夜空に吠える声
辺りは闇に包まれていた。道を照らすのは手元のランプと星明かりだけ。住民はほとんど皆寝静まっている。例外があるとするならば――
よく通る遠吠えが、静寂を破った。狼の声だ。俺は背中に担いだライフルを手に取り、小走りで声のした方に向かう。石畳に俺の靴音だけが響く。続いて銃声が轟いた。二度、三度と爆音が静けさを貫く。しまった、誰かが遭遇したらしい。俺は小さく舌打ちし、さらに走った。裏路地に入り込み、速度を落とす。震える息づかいと荒い鼻息が聞こえてくる。俺はランプを消し息を潜めた。ゆっくりと近づき、物陰から様子をうかがう。
星明かりに影が浮かび上がった。人のようでありながら、しかし明らかに人とは違う。顔は前方に伸び、口は大きく裂けて牙が覗く。尖った耳が頭の上に生え、全身を覆う毛皮が輪郭を大きくしている。体つきはたくましく、四肢の指先には鋭い鉤爪がついている。尻尾をふさりと揺らすその影は、人の姿をした狼と形容するのがふさわしい。俺たちは彼らを、"狼人間"と呼んでいる。狼人間は昼間は人間に紛れているが、夜になると変身して人を襲う化け物だ。
腰を抜かした男の手元から火花が飛び、轟音が発した。狼人間はたじろぎこそすれ、死ぬどころか逃げるそぶりも見せない。銃弾は当たっているはずだが、彼らには蚊に刺された程度にしか感じないらしい。狼人間は牙をむき、体勢を低くする。今にも飛びかからんとばかりに足に力を溜めている。狙われている男は逃げればいいのに、地べたに尻をすりつけながら拳銃を握っていた。震える手で何度も発砲する。当たった弾丸は怪物の気を殺いだが、根本的な解決にはならなかった。
俺はライフルを構え、狙いを定めた。そこらの台に銃身を乗せて固定し、支える腕にも力を込める。狙うのは比較的肉の少ない脇腹だ。狼人間が飛びかかろうと注意を獲物に向けた瞬間、俺は引き金を引いた。比較にならないほどの轟音が耳をつんざき、反動で腕にしびれが走る。銃弾は狙い通り命中し、化け物は短く悲鳴を上げた。こちらの存在を認め、牙をむいて咆哮を上げる。
怒り暴れるかに見えた次の瞬間、狼人間は急に苦しみだした。痛みにか細い鳴き声を上げ、撃たれた箇所をしきりにこする。やがて声はどんどんかすれていき、全身が痙攣したように小刻みに震える。最後には倒れ込み、泡を吹いて動かなくなってしまった。ランプの明かりで瞳を照らし、死んでいることを確認する。それを見て、腰を抜かしていた男も安堵したようだった。
狼人間に銃は効かない。けれど俺が奴を殺せたのは、俺が使ったライフルが普通でなかったからだ。正確に言えば、俺のライフルには銀の弾丸が込められていた。どういうわけか、狼人間は銀の弾丸を使ったときだけ殺せるのだ。銀は自然の力が強いとか、魔を祓う力があるとか言われているが、本当の理由はわかっていないらしい。
「一人で帰れそうか?」
ライフルを担ぎ直し、腰を抜かしている男に問いかける。男は地べたに座りこんだまま、足を震わせていた。どうやら立てないらしい。仕方なく腕を引っ張り、やっとのことで立ち上がらせる。
「送っていこう」
「あ、はい、ありがとうございます」
俺の申し出に、男はぺこぺこと頭を下げる。それを見てから、男に連れ添って歩き出した。夜明けはまだ遠い。朝日が星空を塗りつぶすそのときまで、一時たりとも気が抜けなかった。
おぼろげな印象が途切れ、見慣れた安い天井が目に入る。寝返りを打ってしばらく自分の部屋を眺めた。日はすでに昇りきっているらしく、窓から差し込む光は明るい。ああそうだ、とようやく意識が現実感を取り戻した。昨夜のパトロールが終わって、糸が切れたように眠ってしまったのだ。帰ってすぐに眠りこけてしまったらしい。愛用の銃が机の上に無造作に置かれている。
俺は立ち上がり、あくびをした。銃身を軽く拭いてから、ケースに入れる。着替えを用意し、浴室に向かった。ざばんと水をかぶり、眠気を飛ばす。汗を流すと、昨日からの緊張がほぐれる気がした。体を拭いて服を着、ボタンを留める。
パンと卵で簡単な食事をとっていると、部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。戸を開けた先にいたのは、髭の濃い壮年の男。固いスーツを身に纏い、首元の蝶ネクタイもきっちりと締めている。
「セイジ、君に客人だ。準備ができたらすぐに下りてこい」
「場所は?」
「3番の応接室だ」
「承知しました」
短い会話を交わして、男はさっさと階段を下りていった。それを見送ってから、部屋に戻る。急いでパンをかきこみ、水で流し込む。ジャケットを羽織り、ライフルを手に取る。銃弾を確認して武装し、いつもの仕事着が完成した。再度荷物を確認してから、俺は指定された応接室へと向かった。
部屋で待っていたのは、大人しそうな青年だった。見たところ二十歳くらいだろうか。くたびれたシャツを着ており、肩にかける四角いカバンを持っている。
「彼が今回の客人だ。君に依頼したいことがあると言って訪ねてきた」
紹介を受け、青年は遠慮がちに会釈する。俺はお辞儀を返し、話を促した。
「実は、夜な夜な狼人間が出てくるんです。僕、怖くなって……お願いします。退治してください!」
青年はばっと頭を下げた。腕は震えており、切羽詰まった印象を受ける。俺は頭を上げるようにいい、真っ直ぐに青年の瞳を見た。
「夜な夜な現れる狼人間、か。そいつが出るのはどこだ?」
「あ、はい。それはこれから案内します」
質問に答えてから、青年はわずかに目を伏せた。小さく口を動かし、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「セイジさんは今までに、何体もの狼人間を倒していると聞きました。だから、今度は倒してくれるんじゃないかって、そう思ってここに来たんです。……あの、できますよね?」
「もちろんだ。尽力しよう」
俺ははっきりとした声で答え、ライフル銃を見せる。青年はほっと表情を緩めた。
「ありがとうございます。それじゃ、案内しますね」
青年に案内されるままついていくと、古いアパートが見えてきた。3階建てで、小さな部屋が詰め込まれている。屋根の塗装は剥げ、門も少し錆びている。青年は狭い外階段を上っていき、最上階の隅にある部屋の鍵を開けた。
「ここが僕の住んでいる部屋です。どうぞ中へ」
青年に言われ、俺は部屋に上がり込んだ。部屋の中は斜陽が差し込むだけで薄暗い。机やベッドといった最小限の家具だけが置かれている。他にあるのは、古ぼけた本と大きな望遠鏡、そして天井からぶら下がった星座のモチーフくらいだ。その本棚には星や天文関連の書物が並んでいた。
「星が好きなのか?」
「はい。学校でも天文学をやってまして、この望遠鏡は教授から譲っていただいた物なんです」
青年は笑い、愛おしむように白く太いその筒を撫でた。が、不意にその表情が曇る。
「月の表面も見えるくらい、いい望遠鏡なんです。でも、やっぱり、遠くにある惑星まではなかなか見えませんね」
青年の表情は物寂しげだった。憧れを実現できず、しかし諦めきれない、そんなところだろうか。星と言えば夜闇の印象しかない俺にはわからないが、彼が見ようとしているのはきっと明るい希望なのだろう。
俺は話を聞きながら部屋を見回していた。狼人間退治のはずなのに、依頼主の家に招かれるとはどういうことなのだろう。この部屋のどこかに潜んでいるのだろうか。だが、この部屋に俺と青年以外の気配はない。ただ、何故か家具のあちこちに獣の爪痕があるのが気になった。
「本題に移らせてもらうが、退治して欲しい狼人間というのは?」
俺が問うと、青年は顔を上げた。窓の夕日を背にして、真っ直ぐに俺の方を向く。
「僕です。僕が、狼人間なんです」
「何だと…?」
俺は自分の耳を疑った。抗議するように青年を睨み付ける。そんな俺の前で、青年のシルエットが変化した。斜陽が尖った耳をくっきりと浮かび上がらせ、牙がその光を反射する。俺はとっさにライフルを構え、銃口を向けた。狙いを定める先には、最初と同じ青年の姿。
「はっ、まさか狼人間から俺に殺せと頼むとは……どういう了見だ?」
皮肉を投げかけても、青年は動じなかった。伏し目がちに悲しげな表情を浮かべている。青年はしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「怖くなったんです。夜になって変身してしまうと、見境なく人を襲うようになる……」
「それで俺に依頼した、か」
俺は油断なく青年を見据えた。いつでも引き金を引けるよう、しっかりと狙いを定める。青年は逃げなかった。ただこちらをじっと見つめている。逆光のせいで表情はわかりにくいが、瞳に怯えが見えた気がした。
「セイジさんは、どうして狼人間が生まれたと思いますか?」
静かな問いかけに、俺は答えられなかった。眉根を寄せたのは、きっと向こうも気付いているだろう。俺が生まれたときには、すでに狼人間の脅威があった。だから、どうして狼人間がいるのかなんて考えたことはない。どうやれば殺せるかとか、せいぜいそんなところだ。俺が答えないのを見て、青年は話を続ける。
「僕の母は、狼人間でした。母の父、つまり母方の祖父も狼人間でした」
俺はわずかに目を見開いた。狼人間同士の家系など知らなかった。俺にとって狼人間とは、夜闇に現れる怪物でしかなかったから、同じように家族と暮らしているということ自体が素直な驚きでもあった。
「そういう血筋だ、ということか?」
「はい。曾祖父も、そのまた親も、狼人間だったそうです。ずっとさかのぼって、七代くらい前の先祖は、この大地で生まれた者ではなかったそうです」
「と、いうと?」
俺が尋ねると、青年は赤みがかった空を見上げた。その顔はどこか憂いを帯びている。
「ご先祖様は、あの宇宙のずっと向こうから来たと聞いています」
「空の向こうから、だと? あんた、狼人間は天から来た神か天使だとでも言うつもりか?」
俺は声を低くし、威嚇するように唸った。腕に力を込め、さらに銃口を突きつける。青年は慌てて、違うと弁明した。
「えっと、そういう訳じゃなくて――あの星々の間に僕らが住むこの大地のような惑星があって、そこにはオオカミのように毛深くてたくましい人達がいて、そのうちの何人かがこの大地にやってきたんだそうです。彼らがこの大地の人達と交わって、生まれたのが狼人間だと、祖父から教わりました」
本人もきちんと理解し切れていないのか、冗長でつたない説明だった。説明を受けても、半分も理解できているのか怪しい。ただ何となく、得体の知れない存在だと言うことだけはわかった。
「それで、その先祖はどうしてここに来たんだ?」
「元々いた人間を殺して武力で制圧し、この大地を自分の物にするためだと聞きました」
静かな言葉で語られる内容は、しかし苛烈なものだった。ろくな奴らじゃない。そんな認識が俺の中で強まっていく。
「だから、僕たち狼人間は暴れてしまうんです。変身すると、侵略者としての意識まで蘇って、安穏と暮らしている人間達が憎くなってしまう。全てを、奪いたくなってしまうんです」
青年は語りながらも、顔を押さえてガタガタと震えだした。自分の中で起きる変化に怯えているようだった。俺は銃を構えたまま、短く息を吐き出す。
「あんたの気持ちまでは俺には推し量れない。が、狼人間が殲滅されるべき侵略者の子孫だってのはよくわかった」
青年はゆっくりと顔を上げる。俺の言葉に気を悪くしたわけでなく、ただ悲しげに微笑んだ。
「はい。ですから、退治をお願いできますか?」
「無論そのつもりだ。……動くなよ」
心配はいらないと、俺は力強く返答した。俺は、プロだ。話を聞いたところで、敵を殺すという意識は変わらない。青年は静かに笑って、こちらに背を向けた。ほとんど沈みかけた日の光が、寂しそうな表情をくっきりと浮かび上がらせる。
「思い残すことは何もない、なんて言えたら良かったんですけれど、実はちょっと心残りがあるんです。変身する度に恋焦がれた、先祖の故郷の星の姿を、一度でいいから見たかったなあ……」
窓の外で、闇が光を飲み込んでいく。太陽にかき消されていた星々が姿を現し始める。目の前で、大きな獣が吠えた。細長い口から発せられるのは、悲しい感嘆の響き。見たこともない星への憧れを、遠く遠く届かせようとしている。ぎらり、と憎しみの光を宿す双眸と目が合った。臨戦の息づかいが聞こえてくる。俺は無意識に、引き金にかけた指に力を入れていた。




