乱れたまま敷かれている。その上に静かに彼女を下ろした。
「俺の血をやる。必要なら、一滴残さずお前にやろう」
襖を閉じた闇の中で、おつたの瞳がキラリと輝いたように見えた。
不思議と恐怖は感じない。
「私の隣に……喜助さん」
おつたは布団を捲り、同衾を求めた。
表情の見えない彼女の声が酷く艶かしい。
言われるがまま、冷えた布団に横たわる。おつたの気配が側にあるが、視界は深い漆黒に包まれている。
ただ、衣擦れの音がサラサラと聞こえ続ける。
程なく彼女の腕よりも細いものが、首筋から腕に、更に胸へとゆるゆる這ってきた。
何かを探すように、彼の肌の上を蛇の如く滑らかに這う『それ』は、腹から下肢へ向かい、やがて正確に右足の脛の傷を見つけた。
シュルシュルと歓喜の音を立て、『それ』は右足に幾重にも巻き付いた。
ゆっくりと締め上げるにつれて、だんだん右足の感覚が薄れていく。
突然、脛から下が氷水に漬かったように、冷たくなった。今、血が失われているに違いない。
そう思うと同時に、スゥ……と意識が遠退き、闇の深淵に引き込まれて行った。
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――サヤ……サヤサヤ……
軽やかな葉擦れの音が聞こえてくる。
喜助は、ゆっくりと目を開けた。
辺りが茜色の光に染まっている。見慣れた庵の天井板も紅い。
夕陽……いや、朝焼けか――?
しばらくボンヤリと葉擦れの音を聞いていたが、ふと隣の肢体に気付く。
白い肌を朱色に染めたおつたが、ピタリ彼の胸に頬を添えて寝入っている。
余りに馴染んでいて、傍らにあることにすら違和感がなかった。
顔は、はっきりと見えないが、髪は黒々と艶やかに見える。
――若返ったのか。
全身に気だるさがまとわり付いているが、腕をもたげて、そっと彼女の髪に触れる。
髪から肩に、更に背を撫でる。指先からほんのりと体温が伝わってきた。
「……起きたの?」
目覚めたおつたは、顔を上げた。黒い切れ長の涼しげな目元、皺のない玉子のように瑞々しい肌。
「血は、足りたのか」
赤々と鮮やかな唇が、美しく弧を描く。
「……あんたの血、とても濃かった。あの夜とまるで違ったわ」
彼女はうっとりと微笑んだが、喜助はドキリとした。
「実は――」
滑らかな背中を撫でながら、喜助は村での出来事、長兵衛が消えたことを寝物語に打ち明けた。
「……まぁ、それは」
おつたは輝くような笑顔を浮かべると、グイと身を起こし
「あんたは自分で養分を摂れるようになったのね。私に養分を分け与えても、あんた自身で補給ができるということだわ」
微かに頬を強張らせた男の様子には気付かずに、自ら唇を重ねた。
喜助の胸に、彼女の柔らかな乳房の重味がのし掛かる。
喜助は、両手で優しく肩を掴んで、体の上下を入れ替えると、じっとおつたを眺めた。
弛んでくすんだ年老いた肌は消え、白磁を思わせるすべらかな肌。
「お前が必要とする限り、いくらでも俺の血を取り込んでいい。だが俺は――長兵衛伯父にしたような真似はしたくない」
一瞬、悲し気な色が瞳に差したが、おつたは白い手を喜助の頬に伸ばした。
「――分かったわ、喜助さん。私は、あんたの側にいられるだけで幸せだもの」
補給を拒む以上、喜助はいつか命が尽きる。その覚悟で決めたことならば――無理強いはできまい。
両腕を彼の頭に絡め、おつたは穏やかに微笑んだ。
夜虫が灯籠に引き寄せられるように、喜助は艷麗な唇を塞ぐ。そのまま吸い付くような柔肌に顔を埋め、身体を重ねた。
部屋に満ちた紅い光の外側で、燃えるような深紅の蔦の葉がワサワサと揺れている。
歓喜に似た妖しげなざわめきを、夜明け前の薄闇の中、杉の影から伺う瞳があった。




