其ノ四
「――あぁ、よく寝たなぁ」
柔らかい光に包まれた室内で、喜助は大きく伸びをした。
久しぶりに身体が軽い。
もう一度大あくびをして、彼は布団から這い出した。
布団の横に、焦げ茶色の着物が落ちている。着替えだろうか。それにしてはきちんと畳まれず、乱雑に脱ぎ捨てられたみたいな置き方だ。更に着古した感じがありありとする、地味な着物である。
喜助は着替えずに布団を畳むと、その上に着物を重ねた。
「長兵衛さん、朝飯を――」
襖の外から小さな足音が近づき、弥太郎が現れた。
「あ、おはようございます。すっかり寝過ごしてしまって……」
顔を上げた喜助は、敷居を跨いだまま固まっている弥太郎の様子に気付き、言葉を切った。
「お前、喜助かっ?!」
弥太郎は弾かれたようにガバと喜助に飛び付き、両手で肩を掴んだ。余りの驚きように、喜助の方が腰を抜かし掛けた。
「ど、どうかしたんですか?」
弥太郎は、喜助の全身を食い入るように凝視した後、
「お前……具合は大丈夫なのか?」
やっとそれだけ、絞り出すように尋ねた。
二、三度瞬きして、喜助はコクコクと頷いた。
「……長兵衛さんは、いないのか」
「――え? 伯父さんが来ているんですか?」
喜助の狐に摘ままれたような表情を見て、弥太郎は不吉な予感に駆られた。
ゆっくり喜助を離すと、彼はひとつ息を付いてから、ガランとした客間を見回した。
そして、布団の上の着物に気付いた。
「……喜助、あの着物はどうした?」
声が微かに震え、上ずっている。訳が分からないが、喜助は真面目に答えた。
「さっき起きたら布団の横にあったんです。あなたが用意したものじゃなかったんですか?」
弥太郎は、その場にへたりと座り込んだ。
「まさか――いや、そんな――」
「……弥太郎さん?」
みるみる血色が失われ、額に脂汗が浮かぶ。弥太郎は喜助に焦点を合わせた。
「……よいか、喜助。よく、聞け」
心なしか呼吸が荒い。興奮を抑え込んでいるかのようだ。
喜助は黙って頷いた。
「お前は四日間眠って、目を覚まさなかった。医者も、このままでは命が危ないと言っての……」
弥太郎は、また大きく息を付いた。
「わたしは、長兵衛さんを呼んだのだ。それが夕べのことだ」
「――」
喜助の胸にも、何かざわつく気配が感じられた。
「あの茶色の絣、あれは夕べ長兵衛さんが着てきた着物だ」
着物だけ残して中身がいない。長兵衛は裸でうろついている訳ではない筈だ。
だとしたら――だとすれば――?
スッと背筋が冷えるのを感じる。
髪の毛一本残さずに、伯父はどこへ消えたと言うのか?
「……弥太郎さん。俺は、この村に帰ってはいけなかったんじゃないだろうか」
喜助は己を責めた。
やはり、あの杉の木は、この世とあの世を隔てる門だったのかもしれない。
帰るべきではない者が帰ってしまった。
そのせいで、命ある者が、消えてしまったのではないのか?
「分からない。だが……ひとつ気になることがあるのだ、喜助」
弥太郎は長兵衛の着物をチラと見遣り、額の皺を深める。
「何でしょうか」
喜助は居ずまいを正し、年長者の横顔を見つめた。
「お前の脛の傷痕のことだ。医者は、蔦のようだと言っていた」
「蔦……」
「お前の恩人の名は、おつたさんと言ったか?」
「はい。でも――まさか」
思いがけない指摘に戸惑いつつも、再び胸の深部がザワザワと波立つのを抑えられない。
「わたしも、偶然の一致だと思うのだ。そう思うのだが……どうしても思い過ごせぬ」
皆まで言わずとも、互いに行き着く憶測の果ては重なる気がして、口をつぐんだ。
山鳥のさえずりが襖の向こうから軽やかに響く。
穏やかな朝の気配が、奇妙な程遠くに感じられた。
「弥太郎さん。今夜、月が出たら、俺は村を出ます。もう……戻りません」
決意を告げたのに、喉の奥が詰まった。滲んだ涙は、悔し涙だ。
「喜助……」
「何も恩返しできず、心残りです。でも、そうすることが、最善かと思います」
瞳を赤くして、まっすぐに自分を見返す若者を、胸が潰れる思いで眺めた。まるで悪意の欠片もないのに、救ってやることができない。
互いの考えが当たっていれば、もはや目の前の若者は、人の形をするも人ではないのかもしれない。
「お前は、どうする気だ」
「おつたが何者か確かめるつもりです。村に災なす者であれば――或いは」
刺し違える覚悟だ。
やはり、心は在りし日の喜助のままだ。
「弾をいただけますか、村長」
「分かった。用意させよう」
弥太郎はしっかりと頷いた。
「ありがとうございます」
喜助の瞳の中に感謝の色が広がり、いたたまれなくなる。
弥太郎は、若者の肩に手を置くと、ゆっくり立ち上がった。
「飯を運ばせる。村の味を覚えていけ」
頭を下げた喜助の膝元がパタパタと濡れた。
声を殺して泣く若者を残して、弥太郎は客間を後にした。
閉じた襖の外側で、彼もまた身を切るような悲しみに涙が溢れていた。
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ところが、その日の午後から風が強くなり、日没前には雨が降り始めた。
空の機嫌を見ながら、雲が切れたら無理を押しても出て行こうと思ったが、皮肉な空は雨粒を大きくするばかりだ。
喜助は、村長一家に禍が及ばないよう、かつての自分の家に行くと主張したが、弥太郎は頑として認めなかった。
「見張る目がある方がいい」
その意見はもっともだった。
「分かりました。もし何か異変に気付いたら、あなたが俺を始末してください」
弥太郎もまた、煮え湯のような条件を飲まざるを得なかった。
結局、それから三日三晩、雨は降り続き、月が夜空に現れたのは、日付を跨いだ四日目の深夜だった。
実に、喜助が村に帰ってから九日目の夜になっていた。
「本当に、世話になりました」
手入れした猟銃を担ぎ、もらった銃弾が入った巾着を掴んで、裏口の木戸に立つ。
思いがけなく水を差された出発だったが、喜助の心は揺れなかった。
むしろ、弥太郎一家に何事も起こらず過ぎたことに安堵していた。
「こんなことしか出来なんだ……」
引き締まった顔つきの喜助に対して、見送る弥太郎は、この数日間で突然老けたようだった。
喜助を見張るために、きっと神経を尖らせていたのだろう。
「ありがとうございました、弥太郎さん。どうかお達者で」
深々と一礼し、喜助は木戸を開けた。するり外へ身を滑らすと、後ろ手で戸を閉めた。
これでもう、この世に自分の居場所はない――。
ギュッと胸が詰まったが、長兵衛のような被害者を出してはいけない。
口を真一文字に結ぶと、喜助は東の空を見上げた。
黒々と横たわる山の稜線を仄かに染めて、綺麗に割られた下弦の月が浮かんでいる。
ふぅ、と息を吐き、村外れの丘を目指して歩き出した。
サク……サク……と喜助の足音が寝静まった村の静寂を小さく乱す。
――ワワワワワン!
気を付けていたのに、近くの家から犬が吠えた。
それをきっかけに、犬達が騒ぎ出す。
湿り気の残った柔らかい通りを、足を取られないよう注意しながら急ぐ。
村の一番外れにある源作爺さんの庭先でも、仲間の警戒に異常を汲み取ったシロが唸り声を立てていた。
小走りに通り過ぎながら、喜助は己の身の異変を、犬達が真っ先に気が付いていたのだと思い知った。
遠吠えに追い立てられるように村を去る。
後悔と惨めさに、喜助は叫び出しそうな衝動に駆られながら、夜道を駆け抜けた。
丘の頂に着くと、息が切れた。両膝に手を当てて、しばらく荒い息を整える。
初夏を過ぎた真夜中の野原では、名も知らぬ虫の声があちこちから響いていた。
雨の後のひんやりとした夜風が、上気した身体に心地よい。
汗の浮かんだ額を着物の袖で拭い、喜助は故郷を振り返った。
細い川沿いに、茅葺き屋根が十数軒。
喜助は刻むように眺めた。
目の前に広がっているのに、その中に加わることが許されない。
もう、彼にはおつたの庵しか行く当てはないのだ。
グッと歯を噛み締めて、喜助は懐から蔦の葉を取り出した。
日にちが経過しているのに萎れることもなく、おつたに渡された時と変わらず活き活きと青い。
彼女に教えられた通り、傾いた半月に葉をかざす。
すると――村に帰って来た時と同じように仄白く光る道が、丘の向こう側に現れた。
この道の先に、おつたが待っている。
ただ愛しかっただけの彼女への気持ちは、今や懐疑的に揺れている。
それでも――会いたい。
会って、確かめたい。
彼女が何者なのか、自分が何者になってしまったのか――。
喜助は、白い道に踏み出した。つい急く歩調を抑えながら、真っ直ぐ前だけを見据えて、覚悟の戻り道を辿って行った。
その数尺後ろを、足音を殺して追いかける人影があった。喜助は全く気が付きもしなかった。




