第2話
ザジは美人である。肌は雪国で育ったかのように白く、一目見ただけでわかるくらいキメが細かい。家にやってきたときこそ、身なりはボロボロであったが、毛先を整えるとふんわり柔らかいピンク髪が二つに結い上げられて、腰まで伸びている。
髪をくくると少し幼く見えるけど、それも彼女の魅力の一つだろう。
スタイルもよく、出ているところはしっかり出ていて、すらりとした細い生足にも思わず目が行ってしまいそうになる。
それで、顔立ちも整っているのだから、ほとんど反則だ。
けれども!
けれどもだ!
天は二物を与えないという言葉どおり、外見とは裏腹にザジはすごく性格が悪い。自分勝手でわがまま、人の言うことなんて聞きはしない。自分の思い通りに事が運ばないと殴る蹴る喚くのオンパレードだ。これほど外見と性格が一致しない女を、僕は他に知らなかった。初日のしおらしさはどこに行ったのか、今のザジときたら我が物顔で僕の家を占有している。
……一国のお姫様にでもなったつもりか。
人生諦めが肝心というけれど、僕はまだ諦めてはいない。
月明かりだけが夜道を歩く僕を淡く照らし出している。
すでに季節は冬、雪こそまだ降っていないけれども僕の口から吐く息が白い煙のように舞い上がり、すぐに消え去った。
乾燥した空気が僕の体から水分を奪い去り、指先の感覚を失くしていく。
「寒い……」
氷のような冷たい風が、僕の体を突き抜ける。
凍える体に鞭を打って、一歩一歩足を進める。あともう少し、もう少しと。
ようやく自分の家にたどり着き、ドアを開けるとザジの一言が僕の耳に突き刺さる。
「遅いやないか」
お疲れ様とか、ありがとう、などの労いや感謝の言葉もなく、ザジは僕に言い放った。
たまらなく寒かった。
風は強く、冷たかった。
空は黒色の雲に覆われていた。
やたらと重くて分厚いコートを身につけ、マフラーを巻き、手袋をし、吹き付ける寒風に耐えながら、片道一時間はかかるであろう町の図書館までの長い道のりを制覇してきたのだ。指先はひどい赤切れになっているし、顔はしもやけになりそうなほどヒリヒリしている。
とにかく苦労したのだ。
大変だった。
それなのに。
『遅いやないか』
なのだ、この女は。
ザジはわがままだ。
まるでお姫様のようにわがままだ。
そんなザジは暖炉の前に座り、――もちろん、暖炉に薪をくべて、火を起こしたのは僕だ――、暖かいココアをすすりながら、暖かそうな格好で今か今かと僕の帰りを待っていた。
いい身分だよな、本当に!
「本、あった?」
「……あったよ」
僕はカバンにしまいこんであった本を取り出した。手の平におさまってしまう本が合計で四冊、どの本の表紙にもかわいらしい女の子の絵が描かれていた。
ザジに手渡す。
数時間前。
「ウチ、こんな狭い家の中で外に出られず暇や。あんた、すぐ近くにある町の図書館で『アーティファクト』シリーズの本、全巻借りてきて!」
「はぁ? 狭い家で悪かったな!」
「あんたの心の狭さと一緒で、ホンマに狭いわ」
「文句言うなら、出てけ!」
「何のどんな権限があってウチに反抗してるん、あんたは?」
「ここは僕の家だ!」
「違うやろ、あんたのお父さんとお母さんが建てた家やろ。何、自分の物にしとんねん!」
「正確にはそうだけどさ……」
それでも、親の物を子どもが譲り受けて何が悪い!
「ホンマ心の狭いやっちゃなぁ。男ならもっとドカっと構えんかい!」
「居候している身で、よくそんなことを口に出せるよな!」
「ウチとっても、か弱い女の子やん。やから、ウチのこと絶対に守ってや!」
「何でいきなりお嬢様キャラになってんだよ!」
ザジはかわいらしく僕にウインクをした。かわいいんだろうけども、かわいく見えない。
「ホンマのことやん! あんたも一応男なんやから、か弱い女の子のウチを、命を掛けて守ってや!」
「……その前に守ってもらえるような魅力的な女になれよ!」
「ウチ充分魅力的で、魔性で、罪作りな女やん!」
「自分で言うな!」
「ウチみたいな女の子を、ツンデレって言うんやろ!」
「ツンデレを通り越して、ヤンデレって言うんだよ!」
病気だよ、病気!
病んでるデレっ子ちゃんだよ!
「どっちでもええわ! 早よ、さっき言うた本を借りてきて!」
「あぁ、そう言えば。僕たちの会話ってすぐ本題から脱線するよな」
「あんたのせいや!」
「すぐ人のせいにする」
「心が狭くて、どうせアソコも小さいあんたのせいやろ!」
「自称、か弱い女の子がさらりと下ネタを言うな!」
「ウチ、経験者やもん」
にやりとザジが笑った。
思いもよらない返答に、顔を赤くして戸惑っているとザジが僕の耳元に口を寄せ「聞きたい?」と呟いた。そして、ザジの吐息が僕の耳にかかる。
「……本当に経験者?」
「そやで。ウチのあれやこれ、聞きたい?」
「いや、それはその……!」
ふっとザジの方を見る。柔らかそうな太もも、キレイで白くて細長い指が僕の頬に触れる。整った顔立ち、大きな瞳、ふくよかな胸、思わずごくりと唾を飲んだ。
「あんたはエロい女の子って嫌いなん?」
そう言って、ザジはそっと身体を僕の方へ寄せてきて、声を潜めるどころではない、露骨な内緒話をするように、僕の耳元へとその唇を近づけてきた。
手で口元を隠すように。
「――××××」
「えぇ! はぁ!?」
い、今、何て言った……!
「××××を××××にして、それから××××であって、××××に××――」
「う、うわ……!」
ザジ……。
おまえ本当に経験者だったんだ。
ダメだ、もうついていけない。
「×××――××で×××――」
「あぁ……」
十四歳の僕が耳に入れてはいけない言葉がずらずらと並べられていく。
信じられない……。ただの言葉だけで、人はこうも情欲を刺激されるものなのか!?
「や、やめて――」
耳元に、息を吹きかけられるくすぐったさもあいまって、うまく声を出せない。
さらにザジは右手で僕の太ももを撫でる。いやらしくねっとりと艶かしく、僕の太ももを撫で回す。
もうダメだ。世界が暗転する。
「はむ」
耳を噛まれた。
唇で挟む感じ。
思わず「ひゃぁ!」とかわいらしくて、かわいくない声を上げてしまった。
それはもう完全なエロ行為だ。
「といった感じや」
平然とした仕草で、何事もなかったように、僕から離れるザジ。
「どや? まいったか」
「もう、好きにしてくれ……」
あらぬことを想像してしまった自分を猛烈に消したい。
僕はもうダメだ。
「早よ、本を借りてきて!」
「ああ、そう言えば、そうだったな……。行って来るよ……」
「早よ、行ってこーい」
ザジは晴れ晴れした顔で僕を送り届けた。
で、現在に至る。
「これで満足か!」
誇らしげに僕は言った。
「うん。満足や」
にこりとザジは笑った。
ほっと一息胸を撫で下ろす僕。
しかし、このザジの笑みが小悪魔の笑みであることを知るのは、この後すぐのことである。
「ウチの命令に素直に従った飼い犬さんに、ご褒美をあげるで」
そう言ってザジは一枚の皿を手に取った。その皿には、一口大の大きさに整えられた米粒に、その上に何やら緑色の物体が載っている。
「これは東にある日本という国で食べられている寿司っていう食べ物なんやって」
「へ~、初めて見た」
「ご飯の上に、色々載っけて食べるんやって」
「この緑色の物体は何?」
「それはわさびって言って、とっても甘いものやで。ご飯との相性は抜群や」
「そうなんだ。いいの? 僕だけ食べて」
「もちろんや。一口で食べるんやで」
変わらずザジはニコニコとしている。珍しいザジの態度に少しでも、疑いを持っておくべきであった。
後悔先に立たず。
寿司と言われる物を僕は口に放り込んだ。
衝撃はその刹那であった。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
舌が焼けるように熱い。
鼻がつーんと爛れるように熱い。
「ひゃ、ひゃなが! ひ、ひたがぁ!」
「にゃはははははっ! 引っ掛かったぁ! バーカ、バーカ!」
目に涙を浮かべ、「水、水ぅ!」と襲い掛かる痛みに悶え苦しんでいる僕を、ザジは大きく笑った。腹を抱えて、本当に可笑しそうに。悪魔のような女だ。
違う。
悪魔そのものだ。
「何しやがる!」
水を一気に飲み干して、襲い来る強烈な鼻がつーんとする痛みに身体が多少慣れてきてくれたところで、僕はザジに詰め寄った。ザジは悪びれる様子もなく、あっけらかんと言い放った。
「どや、ウチの特製わさび寿司は!? とっても強烈な味やったやろ」
「あぁ二度と味わえない味だったよ……」
「寿司という食べ物は、普通はご飯の上に魚が載ってるんやって」
「なぜ、僕にあんな物を食べさせた!?」
「面白そうやったから」
「人の身体で実験するな!」
「ええやん。あんたはウチのストレス発散道具や!」
「ひどいこと平気で言うよな!」
むしろ、ひどい女だ。優しさの欠片もない。
うぅ、まだ口と鼻がヒリヒリする。
「それにこれは罰や」
「罰?」
「あんたは買い物もできへんのか?」
「は? 言われたもの借りてきただろうが!」
そう言うとザジは手の平を僕に見せてきた。そして、「五巻や」と言ってのけた。
「そう、五巻。ウチは全シリーズ借りてきてって言うたんやで。四巻までしかないやん!」
「いや、それは多分五巻は他の人に借りられてなくて……」
「なら、他の図書館行くとか、本屋に買いに行くとか頭回らへんかったん?」
「え……、そこまでやらなきゃいけないの……?」
「当たり前やん! こんなかわいい女の子の頼みを無下にするなんて、あんたホンマに甲斐性ない男やな」
ザジが呆れ顔でため息を一つした。
「あんた、いくつや? 子どもやないんやろ!」
「いや、僕はまだ十四で子どもだから」
「はぁ!?」
僕の情けない抗弁は、ザジの視線によってあっさりと封じられた。
「ご、ごめんなさい……」
頭を掻きつつ謝る。
ザジが僕の家にやってきてからすでに一週間は経つが、僕はこの女に全く頭が上がらなくなってしまった。ザジに命じられると一応反論はするけれど、すぐに屈服させられてついそのとおりに行動してしまうし、怒られると即座に謝ってしまう。たとえ自分が悪くなくても、頭を下げてしまう。もはや、パシリ、奴隷だよ。やはり最初の出会いのつまずきが悪かった。見事に頭を抑えられてしまったのだ。
ザジはあっさりと言った。
「というわけで、今から探しに行くんや!」
「はい?」
「もう一回行って、ウチの言うたやつ探してきて」
「今から……? 帰ってきたばかりじゃん」
何ということだ。
またしてもあの地獄の二時間を繰り返さなければならないと思うと、背筋が凍る。何とかザジの機嫌を直そうと「冗談キツイよ、ザジさん」なんて、一応おだててみるものの全くの効果なし。
ザジはあっさりと言い放った。
「頼まれたもん、ちゃんと買い物できへんかったのあんたやろ?」
「でも、今日はすごい寒いし、それに今から出掛けたら帰る頃には日が暮れて、夜に――」
「それがどうしたんや?」
「せめて、明日じゃあかんの……?」
「早よ、行く」
「いや、でも……」
「行く」
ザジはまっすぐにこちらを見ていた。
彼女の目はびっくりするぐらい色素が濃い。覗き込んでいると、その瞳の中で黒い水がゆっくりと渦巻いているように見えることがある。そんなとき、僕はザジの瞳に吸い込まれそうな錯覚を起こすことがある。そして、あとで一人になってから、何故かひどく切ない感じがしてくるのだった。
今もザジはそんな瞳で僕を見つめている。
「早よ、行かんかい!」
「……わかりました」
「早くせぇへんと、図書館も本屋も閉まってまうで!」
「急いで行ってきます……」
何も言い返せない自分が、とても悲しかった。
外はやたらと寒かった。
日が傾いたせいで、一気に気温が下がったみたいだ。吹きつけてくる風もさっきよりもずっと強くなっていた。
東の空はもう暗くなりかかっている。
「この世の地獄だ……」
そう呟いた僕の息が、白く凍りついた。
僕はマフラーを首にぐるぐる巻いて、コートの前をしっかりと合わせてから歩き出した。
結局。
寒空の中、放り出された僕は再び町へと繰り出し、本屋でザジが言っていた本を探し出し、現在帰路についている。……ちなみに本代は僕のお金、ただでさえ貧乏なのに。この世には神も仏もいないのか!
家に着くと、明かりはついておらず、しんと寝静まっていた。帰りを待たずして寝やがったな。
ちなみにザジは屋根裏で寝ているものの、僕が使っている毛布やらを全部ひったくって、布団を敷いている。おかげで僕はこの冬を毛布一枚で過ごしている。さらには、ご丁寧に『進入禁止! 覗いても殺す!』という張り紙がなされている。身持ち堅すぎ……。
それにしても。
「腹減ったなぁ」
夕飯まだだったんだよな、本当にお腹すいたし。でも、これから何かを作る気にもなれなかった。
諦めて、僕も二階の寝室に行こうと思った矢先、テーブルにこじんまりとオニギリが置いてあるのが目に付いた。
形はいびつで、だからこそ、誰かが作ってくれたのは明白だった。
僕は本当に本当に驚いた。
あのわがまま女のザジがそんなことをしてくれるなんて、考えもしなかった。
嬉しさのあまり、そのオニギリに飛びつく。マナー悪く、がっつくように食べる。今度はわさび寿司のようなことはなかった。特に具は入っておらず、味付けは塩だけで、冷えていて、少しお米がシャリシャリしているけどそんなこと関係ない。腹が減っているせいでムチャクチャ美味しかった。ガツガツと胃に押し込んでいく。いや、もしかすると別の理由でおいしく感じられたのかもしれないけど。
手についた米粒も舐めるように食べていると、
「なんや、あんた。犬みたいやなぁ」
二階からザジが降りてきた。
「よしよし、たくさん食べるんやで」
ケラケラと僕をからかうザジ。
場合によっては悪口になる言い方だった。
でも、不思議とそんな気はしなかった。こっそり顔を上げたところ、ザジはなんだか嬉しそうに笑っていた。笑っているときのザジは天使のようにキレイだった。
(ずっとこんな風に笑っていてほしいな……)
ガツガツ食べながら僕はそんなことを思った。
「なんやねん?」
視線に気付いたのか、ザジが首を傾げた。
僕は慌てて言った。
「この際、犬でも何でもいい。ザジって料理出来たんだ。料理って程でもないけど」
「あぁん? そないなこと言うたら、もう食べさしてあげない」
そう言って、ザジはおにぎりが載っている皿を取り上げた。
「あ、待って! まだ食べ足りない!」
「お手」
「え?」
「お手や、お手。あんたは犬や。早よ、せんかい」
「…………」
ザジはものすごく楽しそうにしている。いや、さすがにそれは……。
「なら、ウチが食べてしまおうかな」
「あぁ、待った! するから、するから!」
食べ物の恨みは怖いという言葉があるように、人の空腹時の食べ物への執着心も凄い。食べ物の前ではプライドのヘタックレもない。
本当に犬がお手をするように、ザジの手の平に自分の手を重ね合わせた。さすがのザジも本当にするとは思わなかったようで、目を丸くしてしまっている。
「バーカ、何本気にしとんの? 食い意地張っとるなぁ。たくさん食べや。ウチの愛情がたっぷりこもっとるさかい」
垣間見たザジの優しさに、ほんのり目頭を熱くさせてしまった自分がいることに気付くのに、時間は掛からなかった。嫌な気持ちなんて全くしなくて、それどころかザジの笑顔がやたらと嬉しくて……僕はそんな自分の気持ちを悟られないようにオニギリを口に頬張った。