87.神様、少し十年前に戻りましょう
「下がれ、無礼者が。エルサムを出ているということは、既にディナストより離反した者どもであろう。それが、このエマアンペリースを前に、ディナストの命を優先するとでも申すか?」
酷く通る声で集まった視線にエマさんは怯まない。当然のものだと顎を上げ、胸を張る。
「お前達にとって私は、最早過去の亡霊だろうが、あいにくと奇跡の恩恵を受けて命を繋いだ。元十三皇女エマアンペリースと名乗れば、七年前に死んだ皇族であろうが思い出せるか?」
「…………本物であると証明きでるものがなければ、聞けぬ話だ」
「ディナストに問うて来ればよかろう? エルサムの門を開き、宮殿の頂点にいるであろう愚弟に向かって、あの女は貴様の姉か、と」
ちらりとエマさんが視線を流してきた。なんだろうと辿った視線の先には、枷を外されたツバキがいた。ツバキを見た瞬間、ガリザザ兵の顔が憤怒に染まる。
「ディナストの犬が!」
「俺の主は、十年前からずっとこの御二方だ。一度たりとも主を変えたことはない。俺がエマアンペリース様にお仕えしていたことは、周知の事実だと思っていたが?」
この距離で歯噛みが聞こえてきそうだ。
エマさんが場を治めてくれそうだと、少し肩の力が抜けた。けれど、すぐに駄目だと気づく。だってルーナやアリス達の緊張が全く解けていない。エマさんの視線が、ガリザザ兵ではなく、その後ろの民衆から離れていない。
沢山の人間が息を吸う音が聞こえる。
「皇族ならば、エルサムの民を救え!」
「ディナストの暴挙を許した責任を取れ!」
「皇族としての責務を、エルサムの民を救うことで果たせ!」
一気に吐き出された声が広がっていく。いつの間にか視界を埋め尽くすほどの人が集まっていた。
「……これだけの熱意をディナストに向けていれば、ここまで悪化させなかっただろうにな」
「一言一句違わず同意いたします」
さっきまで横柄な態度を取っていたガリザザ兵が、憤怒の歯噛みを悔しげなものへと変えている。
「……貴方様がエマアンペリース様であるとは、一目で存じ上げました。ですが、お言葉に従うことはできませぬ。黒曜を、お渡しください」
「聞けぬ」
「ここで、黒曜と心中なさるおつもりか!」
「民の暴動も抑えられず、友を売るような皇帝に、お前は仕えたいのか」
わあわあと沢山の声が反響する。羽虫のように小刻みに音が揺れるのに、音が多すぎてまるで世界が喚いているようだ。
なのに、そのどの声より、先頭の兵士の声こそが悲鳴のようだった。
「貴女は賢い方だった! ならば、私などより余程理解されているはずだ! 長年弾圧されてきた抑止が揺らぐいま、あの狂乱を押さえる術は目の前の問題の、目に見える解決だけです!」
「聞けぬ!」
「エマアンペリース様!」
決裂が誰の眼からも見てとれた瞬間、兵士の後ろが爆発した。爆弾なんてないはずなのに、何かが弾け飛んだ。それは、人の理性だったのかもしれない。
仲間であるはずの人を薙ぎ倒し、手も貸さずに踏みつける。そうした人の波が、津波のように雪崩れ落ちてきた。見開かれてぎらぎらとした瞳が私を見つけ、筋が切れそうなほど開かれた掌が私に伸ばされる。
「逃げろ!」
沢山の声が重なった。沢山の手が重なった。
だけど、そのどれもがぶれる。ルーナに担ぎ上げられたのだ。お腹がルーナの後頭部に当たり、手足はルーナの胸元で纏められている。私の手足を纏めた手とは逆の手で剣を抜き放ち、伸びてきた手を薙ぎ払った。耳を劈く悲鳴が響き渡る。
「触るな」
聞いたことがない声で、ルーナが言う。
「誰も、カズキに触れるな」
雪が降る灰色の世界の中で、恐ろしい熱を纏った瞳が人々を見ていた。
ルーナの周りだけ燃えているみたいに熱い。不自然に毛が逆立っている。熱いのか寒いのか分からない鳥肌が立ち、息がしにくい。
「世界の為にカズキを贄にするというのなら、俺に殺される覚悟あってのことだろうな」
誰も一歩も動けない。さっきまであれほど噴出していた人々の熱が、全てルーナに移ってしまったみたいに静まり返る。
「そいつを、渡せ」
それでも、震える声が上がった。一つの声をきっかけに、ぱらぱらと同意が続く。もう一声続けば熱が戻るところで、ルーナの冷たい声が切り裂いた。
「何故」
「そいつの所為でどれだけ死んだ!」
「大陸の長年の信仰だと聞いていたが、巡礼の滝とは、無意味なもののようだな」
神様へ罪を問いにいき、生きていれば無罪。私がそれを大々的に掲げることはできない。でも、そうだ。それは彼らが掲げていたもののはずだった。
「そ、それでも、生きているのなら、贖うのが筋だろう!」
「ならばお前達はカズキにどう贖うつもりだ! 皆で口に出せば己に責任がないとでも言うつもりか!」
私に向けて怒鳴ったわけじゃないのに、身体の中から震える声が駆け抜けていった。ルーナが、激怒している。本当なら私が感じなければならない感情かもしれない。なのに、感情がうまく動かない。いま確かなものは、私を担ぎ上げたルーナの体温だけだ。
「そいつらがこの世界にあんなものを持ち込んだんだ! その責任は取るべきだろう! あれの所為でエルサムの民は捕えられているのだぞ! ずっと、ずっと虐げられてきた! あれが弾けないよう息を殺し、死んだように生きてきたのは誰の所為だ!」
血を吐くような叫びを上げた男の人の手に、ルーナの剣が突き刺さった。ひぃと悲鳴を上げたのは周りの人で、男の人は自分の身に何が起こったか分からずきょとんとしている。
貫かれた自分の手と、ルーナの顔を交互に見て、じわじわと理解していく度に顔が歪んで呼吸が引き攣っていく。
「この剣はお前を害した。ならばお前は、この剣を打った職人に贖えと押しかけるのか」
「い、痛い」
「酔った人間に殴られれば、酒を造った人間を詰るのか。矢で射られれば、矢羽根の動物を恨むのか。薪で殴られれば、木を切った樵を憎むのか」
「たすけてくれっ」
「お前達が言っているのはそういうことだ!」
引き抜いた剣を一振りして血を払ったルーナは、獣のように喉から唸り声を上げた。激情が強すぎて、言葉より先に感情が音として漏れ出ているのだ。
「カズキが潰されるくらいならと、一度はお前達の要望に付き合ってやった。だが、自らが掲げてきた神への信仰ですら目先の感情で蔑にすると言うのなら、俺は二度と、カズキを犠牲になどさせない」
厚い雪雲が空を覆い、ルーナを失ったあの日みたいな灰色だ。その日は土砂降りだった。いまは雪が降る。そして、地上の熱で溶けていく。
「バクダンを使ったのは誰だ。その知識を奪ったのは誰だ。誰よりもそれを分かっていながら、お前達は糾弾の方向さえやさしい方へと逃げた。何の後ろ盾もなく異世界に放り出された二人の異界人になら強いるは容易だろう。何年も目の前でバクダン振り撒いてきたディナストからは目を逸らし、何の武器も持たない女になら殴り掛かれるんだからな」
「罪は贖われるべきだろうが!」
膨れ上がった同意の声を、冷たい声が切り裂いた。
「同郷であるを同罪とするならば、まずはお前達がカズキに贖え」
「お、俺達が何をしたっていうんだ!」
「救わなかっただろう。異界から現れた男が『同郷』の男に害されていたのに、お前達は何もしなかった。『同郷』の人間が罪を犯したんだぞ。贖え。カズキに、ムラカミに贖え。この世界全員で、二人に贖え!」
足早に近寄ったルーナから、尻もちをついたまま逃げていく。その人々を声と同じくらい冷たい瞳が見回す。大多数を眺めていた時は、自分を見ろと言わんばかりに睨み付けてきたのに、ひたりと見据えられた人から視線を逸らす。
「何もしなかった自分達の罪を押し付けてしまえば楽だろう。不都合全てバクダンの所為だと吐き捨てれば楽だろう。バクダンが悪い、バクダンの所為だ。だから自分は悪くない。全てバクダンが悪いんだ。バクダンが悪いから、バクダンの知識を奪われた異界人が悪いんだ。そのうち、賭け事で負けても、その辺で転んでも、バクダンが悪い、異界人が悪いと言い出しそうだな。……この世界を運用する為に、二人の異世界人をくべるか。無尽蔵に燃え続けるとでも思っているのか。その知識を捥ぎ取り、責任を押し付け、全ての言い訳に使って、それでも燃え続けられると思っているのか! たった二人だ。その程度をくべた火で紡がれる世界など、すぐに燃え尽きるぞ。現に一人は燃え尽きた。それでもお前達はまだ分からないのか!」
静まり返った空間で、ルーナの声だけが世界を制している。人々は呼吸さえ許されないというように、微かな音さえ発していない。
だけど、ただ一人声を発した人がいた。最初にエマさんと話していたガリザザ兵だ。
「…………そうさ、人は弱い。自分が弱者であることを強者に責める。弱者であることを責める癖に、弱者の権利は己だけのものでなければならない。弱者故の責任の放棄を声高々に叫び、弱者への配慮と優遇を、盾ではなく槍とする。弱さは権利じゃない、強さは罪じゃない。そんな簡単なことすら認められない、弱い人間ばかりだ。この国は変わらねばならぬ。だが、それには時間がいる。そして、国民が変わるためには、国が生きていなければならぬのだ!」
風向きが変わり、妙な臭いが広がった。はっとなったルーナが誰よりも早く口元を覆ったけれどもう遅い。力が入らなくなった膝をつく。それでも立ち上がろうとするルーナの前に兵士が立った。その後ろでは、人々までもが倒れていく。
「……ここはガリザザ。香の大国と呼ばれた国だ。嘗ての栄光は見る影もなく廃れ落ちようと、ここは我らが固執すべき故郷なのだ。次代を、亡国の民にするわけには、いかぬ」
「き、さま」
「許せとは、言わぬ。…………すまない」
ぽつりと降った男の言葉を最後に、意識は霞に巻かれて何も見えなくなった。
鍵のかかった部屋で一人椅子に座る。ここはエルサムに近い街の貴族の屋敷だ。明日には、エルサムについてしまう。
開かない窓から外を見続けて何時間経っただろう。物音一つしない部屋に、こんこんとノックが響く。返事はしない。向こうも求めていない。勝手に扉が開いて男が入ってきた。
「何か、ご要望はございませんか」
返事は返さない。だって、出して、ルーナに会わせてと散々叫んだのに叶えてくれなかったじゃないか。お茶もお菓子もドレスも要らない。ルーナに会わせて。
振り向きもしない私に、男は怒りもしなかった。
「アリスローク・アードルゲが面会を申し出ておりますが、如何致しましょう」
思わず振り向く。
「……会える?」
「一人だけでしたら」
「即座に会う」
「畏まりました。すぐにお連れ致します」
恭しく頭を下げて出て行った男は、言葉通りほとんど待たせることなくアリスを連れて戻ってきた。
「カズキ!」
「アリス!」
扉が開くと同時に駆け込んできたアリスに駆け寄る。お互い手を伸ばし、私はアリスの肘を掴み、アリスは私の肘を包んでいた。
「皆は如何している!?」
「ルーナ以外はそれぞれの部屋で軟禁状態だ」
「ルーナは!?」
「牢だ。香が切れた瞬間飛び起きて壁をぶち破った…………確かに開けたところで逃げられはしなかっただろうが、何故、扉や窓じゃなかったんだ」
……目の前にあったのが壁だったんじゃないでしょうか。
「何故にアリスがご存じ? 同室であった?」
「……ぶち破られた隣の部屋にいたが、冗談抜きで怖かったぞ」
それは怖いだろう。寧ろ怖くない人間がいるかどうか聞きたい。
一度会話が途切れ、沈黙が落ちる。それで分かった。ああ、駄目なんだと。
アリスは、出来ることがあればちゃんと教えてくれる。私が不安にならないよう、ちゃんと言ってくれる。でも、そのアリスが沈黙しているのは、駄目だからだ。
私が気づいたと、アリスも気づいた。
「いいか、カズキ。何があっても、私達は決してお前を諦めない。必ずお前を救い出す。だからお前も、何があっても諦めないでくれ」
後頭部を包まれて胸に押し付けられる。アリスは私の身体を全部包んで、歯を食い縛った。
「……本当にお前を救いたいなら、ここで死なせてやるべきなのかもしれん。……だが、すまん。私には、出来んっ。酷だと分かっている! だが頼む、頼むから、死だけは選ばないでくれ! 何があっても死ぬな! 生きていろ!」
トギが何か、聞いたよ。アリスは酷い事を言う。死ぬなと、あの男を受け入れろと言う。
アリスは酷い事を言う。
アリスは、死なないでくれと。
アリスは、生きていてくれと。
友達として、当たり前のことを願ってくれる。
だらりと身体の横に垂れていた手を緩慢に持ち上げ、アリスの背中を握り締めた。
「ルーナがいい」
「ああ」
「ルーナが好き」
「分かっている。知っているっ」
「ルーナでないと、いやだぁ!」
酷い悪夢を、見ているようだ。
こんな悪夢、さっさと獏にでも食べさせてしまいたい。でも、食べてくれる獏がいないから、世界中に悪夢が巻き散らかされた。
いない獏に祈りを捧げて待ち続けられるほど、人は馬鹿ではない。悪夢を終わらせる夢を掲げ、世界は集った。爆弾は世界中で使われてその概念を撒き散らしたけれど、製法を知っている人間は数少ない。その人間はいま、皇都エルサムに集まっている。
世界にとって、悪夢発祥の地は私達で、悪夢の象徴はディナストだ。
だったら、もう、ここで終わりにしよう。いい加減、終わらせなければ。
目標を同じくして世界が集った。こうまでしても、いま終わらせられないというのなら、永遠に終わりなど訪れない。爆弾はこの世界にあってはならぬ、使用してはならない禍々しいものだという共通認識があるうちに排除できなければ、どちらにしろこの先何百年も脅かされ続けることになる。
瞑っていた眼を開く。固く固く瞑りすぎていて、開いた瞬間ちかちかした。
「…………アリス」
「…………何だ」
「お願いが、あるよ」
「お願い?」
そっと身体を離したアリスを見上げて笑う。ふざけた悪戯っ子みたいに笑いたかったけど、歪になっていないだろうか。
「ルーナに、会いたい」
「……心中するつもりか?」
「珍獣ではないよ」
「……心中だ」
「珍獣?」
こんな時に知らない単語はちょっと困る。外に聞かれないようひそひそと内緒話をしている距離で、珍獣珍獣連呼していたらアリスが説明を諦めた。つまり、あまりいい意味の単語ではないのだろう。
「それで、どうしたいんだ?」
珍獣で勢いが削がれた状態で、改めて聞かれると凄まじく言いづらい。でも言う。
ぼそぼそと伝えると、アリスはちょっと目を瞠った後、静かに伏せた。
「アリス?」
「……いや。何でもない。親友からの初めての頼みごとが、まさかこの手の話だとは思いもよらなかっただけだ」
「わ、私も、このような事態でなくば、人様にお頼みごとする事態に陥るなどと、思いもよらなかったよ!」
熱がぶばっと首から頬に弾ける。向かい合っていたアリスの頬にも飛び火した。貰い事故である。
「照れるな! つられるだろうが!」
「わ、私とて恥で死亡致しそうであるに、殺生な――!」
「なんかすまん!」
「こちらこそ申し訳ございません!」
真っ赤な顔で謝り合っていたら、さっきまで無表情で部屋に出入りしていた男の人が、疑問符満載の顔をしていた。無表情崩したり。その代わり、私とアリスの平常心も崩れ去る羽目になった。
床も壁も石で組まれた建物は、歩くたびに音が奥へ奥へと伝わっていく。
以前もこんな場所にいたことがある。あの時は一人で凄く怖かったけれど、冬じゃなかったからここまで寒くはなかった。まるで氷の中を歩いているみたいに寒くて寂しい場所を進む。個人のお屋敷でそんなに広くない牢屋は、すぐに目的の場所に辿りつけた。
暗い檻の奥で、微動だにせず座っている人を見つけて、ぱっと顔が綻ぶ。
「ルーナ」
珍しく気付かなかったのか、呼んで初めてルーナが反応を見せた。飛び跳ねるように立ち上がり、こっちに駆け寄ってくる。鉄格子越しに伸ばして手を繋ぐ。
「ルーナ、私、ムラカミさんに会うしてくるよ」
「カズキ」
「エマさんより先頭で入出すらば、怒られるかな?」
「カズキ!」
怒声が割れんばかりに響いて口を噤む。
でも、すぐに開く。
「ルーナ、こちらに、鍵があるよ」
反対の手で握りしめていた鍵を揺らすと、ルーナの目が見開かれた。寒さとそれ以外の理由で、鍵がかちかちと震える。震えを取り繕ったりしない。そんな気力を使うくらいなら、全部ルーナに向けていたい。
「ルーナが、無理無謀を行わないならば、開けるよ」
「……無理だと、誰が決めた」
『ねえ、ルーナ。私、いま助けてほしいんじゃないよ』
嘘だ。助けて。嫌だよ。助けて。
ごめんね、ルーナ。嘘ついた。ルーナが嘘だって気づいてるような、へたくそな嘘をついちゃったよ。
だから、出来るだけ嘘を減らそう。
溢れ出る涙を堪えもせず、縋りつく。
『助けて』
「鍵を、渡せ!」
唸り声を上げるルーナの手を、鍵を握っている手も合わせて両方で握る。鍵を捥ぎ取ろうとしたルーナを呼ぶ。
『ルーナ』
「頼む、鍵を渡してくれ!」
『お願い』
「カズキ!」
お願い、ルーナ。
『助けに、来て』
鍵が滑り落ちて石の上で跳ねる。
ルーナは、身体を支えていられないのか、ずるずると座り込んでいく。その手に、格子の隙間から伸ばして回収した鍵を握らせる。
『ねえ、ルーナ』
返事はない。構わず続ける。だって、時間が勿体ないよ、ルーナ。
私はルーナの手を握って、自分にできる精一杯の誘い文句を発動した。
『十年前の続きを、しませんか』
「………………は?」
冷たい牢の中に、ルーナの間抜けな声が響いた。




