86.神様、少し不味過ぎます
「あんた、恋愛小説の一つも読んだことないの!?」
「だってつまんねぇじゃん。そんなの読んでる暇があるなら、おれは狩りいきてぇよ。あ、そうだ! お前に弓教えてやろうか!? 自分で取った獲物は格別にうまいぞ!」
身体が温まるお茶を貰って、ほくほくしながらルーナと一緒に幌へと戻る。
私達は、皇都エルサムを包囲する連合軍に混ざるために移動を開始していた。雪に阻まれてはいるものの、近日中には到着する予定だろう。
幌の中には、胡坐かいて足元に座るナクタの髪を必死に梳いて結い上げるシャルンさんがいた。
「いい本があるわ。それをみっちり読み込めば、淡い恋心の一つや二つ理解できるようになるんじゃないの? あんた、今はまだいいけど年頃になってそれじゃあ、親父さんの心配も分かるわぁ。大半あのおっさんの所為だけど」
待って、シャルンさん。その本まさか例のあれじゃないですよね?
ルーナの指がごきりと鳴り、隣に座ったアリスちゃんがふいーと視線を逸らした。ユアンはお茶を運ぶ手伝いをしてくれた。いい子だ。
皆にお茶を配って回り、ルーナの横に座る。
「持ってるは持ってるぜ? 流行ってるからって親父が買い求めてくれた。えーと、確か、シャボン・ペンバルとかなんとかいうやつが書いたの」
「………………シャルン・ボーペルよ、お馬鹿。で、それどうしたの?」
「それが聞いてくれよ! 二冊重ねるとすっげぇいい高さの枕になってさ!」
「読みながら眠っちゃったのならまだしも、最初から枕にするやつがあるか、この馬鹿娘――!」
シャルンさんは大いに嘆きながら、なんとか気を落ち着かせようとお茶に口をつける。そして盛大に噴き出した。言葉もなく身悶えた末に、ぱたりと動かなくなる。すわ毒かとパニックになりかけた私を横目に、ルーナは普通に飲んでいた。……いや、違う。普通じゃない。眉間の渓谷が凄まじい!
「う、ぐっ」
ぺろりと舐めたユアンが渾身の力で呻く。しまった、こんなことなら最初に口をつけておくべきだったかもしれない。一口目が物凄く勇気がいる。
「火草の茶だぜ。そりゃまずいさ。でもこれ、オジジが淹れた奴だろ? 誰よりうまいんだぜ?」
慣れた様子で飲み干したナクタに勇気づけられ、私も一気飲みした。アリスとユアンも、覚悟を決めたようにぎゅっと目を瞑ってコップを傾けた、までは覚えている。
気が付いたら、ルーナの膝を枕にして、額に手を置かれていた。ルーナの両肩にはアリスとユアンの頭が乗り、白目を向いている。
結局火草の味は覚えていないけれど、知らないほうが幸せなことって、きっとある。
最近目が合っても合わなくても何かとキスをしかけてくるルーナが何もしてこなかったのは、人目が理由じゃないとだけは分かった。
檻みたいな馬車に入ってるツバキに付き合って、エマさんもそこにいる。その二人にもお茶を渡してやってくれと頼まれた。それは別にいいんだけど、これ、渡していいのだろうか。匂いも色も見た目も普通なのに、幌の中四人の意識を奪ったお茶を一つ持って移動する。もう一つはルーナが持ってくれた。どちらの両手が塞がっていても転んだら大惨事になる。主に私が。
周りを囲んでいる人達に会釈して、檻を覆っている幕を持ち上げてもらう。
「エマさぁん、お茶をお持ちした故に覚悟してくださりよ」
ひょいっと覗き込むと、何故かアルプスの上でアルペン踊りをしていた。イツキさんに教えてもらったのだろうか。手を揺らすたびに手錠がじゃらじゃらと鳴るツバキは、遊んでいたのを見られてバツが悪そうだ。エマさんは楽しそうだけど。
「カズキか、悪いな。頂こう」
「エマ様、毒見が終わってからにしてください」
「お前、それこそ今更だろう」
苦笑で返されたツバキがぐっと詰まる。エマさんは別にこの馬車にいる必要はない。私達と同じように自由に馬車に乗っていられるけれど、ツバキと話したいからとこっちの寒い馬車に乗っているのだ。
「エマさん、こちらのお茶、非常に覚悟が入用よ」
私が持っていた方をエマさんに、ルーナが持っていた方をツバキに渡す。くんっと軽く鼻を鳴らして納得した様子から見るに、飲んだことがあるようだ。知らずに飲んで失神するのは私達だけで充分である。
「これなぁ、この匂いと見た目で何がこんなにまずいんだろうな」
ぐっと一気に煽ったエマさんの隣で、コップを掴み合ってぎりぎりと押し合いへし合いが繰り広げられている。せっかく顔の腫れが治まってきたのに、また殴り合いは勘弁してほしい。男の子は少しくらいやんちゃな方がいいとは聞くけど、あの殴り合いはやんちゃの域を遥かに飛び越えている。
「うん、まずい! もういらん! 悪い、ツバキ。ちょっと尻が冷えてきたから一旦出るな」
「はい、エマ様」
ぐいぐいとお茶を押し返しているツバキとルーナの攻防を横目に、開けてもらった扉からエマさんが出てきた。思いっきり伸びをして、ラジオ体操のような動きで身体を捩る。ぼきぼきと肩が鳴っているから、ずっと同じ体勢だったのだろう。
「ツバキとルーナをご一緒は大丈夫ですよ?」
「基本的に、人が集まれば腹に一物二物、蟠りにしこりと、色々抱えてるもんだしなぁ」
王族の感性が大雑把なのか、エマさんが豪快なのか。
「エマさんは、ツバキが如何様にしてルーヴァルより脱走したかご存じ?」
「ん? ああ、ツバキは鍵開けの達人だぞ。しかも体中の関節外せるから、指か口が自由になったらほぼ逃げられる」
ツバキは牢屋と門番と手錠と手枷に謝ってほしい。後、自分の関節にも謝ってください。関節だって、外されるためにはまってるわけじゃないんですよ!
ばきばきと背中も鳴らされる。真似して伸びたら、ぴちっとよく分からない音が鳴った。やだ、私の筋って貧弱!?
「だからな、何も抱えない真っ新なイツキが眩しくならなかったよ。あまりに無防備だから、どす黒いもん抱えた奴らさえ狼狽えてなぁ。お前も、そうだと思うよ、カズキ。ルーナにとって、お前の仲間達にとって、繋ぎなんだよ、お前は」
「繋ぎ」
「お前を挟めば、大概のものが優しくなるんだ。人も、物事も、柔らかくなる。お前達が間にいれば諍いなんて起こらないんじゃないかと、甘えだと分かっているのに、そう思ってしまうくらいにな」
接着剤ほど強烈な存在にはなれない。重たい空気が苦手で、水に流せるものは流して、なあなあにしちゃったり、そんなずるい処世術だって確かにあった。でも、それが諍いのワンクッションになったと言ってくれるのか。
「黒曜の名前はそこから来たんだろうな」
「え?」
二度見の落下黒曜がなんでしょうか。
「太陽の光をそのまま見ると目を焼くだろう? だが、黒曜石を磨き鏡にして覗けば、光が柔らかく映るんだよ。だから古来より、太陽を眺める際は黒曜石を用いたんだ。どんなに強い光を放つ現実でも、お前を通すと世界が優しく、柔らかく見える。だから、お前の通り名は黒曜なんだろうなぁ」
黒曜。そう呼ばれるのは髪と目が黒いからだと思っていた。
いや、エマさんの買い被りの可能性もある。だってそんなの大それたことだ。
でもなんとなく照れくさくて、うへへと笑ってしまう。ちょっと幸せを感じながら戻ってきた私を見て、気持ち悪いとツバキが呟いた。
「カズキ、エマ様と何の話をしてたんだ?」
「私とムラカミさんは、牛乳と浸すたパン粉であるという話よ!」
「…………ほんとに何の話してたんだ?」
エマさんが言ってくれたことは嬉しいことばかりだったけれど、イツキさんと私は違う。イツキさんがエマさんにとってそういう存在でも、私には過ぎた評価だ。でも、ハンバーグの繋ぎのような人間になれたらいいなと思う。ワンクッションと、混ざり合う手伝いが出来たら更に嬉しい。
パン粉パン粉と心の中で繰り返していると、ルーナが無言なのに気がついた。じっとツバキの手を見ている。その手にはまった手錠にも、足枷にも布が巻かれていた。寒い中そのまま鉄に触れていたら凍傷になるからだろう。それにしてもルーナ、見過ぎである。繋ぎたいんですか。後ろに並んでたら次は私と繋いでくれますか。列はどこですか。
視線に気づいたツバキが、気味悪そうに手を引っ込める。
「……なんだよ」
「そういえばカズキの指は、二本折れたなと」
「おい、おいおいおい!」
「大半は私の所為であった故、待って――!」
ぎゅっと拳を握って指を確保したツバキ、一応ごめん。いや、多大にごめん。
わたわたしていると、遠くから声がする。
「おーい、親父が……じゃなかった、頭領が呼んでんぞー」
「ああ、分かった。ちょっと行ってくる。いい子で待ってろよ」
エマさんは、ナクタに振った掌で、檻越しにツバキの頭をわしゃわしゃと撫でた。ナクタの扱いもツバキの扱いも同じようだ。
「後、お前顔色悪いから、それちゃんと飲んどけ」
「う……はい」
盛大に顔を引き攣らせたツバキは、それでも大人しくコップを手に取った。嫌々だと顔に書いてある。けれど、ちらりとエマさんを見てぐっと飲み干した。
本当にちっちゃい子どもみたいだ。ユアンのほうがまだ反抗期を迎えた少年だった気がする。
頭領さんの所に向かったら、アリスもユアンも揃っていた。シャルンさんもいたけれど、私達を案内してくれたナクタを引きずって出て行ってしまう。
「あたしは政治家でも戦士でもないからね。担当違いよ」
「おれは残るぞ!」
「あんたは年齢制限に引っかかるわよ! 後、お頭の下限にも引っかかってるわよ、お馬鹿!」
最後の言葉は私に突き刺さった。それを言われると私に大ダメージである。皆の視線も私を向いていた。どうぞ、遠慮なく仰ってください。私がいることで、お頭の下限条件が物凄く下がっているということを!
簡単に組まれた机の上に大きな地図が広がり、その上に旗がぽんぽんと置かれていた。ルーナとエマさんはそれをじっと見る。それに習い、私も見た。うむ、現在地も分からない。
「ディナストがエルサムに立て籠もって何日経った?」
薬草が染み込んだ爪先で、とんっと地図が指される。成程、そこがエルサムでしたか。それで、私達は今どこにいますか?
「三週間だ」
答えたのはアリスだ。どうやら、この情報を伝令しに来たらしい。アリスとユアン自ら伝令で走り回っていたのは、腕が立つのと身軽なこと、そして私達を探してくれていたからだという。寒いのに、鼻の上真っ赤にして走り回ってくれていたのだ。色々と込み上げてくる思いを、凍傷防止効果のある火草に籠めて鼻に塗ろうとしたら頬っぺたみょんみょんされた。
「門が掌握されたのなら民はどうしている。中にどれだけ残っているんだ」
「三十万だ」
「人質三十万……でかいな。バクダンさえなければ、ディナスとの手駒に数では圧倒的に勝っているんだが。兵糧は? 国庫内には飢饉に備えた備蓄があったはずだが」
「恐らくはひと月保たんとラヴァエル様は見ている。離反した奴らが相当盗みだしていったようだからな」
地図の隅っこで落ちかけていた紙を見てみると、どこかの街が描かれていた。でも、街というより一つの建物に見える。ぐるりと強固な壁に囲まれた下から、上にぐるぐると家が連なり、頂上に宮殿があった。左上に走り書きされている文字を眉間に皺を寄せて解読する。
「え、る、さ、む」
「ん?」
「こちらの絵、エムサム?」
「ああ、それが我が祖国ガリザザが中心、皇都エルサムだ」
これがディナストのいる街。ガリザザの皇都。
モンブランみたいだと言ったら怒られるだろうか。
「そもそも、逃げだしてない奴らは、ディナストが戻ってくると分かってても逃げだせなかった奴らだろ。戦う気力はねぇだろうな」
このままではまずいと分かっていても、他に行き場所がなかった人達が残ってしまったのだ。そんな人達が閉ざされた門の中で、兵士と爆弾に囲まれてどうにかできる気力すら沸かないと、頭領さんは見ている。三十万の人が並んだらどれくらいの長さになるのか、想像もできない。元々、ディナストの膝元でずっと抑圧されてきた人達だ。逆らう気力があったのなら、とうの昔にそうしていただろう。
「アリス、エルサムの周りは囲んでいるんだな?」
アリスの予備の剣を借りたルーナは、無意識にだろうけど剣の鞘を触っていた。ずっと剣を持っていた人だから、なかった間は随分違和感があったらしい。
「ああ、問題は人質と、どの国と部隊がディナストを討つかで少々揉めている。ガリザザは、大きくなりすぎたからな……だが、皇女である貴女が存命ならば話は変わる」
「私を掲げてもらうのが妥当ではある。だが、国を取り戻した後も、助力という形でかなり口を出されるだろうがなぁ。……まあ、甘んじて受けるしかあるまい。ガリザザはもう、国として立ち行くまい。制御する気もなく膨れすぎた。焼け野原と廃墟を放置しすぎだ、あの馬鹿は」
忌々しげに舌打ちしたエマさんが地図の外円をぐるりと撫でる。文字がバツ印で塗り潰されている場所ばかりだ。そこには嘗て、村があった。人が住んでいた。だけど、今はもう何もない。きっとこの中に、アマリアさんやアニタの故郷があった。
ディナストは何がしたかったのだろう。自分の首が閉まっていくと分かっていて何もせず、グラースやブルドゥスにまで遠征して手を出して、統治者としての死期を速めた。
それにしても、結局私達はこの地図上でどこにいるんですか。
聞こうと顔を上げたら、全員が流れるように視線を逸らした。え? そんなに聞いちゃ駄目な感じの質問ですか?
びっくりして固まっていると、何だか外が騒がしい。
向こうに行ったはずのナクタが舞い戻ってくる。
「親父! 親父!」
「外じゃ頭領って呼べつっただろ!」
「そんなのどうだっていいよ! 町民が群がってきやがるぞ!」
「なにぃ?」
皆が外に出ようとしている。私が一番入口に近かったから、邪魔にならないようさっさと幌から出た。
「馬鹿! あんたは出ちゃ駄目よ!」
「え?」
外にいたシャルンさんが自分の外套を頭からかぶせる。なんだろうと思ったら、人の群れがぞろぞろと駆け寄ってきていた。恐らく子供の、甲高い声が響く。
「いた! 黒曜だ!」
目がいい。そして、この声を遠くにいるうちから聞き分けていたのなら、シャルンさんは耳がいいのだ。
幌から飛び出してきたルーナに肩を抱かれて、ぐるりと背中に回される。
「何だぁ? てめぇら、あれを止めろ! それ以上近づけさせるな!」
頭領さんの怒声に従って、集団とこっちを割るように部下の人達が広がっていく。武器を持った人達を相手に集団は躊躇って、少し手前で足を止めた。
「黒曜を渡せ!」
「あ?」
誰かが叫んだ言葉に、頭領さんが訝しげな声を上げる。
誰かの口が、俵型に開いていくのが、やけにゆっくり見えた。
「ディナストが」
ルーナの手が私の耳を塞ぐ。だけどその声は、やけに、響いた。
「巡礼の滝に落ちた黒曜を見つけてくればエルサムの民を解放すると、触れを出したんだ!」
一瞬で血の気が失せた私とは対極的に、隣の熱が膨れ上がる。不自然に髪が浮き上がるほどの激情がルーナを走り抜けた。
「カズキが生きていること自体が既に奇跡の領域だぞ! 貴様らは、実行不可能な難題を押し付けられただけだ!」
「だが、黒曜は生きているじゃないか!」
怒鳴ったアリスに沢山の声が反論してくる。一人が言えば沢山の同意が、同じ言葉を繰り返せばそれにも沢山の同意が。
じりじりと集団の足が進み始めた時、彼らが割れた。列を割って出てきたのは、見たことがある鎧を着た集団だ。どこで見たのだろうと記憶を探る。
「黒曜、ディナストが貴様を伽に所望した。貴様らが齎した悪夢に嘆く我らが民を、よもや見捨てようとは言わぬな?」
ガリザザの、兵だ。




