第3話
日付が変わる前に、サバ兄が僕の家を訪ねた。
身長百八十センチ、体重は九十キロ。その大きな巨体が月明かりに照らされて、さらに大きいシルエットとなっていた。
「こんばんは」
「あ、ども」
サバ兄は僕より八個違う二十二歳、血はもちろん繋がっていないが、僕の兄貴だ。
僕の心の兄貴。
一応というのは失礼であるが、年上なのでしっかり頭を下げる。
「悪いな、こんな時間に。ほれ、いつものやつだ」
「サンキュー、いつも助かるよ」
サバ兄は持ってきてくれた袋を僕に手渡す。その中身は野菜やら魚やらお米やら、要するに食料だ。二年前に僕の両親が行方不明になってから、サバ兄は僕が不便だからとほぼ毎週のように食べ物を届けてくれる。
そんなサバ兄の職業は医者だ。
村で唯一の診療所を開いている。
大柄な体格に少し不釣合いな白衣を着ている姿を想像すると、これも失礼ながら思わず苦笑いしてしまう。でも、ものすごく人当たりが良くて、そのためか評判も良い。
僕もこんなお兄さんが欲しかった。
「ところで、あの子はどうなった?」
「あの子?」
「とぼけるなよ、おまえの家にやってきたかわいい女の子だよ」
「あぁ、ザジのことか……」
「今はどうしてる?」
「僕の家で寝泊りしてるよ」
「いいなぁ。良かったじゃん。あんなかわいい女の子が寝泊りしてくれるなんて」
「全然かわいくない。あの子が来てから僕の生活、めちゃくちゃだよ!」
一国のお姫様を通り越して、女王蜂だよ。
僕の家はもう女王蜂に占領されているんだ。
「誰が女王蜂やって!?」
僕の背後からひょっこりと姿を現したザジ。
そして、僕のほっぺを思いっきり引っ張る。
痛いって。
「初めまして」
ちゃんと、ザジはサバ兄に挨拶をした。
無意味に毒舌というわけではなく、少なくとも年上に対する礼儀はわきまえているらしい。
「話はこのバカから少し聞きました。ウチを介抱して下さったそうで。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるザジ。僕のほっぺをつねったままで。
いい加減離せよ。
「礼儀正しい子だね、君は」
騙されないで、サバ兄。この女の本性は、恐ろしいよ。
それを口に出そうとした瞬間、さらにほっぺを強くつねられた。爪が食い込んで、とんでもなく痛い。
もがいて、何とか離させることに成功した。
「痛いだろうが!」
「なぁ」
「何?」
「このカッコええお兄さんに、ウチのこと紹介してや」
「自分でやればいいじゃん」
「嫌や、恥ずかしい」
「…………」
何を基準にして恥ずかしいと言っているのか、よくわからない。
別にいいけどさ。
「まず、ザジ。この人はサバタさん。村で診療所をやってくれて、僕は親しみを込めてサバ兄と呼んでる。で、サバ兄、この子が」
「おい」
ザジは毅然とした態度で僕の話を遮った。
自称、か弱い女の子に「おい」って言われた。
「あんた、いくつやったっけ?」
「は?」
「年や、年。いくつやって聞いとんのや」
「なんだよ、藪から棒に……」
「ええから」
「……十四だけど」
「ウチ、十六や」
「そうなんだ……」
年上だったんだ、知らなかった。
「だから、何……?」
「わからん奴やなぁ! この子呼ばわりはやめてって言うてるんや!」
「何て言えばいいんだよ……」
「ザジ様」
「…………」
絶対に嫌だ。
「……ザジサマ」
「何ボソボソ言うとるねん! はっきり言わんかい!」
「ザジちゃん」
目を突かれた。
「失明するだろうが!」
「失言するからや!」
「何だ、その等価交換は!?」
「ピーピーうるさい奴やな。いい加減にせぇへんと、切り落とすで!」
「何を!?」
思わず内股になってしまった。
「あんたは年上に対する礼儀がなってへんな!」
「あなたは命の恩人に対する礼儀がなってないよ!」
「あんたは何の役にも立ってないやろ!」
「匿ってあげてるだろが!」
「気安くウチの言うことに突っ込みを入れるのやめてくれへん? 本当に馴れ馴れしい。このカッコええお兄さんに、ウチらは友達やって思われるやん!」
「…………」
別にいいじゃないか。
本当に僕が凹むこと言いまくるよな。
「サバ兄がザジのことをどう思おうと、関係ないじゃん……」
「関係あるに決まっとるやん! イケメンは神様や!」
「残念だったな! サバ兄にはザジよりもめっちゃキレイな奥さんいるんだよ、バーカバーカ」
「わからへんやん! ウチの魅力に虜にならへん男はおらへん!」
「普通にあきらめろよ!」
「おい……」
ここでサバ兄が僕たちの間に強引に入った。
仲裁するように。
「お前たちの仲が良いのはよくわかったから、もうそろそろ俺は帰るぞ……」
「仲良くない!」
「仲良くあらへん!」
僕とザジ、見事にハモった。
「そこらへんのカップルを凌ぐラブラブっぷりだな」
サバ兄が僕たちを見て、クスクスと笑った。
「なんでこんな性悪女とラブラブしなきゃいけないんだよ!」
「なんでこんな不細工とラブラブせなあかんのや!」
「このビッチが!」
「あんたはチビや!」
「女王蜂!」
「虫!」
「僕はザジが困っていたから、仕方なく助けてあげたのに何だその態度は!」
「ウチやって、あんたが一人で住んで寂しそうやったから、わざわざ一緒に住んであげてるんやで!」
「二人して、何ツンデレの権化みたいなこと言ってんだよ。気持ち悪いなぁ」
「…………」
「…………」
サバ兄の的確な突っ込みに僕とザジは、何も言い返せなかった。
ふとザジを見ると、顔を赤くしている。そして、そそくさと家の中に入り込んでいった。
まんざらでもない?
まさかなー。
「俺、帰るぞ……」
「うん……」
「帰る前に一言いいか?」
「何?」
「仲が良いのはけっこうだけど、あんまり感情移入しすぎるなよ。あの子は元々よそ者だろ。俺としてもかわいい弟の恋は応援したいけど、世の中そう上手くはいかない。いつか来る別れもちゃんと覚悟しておきなよ」
サバ兄は僕に言い聞かせるように、言ってのけた。
それだけ言って、サバ兄は帰っていく。
そんなことわかってる。
言われなくてもわかってる。
魔女と呼ばれる者がどんな運命を辿るのか、僕も知らないわけじゃない。
時折、ザジはとても悲しい目をしていることがある。勝手気ままで、わがままで、色々なことを命じてくる。でもって、情けないことに僕はその命令にほいほい従っているわけだ。何が楽しいのか。どうやら僕には犬属性があるらいしい。そんな僕をザジはケラケラと笑って、容赦なく暴言を浴びせてくるのだが、そのときのザジの目には何だか違う感情が渦巻いているようにも思えることがある。
僕に対して。
とても悲しい目をしている。
何が悲しいのかは僕にはわからない。
――いつか来る別れ、そのとき、あなたは耐えられる?
「今日の夜中にでも雪降るかな……」
突き抜ける冷風に耐えられず、僕も家の中へと入っていった。
ある日の夜、僕はザジのために借りてきた『アーティファクト』シリーズ第一巻を手に取っていた。難しい言語もあるが、それを一つひとつ解読しながら読み進めている。別に読みたくもなかったが、読まないとザジが何故か怒り狂うので仕方なく読んでいたのだった。
「なぁ?」
本を読んでいると、頭上から声を掛けられる。
耳に入っていたものの、僕の視線と思考は本に向けられていたのでその体勢のまま答える。
「……何?」
「ウチ、お風呂入ってくる」
「入ればいいじゃん……」
僕はそっけなく答えた。ちなみにお風呂も、一番風呂は譲らないと言い張った。僕が最初に入ろうとすると、容赦なく罵声と暴言を浴びせられる。どんどん僕の生活圏が脅かされていく。
僕の家なのに。
「いつものようにしっかり見張とってや。でも、やからといって覗いたらわかっとるよな?」
「わかってるよ、ザジの怖さはしっかり身に付いてるから」
大きなため息を一つつく。
その僕の一瞬の気の緩みを逃さなかったように、ザジは僕が読んでいた本を取り上げた。そして、パラパラとページをめくった。しおりを挟んでいなかったから、どこまで読んだかわからなくなったじゃないか!
「にゃははははっ! これであんたは一から読み直し、ざまぁみろや!」
嫌がらせだ。
意地悪だ。
読めと言って貸してくれたはずなのに、読まないと怒るくせに、こういうことをするのである。
まったく、わけがわからない。
「僕が何をした!」
「ご主人様と話すとき、ちゃんと目を見て話さないからや!」
「いや、僕はザジを主人と認めてないし、大体僕たちに上下関係なんてないから!」
「そやな、お互いに相手の弱みに付け込んで、利害を得ようとする間柄やからな」
「……言葉にするな。普通に友達関係でいいだろ」
すごいギスギスしてそう。
「冗談が通じない奴やなぁ。会話のキャッチボールもまともにできなくて、生きてて楽しい?」
「余計なお世話だ」
「頭がバカでも、楽しいんか?」
「バカも余計だ」
「バカで、腕っぷし弱そうで、甲斐性なくて、頼りなくて、冴えない男のあんたでも生きてて楽しいんか?」
「早く風呂入ってこい!」
最後はザジの背中を押して、脱衣所へ無理やり連れて行った。ザジもここらへんで満足したらしく、珍しく僕の言うことに従ってくれる。
「いや~、あんたはウチの予想通りの受け答えしてくれるから、いじめとって楽しいわ」
「わかったから、風呂入れ」
「好きな人をいじめる小さい男の子の気持ちがよくわかるわ」
「いや、弱いものを甚振りたいっていう大きな大人の気持ちだと思うよ……」
脱衣所の扉を閉めて、ようやくとのことでまた一つため息をつく。
ん?
ザジに好きな人って言われた?
違うな、言葉の綾だよな。
どう見ても、かわいい犬や猫のペットをあやしているようにしか見えないし。
変な期待をするのはやめよう。
ザジとのしょうもない問答を終え、僕は読書を再開する。
『アーティファクト』シリーズ。
少しずつ読み進めていくと、大層な恋愛小説であることに気付く。一巻の内容は、一国のお姫様であるヒロインに、平凡な農民である主人公が一目ぼれするところから始まった。主人公は事あるごとにあの手この手を使って、ヒロインにアプローチしていく。最初こそ、そのアプローチを全く相手にしていなかったお姫様であったが、あるとき自分の誕生日に王宮を一緒に抜け出し、幼い頃の思い出の場所に連れ添ってくれた主人公に少しずつ惹かれていくところで終わっていた。
読み終えて、ふと自分の父と母を思い出し微笑してしまう。駆け落ちしたことを、さも武勇伝のように語る親たち。この小説の主人公たちも僕の親のように駆け落ちするのだろうか。それとも、全く予想だにしない結末が待っているのだろうか。
あまり小説を読まない僕でも少し興味をそそられる。
二巻を読み始めた矢先、脱衣所の扉が開く音がする。
「出たで」
脱衣所からザジが出てきた。
……素っ裸で。
「どひゃぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
僕は思わずイスから盛大に転げ落ちた。頭からまっ逆さまに。
頭がズキズキと痛むけど、今はそんなこと関係ない。目に入ってくる景色が強烈過ぎて、頭の中がぐるぐると渦を巻いている。
「ふ、ふ、服! 服はどうした!」
「今から着るに決まってるやん!」
「どうして今からなんだ!」
「着るなって言うんか!」
「着てろって言ってんだ!」
「持ってくるの忘れたんや!」
「だったら、せめてバスタオルを身体に巻くぐらいしたらどうだ!」
「嫌や、そんな貧乏くさい真似したくあらへん!」
「どうしてここで、そんなくだらない意地を張るんだよ! むしろ、張れるんだよ!」
「あんたに対してはどんなことがあっても、弱みを見せへん!」
「強がるポイント、絶対に間違ってるだろ!」
議論が無駄なことは火を見るより明らかだったので、僕は目を押さえた。
人生初、女性の裸を見てしまった。だけど、明らかに何かが違う。幻想を抱いていたわけじゃないけれど、僕が望んでいたのは、僕が期待していたのは、僕が夢見ていたのは、こんなあっぴろげなものじゃなかったはずだ。
僕の初めて奪われた!
「何、女みたいなこと言うてるねん! それよりもあんたのお母さんの服貸して欲しいんやけど」
「あそこにあるから、何でも好きなのを着ろ!」
もう目を開けられない。衣装タンスを指差し、目を強く押さえた。
「何がええ? ウチとしてはピンク色の服がよく似合うと思うんやけど」
「知るかよ……」
「それとも、こっちの白い服の方がええ? 清純っぽさをアピールするために」
「知らないよ!」
「何やねん! ちょっと尋ねただけで、何で大声で喚いているねん! あんたやっぱりバカやな!」
タンスを開ける音。
ダメだ、もう脳裏に焼きついて離れない。
「あんた、まさかウチの裸見て欲情したんやないやろな!」
「仮にそうだったとしても、僕の責任じゃない!」
「ウチに指一本でも触れてみなさい。舌を噛み切ってやるんやから!」
「ハイハイ、身持ちが堅いのは結構なことで」
「あんたの舌を噛み切るんや!」
「ホントおっかねぇ!」
ダメだ、女心は秋の空というけれど、この子の場合は滝だ。
猛スピードで流れる滝のように移り変わっていく。
「もうええで、こっち向いても」
「そうかよ、まったく……」
恐る恐る目を開ける。
……服どころか、下着も穿いていなかった。
素っ裸のザジが少し恥らいながら、両腕で大事なところだけを隠している。でも、それ以外は丸見えだった。
「だから、何が目的なんだ! 散々覗くなって言っておきながら!」
「見られるのは嫌やけど、見せるのはええんや!」
「マジで意味わかんねぇよ!」
もはや、諦めた。
この子を理解しようとすること。
諦めがついた。
「感想は……?」
「はい?」
「ウチのありのままを見た感想や!」
「か、感想って……?」
そりゃぁいい身体してると思うよ。見せびらかすだけあって、随所は丸みを帯びていて、足だって細長くてキレイだし、何より気の強そうなザジが恥らっている姿とか、めちゃくちゃそそられる。
でも、何て答えればいいんだ!
「む、胸が大きいですね……」
「最低や……。あんた、女を見る目どれだけないねん!」
「どう答えれば、いいんだ!」
「ウチが描いた理想の男やったら、『キレイだね』とか『かわいいね』って言うのが普通なんやで! それをのっけから胸がどうとか……、女はおっぱいの大きさやないんやで!」
「わかってるよ、それぐらい! 唐突にそんなこと聞いてくるザジがおかしいんだ!」
「ふん!」
そう言って、ザジは水色の下着を身に着けていく。少しずつ目の前に広がる光景に慣れてきたので、僕は着替えるザジをただぼんやりと眺めていた。
「童貞……」
ザジは僕に人差し指をびっと向けた。
「はい?」
「あんたは一生童貞や!」
「はぁ!? まだ、わからねぇだろうが!」
「いいや、あんたはもう一生童貞決定や! ウチが保障したる! このチンチクリン!」
「相手をしてくれる女の子がいつか現れるかもしれないじゃん!」
「今までのお礼のつもりで、ウチが人肌脱いであんたを男にしたろうと思ったのに。それを無下にするやなんて!」
「…………」
お礼のつもりだったのか。
ますます意味がわからない。
どちらかというとお礼なんかよりもお詫びが欲しい。
ごめんなさいの一言が。
「あんたは今、残りの寿命の半分に匹敵する幸運なことにめぐり会えているんやから、この瞬間を大事にせなあかんのやで」
「ザジ、お前死神だったのか……」
取引すると女性の裸が見れるのか。
僕の一生のお願い、軽いなぁ。
「まぁバカには事の大切さっていうのがわからへんもんな!」
「へーへー、どうせバカですよ」
「すねやんといてや。ウチの気分が悪くなるやん」
「いっつも自分中心だよな、ザジって!」
「なんやねん! その言い方やとウチの性格が悪いみたいやないか!」
「その通りだよ! むしろ、そう言ってるんだ!」
「ふん」
ザジはピンク色の寝巻きを水色のブラジャーの上から羽織る。堂々とした立ち振る舞いで僕の視線なんて全く気にしていないのか、むしろ僕に自分の体の正面を向けて、着衣を続けるのだった。
「言っておくけどな、あんただけやで! ウチの性格が悪いなんて言う奴は!」
「ほう」
「むしろ、ウチは性格がいいって言われるんやで」
「へぇ、それは聞き捨てならないな。どんな風に言われるんだ?」
「いい性格してるよ、って言われるんやで」
「それ、どう聞いても嫌味じゃないか!」
僕も何度だって言ってやるよ!
いい性格してるなって!
「なんやねん! ウチのことを褒め称えている人たちの悪口を、あんたなんかが言ってええと思っとるんか!?」
「自分の悪口を言っている奴らを庇ってんじゃねぇよ!」
疲れる。
とは言っても、ちょっとばかしバカな会話ができることが楽しかったりもするのであるが。
ザジは着衣を終えて、タオルで濡れた髪を拭いている。寝巻きから体のラインがうっすらと見える。しかし、なんだか昨日まではあれほど魅力的で僕の人生の大半を占めていたものが、今となってはただの情景としてしか受け入れられない。なんだかものすごい心の傷を現在進行形で植えつけられる気がする。
「おい」
「はいはい、今度はどんな暴言が僕に浴びせられるのかな?」
それとも、どんな命令が下されるのだろうか?
何か作ってよ、だろうか。それとも、喉が渇いたから何か飲み物が欲しいな、だろうか。きっとザジのことだから、どんな飲み物がいいか聞いても答えないで、あんたに任せるとか言うのだ。そして、僕が持ってきたものを見るなり、こんなの嫌や、あんたのセンス疑うわと言って容赦なく暴言を浴びせるのだ。
ああ、なんで僕はこんな茨の道を選んでしまったのだろうか。
「何であんたはウチの言うことに従ってとるの?」
「…………」
ザジからの思わぬ質問に、僕の思考が一瞬だけ止まった。
「別にウチの面倒なんか見やんくてもええのに」
「……どういう意味だよ」
「言うたやろ。ウチは魔女と呼ばれる女やって。どうあっても、これだけは変えられへん。ウチにある魔女の刻印は一生消えることはあらへん。ウチらがこうやってバカ騒ぎ出来るのは、本当に奇跡のようなもんや。奇跡のような確率でウチらは出会って、今こうしているんやで。でも、ウチは追われている身。いつ、ウチらが引き裂かれる運命であってもおかしくあらへん。明日かもしれへんし、いや、もうあとこの一分、一秒後かもしれへんのやで」
「…………」
「はっきり言うけど、ウチを匿ってもあんたには何一つええことなんてあらへん。辛いだけやで」
誇張でもなかった。
それは真実だった。
僕の手の平で輝く宝石は、いつこぼれ落ちてしまうかわからない。どんなに強く握り締めても、落とすまいと誓っても、気が付いたときには僕の足元で粉々に砕け散っているだろう。
ザジは笑っていた。
すべてを悟って、笑っていた。
彼女の笑みを見ていたら、
「そんなことないよ」
なんて言葉は言えなかった。
ザジはもう自分の運命を受け入れている。
「ザジ……」
急にザジの姿が遠くなる。もちろん、実際に僕たちが遠ざかっているわけではなくて、この当たり前が当たり前でなくなってしまうかもしれない現実を思い浮かべてしまった。
「構わない……」
声が少し掠れた。
だから、僕のこの一言はザジにはきっと聞こえていない。
ザジは僕を見つめていた。ザジの顔からは笑みは消えていた。そのとき、ザジの顔に浮かんでいた表情は何だったのだろうか。僕はよくわからないまま、うつむいた。
会いたい時に会える、話したいときに話せる、そんなのは実は当たり前じゃなくて、奇跡の連続で起きていること。
そして、唐突に思い出すあの言葉。
『賢者は書物から学び、愚者は経験から学ぶ』
失ってみて初めて気付くものがある。でも、それではダメなんだ。
無くなっても困らないっていうけれど、困ってからじゃ遅いんだよ。
「やから、お礼はできるときにしたかったんや。あんたとこうやってバカ騒ぎできる一分一秒を大事にしたい。それにな……」
僕の肩にザジの手が置かれる。
「ウチは誰にでも肌を見せるような軽い女やないで」
そして、ザジは満面の笑みで言い放った。とても、誇らしげに凛と咲いている向日葵のように。
――ウチ、魔女やさかいな。
「ほな、おやすみ」
ザジはそのまま階段を上り、自分の寝床へと足を進める。
一人残された僕。
ここにいていいよ、と言ったのは自分だ。だから、ザジがいなくなることを考えられなかった。考えたくなかった。
でも。
こうしてわかりきっていたことを言葉にされてしまうと、急にザジがいなくなってしまうことを強く感じてしまう。
そして、気付く。いや、とっくに気付いていた。目を背けていた。
らしくない言葉がたくさん浮かぶ。
できればずっと横にいて欲しくて。
どこにも行って欲しくなくて。
僕のことだけをずっと考えていて欲しい。
でも、その一つ一つを言葉にして伝えたら、長くなるし、格好悪いし、だからまとめよう。
僕はザジが好きだ。
「ザジ……」
気付けば僕はその場に座り込んでしまった。
「僕が大事にしているものはみんないなくなってしまうんじゃないか……」
行方不明になった両親、少しの間とはいえ、その境遇に同情してくれた人々、その中にザジも加わってしまう。
目頭が熱くなって、目の中に涙が溜まる。そして、溢れ出た涙は頬をつたい、床に落ち、消えていく。
「父さんも、母さんも、サバ兄もいなくなって、そして、ザジまでいなくなってしまう……。そんなの嫌だ、僕は一人でいたくない。ザジ、もうどこにも行かないで……」
溢れる涙が止まらない。水滴となって落ちる涙が、まるで自分の下から去っていく人々のようにも思えて、ただひたすら僕は女々しく泣き続けた。