90.神様、小さな子どもを探しています
ぜえはあ、ひいはあと擦れる息をなんとか続け、痛む脇腹を押さえて身体を引きずる。退路がない場所には隠れたくないけど、土地勘、というか、建物勘がないからさっぱりだ。大きな壺に隠れていたら壺ごと叩き割られて心臓が止まりそうになった。
外を見たら、いつの間にか夕暮れになっている。
ずるずると壁に背中をつけて座り込む。あっという間に剥がれまくった服で、良くも悪くも涼しい。汗が引いてきたから風邪ひくかもしれない。
鼻を啜りながら白い息を吐きだす。
どうしてこんなにのんびりできているかというと、ディナストが、疲れた、寝ると鬼ごっこを休止したからだ。今も下では凄い音が鳴り響き、空より真っ赤な炎が上がり続けているというのに、なんとも自由な人である。あれは私じゃなくて彼を追いかけてきた炎なのだけど、それを見つつ、自分の目的より睡魔を優先させた。凄い。
途中で、別に一々脱いで渡さなくても、服に捻じ込んどいて捕まったら渡せばいいと気づいた。捕まる度に、脱いでも脱いでもパンツです、カズキマトリョーシカ! とか思ってる場合ではなかったのだ。
おかげで一々脱ぐ手間は省けたけど、その間に休憩が取れなくなって倍以上疲れる羽目になったのはどうしよう。
それにしても、ディナストは全然必死に見えないまでも、楽しんでいるようには見える。ルールを守って真面目に遊んでいるのだ。ああして見ると全然恐ろしい人に見えない。ただのノリのよい人である。
この人実はいい人だから皆和解しましょうよーと夕日に向かって叫びだそうとは全く思わないけど。
『お腹、空いた……』
三食昼寝付きとは言わないから、食事は提供して頂けないだろうか。これだと明日どころかこの後すら持たない。ディナストは今から寝ているということは、朝まで寝るのだろうか。それとも夜に起きて活動するという生活リズム乱れまくりの姿を披露してくれるのだろうか。
出来ればそのまま朝まで眠ってほしいなぁと思いながら、食事を探しに行こうと立ち上がる。久しぶりに食事の心配をした。今まで衣食住の心配がなかったのは、本当にありがたいことだ。まさか、皇都と呼ばれる場所でその全部の心配が出るとは夢にも思わなかったけど。
お腹空いたけどこの隙に寝ておいたほうがいいのだろうか。どうしよう。悩みながら、疲労でガクガク震える足を引きずって歩く。逃げ回っていた範囲はなんとなく地理は覚えた。ここ曲がったらさっき捕まった部屋に出るくらいのことは何とか……違う、ここどこだろう。部屋どころか渡り廊下が続いている。そういえば階段昇ったんだった。この宮殿平屋かと思いきや、上階があるのだ。玄関の柱と吹き抜けが高すぎて、全部天井高いだけの平屋かと思ってしまった。
ここ、上からも下からも後ろからも前からも見えるから、逃げるときは使わないほうがいいな。でも先は知っておきたいから今のうちに渡ってしまおう。
のろのろと進んだ先で、はっと顔を上げる。いい匂いがする! ご飯! ご飯食べたい! 皿洗いするから恵んでもらえないかな!
地上から立ち上ってくる焦げくさい臭いじゃない。ちゃんと料理したご飯の匂いだ! 眠るなんてナンセンス。人は食べなきゃ生きていけない!
皿洗いでも便所掃除でも何でもするから、パン一個でも恵んで頂けませんか!?
疲れなんて忘れて猛ダッシュした私が見たのは、ぐちゃぐちゃに荒れ果てた調理場の唯一綺麗に掃除された一角で、エプロンして鍋からスープをよそっているツバキだった。
「ツバキ!」
「うわっ、あんた汚い! ちょ、ここ入ってくんな!」
私が現れたことに驚きはしなかったけれど、振り向いたツバキはしっしっと虫でも払うように掌を振った。必死に頑張ってきたのに、酷い話である。
でも、見下ろした自分の姿を見て納得した。この宮殿を汚している埃に蜘蛛の巣や、泥と雪をばっちりお掃除してきたのだ。バイト代ください。
私を上から下まで見下ろしたツバキは深いため息をついた。
「ちょっと動かず待ってろ。中に入るなよ! 鍋には絶対近づくなよ!?」
念を押して去っていったツバキの指示に従って、中途半端に浮かせた両手もそのままにして待機した。ディナストが追いかけてきたら、その時はツバキの指示をポイ捨てして走り去る気は満々だ。
五分ほどして誰かが走って戻ってきた。
ディナストにしては軽い足音だと分かっていつつ、びくっとしてしまう。そこにいたのがツバキで心の底から安堵する。ツバキを見て安堵する日が来るとは思わなかった。
「ディナストはこの三日寝てねぇみたいだから、もうちょいは自由にできそうだ。イツキ様用に用意しといた風呂があるから、入ってこい」
「先に食事を分散して頂けると嬉しいよ」
「時間はありそうだから風呂が先だ。……そしたら、イツキ様と、食えばいいさ」
ぽつりと付け足された台詞に、黙って頷く。イツキさんに会うことに異論は全くない。寧ろ、やっとという想いだ。
「だが、共にであっても先に食事を頂きたいよ……」
お腹が盛大に鳴っている。
「お前汚ねぇから、絶対駄目だ。服は用意してやるからさっさと行け!」
「服はこちらを」
「それじゃ風呂入る意味がねぇだろうが! ディナストが遊んでるんだろ!? 分かってるから入ってこい!」
蹴り出された。比喩ではなく蹴り出された。そんなにイツキさんのご飯があるここに私がいるのは嫌でしたか。嫌ですよね。私も料理しているときにこんなでろんでろんが来たらおたまで叩きだす。
それを理解していても、私は戻ってきてひょいっと頭だけ覗かせた。
「ツバキ」
「まだいたのかよ」
「風呂の居場所が分からぬよ」
「……こっちだよ」
案内してもらったお風呂は、思っていたよりこじんまりとしていて非常に居心地が良かった。実家のお風呂みたいだ。
でも、のんびりしていられない。急いで身体と頭を洗ってお湯で流す。これはイツキさんのお風呂だから浸かるのは申し訳ない。流すだけにしよう。急いで泡を落としてふと二の腕を見ると、赤い楕円があった。打ち身だろうか。変なとこ打ったな、腕でこれなら背中とお尻は凄いことになってそうだと思っていたけど、別の事に思い至ってお風呂に浸かってもないのに逆上せた。ルーナ大好き。
一人で身体をくねらせて悶えまくる。きょろきょろと周りを見て、誰も見てないことを確かめ、そぉっと唇を寄せる。
「ふへ……」
こんな事態なのに嬉しくなった。
生きてて嬉しい。ルーナ大好き。
ばしんと頬を叩いて気合を入れる。よし、頑張ろう。
脱衣所に出たら、下着と長いキャミソールみたいなのしかなかった。待ってツバキ。これ、三回でアウトです。いや、その前に凍死する。この夜すら越えられない。会いたくて震える前に寒さで震えてアウトだ。
「ツバキ――!?」
「うるせぇ! いるよ!」
ばんっと勢いよく扉を開けたら、その勢いで跳ね返ってきた。両方向動く、だと……?
ツバキは鼻を打ってしゃがみ込んだ私を立たせ、両手を広げさせる。
「そのままいろよ」
その手には何やらたくさんの布を持っていた。それを、あれよあれよという間に身体に巻いていく。あっち巻いてこっち巻いて引っ掛けてと、ぐるぐる巻きつけられる。黙々と布を巻きつけていくツバキを見ながら思う。ミイラってこんな気持ちなのかな。
あっという間に長い大量の布が服となった。更に上からひらひらと透ける長い布を肩から腰にかけて流したり、腰から足にかけて垂らしたままくるりと帯に引っ掛けたりといろいろ足していく。追加で増えていく小さなものから大きな布まで綺麗に纏わせきったツバキは、ふぅと息を吐いた。
「後はリボンでもつけてろ。それも一枚だろ」
空っぽになった籠を抱えて立ち上がったツバキの裾を、慌てて引っ張る。
「あ? これ以上布用意できなかったから、これで頑張ってくれよ」
「ツバキ、ありがとう!」
思ったより動きやすいのに、沢山の『一枚』を身に纏うことができた。私一人だったら布があっても動けるように纏うことはできなかった。しかも可愛い。そんな場合じゃないし、お洒落にそこまでこだわりはないけど、可愛かったら嬉しい。
助かったのと嬉しかったので馬鹿みたいに大口開けた笑顔になってしまった。案の定、ツバキはぽかんとしている。ちょっと阿呆面過ぎました。ごめんなさい。
「ツバキ? あの、私」
「……いや、あんたからすげぇ嫌そうな顔以外で礼を言われるとは思わなかった」
「お腹空いたよ!」
「聞けよ!」
話してる途中に喋ってくるんだもん。でも、ごめん。カズキは急には止まれませんでした。
冬は日が落ちるのが早い。外は、あっという間に夜になっていた。高いモンブランの頂上で、冬の澄んだ空。さぞや満天の星が見えるだろうと思いきや、燃え続ける炎と煙で、星どころか月さえ見えなかった。
轟音の中、地上から照らされる明かりで顔に影を乗せたツバキが、食事を持って先を歩く背中を見る。手伝おうかと言ったけど、転ばれる方が面倒だからと断られた。
ディナストに追われて散々走り回った宮殿内はどこも埃塗れで、掃除も手入れもされなくなって久しいと言った様子だった。なのに、ここはそうじゃない。最低限の様相は保たれている。物が転がっているわけじゃないし、蜘蛛の巣は張られていない。鼠だって走ってこないし、お風呂場は黴もぬめりもなく、綺麗な石鹸が並んでいた。お風呂場までの道だけ。イツキさんの行動範囲だろうか。維持されているのはそれだけに見えた。ツバキが片づけたんだろうなぁと、他に人の気配がしない建物内を眺める。
「ツバキ」
「なんだよ」
「イツキさんは、どのような状態か?」
先頭を行く人の歩みは止まらない。
「基本的に、肩を叩いたり手を取らないと、人間全てを認識できない。ずっと、母国語で何かを喋ってる。……俺の名前を呼んで、怒ってる」
「怒るてる?」
「俺がイツキ様をああしてしまったから、怒ってるんだ」
急に立ち止まった背中にぶつかりそうになる。慌てて急ブレーキをかけた。カズキは急にも止まれたよ!
ただ立ち止まったのかと思いきや、目の前に扉があったからここが目的地のようだ。
「イツキ様は、ご自分の弱さを知っていた。だから、エマ様が敗れた時、知識を抱えたまま死のうとしたんだ。自分は拷問どころか恫喝にさえ耐えられない。だから、脅えるままいいように使われる前に、死ぬんだって」
ノックして、二秒待つ。返事はない。
ツバキは扉を開けて、一礼した。
「イツキ様、食事の用意が整いました」
返事は、返らない。
開かれた扉の中に、その人はいた。
一つに纏めた男性にしたら長い黒髪を揺らし、部屋の中を歩いている。ああ、日本人だなって分かる顔付きだ。でも、二十六歳にしては高校生のようにも見えるし、失礼だけど、老人のようでもあった。背はそんなに高くない。女の子みたいに線が細いのは、痩せているかだろう。頬がこけ、骨が浮き出た手を伸ばしてベッドの下を覗いたり、椅子の裏に回ったりと何かを探している。ぶつぶつと何かを呟き、探した物を見つけられなかったのか、またベッドの下を覗き込む。
ぶつぶつと、ツバキの名前を呼びながら、黒い瞳をぎょろつかせている。その言葉を聞き取ろうと耳を澄ませて、息を飲んだ。
「…………だけど、俺が止めてしまった。死なないで、一人にしないでって、俺が縋ってしまったから、優しいあの人は俺を置いていけなくなった。そして、壊れるその時まで、死なずに傍にいようとしてくれたんだ……なあ、イツキ様はなんて言ってるんだ?」
「ツバキを、探してる」
「……そうか。やっぱり、俺を恨んでいるんだろうな。俺の所為でこんなことになったんだから、当然だ」
目頭が熱くなる。胸も焼けるように熱く、痛い。呼吸すらも熱くて、苦しい。
「俺の、所為だ」
唇を噛み切って食い縛ったツバキの前を、ふらふらとその人が通り過ぎていく。
あんまりだ。神様、こんなの、あんまりだ。
「ツバキを、探してるっ……!」
ツバキの名前を呼んで、瞳を必死にぎょろつかせて、両手を伸ばす。
『ツバキはどこに行っちゃったんだろう。ツバキ、ねえ、誰かツバキを知らない? どうしよう。僕が目を放したから迷子にしちゃったんだ。どうしよう、僕の所為だ。誰か、ツバキを探して。どこかで泣いてるかもしれない。また怖い夢を見て一人で泣いてたらどうしよう。ごめんね、ツバキ。ごめんね、すぐに見つけるから! ごめんね、ごめんね、ツバキ。待ってて、すぐに探すから。すぐ見つけるから待ってて、ツバキ。見つけるから、もう怖くないから、だから泣かないで、ツバキ!』
涙が止まらない。息が、出来ない。
そんなに広くない部屋の中で、またベッドの下を覗き込んだ動作に嗚咽が漏れる。子どもが隠れられる場所を探しているのだ。きっと、やせっぽっちでがりがりで、奴隷商から逃げ出してきて脅える子どもが隠れられる場所を。
「……カズキ?」
「ツバキの身を案じて、ツバキを探してる。ツバキが泣いていないかと、案じてる」
弾かれたようにツバキが視線を上げた。イツキさんは、また椅子の裏に回って、今度は分厚いカーテンを捲っている。
『ツバキ? ツバキ、どこにいるの? エマ、ツバキがいないよ。お願い、探してあげて。ツバキが迷子になっちゃったんだ。ツバキが一人になっちゃったんだ。お願い、誰か、ツバキを見つけて!』
片手で口元を覆い、小刻みに震える背中に触れる。何も言えない。泣かないでなんて言えるはずもない。
どうしてだろう。なんで、こんなことになるんだろう。彼らの出会いはこんな結末を迎えなければならないようなことだったのだろうか。彼らが過ごした時間は、きっと優しいものであったはずなのに。
ツバキの大切な人がツバキを思っていることが、どうしてこんなに苦しくなければならないのだ。
「この世界での出来事全部、あの人にとって苦痛でしかないのかもしれない。俺も、エマ様も、あの人を悲しませることしかできないのかもしれない。それでも俺は、あの人に生きていてほしいんだっ……!」
血を吐くような叫び声にイツキさんの視線が私達で止まる。そして、ふらりと傾く。一房落ちた髪が顔にかかっても気にも留めず、不思議そうに言った。
『……誰?』
涙を袖で拭い、何度も息を吐く。初対面の人にはまず挨拶だ。そうですよね、イツキさん。国は違っても、世界は違っても、そういうのは変わりませんよね。
鼻を啜り、声が震えないようにつばを飲み込む。
恐ろしいことがあった心は、この世界を拒絶して閉ざされた。じゃあ、どんな言葉も、あなたには届きませんか?
貴方がツバキを案じるその言葉は、初対面の私の声でもあなたに届きますか?
『初めまして』
どこかぼんやりと溶けた瞳が見開かれる。
『須山一樹と申します。私ずっと、貴方と、話したかったんです』
私が差し出した手を呆然と握ったイツキさんは、呆けた声で『邑上、一樹です』と、反射のように軽く頭を下げて教えてくれた。




