95.神様、ちょっとお弁当美味しいです
歩き慣れた道を、急がないとなぁと思いながらもふわふわした気持ちで歩く。固い地面から跳ね返ってくる暑さ、耳を劈く蝉の叫び声、後ろから通り過ぎていく自転車。このふわふわ感、例えるならあれだ。海とかで泳いだ後に感じるふわふわ感に似ている。
赤信号の前で立ち止まり、忙しなく行き来する車を眺める。特に気にしていなかったけど、こうしているとこっちの世界は随分と音が甲高いと気づく。向こうだと、人や動物の声以外は、風の音や木と木がぶつかる音がメインだったから、聞こえてくる生活音はとても柔らかかった。
ついさっきまでの動揺が落ち着いても、色々切り替えがうまくいかない。爆弾が爆発した熱と火薬の臭い。土中から捲れあがってくる地面。噎せ返る真っ赤な世界。うだる暑さでぼんやりと混ざり合っていく赤を、頭を一振りして振り払う。こうしているとまるで映画を見ていたような世界。でも、あれは映画じゃない、夢でもない。ここではない世界が確かにあって、私は確かにあそこにいた。その証拠は、今度は思い出だけじゃない。もう会えない痛みだけじゃない。
今度は一人じゃないのだから、泣いて泣いて泣いて、蹲る暇もなければ、その必要もない。
最近はめっきり見かけなくなった公衆電話を探しつつ、コンビニを目指す。確か、お爺ちゃんお婆ちゃんがタクシーやお迎えを呼ぶ施設にはあったはずだ。病院とか公共施設に。
コンビニへの通り道にある薬局にも寄る。消毒液、ガーゼ、テープ、化膿止め、湿布、包帯、解熱剤。……後、何がいるだろう。万引きと間違われても仕方がないくらい、ふらふらと棚を行ったり来たりする。お菓子は増えた。
一応お腹の薬も買っていこう。ご飯合わなかったら困る。他にもちょこちょこ思いつくものを放り込んでいく。こっちは排気ガスとかあるから目薬もいるかな、ひえ~るピタとかユアンが喜びそうだ、水分補給用にスポーツドリンクとかもいるかな。
重い籠を持ってレジに向かっていた足をぴたりと止め、ぐるりと向きを変えた。
そして、今まで縁のなかった場所で仁王立ちする。仁王立ちというのは語弊がある。説明書を読みふけるけど、さっぱり分からない。
髭剃りとシェービングクリーム。要るだろうと思うんだけど、どれがいいのかさっぱりだ。色々あって全く分からないので、見覚えのあるのを選んで籠に入れた。お父さんが使っていたと思われる商品だ。実家のお風呂場で見た気がする。たぶん。
万札は余裕で飛んでいった。薬局怖い。楽しかった。
もう少しでコンビニに辿りつくなぁと、重い袋を持ち直した私の肩がぽんっと叩かれた。
「一樹! あんた今日学校どうし…………何、その顔!」
「美代! 久しぶり!」
「何言ってんのあんた、昨日会ったじゃない」
大学でゼミも同じ友達の美代がびっくりした顔をしている。美代には昨日でも、私には結構な間があります。
「顔?」
「髪に隠れてるけど、左っ側、傷けっこうついてるよ」
綺麗に整えられた指が髪を掻き上げて、傷があると思わしきあたりを触る。ぴりっと痛みが走る。爆発の余波で吹き飛んできた破片か、それともディナストに追われていた時に擦りむいたのだろうか。鏡見ていないから気づかなかった。着替えたりお風呂に入ったりしていて、皆と視線も合わなかったから誰も気づかなかったようだ。道理でシャワー浴びてる時に違和感があったはずだ。それどころじゃなかったけど、確認しとけばよかった。でも、髪に隠れるというし、まあいいや。
「ちょっと、色々と」
「……あんたまさか事故ったの!? 携帯も電源入ってないし!」
「あ、うん、そんな感じ……あの、美代、ごめん。そんな感じで、雑誌、壊滅しちゃったんです、よ。弁償する」
皆で回し読みしていた雑誌は全部あっちに置いてきてしまった。そして、ブルドゥスの人達にパーカーと肌荒れにきび二の腕ぷるぷるを布教している。ブルドゥスの人にも、雑誌を作った人にも大変申し訳ない事態だ。
「そんなのどうでもいいわよ。怪我は? 他には?」
「いや、そういうわけには駄目でしょ」
「駄目も何も、前に裕子が雨で全滅させた時も、しゃあないねで終わったじゃん。真っ先にどんまいしたあんたが何言ってんのよ」
そういえばそんなこともあった。
「薬局で薬買ったの? で、あんたいまどこ行こうとしてんの?」
「コンビニ。携帯壊れちゃったし、公衆電話探しがてら買い物しようかと」
美代はほっと胸を撫で下ろす。そして、鞄に手を突っ込んで、あ、という顔をした。
「じゃあ、怪我は大したことない? よかったけど……しまった。あたしいまスマホ家で充電中なんだよね。これからちょっと遠出でさ。公衆電話なら、あのタバコ屋さんのとこにあったよ。代わりにこれあげる。前にお婆ちゃんち大掃除した時に出てきたの貰ったやつ」
財布からぽんっと渡されたのはテレホンカードだった。まだ穴が開くところが三つも残っている。よく分からないキャラクターが親指を立ててご機嫌顔だ。
「いいの?」
「使わないでもう何年も財布の肥やしになってたし、代わりに使ってよ」
「ありがとう、美代」
「どーいたしまして」
タバコ屋さんならすぐだから財布にしまわず、ポケットに突っ込む。
「美代、何か用事があった? ごめん、携帯見れなくて」
「ああ、うん。健のかてきょ、今日からちょっとの間要らないよって伝えたくて」
健君は美代の弟で、私とお馬鹿同盟を組んでいる高校生だ。ごめん、健君。授業で使おうと思ってた私の昔の参考書、全部向こうです。とにかく勉強が苦手な健君。馬鹿に対抗できるのは馬鹿だけだという謎の理論で抜擢されたバイトだったけど、今までそれなりにうまくやっていた。だって、馬鹿同士。何がどう分からないかが分かるのだ。
「親戚に不幸があってさ、ちょっとそっち行ってくるんだ」
「分かった。でも、あの、美代。夏休み中のバイトどうするかって話前にしたけど、私、バイトもうできないと思う」
「ああ、健は別に受験生じゃないし、勉強の仕方だいぶ分かってきたみたいだし、あんたの時間拘束し続けるのもねってお母さん達と話してたのよ」
「それは別にいいんだけど、ちょっと、時間が作れなくなりそうだから」
理由はちゃんと話せなかったけれど、美代は深くは聞かないでくれた。それだけ伝えに来てくれたらしく、もう行くねと美代は手を振る。
「あーあ、しっかし、健ががっかりするわ」
「健君、私より頭いいと思うよ」
「そうじゃなくてさ、まあいいや。じゃあね!」
「うん、ばいばい!」
新幹線の時間があるからと走っていった美代を見送る。暑い中、連絡がつかない私に会いに来てくれたのだ。
「ありがとう、美代」
久しぶりに会った、全然久しぶりじゃなかった友達が、やっぱり大好きだった。
タバコ屋さんでのんびり店番しているお婆さんに会釈して、公衆電話にカードを入れる。実はテレホンカード使うの初めてで、ちょっとどきどきだ。一回引っ越して以来覚えていない実家の番号をアドレス帳を見ながら押して、繋がるのを待つ。
【はい、須山です】
ずっとずっと聞きたかった声が受話器の向こうで聞こえた瞬間、いろいろ込み上げた。
「おかあ、さん」
【ああ、カズキ? どうしたの? あなた今年の夏休みどうするの? 去年は帰ってこないで薄情だことー。大学生活に浮かれちゃってぇ】
「お母さん」
【今年はちゃんと帰ってきなさいよ。鈴木さんがあなたの好きな果物入ったゼリー送ってくれたから、帰ってこないと全部食べちゃうわよ。鈴木さん、今度は山形ですって。転勤多いわよねぇ】
「お母さん」
お願い、話を聞いて。
お願い、もっと喋って。もっと声が聞きたい。
「お母さん」
もう会わないと決めたはずなのに、いや、決めたからこそ、喜びや切なさだけじゃなく申し訳なさが先立つ。先立つのに、嬉しい。お母さん、私、お母さんにさよなら言っちゃった。ごめん、お母さん。
【……なあに、あなた、まさか泣いてるの?】
「あのね、お母さん。大事な話が、あるの。私携帯壊しちゃって」
【いつか壊すと思ってたわ。ちなみにお父さん先週トイレに落として壊したわ】
「お父さんとお姉ちゃん達と一緒に、こっち来れる?」
【なに、どうしたの】
「凄く、大事な話があるの。戻りたいけど、ちょっと戻れなくて。それで、ごめんだけど、来て、もらえませんか」
勝手にさよならしてごめんなさい。一人で勝手に決めてごめんなさい。
【……あなた、どうしたの?】
「お母さん、会いたい。会って、話したい」
【……分かったわ。それにしても、あなた、ちゃんと食べてる? 何かいるものあったら持っていくわよ】
「あ!」
【なによ、いきなり!】
「手足の長い成人男性の服が欲しい。後、そんなに大きくない男の人と、中学生くらいの男の子の服も!」
【あなた、本当に何やったの!?】
「何もやってないような凄くやらかしたような感じです!」
なんかごめんなさい!
コンビニ行って必要な物を買って、帰り道はルートを変えてスーパーに寄った。そして、よしと気合いを入れて走って帰る。太陽とアスファルトの反射にじりじりと焼かれながら、猛ダッシュだ。
アパートに駆け込み、ノックする前に即座に扉が開いた。
『おかえり』
『ただいまよ!』
扉を開けてすぐにルーナがいる幸せ。ほっと肩の力を抜いたルーナがいる幸せ。
幸せなんだけど、ルーナ含めて部屋の中がカオス。
私は慌てて扉を閉めて、買ってきた物を冷蔵庫に放り込みながら、ほかほかとさっぱりしたイツキさんをちらりと見る。全力で視線を逸らされた。何も言いませんとも。手持ち札の少ない条件下で、頑張ってくれたのは分かりますとも。
でも、私のよれよれジャージと、パジャマ二本、よく分からないキャラクターがいい笑顔してるのと、ハート模様が散りばめられたズボンを穿いている三人。丈が足りない。しかも上半身裸。カオス。柄が今一なのは安かったからです。二本で五百円だったよ!
戦利品である下着と髭剃りを差し出し、男子身づくろい大会が繰り広げられている間にクローゼットを探る。私が入れていた時より綺麗に入っていた。どうもすみません。
ちなみにアリスちゃんには、下着を渡す時に気を使ったら怒られた。普通のしかなくてごめんねと謝った瞬間、凄まじい青筋が額を走り抜けていったのだ。
『……唯一の男子といえど、忙しくてなかなか家に帰ることのできない詫びを兼ねて、彼女達の趣味に付き合うことで鬱憤を晴らしてもらっていただけであって、貴様、私が好き好んであれを着用していたとでも思っていたのか?』
『アリス。カズキの顔は手当てするから別の場所にしてくれ』
うんっと思いっきり頷いたら、特大の青筋を見せて伸ばされた手が、洗面台から飛んできたルーナの声で彷徨った。ルーナ、よく分かったね。背後どころかその眼は切り離しが出来るんですか?
結局チョップに収まったけど、思ったより痛くなかった。
ごそごそとクローゼットの中を漁る。
あれ、どこしまったかな。たぶん、どっかにあったんだけど。
テレビでやってて面白かったから買っちゃった! と、何個も買ってきたお父さんが、節約の誓いをコロッと忘れたことに怒髪天を衝いたお母さんに肉じゃがをじゃがじゃがにされていた物が確かどこかにあったはずだ。これしかなかったからとそればかりを買ってきたのも敗因である。せめて皆も着られるMとかSにしてくれたら、全部紳士用でもお母さんはあそこまで怒らなかったと思う。
一人髭を剃る必要がない上に、私の普通の上下で事足りたユアンは、膝下までのズボンとTシャツを着て胡坐をかいていた。可愛い。テレビに齧り付きつつこっちも気になるようで、あっちもこっちもきょろきょろしている。しかし身体はテレビ寄りだ。正直でいいと思います。でも、もうちょっと離れないと目が悪くなるよ。
『カズキ! カズキ、これ何!』
テレビの説明は既にイツキさんから受けているのか、偶にびくっとしつつも不審がってはいない。でも、気のせいだろうか。テレビを乗せている倒した三段ボックスに傷がある気がする。さあ、斬りかかったのは誰だ。
「あった、これだ。えーと『何とは何事?』」
『これ! このティヴィっていうの何言ってるのか分からないけど、こいつ何!?』
『テレビよ。そしてそれらはペンギンよ』
『ぺんぎぃん』
『極寒の地にて居住いたしている動物よ……温かき居場所にも居住して致していた気配もうするよ!』
『ぺんぎゅぃん。あれは? でかいの!』
『トド』
『とど』
地球世界の生き物動物紀行は、ユアンの心をがっちり掴んだ。目をキラキラさせて齧り付いている。続けてサバンナとガラパゴスの特集だよ、よかったね。音量上げていいよ。
ユアンの位置をちょっと下げてから、発掘した塊を三つ持って洗面台に向かう。足の踏み場のなかった武器が、立てたり積んだりと横に寄せられている。でも狭い。男三人がぎゅうづめだ。丈が圧倒的に足りないズボンに上半身裸。カオス。バスタオルなくてごめんね。洗うのも乾かすのも面倒なので、フェイスタオル使用していたツケがまさかのルーナ達に回った。髪と身体で一枚ずつ使ったほうが、バスタオル一枚干すより楽だったんですごめんなさい。
その様子を一歩離れて見ていたイツキさんは、私の高校ジャージの上下を着用していた。着れましたか。よかったです。
安全圏の服を着用しているイツキさんは、とても申し訳なさそうに視線を逸らす。
『…………すみません』
『…………いえ』
『…………普通のは、皆さん、太腿が、どうあっても入らなくてですね。後、胸と肩と腕が』
『ほとんど全てと申しますね!』
筋肉ある成人男性が着られる服は、この部屋にはなかったようだ。服を着ていたらそんなに太く見えないけど、要所要所の筋肉が張っているから仕方ない。
髭を剃って整えた三人が手に取った下着のシャツを回収する。
『カズキ?』
『こちら着用のほうが、まだ、よきかなと』
お母さん達がいつ来られるかは分からないけど、上に下着のシャツしか着ていない男がぞろぞろいるよりましだと思うのだ。私は、チューブ型の物体を三つ並べた。不思議そうに首を傾げた三人の隣で、イツキさんがわっと声を上げる。
『あ、これ前テレビで見ました!』
『父が面白がり、大量購入を試みた結果、大惨事となった一部を頂戴致しました』
『え、ええー……』
圧縮Tシャツを解いて三人に渡す。これなら紳士用のLサイズだから皆着られるはずだ。なんとなく三つ貰ったけど、ちょうどよかった。あの時の私を褒め称えたい。
『カズキ! あれ、あのでかい魚! 何ていうの!?』
『クジラー』
『カズキ、なんかクリラいなくなった! なんかうまそうなのが!』
『え!?』
チャンネルが変わっている。どうやら興奮したユアンがチャンネルを踏んづけたようだ。テレビに映っているのはどこかの県のどこかの店の、行列の出来るラーメン。
皆の眼がテレビに向いている中、ユアンだけは私を見つめている。
私は無言で、さっき買ってきたお弁当を六人分差し出した。
近所の木村スーパーのお弁当、あのお店で作ってるし、店長の奥さんが昔シェフやってて、シェフのきまぐれランチって名前のお弁当、凄く美味しいですよ! 学生も、近所の主婦も、お年よりにも大人気。洋風、和風、中華の三種類。シェフのきまぐれランチ、498円! 六人分は結構痛いけど、美味しいから皆さあ食べて!
『…………お前、作れよ』
ぼそっと呟いたツバキの頭をイツキさんがはたく。
『同感であるだがツバキ!』
私は颯爽と立ち上がり、台所に戻った。そしてコンロの下を開く。
『ツバキ、こちらは、一人生活を致している私の調理器具です』
小と中の鍋一つずつ。中サイズのフライパン一つ。ボール一つ。
食器だって一人暮らし用の分しか想定していない。お箸もなければ茶碗もない。ラーメンにしたって、鍋で二人、フライパンで一人、ボールで一人、回して食べたいというのか。どんぶりも一つしかありませんよ!
美代とか友達が泊まることはあるけど、食器又は食料は持込み制である。
『六人分一斉にまかなうは、私の腕では難しきよ!』
必殺カレー、鍋、スープの大鍋技が使えない上に、ご飯だって三合までしか炊けない。そしてお米、後二合しかないのだ。明日木村スーパーポイント三倍デーだから、まとめて買うつもりだったのである。
ぎゅうぎゅう詰めになってしまった、冬は炬燵に早変わりする暖房器具兼テーブルに、かろうじて三つあるコップを並べていく。一個は、こっちで口座作った時銀行でもらったコップだ。続いて、お椀、お茶碗、中鉢を置いて、氷を放り込む。そこに、さっき作ったばかりの麦茶を注ぐ。ペットボトルを買ってくればよかったんだろうけど、流石に腕が千切れそうでした。ごめんね。薬局でシャンプーとか洗剤の追加も買ったのが大きかった。腕が痛い。
そうして私達は、シェフのきまぐれランチ弁当を頂いた。これ何それ何と騒がしかったけれど、概ね好評だった。でも最初に、和風を選んだイツキさんの卵焼きが私のより小さいとちくりと文句言ってきたツバキにうちのフォークは渡さない。ルーナとアリスとユアンに分配し、ツバキにはスプーンだ。付け合せのスパゲティに悪戦苦闘するがよい! 割り箸ならあるよ! フォーク三本しかないんだ! ほんとごめん!
『カズキ、何か手伝えるか?』
『大丈夫。ルーナ達は休憩しているよ』
お弁当のパックを軽く洗い、ゴミ袋に突っ込む。さて、デザートにアイス買ってみたんだけど、どうしようかな。
部屋の中を見ると、テレビを見ているようでいて、皆ぐったりしていた。そりゃそうだ。だって、さっきまで命がけで戦っていたのだ。そこから休まず怒涛のお風呂と服なしの悲劇。疲れていて当たり前だ。気は張っているようだけど、やっぱりどこか気だるげだった。
一応お腹も膨れ、傷の手当てもしてさっぱりして、涼しい部屋で座っていたら、眠くなったっていいと思う。ユアンは、象の親子を見ながら船を漕いでいる。ルーナと目が合って、ユアンと布団を指さす。ルーナは黙って頷いてくれた。そして、かくりと首を落としたユアンが倒れ込む前に抱き上げ、布団に寝かせる。
私は、パソコンの前で静かに座っているイツキさんを口ぱくと手招きで呼んだ。イツキさんはツバキに小声で何かを言って、音を立てないようそぉっと移動した。
「どうしました?」
「ちょっとご相談が」
「え?」
ひそひそと話しながら脱衣所に向かう。ここにあるのはルーナ達の服だ。
「……一応おしゃれ着洗いするつもりですが、洗濯機に入れて大丈夫だと思います?」
「う、うーん、僕、あまり詳しくないんですけど……色落ちするかもしれません。染料がもろに草花ですし」
「ですよね」
冬服だとそこに更に分厚さが加わる。いっそバスタブに入れて足踏み洗いしたほうがいいのだろうか。マントなんて、安いカーテンなんて目じゃないくらい分厚いし重たい。
「でも、カズキさん。とりあえず一旦休みませんか?」
「あ、お疲れのところすみません。ユアンの横で寝てもらえると。客用布団ないので」
「いえ、そうじゃなくて」
イツキさんは更に声を潜めて手招きする。身を屈めて耳を寄せると、内緒話の態勢に入った。
「多分、カズキさんが休まないと、ルーナさん達休みませんよ。僕も休まないとツバキ寝なさそうですし、ちょっと昼寝でもしませんか」
部屋の中を覗くと、全員会話もなくぐったりとしているにも拘らず休む気配がない。成程、確かに。私とイツキさんは頷き合った。
皆の服は軽くゆすいでからバスタブに張ったぬるま湯につけておこうと、イツキさんと一緒に装飾品を外していく。
「…………僕、朝に学校行こうとしてて、向こう行っちゃったんです。学校にも行ってない、家にも帰ってこないで、次の日には公開捜査されてたみたいです」
「…………はい」
ぽつりと、イツキさんが言った。
恐らく、その頃は色んな所でニュースになっていたのだろう。だけど私は知らなかった。たぶん、一番ニュースになっていた一か月は向こうに行っていて、帰ってきた頃には下火になっていたのだと思う。何も解決していなくても、人の興味も関心も当事者以外の中では薄れていく。今までは何とも思わなかったことが、苦い。
「…………あの、イツキさん」
「…………はい」
「私が、こんなこと言うのは無神経かもしれませんが……十年経っていないのなら、引っ越しとか、してないんじゃないでしょうか」
はっとイツキさんが私を見る。
「……会いに、いけますよ。一緒に、行きましょう?」
イツキさんは頷かなかった。でも、首を振りも、しなかった。
イツキさんは、部屋に戻る時には噛み締めた唇が少し赤くなっているだけで、苦悩をきちんとしまいこんでみせた。
『カズキさんのご家族がいらっしゃるまで高速で二時間はかかるそうですし、どっちにしてもお仕事終わってからになるでしょうから、夜になります。それまで少し休みましょう』
『イツキ様、コウソクってなんですか?』
『えーと、通行に料金を取る代わりに、歩行者禁止にして速度重視にした馬車道、かな。一般道より早いんだよ』
さらっと説明してのけたイツキさんに、おおーと感嘆の声を上げてしまう。アリスちゃんが私に向けてくる視線が冷たい。冷房要らないんじゃないかな。
『そういう理由なので、皆、仮眠を取ろうよ。寝具はこれしかない故に、服をかぶってよ』
前開きになっているパーカーやカーディガンを取り出す。こんな時もバスタオルがあったら便利だ。バスタオル、異世界からお客様をお迎えした時にとても有効だったなんて知らなかった。場所取るしいらないやと思っていた過去の私に教えてあげたい。
クッションやぬいぐるみにタオル、果ては中身の入ったティッシュの箱を枕にして皆で雑魚寝の態勢に入る。カーテンを閉めて冷房の温度を一度上げてから、さあ、どこで寝ようかなとぎゅうぎゅう詰めの中に隙間を探すと、ルーナが手招きしてくれた。勿論飛び込んだ。
ルーナに引っ付いて胸にすり寄る。同じシャンプーの匂いがして、ちょっとくすぐったい気持ちになった。腰に乗っている腕に少し引き寄せられる。そして、旋毛に長い息が染み渡った。
ただいま、ルーナ。ただいまできて嬉しい。ルーナお疲れさま。ルーナありがとう。
ルーナ、大好き。
誰のものか分からない寝息が聞こえてきたから、伝えたかった言葉を全部引っ付く体温に乗せる。
私も、ちょっと疲れた。
きちんと閉まりきっていなかったカーテンが少し開いていて、眩しい夏の光が一筋差し込んでいるのをぼんやり眺めながら、私達はすぅっと寝入っていった。