紅玻璃篇:プロローグ
かすかな虫の鳴き声しか聞こえない深夜。さる仏教宗派の総本山でのことである。
古めかしい寺院の本堂の中、燭台に灯された蝋燭の炎がかすかに揺れる。一人の僧衣の青年が、板張りの床の上で静かに目を閉じ座禅を組んでいた。
識術僧……古くは僧兵とも呼ばれた、常人とは異なる感覚を持ち、法力によって仏敵を滅する武装僧侶。その修行の最終試験が今まさに始まるところであった。
(…………来たか……)
果たしてどれだけ待っただろうか。
青年僧、皆月誓は座禅を組んだまま、前方から歩み来るヒトならざる気配を感じていた。座っていた誓は目を開けて立ち上がり、傍らの床に置いてあった錫杖を持ち上げ、身構える。
闇の中から姿を現したのは――――身の丈2メートルを超えようかという、巨大な不動明王像であった。三面六臂……3つの頭はそれぞれ憤怒の表情を浮かべ、6本の腕にはそれぞれ剣や羂索といった武具を握り締めた威容である。
「これが噂に聞く大僧正の下僕か……俺のとは比べ物にもなんねーな」
緊張を紛らわすために軽口を叩いてみるが、こうして対峙しているだけでも汗が吹き出してくる。
「………………!」
不動明王は物言わぬまま、手にした剣を振り下ろした。巨躯に見合わぬ、予想外の斬撃の速さである。回避する暇もなく、誓は錫杖の柄で受け止めた。
「……っ! 馬鹿力もシャレになんねぇっての……!」
こちらも胆力と法力を込めて両手で受け止めているというのに、両腕の骨まで響く重さ。そのまま繰り出される連撃を辛くも凌ぎ、バックステップで距離を取ってみれば、わずか二、三合受け止めただけで鋼鉄製の錫杖が捻じ曲がっていた。
この膂力、剣の質感、どれをとっても実存在としか思えないが、しかしこの不動明王はここには姿の見えない大僧正が術で作り出した霊体である。
(こんなバケモン、卒業試験に受かった僧兵の先輩方でもそうそう倒せるとは思えねぇ。ってことは……っ!)
誓は懐から愛用の数珠を取り出すと、中空に向かって放り投げた。
「唵!」
片手で合掌し、念を込めると、糸が弾けて108粒の珠が勢いよく周囲に散開した。自分の前後左右上下、薄暗い部屋の空間に満遍なく珠が散らばった瞬間に、誓は合掌を崩さぬままさらに術を重ねる。
「視覚化!」
そう口にした瞬間。
床の檜板の木目が。
壁にできたシミが。
蝋燭を伝うロウの滴が。
散開した数珠の一つ一つが、誓の脳裏に周囲の光景を鮮明に送ってきた。
数珠の珠を、自らの映像情報の受容器……つまるところ、”眼”へと変じたのだ。誓の珠はさらに、肉眼で見られる文字通りの光学刺激だけでなく、人が物に込めた「想い」や「祈り」を感知することができる。
(どこだ。どこに、この下僕の『念』の源がある―――!?)
このクラスの下僕を行使するほどの術者の強力な『念』ならば、普段の誓であれば容易にそれと気付くことはできるはずだ。術的に巧妙に隠蔽された呪力源を、誓は額に汗を浮かべながら懸命に捜す。
「………………!」
その様子を、不動明王像が黙って見ているはずもない。
3つの首の一つが大口を開けたかと思うと、すさまじい勢いで業火が吐き出された。霊的存在であるこの炎は、床板には焦げ目一つ残さない。しかし人の身に受ければ、その生気に与える影響は本物の炎と何ら変わらない。
床を舐めるように進み来る業火に、誓は慌てて懐に手を入れた。取り出したのは小さなお守り。「火難除け」と袋に書かれたそれを、盾のように自分の前に突き出した。
「具現化!」
「火事を除ける」という祈りが込められたお守りは、誓の術でその『念』の力を一気に解放した。まるで見えないバリアに守られたかのように、炎の奔流は誓の周囲のみをきれいな円形で残しつつ、吹き抜ける。本堂は一面、燃料も無しに燃え盛る炎の海と化した。
この炎の光が、誓にとっては思わぬ助けとなった。
明るさを得たことで、数珠の”眼”たちの光学刺激への感度を大幅にカット。その分の力を、『念』に対する感知能力に特化させる。
鋭敏さを増した誓の沢山の”眼”の1つが、かすかに漏れる『念』の力を捉えていた。
「……見つけた!」
お守りによる防壁は、炎以外の攻撃に対しては全くの無力である。追撃をかけようと迫る明王像の剣は変わらず致命傷となり得るが、ひるまずにその脇を駆け抜ける。誓は明王像の背後、一見何もない床板の1点に、錫杖の杖先を振りかぶった。
「ここだっ!!」
明王像も振り返りざまに、誓に向かって剣を振り上げる。
しかし―――わずかに、誓が早かった。突き立てられた錫杖は床板を、その下に隠されていた不動明王の真言が書かれた御札ごと貫いた。錫杖を伝って送り込んだ念の力で、その御札を完膚なきまでに破壊する。
「………………」
呪力源を絶たれると、不動明王像は急速にその輪郭がぼやけ、やがて無数の白い光の粒となって虚空に消え去った。同時に、床の上で燃え盛っていた炎も姿を消し、本堂には再び暗闇と静寂が戻ってきた。
「――――見事じゃの、誓」
本堂の奥から、今度こそ人間の足音が聞こえてくる。姿を現したのは、緋色の袈裟を身に着けた老僧であった。誓たち若い修行僧では到底頭の上がらぬ、先ほどの不動明王像を操った大僧正その人である。
誓は慌てて身だしなみを整え、再び最初のように床の上に座る。静かな本堂に、大僧正の威厳に満ちた声のみが響いた。
「お主の念識、確かに見届けさせてもらった。しかし、すぐに僧兵にとはいかぬ。これよりお主は山を下りて、俗世で人と交わりつつ、腕を磨き、見聞を広めるのじゃ。それこそがお主の術を鍛え――――お主の迷いを絶つことにも繋がろう」
誓の肩が、わずかに震える。
「古い知り合いの娘が、母の後を継いで識士の学校を経営しておる。大分難儀しておると聞いた。まずはそこに向かうがいい。話はつけておく」
諸先輩方がそうであったように、てっきりこのまま僧兵としての新たな修行と任務が続くとばかり思っていた誓は、大僧正の言葉に当惑を隠せない。
「……そこで、自分は何をすればいいのですか?」
性急に尋ねる誓に、大僧正ははじめて相好を崩した。
「ふふ、そう堅苦しく身構えるでない。物心ついてからの修行鍛錬の日々、お主も羽を伸ばさんといかん。俗世の迷いも憂いも、自らが為すべきことも分かろうよ」
「そんな…………」
思わぬ話であった。
何か自分に至らない点があるのだろうか。思い当たるものが無いではないが、識術はこの通り使えるはずだ。何が足りないというのか。喧嘩ばかりだが、自分を男手一つで育ててくれた父はどう言うだろうか……。
しかしそんな混乱した脳裏に、話は終わりだと言わんばかりに言葉が続く。
「期間は1年間。これを勤め終えることが、お主の卒業試験じゃ。また会おうぞ、誓」
その一言で、念識使いの識士、皆月誓の卒業試験は唐突にその延長を告げられたのであった。