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神様は、少々私に手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章:大陸
93/100

93.神様、ちょっとほんとに待ってください



 血の海を抜けてもその臭いが纏わりつく。その死が纏わりついて、足が絡まる。

 大きな音がした。酷く近いその音に、虚ろになった意識が緩慢に引き寄せられる。渡り廊下が崩れていく。その先にあった建物でも、あちこちで爆発が起こった。

「殺すなとは言っておいたが、さあて、あいつら最後の仕事はどうだろうな」

『イツキ、さん……』

 爆炎と土煙が噴き上がる中を、誰かが駆け出してくる。よろめく人の手を必死に引き、ツバキがこっちを睨み付けた。ディナストに歯噛みをした瞳が私を向いて、酷く痛い顔をする。私、いま、どんな顔をしているんだろう。血の臭いが濃くて、視界まで霞む。

 ツバキに手を引かれていたイツキさんの足が折れた。虚ろな瞳で、燃え上がる世界を見上げている。叫ぶ気力すら残っていないのか、何かを呟きながら火を眺めていた。

「ディナストっ!」

 剣を抜き放ったツバキを前に、血塗れの剣が血を払う。

「長い間、忠義なことだ。忠犬とは哀れなものだな、ツバキ。恩を忘れる駄犬の方がよほど生きやすかろうに」

「……俺は、狼にはなれない。俺は犬だ。イツキ様にもらった恩を忘れるくらいなら、世界を呪った方がましだ!」

 斬りかかったツバキの剣は早い。だけど、何故か、ああ駄目だと思った。だって、きっと、ツバキのほうが強かったのなら、彼はもうとっくにディナストを殺していると思ったのだ。

 ぎぃんと鈍く鋭い音が響き、ぐるぐると剣が回って遠くに落ちた。ツバキの剣を絡めて捥ぎ取ったディナストが振り上げた手から、赤が滴り落ちてくる。

「ここらにも埋めておいたが、さあて、姉上が上がってくるのが先か、火の粉が移って我らが吹き飛ぶが先か。どう思う?」

「お前っ、いい加減に!」

 短剣を構えて立ち上がったツバキの後ろで、イツキさんが座り込んでいる。その手に抱えているのは瓶だ。炎を映してオレンジ色に揺れている水の中では、あの石がぼんやりと光っている。

 ディナストの眼がイツキさんを向こうとしているのに気付いて、その裾を引く。

「…………どう、して、イツキさん、なの」

「何だ?」

 視線が私を向いた。そのまま、私を見ていて。お願いだから、もうイツキさんを見ないで。

 あまり早く動かない思考が、恐怖を覚えるより先に思ったことを行動していた。イツキさんを見ないで。あ、でもやだ。私も見ないで。頬から落ちる血が怖い。

「何故、それほどまでに、イツキさん、なの」

 何年も、何年も、正気を保てなくなってからも、何故イツキさんを捕え続けるのだ。異世界人だから? それでも、私はあっさり落としてしまえたじゃないか。惜しいかなと言っていたくらいで、あっさりと。そんなに異世界人を研究したいなら、異世界人の眼に映った色を見たいなら、落とす前に幾らでも絶望させられたはずだ。なのに、ディナストは忙しいからと特に姿を現すことはなかった。

 それは、もう知っていたからだではないのか。異世界人であろうと、感情でその瞳に宿す色は、こっちの世界の人と変わらなかったのではないのだろうか。

 じゃあ、どうしてイツキさんを捕え続けたの。死の恐怖の色だって、もう、見たはずだ。脅え続けるイツキさんの眼にその色が浮かばなかったはずがない。じゃあ、何なのだ。どうして、捕え続ける。

「あなたは、何を、見たかったの。本当に、見たかったは、憎悪?」

 もう充分見たんじゃないの。自分で言ったじゃないか。その色が一番美しいと。だったら、まだ、何を見たいの。

 爆音が上がってくる。後ろからも爆炎が吹きあがる。ここは衛星写真とかで見たら拡大に拡大を重ねないと見えもしないだろう。でも、今ここにいると、まるで世界の全てが燃えているように見えた。

 見上げた空は黒く覆われていて月が見えない。どっちにしても昼間だから見えないだろう。でも、夜も地上が明るいし、煙いし、見えないよ。



「カズキ!」



 ずっと聞きたかった声に振り向くと同時にディナストが動いた。

 指程の細さの刃物を投げつけた先で、火花が散り、地面が捲れ上がる。爆弾が埋まっているのだ。

 煙が晴れていく先で、ユアンを背後にかばったルーナとアリスがマントで顔を覆っていた。ほっと全身の力が抜ける。距離があったのか、距離を取れたのかは分からないけど、無事でよかった。

「カズキ!」

「ルーナ……」

 煤けたマントの裾は千切れ、怪我なのか汚れなのかも分からない皆の惨状をぼんやり見つめる。

「生きてるな」

「ルーナ」

「なら、それでいい!」

 強い水色が炎を打ち消す。赤を塗り潰して、世界が帰ってくる。

 死が有効であろうと、死にたくない理由が、私にはあるのだ。それが幸せなことだと思えている内は、死んでいく人達の顔がどれだけ幸せそうでも飲まれてはいけない。

「な、何事もされてはおらぬよ――!?」

 ぐわっと戻ってきた感情で一番に伝えてしまったのはそれだった。ルーナ大好きと伝えるべきだった気がする。

「まだ、終わってはいないぞ!」

 血の底から噴き上がるまぐまのように煮えたぎる怒声に、ルーナとアリスが向きを変えた。巨体を赤く燃えたぎらせる男が咆哮を上げる。赤いのは比喩じゃない。

「ひっ!」

 血の海が蘇る。だけど、この赤は違う。炎がヌアブロウの身体を纏っている。なのに男は、燃えながらも歓喜の声を上げて剣を振るう。

「もう、終わりだ。もうやめろ、ヌアブロウ!」

「終わらぬさ! 命尽きるその時まで、戦士とは戦士であり続けるのだからな!」

「貴様には本国に妻子がいたではないか!」

「生きていく上で必要な金銭は与えただろう! 女子供など、戦場には必要ない! 戦場とは、戦士の為だけの神聖なる儀式の場だ!」

「……ならば、私は戦士にはなれぬ! 私もルーナも、騎士であるのだからな!」

 振りかぶられた剣を避け、アリスはそのまま右に逸れる。さっきまでアリスがいた場所にルーナが滑り込む。

「逃げるか、アリスローク! アードルゲの名が泣くぞ!」

 アリスが悲しげに首を振る。嘗ては彼を率いた人だった。ずっと、隊長と呼んだ人だ。だけど、アリスはもう、彼をそう呼ばなかった。

 ルーナが燃える剣を受け止める。

「貴様も、随分つまらぬ男に成り下がったな、ルーナ・ホーネルト。戦う為だけに生きた貴様の美しさといったらなかったぞ!」

「お前は戦いに意味を見出した。俺達には、戦う理由が意味だった。それが違いだ、ヌアブロウ」

「だからこそ、相容れぬ!」

 刃物が鈍く重く擦れ合う音が爆音に飲まれずに響き渡る。

 剣が折れたのは、ヌアブロウだった。

 砕け散った剣の破片が炎を弾き、きらきらと光る。その破片の中で、満足げな顔をした男が倒れていく。死んでいく彼らはやっぱり幸せそうだ。生き残ったルーナもアリスも、あんなに苦しそうなのに。


 首を小さく振り、視線を外したルーナ達が走り出そうとした先が爆発する。まだ何本もの細い刃を構えているディナストから離れて、イツキさんに駆け寄った。

『イツキさん!』

 何も映していなかった瞳がびくりと跳ねた。私の身体にべったりと張り付いた赤い色を見て、自分の身体を抱きしめて震えだす。慌てて切り離せる部分の服を剥ぐ。対ディナスト用に着せてもらった服がここで非常に便利だったのは皮肉だ。一番血に触れた靴も脱ぎ捨てて、イツキさんと向き合う。

『赤が、たくさん、で。だから、僕が悪くて、それで、赤が』

『イツキさん!』

『赤い、色が、消えないんです』

 お願い、聞いて。帰ってしまう前に、お願いだから、聞いて。

『イツキさん、あなたが探している赤は、どんな赤ですか』

『赤、が』

 その眼が炎と血だけを映していて、乱暴に頬を掴んで視線を変える。彼へ届く言葉をいま喋れる人間は、私しかいない。お願い気づいて。私のことなんて覚えてなくていい。言葉も、聞こえないならそれでいい。それでも、届いてほしい。

 他でもない、彼らの為に。

『私は、たぶん、表面的なことしか分かってませんし、怖いっていっても、あなたの見てきたものからしたらたかが知れている程度でしょう! でも、血は怖いです! 炎も、怖いです! でも私は、あなたの傍でずっと泣いてる赤を知っています。あなたがつけた名前を支えに、あなたを呼び続ける赤を知っています。イツキさん、あなたが赤の花の名前をあげたんですよ!? だから、だからイツキさん、お願いですから、彼だけは、見てあげてください。あなたがあげた名前を宝物にしている人を、見つけてあげてくださいっ!』

 私が無理やり向けた視線の先で、ツバキがディナストに短剣を振りかぶり蹴り飛ばされた。地面に落ちると同時に身を低くして駆けていく。何度も何度も、血を撒き散らしながら咆哮を上げて向かっている。

 私は何の為にここにいるんだろう。意味なんて、ないのかもしれない。別に私じゃなくてもよかったのかもしれない。それでも、いまここにいるのが私なら、私は、私が出来ることをしたい。

『イツキさん!』

 見開かれた瞳が見ている赤は、どれだろうか。流れる血? 噴き上がる炎?

 それとも。


『赤……い、花』

 滴が、頬についた煤を洗い流していく。

『お婆ちゃんちの庭に、咲いていたんです』

『…………は、い』

『今はもう、お婆ちゃんが死んで、家も、庭も、なくなったけど、僕、それが、凄く、好きで』

『はい、イツキさん』

 ルーナ達は、どこに埋まっているのか分からない爆弾を警戒して近づけないでいる。でも、既に爆発したところなら大丈夫だ。抉れた土の上を走り抜け、少しずつ距離を縮めていく。いつの間にか、たくさんの兵士がこの場に現れていた。

 その中で、汚れて尚、まるで月のように美しい銀髪を靡かせる人がいる。こんな先陣を切っていいんですか、エマさん。ああ、でも、これだけばらばらになった物を纏め上げる為には、目に見える戦いを見せる必要があるのかもしれない。私達を掴まえたガリザザ兵も言っていた。目に見える形での、目に見える終わりをと。人は色々考える。考えるけど、色々ぐちゃぐちゃになってる時は、分かりやすい形が必要だ。だって多くの人にとって、色々考えられるのは落ち着いてからになるから。

 エマさんと目が合っている気がする。でも、たぶん違う。エマさんが見ているのは、エマさんに釘付けになっている隣の人だ。

 ぶるぶると震える手が私の手を握った。私も握り返す。お互いがたがた震えているから、おあいこですね、イツキさん。

『……あなたは、血を分けた人間が誰もいないこの世界を、愛せますか?』

『心を分けた人がたくさんいます。何もなかった私に、心を分けてくれた人が、たくさんいます。私はそれが、とても、嬉しいんです』

『……世界は、愛せませんか?』

 困ったように眉根を下げるイツキさんと同じ顔を返す。私達は苦笑した。

 この世界大好きと叫ぶには、少々、厳しかった。

 でも、好きなのだ。

 全員じゃない。出会った全てとは言えない。でも、好き。

 選択をできるくらい、あの人達が、大好きなのだ。



「カズキ!」

 大回りして回り込んできたルーナ達の背中でディナストが見えなくなる。腕を押さえてよろめきながら戻ってきたツバキは、へたり込んだ私達の前にしゃがみ込んだ。

「イツキ様、お怪我は!?」

 怪我を確認しようにも触れることを躊躇っているツバキの手が、逆に取られる。

「……お前のほうが、傷だらけじゃないか」

「……………………え?」

 ぎこちなく、イツキさんの口元が笑みの形を作っていく。自然と笑うには、強張っているのだろう。でも、笑いたいのだ。

「僕は、お前を、見つけられたかな」

「イツキ、様」

 目の前で涙を流す子どもの為に、笑ってあげたいのだ。

「ツバキ」

「っ」

 迷子の子どもの、言葉にならない絶叫が聞こえた気がした。



「……………………訛りすら、ほとんどないな」

「…………た、滞在期間が、違われると、思われるよ!」

 ぼそりと呟いたアリスに慌てて言い訳する。

「……カズキ、俺、たぶんそういう問題じゃないって思う」

「……やはり?」

 言いづらそうに口籠ったけど結局言ったユアンに恐る恐る訪ねる。神妙に頷かれた。やっぱりですか。私も薄々はそう感じていました。

 ぐるりとルーナを向き直る。

「ルーナ! 馬鹿はお嫌いですか!」

「大好きだ」

「ありがとう、私なるもルーナ大好き! アリス、ユアン! 問題なかったよ!」

 ぐるりとアリスとユアンを向き直る。

 二人の眼が馬鹿って言ってた。

「たわけ」

 アリスには口でも言われた。ユアン、言いたいなら言ってもいいんだよ!




「ディナスト、お前は何がしたかったんだ。玉座が欲しかったんじゃないのか?」

 まだ平らな地面の中心に立つディナストを、離れた場所からたくさんの鏃が狙う。ぎりぎりとこっちにまで聞こえてきそうなほど引き絞られた弦に囲まれても、ディナストはどこ吹く風だ。

「おや、姉上。相変わらずお美しい。ご機嫌のほどは宜しくはないようですが」

「この状態で機嫌が良いほど物好きにはなれんよ。お前と違ってな」

「それはそれは」

 芝居がかった様子で剣を収めたディナストは、従順を示すかのように両手を軽く広げた。でも、誰の気も緩まない。彼がこんなにすぐに投降するような人間とは、到底思えないのだ。

「……なあ、ディナスト。何故私だった? 何故、イツキを奪った? 七年も、イツキとツバキを囲い続けたのは何故だ」

 ふむ、と、ディナストは少し考えこんだ。黙って対峙する二人は、やっぱりよく似ていた。

「姉上とはあまりお会いしたことはありませんでしたが、幼き頃に何度かこのエルサムにてお会いしましたね」

「ああ」

「成人されると姉上はすぐにエデムに篭られてしまいましたから、それ以降ほとんどお会いしませんでしたが、兄上を殺しに向かっていたら、姉上が男を囲われていると聞きまして」

「…………ん?」

「玉座もいらぬ、手柄もエデムが成り立つ程度にしかいらぬと、力も富も執着されなかった姉上が惚れた男はどんなものかと思いまして、興味が湧きました」

「お前こそ、家族も兄弟も、私以上に興味がなかっただろう?」

 呆れた声を上げたエマさんの言葉を次いだのは、意外にもイツキさんだった。

「…………好きだったんだよ」

 意外な人から上がった意外な言葉に、全員の視線が集中する。ディナストでさえも、不思議そうに振り返った。びくりと跳ねたイツキさんを庇い、咄嗟にその視線を遮ったツバキの背を握り、イツキさんはぐっと顔を上げる。

「昔、ここで、転んだディナストに手を貸したエマの瞳がとても綺麗だったと、ディナスト、お前は言った。その色を、エマが僕らに向けてくれていた。だから、手に入れたかったんだ。エマの瞳にその色を灯したのが僕らだと思って、僕らを調べたかったんだ」

「だから何だ」

 心底不思議そうに首を傾げたディナストの視線を真正面から受け止めたイツキさんは、がくがくと震える手で私の手を握り締めた。痛いくらいに握りしめる手を、同じくらいの力で握り返す。

「お前は、一番美しいものは憎悪ではないと、どうして分からなかったんだ。だって、喪失からの憎悪だなんて、愛していたからだ。愛していたものを奪われたからお前を憎悪する色を、憎悪だけのものだなんて、おかしいじゃないか。エマが僕らにくれたものは、温かいものだったよ。温かい、愛だった」

「待て! 私はお前に恋していたし、今でもしているぞ! 愛だけじゃないと、そこは間違えるな!」

「わ、分かってるよ!」

 イツキさんの頬が燃え上がった。まさかの甘酸っぱい展開である。

 酷く続けにくい雰囲気を咳払いで誤魔化して、イツキさんは深く息を吸った。

「お前は、愛の存在を信じていた。だって、誰かが大切にするものを集中的に奪ったじゃないか。愛する場所を、物を、人を、あえて狙って壊した。お前はそれを憎悪が見たいからと言ったし、そう思っていたみたいだけど、だったらどうして、エマが僕らに向けてくれた瞳を美しいと思ったんだ」

 イツキさんが正気を失う前、既に得ていた答えなのだろう。唖然とディナストを見つめる私達の中で、ただ一人、確信を持って言葉を紡ぐ。

「僕らを捕まえてエマを脅したって、エマからその色を得ることなんてできなかっただろう。当たり前だよ。だって、お前が最初に美しいと思った色は、憎悪なんかじゃなかったんだから」

 唇を真っ白にして血の気が失せるほど恐ろしい相手を前に、がたがたと震えながらも、イツキさんは逃げなかった。強い、人だ。真実、そう思った。まるで氷を握っているように冷たい手をしているのに、瞳を逸らさない。

 しんっと静まり返った中で、ディナストはもう一度ふむと考えた。

「成程、一理あるな。それで、お前も随分酷い男だな。もう二度と手に入らなくなった今になって初めて、それを言うか?」

「…………お前なんて、大嫌いだよ」

 ざまあみろ。

 イツキさんは真っ青に震え、泣きながら口角を吊り上げる。お前なんか大嫌いだ。それが、うまく憎悪を繋げられないと言われていた彼の、精一杯の嫌悪だった。



「はっ! はははははっ!」

 片手で目元を覆ったディナストは、身体をくの字にして笑い転げた。込み上げてくる笑いを残したまま顔を上げ、目尻を拭う。笑いすぎて涙目だ。

「別の遊び方があったというわけか! もう試せんのはつまらんが……まあ、これもまた好き勝手やってきた結果というわけだな。では、最後に一つ試して行こう」

 ごく自然な動作で無造作にディナストの片足が上がる。足を上げたそこに、地面と同じ色をした細い縄があった。

「放てぇっ!」

 エマさんの声が言い終わる前に数多の矢が放たれる。

「では諸君、冥府でも遊ぼうか」

「伏せろ!」

 ルーナが短剣を投げながら叫ぶのと、振り下ろされたディナストの踵が齎した火花が世界を割ったのは同時だった。

 熱風が世界を覆う。風すらも赤い熱が迫ってくる様が、やけにゆっくり見えた。地面が捲れ上がり、凄まじい力の奔流が捻じ曲がりながら天を目指す。

 土も、緑も、空気も、命も、音も、視界も。それら全てを奪いつくし、天に昇った熱は、まるで竜のようだった。





「う……」

 一瞬の熱に炙られた瞳がごわついて、開けるのにもたつく。

 細めてゆっくりと開いていた眼を、次の瞬間、私は思いっきり開いた。ずきりと広がった頭痛も気にする余裕がない。

 そこにあるのは、詰め替えたばかりのバスマジックリンクリン。石鹸はそろそろ新しいのを出さなきゃいけない薄っぺらさ。タオルは洗濯機に放り込んでいる。

 曇りガラス風のプラスチック扉の向こうに、その洗濯機はあった。足拭きマットは昨日洗ってふわふわだ。

「え……?」

 くるくる回して開ける窓は換気の為に薄く開けている。その隙間から、ぱぁあんとクラクションの音が聞こえてきた。

 一人暮らしである私の、1Kのお城。住み慣れた1Kを見て、お湯の入っていないバスタブの中でざぁっと血の気が引いていく。

「う、そ」

 私、また、ルーナを。

 置いてきてしまった……?

「う……」

 自分以外の呻き声に慌てて視線を横に向ける。イツキさんが頭を振りながら呆然としていた。緩慢な動作で私を見て、また洗濯機を見る。……あれ? さっきの呻き声、イツキさんじゃ、ない?

 そういえば、バスタブからかなり上半身が出ている。べたりと座り込んでいるにも拘らずだ。イツキさんもそれに思い当たったのか、呆然としながらも二人同じタイミングで、そぉっと下を見る。

『カズ、キ、頼むから、そこ、は、踏まないでくれっ』

『い、痛い! この壁滑る!』

『ユアン! 髪を掴むな!』

『イツキ様っ、息、息が、できなっ』

 一人暮らしのお城、1Kのお風呂場は狭い。

「え?」

「え?」

 総勢六名を詰め込んだバスタブに、私とイツキさんの呆然とした呟きが反響した。




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