92.神様、少し幸せな悪夢を見ました
かつては偉い人の客間に使われていたという一室の隅で、外套を羽織って丸まる。蜘蛛の巣が張っている暖炉は、蜘蛛のほうが先住権ありそうなので退去は願えなかった。願えないというか、火を入れたら外から居場所が丸分かりなので出来なかったともいう。
寒い。冷えていく手足を擦り合わせ、自分の息で温める。いつディナストが起きてくるか分からない状況で、イツキさんがいる傍で眠る訳にはいかない。出来るだけ離れた場所で眠れそうなスペースを教えてもらった。ここなら、家具がごちゃごちゃ倒れていて見つけづらいし、尚且つ風が入ってこないから温かい。温かいといってもほかほかするわけじゃないけど、ツバキが用意してくれた毛布で下半身を包み、お尻が冷えないようにした。
もう一度合わせた両手に息を吐きかけ、外套を鼻下まで引っ張り上げる。首飾りを二本とも握りしめてぎゅっと目を瞑った。
石は、流水でその力を発揮すると、ツバキは言った。流水でなくて、水の中で揺れていたらいい。イツキさんがこっちに現れた時の石は、ディナストに捕えられる前に砕いてしまったと聞いてはいたけど、それまでは手元にあったのだ。その時に色々研究していたらしい。
溜息をつき、レールが壊れて傾いた分厚いカーテンの隙間から空を見上げる。地上が明るすぎてそれを見つけられない。
もう一つの条件は月だと、ツバキは言った。
十年前にイツキさんが現れた時は新月だったそうだ。私が二回目に現れた晩、あの日は満月だったらしい。私が消えた晩はどうだっただろうと記憶を辿れば、確か、満月だった。月明かりで明るいなと思いながら、終戦に沸き立つ人の間を歩いた記憶がある。
新月と満月の日に石の力が強くなるとツバキは言った。
次の満月は、明日だとも。
『もう、今日かな』
日付は変わったのだろうか。
私達が現れた時間を考えると、月が見えていようが見えていまいが関係ない。明後日か明日、ツバキは、イツキさんを日本に帰すつもりだ。
どうすると聞かれて、いらないと断った。後悔してないけどつらい。つらいけど、後悔してない。
あのね、お母さん。あのね、私、好きな人がいるんだよ。その好きな人がね、私を好きになってくれたの。それで、信じられないだろうけど、婚約したんだよ。結婚の約束だよ凄いよね。もう、すっごい大好きで、一緒にいたらいつも以上に馬鹿やっちゃうのに、可愛いって馬鹿なこと言うんだよ。ルーナ凄いよね。眼科いったほうがいいよね。それでね、お母さん。ねえ、お母さん。友達も出来たんだよ。親友だっているんだよ。それでね、ママにだってなっちゃたし、熊だって至近距離で見ちゃったよ。それで、それでね、お母さん。
『お母さんっ……』
寒いよ、お母さん。寒いし、暗いし、怖いし、埃っぽいし、蜘蛛いるし、さっきあっち走ってったの鼠だし、明日、また追いかけられるし。何度も倒されるけど、あれ痛いんだよ、お母さん。今のところちゃんとルール守ってるけど、たぶん、あの人が怒った瞬間、私殺されるんだよ。伽につきあえとか言ってたけど、あれ絶対ルーナを怒らせてその瞳の色を見ようとしただけで、私は殺す気満々だよ。だって一回は滝に落とされたし。この宮殿、逃げ回ってたら、あっちこっちに黒い染みがあったんだよ。枯れた花がいっぱいの庭に、いっぱい、いっぱい、土が盛られてるんだよ。
好きな人がいるんだよ。好きな人達がいるんだよ。
でも、いまはここにいないんだよ。もう会えないなんて思いたくないけど、大変なんだよ。いい人も優しい人もいっぱいで、皆に助けてもらって笑ってるよ。でも、結構、きついこともあって、きつい人もいて、あんまり知らないけど怖い人もいて。知らない間に知らない事が罪になってて、しんどいことも、いっぱいあるよ。
お母さん大好きだよ。お姉ちゃん達も、お父さんも大好きだよ、会いたいよ。そっちの全部を捨てたくないよ。
でも、私はもう、選んだんだよ。
会いたいよ、捨てたくないよ。同じくらい、こっちの皆にもそう思うんだよ。大好きだよ。ずっと一緒にいたかったよ。そう、どっちにも、思う。
でも、もう、離れたくないんだよ。ルーナといたいんだよ。ルーナと生きていきたいんだよ。もうルーナを泣かせたくないし、待たせたくないし、今まで悲しませた分を塗り替えられるくらい、いっぱい、いっぱい楽しいことしたいんだよ。一緒に買い物だって行きたい。ルーナの服を選んでみたい。ルーナの私服ってあんまり見たことないんだよ。だって、基本的に隊服だったし、こっちじゃ用意してもらうか、調達できた服を着る感じだったから。いろんな服を着たルーナを見たい。ルーナにも選んでもらえないかな。無茶ぶりかな。ルーナってどんなタイプの服が好きなのかな。ナース服だったらどうしようね。
ルーナと食べ歩きとかもしてみたいんだ。手を繋いだり、腕組んで店を見て回って、美味しいものいっぱい食べたい。犬見て可愛いって言って、猫見て可愛いって言って、雲見て形当てクイズしたい。クッションの柄、悩みたい。カーテンの柄、悩みたい。コップ、お揃いのにしたいって言ったら、付き合ってくれるかな。喧嘩だってしたい。仲直りしたい。もっと笑いたい。もっと、もっと、もっと、笑ってほしい。
『……ごめん、お父さん、お母さん。千紗姉、美紗姉、亜紗姉、ごめん、ごめんね』
帰らない。帰れないじゃなくて、帰らない。
今まで貰った恩を何一つ返さず、全てを投げ出して行く私を、許さないでくれていい。ずっと怒ってください。ずっと、かんかんに怒ってください。でも、ごめん。お願いだから、忘れないで。
『ごめんなさい、ごめんなさ、ごめんなさいっ……』
みんな大好き。いつまでも大好き。いつまでだって、愛してる。
出来るなら、叶うなら、大好きな人達を紹介したかった。どっちでも、私の大事な人達だと胸を張って言いたかった。でも、それは無理だから。
寒いよ、お母さん。寂しいよ、お父さん。
でも、千紗姉。私頑張るから、見てて美紗姉。絶対に、最後まで笑って生きてみせるから、馬鹿だなって怒って亜紗姉。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。さようなら。
私が生まれて初めて愛した人達の名は、家族だった。
ルーナは温かい。抱きしめても抱きしめられても温かい。声も温かい。瞳も、偶に凄まじく怖いけど、私を見る瞳は温かい。
そのルーナが手招きしてくれて、嬉しくなって走り出す。広げてくれた両手に思いっきり飛びついたら、抱きしめられたままくるくると回った。ルーナメリーゴーランドは楽しい。昔はルーナがティエンにしてもらって……されていたけど、あれはメリーゴーランドじゃなくてジェットコースターの類だった。
くるくる回る視界の中に呆れ顔のアリスちゃんがいる。隊長もティエンもイヴァルもいる。エレナさんとリリィがスヤマ(仮)がお菓子作って……炭作ってる! いいなぁ、混ぜてほしいなぁ。エマさんとイツキさんが手を繋いでいて、ツバキが影から花を降らしてる。混ざればいいのに。
シャルンさんがナクタを追いかけて転んでる。ユアンとユリンがなんか喧嘩してる。大人双子もなんか喧嘩してる。ダブル王子様も喧嘩してるけど、ラヴァエル様が腕組んで大笑いしてる。ロジウさんは頭抱えてる。王女様達は一冊の本を挟んで真剣に話しこんでいて、無表情のアマリアさんと、王女様達に負けない勢いのアニタが混ざっている。
そして私は、その様子をルーナと手を繋いでお母さん達に説明するのだ。あれが隊長でね、髪の毛は最後の一本私の所為で無くなっちゃったそうですと。そうしたら、お母さんはあんたまた馬鹿で人様にご迷惑おかけしてって怒って、お詫びの菓子折りどこのがいいかしらってお財布持って、お父さんはティエンの筋肉に憧れながら誰かとキャッチボールしたそうにそわそわして、千紗姉は菓子折りの種類をお母さんと相談してて、美紗姉はあんたこの中で誰が好みって私を突っついてきて、亜紗姉は皆の髪の毛は染めてるのかどうなのかに興味津々だ。
これは夢だ。分かっている。
こんなこと有り得ない。
でも、幸せで、夢だなんて無粋なことを言ってしゃぼん玉みたいに割れちゃうのが嫌で、誤魔化して笑う。誤魔化さなくても、幸せすぎて勝手に笑ってしまうのだ。
ああ、夢だけど、夢だと分かっているけどもう少しだけ見ていちゃ駄目かな。もう少しだけ、叶わない夢に浸っていたい。
けれど。
どちゃり。
鈍い、奇妙な音がして、シャボン玉は弾けた。
ごろごろと転がってくるそれをぼんやりと視線が追う。虚ろな目と視線が合ったと同時に、噎せ返る鉄錆びの臭いに口と鼻を押さえる。その手を誰かが掴んだ。
「お前の恐怖は、どんな色だ?」
えげつない笑顔を浮かべて覗き込んできたディナストの向こう側には、首のない男が倒れている。さっきまで繋がっていたはずのそこから噴き出す赤が、宮殿中で見かけた黒い染みを作っていく。
理解したくもないのに、思考がゆっくりゆっくりと回り始める。
じゃあ、さっき目が合ったあれは。
喉の奥が裏返りそうな私の悲鳴を聞きながら、ああ、いい色だと、ディナストは満足げに笑った。
これが夢なら、早く覚めてほしい。でも、この悪夢は現実だ。あの時のように悪夢から救ってくれるルーナも、ここにはいない。
自分が発しているとは思えない悲鳴が喉の奥から湧き上がる。
『いや、嫌だ、嫌だぁ! 放して! 放して放して放してぇ!』
後ろから抱きこむように両腕を握られて押されていく。自分の腕が痛むなんて全く考えられず、闇雲に身を捩ってもびくともしない。踏ん張ろうとする足が、水より粘性のある液体で滑っていく。そのねちゃりとした感覚に足元から怖気が駆け上がり、余計にパニックになる。
『放して、嫌だ、放してぇ!』
どれだけ人の気配が薄かろうと、宮殿にいたのは私達だけじゃない。最後までディナストについていた人が数十人は残っていた。
なのに、その人達の死体が廊下を埋め尽くす。体中の血を噴出させて、辺り一面血の海と化している。噎せ返るような鉄錆びの臭いに満ちていた。嫌だ、噎せたくない。噎せたらその分吸わなくちゃいけなくなる。この臭いを体内に取り込みたくない。鼻を、口を通していきたくない。
絨毯が吸いきれなくなった血は、体重を乗せる度にぐちゃりと染み出してきた。その上をディナストが私を歩かせる。
『嫌だ、いやぁああ!』
吸い込みたくないのに、全身を蝕む恐怖を止められずに悲鳴として飛び出していく。進みたくもない。恐怖や怒りや悲しみや、そんな感情が全部ぐちゃぐちゃに混ざり合い、思考までもが真っ赤に染まる。泣き叫ぶ私を楽しげに見下ろしたディナストは、服の裾が真っ赤に染まるのも構わずどんどん歩を進めていく。進みたくなくて必死に背中を押し付ける。私の背中にお腹が当たるこの人が、これをした人だと分かっているけれど、彼との距離を取るよりこの道を進みたくない。
「昨夜正門が破られた。あの勢いなら日没にはここに到達するだろう。思ったより保たなかったなぁ。眠ったのは勿体なかったか。ここまで大幅に予測が外れたのは初めてだ。壊れ方を見るに、バクダンを落とす前に投擲手を射ったな、あれは。上から壊れていたからなぁ。夜なのに鷹の眼を持った奴がいたとは、見事というべきか」
生命の象徴である赤がこんなにも溢れているのに、ここにあるのは死だけだ。未だ血を流す身体が血の海で溺れている。命は尽きても、きっとまだ温もりがあるのだろうと思える肌の色を赤に染めて沈んでいく。
『嫌だ、ルーナ! ルーナぁ!』
ここにいるのは最後まで残った人達だ。逃げ出すわけでもなく、最後を好きにしろと言われてもディナストの世話をしていた人達だった。彼が着ている服が綺麗なのは、彼らが用意したから。彼が眠った寝台の用意だって、彼らがしていたのだ。
靴底から伝わってくるぬめりのある感触に耐えられず、ディナストの足を踏みつける。全体重を乗せたのに、ディナストはそのまま進んでしまう。
「ははっ! 父親の足に身体を乗せて運ばれている幼子の遊戯を見たことがあったが、よもや俺がその真似事をしようとはなぁ」
意に介さず進んでいくディナストが声を上げて笑う振動に揺られながら、血の海を進む。前方から赤を飛び散らせながら、十人ほどの人達が駆け寄ってきた。
「ああ、終わったか」
「はい。他に御用はございませんか? 殺したら終わりですから、ちゃんと最後か考えてくださいよ? 流石に首が飛んだ後に御用を承ることはできませんからね」
「道理だ。そうだな、とりあえずこれを持っていろ」
状況にそぐわない軽口の応酬に眩暈がする。
いま、私はどこにいるのだろう。私が見ている景色と、彼らが見ている景色は同じなのだろうか。壁まで染め上げるこの赤は、本当は錆なのだろうか。だから、こんなに脅える必要なんてなくて、ただの整備不良とか手入れ不足とか、そんな。
これ、と、示された私の腕が、最初に頭を下げた人に渡される。人形みたいに首ががくりと動く。振り払って逃げなきゃいけないのに、身体も頭もうまく動かない。
「よし、ではいくか」
「外さないでくださいよ? あなた、変に横着するときあるんですから」
「ははっ!」
すらりと抜かれた剣が下げられた頭に叩き落とされる。ごとりと重たい、命の音が響いた。
「無抵抗のお前達相手に苦痛を与えるほど鈍ってはいないぞ」
「それを聞いて安堵致しました。あなたにお仕え出来たこと、大変楽しゅうございました」
「よく務めた。俺も楽しかったぞ。ではな」
目の前で何が起こっているのか分からない。ただ終わっていくその瞬間を次々見せつけられる。ここで死んでいく人が誰か分からない。分からないのにその死が苦しい。無関係の他人だからと無関心でいたいのに、死が、重い。重すぎる。
うまく理解できないのに、重さだけが増していく。
「お前で最後だ」
「はい」
私の手が荷物みたいに渡された。両手を一括りに片手で纏められ、後ろから抱えられる。
「片手でいけますか?」
「いけなかったら精々苦しめ」
「嫌ですよ。じゃあ、心の臓にします?」
いろんな怨嗟を見た。いろんな憎悪を見た。
私に向かってきたものから、私を通り過ぎていくものまで、いろんな嘆きを見てきた。なのに、それを生み出した人達が終わっていく様は、どうしてこんなに穏やかなのだ。負けたと悔しがることも、叶わなかったと憤ることも、誰かの所為でと罵り合うこともない。なんて穏やかで、満ち足りた顔をしているのだ。
「皇子」
「ああ」
「面白かったです」
「そうか」
「ええ」
そうしてまた一つ、酷く穏やかな終わりが訪れた。
分からない。何を分かりたいのかも分からない。
罪を贖えと、人々は言った。では、この人達は贖ったのだろうか。こんなにも幸せな顔をして死んでいったこの人達のこれは、贖いだったのだろうか。どう見たって罰には見えない。だって、こんなにも、穏やかだ。この死は苦しみではない。じゃあ、この人達は悪ではなかった? だから罰せられなかった?
苦しむ人間が受けているのは、苦しいから罰で、だからその人間が悪なのか?
分からない。皆が泣いた。誰もが苦しんだ。叫んで、押しつけて、罵り、悔やみ、急速に変わりいく世界に恐れながらも先を探した。
苦しいから罪なのか。楽しんだ彼らが正義なのか。善は尊ばれ、悪は罰せられるべきで、だから、彼等は死んで、穏やかに、面白かったと笑顔で死んで、その様は幸福で。幸福とは尊ばれるべきもので、ならば善なのか。善悪とは誰が、何が、判じるのか。
噎せ返る血の臭いの中で、思考が染まり、真っ赤に真っ赤に回る。
分からない。何が罰せられるべきで正しくあるべきで贖うべきで悪は悪であるべきで正義は正義であるべきでだからここは真っ赤であるべきで何をどうすべきでどうあるべきでだから人は死ぬべきでこうして死んでいくべきでだからこんなにも幸せそうであるべきでべきでべきでべきで。
贖うべきだと、人々は私に言った。贖いとは、こんなにも幸せに死ぬことなのですか。
常識が、道理が、理屈が、分からない。何がすべきで、何をすべきで、何が正しくて間違っているのか。誰が正しくて間違っているのか、分からない。いや、そうだったらもっと簡単だったのだろう。
誰も、正しくなかったら? 誰も、間違っていなかったら?
誰もが正しかったら? 誰もが間違っていたら?
こうあるべきだと言う言葉は、こうあってほしいというただの願望であるのだとしたら?
分からない。私が英雄なら分かったのだろうか。賢者なら分かったのだろうか。救世主なら、ヒーローなら、女神なら。私が私ではなかったら分かったのだろうか。
今の私に分かるのは、確実に終わる手段として、死は有効なのだろうなぁとぼんやりと浮かんだことだけだった。




