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蔦庵の女  作者: 砂たこ
1/9

其ノ一

 ――パァァ……ン!


 深い山中に銃声がこだまする。


「くそっ、逃げられたか?!」


 喜助は猟銃を下ろすと、狙い定めた笹藪に目を凝らした。


「仕留めたか」


 すぐ後ろから喜助の父親、久兵衛が声を掛けてきた。


「――いや、逃げられたらしい」


「こういう日もある。そろそろ降りた方がいい」


 ブナ林の中、辺りは常に薄暗い。見上げると、厚く繁った枝葉に切り取られた空が、微かに赤い。

 知った山とはいえ、日が暮れた後は別世界だ。人間の踏み込んではならない、獣達の時間だ。


「あ! 親父――いた!」


 獲物を逃した笹藪を舐めるように睨んでいた喜助は、ガサリと大きな揺れを見逃さなかった。


「深追いするな、喜助!」


 久兵衛は止めたが、目の前の大物との千載一遇のチャンスをみすみす捨てる気にはならなかった。

 射程距離まで駆け寄り、狙いを定める。


 よし、今だ!


 ギャギャギャギャ……!


 ――パァ……ン!


 引き金に触れる一瞬、山鳥が近くの木立から飛び出し、喜助の動揺を誘った。

 そのまま放たれた銃弾は、獲物から大きく逸れて、木立の奥に消えた。同時に、狙われていた大猪も木々の向こうに駆けて行った。


「畜生……あの鳥!」


「帰るぞ、喜助」


 しょんぼり肩を落とした息子の背を叩き、二人は山を下り始めた。


 あっという間に夕日は稜線を越え、彼らの足元を照らす明かりがなくなった。

 夕闇が徐々に降り溜まり、彼らの視界を狭くした。


「……まずいな、道に着かない」


 旅人が使う広い山道の他に、狭い猟師道がある。山で生計を立てている彼らにしか分からない、獣道とは違う道――山里へ帰るための命綱だ。


「月が出るまで待つか?」


「だめだ。今は下限だ」


 久兵衛は険しい顔で首を振る。

 喜助が提案した月の出は、夜半過ぎまで待たなければならない。


「さっきの場所に戻るぞ」


 闇に阻まれて、曲がる場所を間違えたに違いない。 経験から、久兵衛の判断は早かった。


「――あっ?! うわぁっ!」


「喜助っ!!」


 道を引き返し掛けた時、下草に足を取られた喜助が笹藪の中に姿を消した。


 慌てて追うと、小さな崖になっていた。久兵衛は慎重に笹を何本も掴みながら下る。


「喜助?!」


「ここだ、親父! っ……いてぇ……」


 三尺程下ると、笹の中から喜助の手が見えた。

 引き起こそうとしたが、足を挫いたらしく、息子は立ち上がれない。


「……まずいな、このまま降りるか」


「親父、すまねぇ……」


「いいさ。こんな日もある」


 五十に手が届こうかという久兵衛は、長年猟師で鍛えられ、足腰が強い。

 二十歳そこそこの息子に肩を貸しても、支えて歩くくらいの体力はあった。


 道なき道を、足場を確かめながら進む。半時も下ると、突然緩やかな平原に辿り着いた。


「ここは……山を越えたのか?」


「いや……分からない」


 草丈は腰まであるものの、急に開けた視界に二人は戸惑った。

 長年この山を歩いた久兵衛ですら、初めて訪れた場所だ。

 すっかり暮れた空には薄く雲がかかり、星から方角を読むことも難しい。


「とにかく、進むしかないだろう」


 久兵衛は、またゆっくりと前進した。

 触れている喜助の身体が冷えてきた。もしかすると、足の痛みは捻挫ではなく骨折かもしれない。


「――親父、すまねぇな」


 草原をかき分けかき分け進む内に、喜助自身、自分の状態に気付いてきた。

 捻ったと感じていた右足は、足首ではなく、むしろ膝下辺りが異常に熱く、感覚が弱い。妙な脂汗が額から背中まで、じとりと吹き出している。

 元はと言えば、自分が深追いしたせいだ。父親が帰ると言った時に、すぐに山を降りれば、こんなことにはならなかったはずだ。


「……こんな日もあるさ、喜助」


 『こんな日もある』――親父の口癖だ。

 猟師を生業とすれば、農家のように一定の収穫を見込むことはできない。

 獲物に出会う出会わないも、それを仕留める仕留められないも、全て運次第だ。山の神に感謝しながら、日々コツコツと生きていくしかない。


 自らの軽率さを悔いながら、それを責めない父親に心の中で頭を垂れた。


「オレも昔、爺さんの言うことを聞かずに、山で迷ったことがあってなぁ」


 ポツリ、久兵衛が独り言のように語り出した。

 喜助の足取りが覚束なくなってきた。弱気な言葉といい、骨折の痛みで集中力を欠いてきたのかもしれない。


「――親父も?」


「ああ」


 息子の状態が心配だが、こんな見知らぬ場所で立ち止まる訳にはいかない。

 久兵衛は、話し掛けることで、喜助の意識を繋ぎ止めようとした。


「あれは……オレがお前くらいの歳だったかなぁ。秋の霜が早い年で、婆さんが流行り病に倒れたんだ」


 喜助の祖母は、彼が産まれる前に亡くなっている。あまり身体が丈夫ではなかったと聞いている。


「精力付けて欲しくてな、オレはどうしても大物を持って帰りたかった」


 喜助の息づかいに気を配りながら、久兵衛は続けた。


「爺さんが『山を降りる』と言った時、オレ達の前に大鹿が飛び出してきた」


「鹿……警戒心が強いのに?」


「そうだ。まるで山の神様が、持っていけと言ってくれた気がしたな」


「――仕留めたのか」


「いや。散々追いかけて、道をはぐれて……凍えながら山で一晩過ごした」


 久兵衛は、自嘲気味に苦笑いした。


「そうか……」


「爺さんにこっぴどく叱られてなぁ……」


 あの夜のように迷って歩くからだろうか。日常に埋没していた古い記憶が、昨日のことのように懐かしい。


「……親父は、叱らないんだな」


 息子の呟きに、久兵衛はますます苦笑いが深まる。


「そうだなぁ。獲物を追いたいと思うのは、猟師の性だ。それに、引き際を身に付けるには、経験が必要だからな」


 自分が辿った道だから、喜助の気持ちは手に取るように分かる。叱ってどうにもならないことも、然りだ。


「経験か。――寒いな」


 喜助はブルッと身を震わせた。熱が患部に集まっているのかもしれない。


「喜助、しっかりしろ」


 至近距離で息子に視線を向けると、彼は左手の一点をジッと見つめている。


「俺、おかしいのかな。灯りが見える」


「喜助?」


「……ほら、あそこに木の影があるだろう? その向こうに、見えないか」


 二人は立ち止まる。確かに、進行方向の左奥三十間程先に、杉のように高い木のシルエットが一本見える。


 ――チカッ


「本当だ、灯りだ……!」


 久兵衛は声を上げたが、疑うようにもう暫し目を凝らした。


 ――チカチカッ


 ひと処で放たれている小さな灯りは、手前の梢に遮られているのか、輝きが安定しない。


「喜助、もうひと踏ん張りしろよ」


「ああ……」


 答える声に張りがない。行き先に確信なく進んでいる二人には、灯りを目指さない理由はなかった。


 広がる夜空は、いつしか鈍く霞がかっていた。その白い闇が、薄く薄く絹糸のように彼らの上に垂れてくる。


 遠かった一本杉に着いた頃には、辺りは霧に囲まれ、前後左右も分からない有り様だった。


 そして、喜助が見つけた灯りの元が、霧の中に浮かび上がっていた。


-*-*-*-


「――ごめん! 夜分遅くに申し訳ないが、息子が怪我をして往生している! 一晩、泊めてはもらえまいか!」


 久兵衛は、細い枯れ枝に覆われた木戸を叩いた。

 霧のために全容は見えないが、どうやら建物全体が枯れ枝に包まれているようだった。


 肩にのし掛かる息子の重みが一層増している。ほとんど自力で支えられなくなっているのだろう。

 抱えている久兵衛もまた、どっと疲労感に襲われていた。


「すまない! 誰か――」


「……今、開けますよ」


 再び木戸を叩き掛けた時、中から酷くしゃがれた老婆の声が返った。


 ガタガタと閂を外しているのか、やや間を置いて、引き戸がガラリと開いた。


「おや、まあ」


 しゃがれ声の主は、齢八十には見える小柄な老婆だった。藍染のような着物姿だが、襟元から生えた頭部はやけに色白だ。


「さぁさ、お入んなさい」


 白髪も疎らな老婆は、彼ら親子を招き入れると、曲がった背を伸ばすようにして木戸を閉め、閂を掛けた。その手も、老人には珍しく雪のような血色のない肌だった。


「すまない、厄介になります」


 四の五の言える事態ではない。もはや意識が朦朧としている喜助を抱き抱え、久兵衛は頭を下げた。


「……あんたら、猟師かね?」


 土間から上がった居間の板張りの上に喜助を横たえる。ガシャリという重い金属音に、老婆はチラと目をやった。


「ああ。オレ達は麓の村の者で、オレは久兵衛。こっちは息子の喜助だ。足を滑らせて、どうやら骨を折ってしまったらしい」


 自分の草履を脱ぎ、息子の草履も剥がす。右膝の下――脛の辺りが腫れているようで、酷く熱い。


「それは難儀なことで。怪我と熱に効く薬草があるで、早速手当てしましょうな」


「重ね重ね、有り難い。村に戻ったら、改めて礼に参ります」


 話しながら老婆は、居間の奥の隣室に布団を用意した。年齢より矍鑠(かくしゃく)とした動きに、内心久兵衛は驚いていた。

 しかし、彼女の言葉に甘え、久兵衛は喜助を抱え上げると、布団に運んだ。

 喜助の意識は既に無く、額から首筋まで玉の汗が吹いていた。


「あんたも疲れたじゃろ。囲炉裏に汁物が残っとるで、召し上がってくだされ」


 息子の傍らに立ち尽くす久兵衛に、老婆は皺だらけの顔に微笑みを浮かべて居間を示した。

 見ると、居間の囲炉裏に鍋が掛かり、微かに湯気が上っている。


「有り難い。本当に地獄で仏とはこのことだ」


「こん人の手当てが済んだら、あんたの布団も用意しますでな、楽にして休んでくだされ」


 にこにこと笑顔を残して老婆は襖を閉めた。

 独り居間に残された久兵衛は、暫く閉ざされた襖を眺めていた。やがて身に付けていた装備を解き、囲炉裏の側に胡座をかいた。


 ようやく人心地が付いた――。


 その場で伸びをすると、腹がグルルと鳴った。思えば、昼飯以来半日近く何も口にしていない。

 久兵衛は遠慮せず、鍋の蓋を開けた。

 鍋の底1/3ほどに、ドロリとした味噌煮込みのような汁物が入っている。大根か蕪のような白っぽい塊と、ゴボウらしき根菜、青い菜ものが見える。肉や魚の類が見えないのは、この家が農家であることの証だろうか。


 椀が見当たらなかったので、鍋に入っていた木杓子で掬い上げ、口元で冷ましながら啜った。


 味噌味に混じって、ふわりと薬草のような香りが鼻から抜けた。

 不思議な味わいではあったが、空腹には何よりのご馳走だ。久兵衛は、夢中で鍋の底まで浚うように食い尽くした。


-*-*-*-


 腹がくちくなると、不意に喜助の様子が心配になった。

 老婆は、襖の奥から中々戻らない。

 楽にしていろと言われたが、何か手伝うことはあるまいか――久兵衛は重い身体をゆっくり起こし、襖に歩み寄った。


 ――ズル……ジュルル……


 声を掛けようとした瞬間、耳障りな異音が微かに聞こえた。

 喉まで出掛けた言葉を飲み込んで、久兵衛はソッと細く襖を開け、中を覗いた。


 ピチャッ……ズル……


 布団に横たわる喜助の、右足の辺りに黒っぽい影が覆い被さっている。

 ツン、と生臭い血の匂いがした。


 薄闇に目が馴れると、黒い影はどうも老婆の姿ではない。


 ジュル……


「……おや」


 久兵衛はギクリと強張った。

 黒い影の呟きは、老婆のしゃがれ声ではなく、もっと若い女の澄んだ響きだった。


「久兵衛さん、そこにいるのかい……?」


 びっしりと冷や汗をかきながら、久兵衛は後退りして囲炉裏の横の猟銃を手にした。


 バァン、と襖が開き、藍染の着物に身を包んだ年増女が現れた。

 切れ長の目をした色白の女は、長い黒髪を振り乱し――口元から顎にかけてべったりと鮮血に濡れている。


「おのれ、もののけ!」


 喜助の生き血を啜り、老婆が若返ったに違いない。

 久兵衛は迷わず引き金に指を掛けた。――が、その途端、目の前がグニャリと歪み、身体から力が抜けた。


 パァァ……ン……


 狙いの外れた銃弾が、天井板と茅葺き屋根を突き破って消えた。

 同時に、久兵衛の意識も途切れた。


-*-*-*-


 痛みと熱に浮かされながら、喜助は薄く目を開けた。


 ――ここは、どこだ?


 深い暗がりの奥に、天井板の木目がぼんやりと見える。

 身体が熱い。顔を動かすと、額からパサリと乾いた手拭いが落ちた。寝かされている布団のすぐ横に、桶が置いてあるのが見える。


「――うっ」


 桶に手を伸ばそうとして、鉛のような重さに呻いた。自分の一部なのに、まるで思うように動かない。

 粗い息を付いて、喜助は諦めた。


 顔の向きを変えて、見える範囲の室内を眺める。

 すっかり壁だと思った彼の左側は障子になっていて、しかし、外からの明かりはほとんど差し込んでこない。

 時折、サワサワと葉擦れの乾いた音がするので、何か植物に覆われているのかもしれない。


 反対側の右手には、襖が見える。閉じた隣室の様子は分からない。


 葉擦れの囁き以外は、静寂が支配している。天井の闇を見つめていると、だんだん記憶が甦ってきた。

 崖から落ちたこと、広い草原をひたすら父親に抱えられて歩いたこと、遠くに灯りを見つけたこと――。


「――親父……いるのか?」


 絞り出すように発した声は掠れて弱い。

 暫く耳を澄ましたものの、返る音は相変わらずサワサワという乾いた音だけだ。


「……おや、起きたのかい?」


 女の高い声がして、喜助の足元からサッと明かりが差し込んだ。

 思わず眩しさに目を細める。近づいてくる気配を感じながら、ゆっくり瞼を開くと、若い女が妖艶に微笑んでいた。

 喜助より幾らか年上に見える女は、品良い藍染の着物が白い肌によく似合っている。すっと桶の側に腰を下ろすと、額から落ちた手拭いを拾った。


「お前さんは、右足が折れています。手当てしましたが、数日は熱が引かないでしょう」


 淡々と言いながら、桶の中で手拭いを絞り、彼の額に乗せた。

 氷のようなひんやりとした感触が心地良い。喜助は思わず「ああ」と溜め息を溢した。


「まだ休みなさいな」


 女は目を細め、来た時と同じようにほとんど音もなく立ち上がり、部屋を出て行く。


「待ってくれ――親父は、親父もここに?」


「ええ。居間で眠っておりますよ」


 仰向けの喜助が首を一杯に伸ばして、ようやく見える位置で立ち止まった女は、肩越しに振り返るとニイと赤い唇を歪めた。


 女が襖を閉め、喜助は再び闇に包まれたが、彼女の唇の赤い色がいつまでもちらつき、中々消えなかった。



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