82.神様、ちょっと悪夢を見ました
人の体温は温かくてとても柔らかい。温度に硬さがあるなんて不思議だけど、びっくりするくらい心地いいのだ。羽毛布団だって毛布だって勝てないくらい柔らかくて温かくて、いつまでだって抱きついていたくなる。
私はルーナに抱きついて、抱きしめられて、額を合わせて笑った。
ああ、幸せだなぁ。なんにも怖いことなんてない。もうどこにも行きたくないな。ずっとこうやっていたい。ずっとこうして、ルーナといたい。
ルーナ。
そう呼ぶだけで視線を合せてくれて、ルーナも穏やかに笑う。
嬉しくて、私は何度もルーナを呼ぶ。何度呼んでも、ルーナは呆れず笑ってくれる。
私も飽きもせずにまた呼ぶ。
ルーナ。
変わらない笑顔が返ってくると思ったのに、急にかくんと足の力が抜ける。何だろうと下を見て血の気が引く。足元にはぽっかりと大きな穴が開いていた。慌てて伸ばした手は何も掴めない。だって、ルーナがいない。さっきまでここにいたのに、そこには誰もいなかった。
落下特有の浮遊感が下から上まで駆け抜けていく。強張った私の腕を誰かが掴んで引き寄せる。ルーナだとほっと安堵して振り向き、ぎょっとした。私を掴んでいる手は、知らない男のものだった。褐色の腕に金色の腕輪がじゃらりと揺れる。
身体ががくがくと震えて止まらない。何がこんなに怖いのか分からないけれど、掴まれた腕からじわりと広がっていく温度は、冷たく硬い、まるで氷のような痛みを伴った。
暗闇にきらりと光る銀色が見えて、救いの光かと必死に目を向ける。だけど、そこからぬぅっと現れたのは、腕が繋がった先、ディナストだった。
自分が上げた金切声さえ吸い込んだ真っ黒な闇の中に押し倒される。背中を打ち付けたはずなのに痛くない。ただ怖い。
ディナストは笑っている。まるで子どものように無邪気な顔で笑っているのに、何がこんなに怖いんだ。寒くもないのに自覚できる程の鳥肌が全身を覆う。
声が出ない。喉が引き攣る。
怖い。
助けて、ルーナ。
覆いかぶさってきたディナストの銀髪に塞がれた視界の中で、私は喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。
「カズキ!」
泡が弾けるみたいに世界が割れる。
目の前にある切羽詰まった水色の中で、酷い顔をした私が映っていた。
「ルー、ナ」
やけに掠れた声しか出なかったけれど、ルーナがほっと安堵したのが分かる。私の肩を掴んでいた手が頬を撫でていく。なんだろうと思ったけれど、すぅすぅする感触に泣いていたのだと分かった。
ルーナの肩越しに、シャルンさんとエマさんも心配そうに覗き込んでいる。
「あんた、なんて声上げるのよ」
「酷く魘されてたぞ。やっぱり私の膝枕のほうが良かったんじゃないか?」
「……あんたの足、あたしのより硬いじゃない」
そうか、エマさんの太腿は硬いのか。かっこいいですね。
目元を擦りながら、はっと顔を上げる。寒い時に泣いたら凍り付いて凍傷になってしまう。鼻水凍って窒息する! 慌てて鼻を押さえたけれど、すぐに気づく。ここ、温かい。少なくとも鼻水で窒息するような寒さじゃない。
首を傾げて周囲を見渡すと、丸いテントの中にいた。中心部分では火が焚かれているけど、少し離れた場所は物でごっちゃごちゃになっている。沢山の箱が大量に積まれているし、籠も詰まれていた。このテントは、ガリザザの天幕に比べてぐるりと丸い。モンゴル旅行に行った先生のお土産写真で見たゲルに似ている。
「こちらはどちら?」
「火草を集めていた部族の丸幕だ」
「人!」
人がいたなんて知らなかった。てっきりもっともっと先に行ってこの森から出ないと他の人に出会えないと思っていたから驚いてしまう。でも、ちゃんと話を聞いたら、私達が落ちたのは結構高い切り立った崖で、登る道がないらしい。だから、その人達も崖の上に行ったことはないという。今まで火草取り放題で独り占めひゃっほうと思っていたら、上から人が降ってきて仰天したそうだ。そりゃ驚く。
「俺達が落ちたほうは木端微塵だけどな」
それは申し訳なかった。この山積みの荷物は木端微塵になってテントに収容されていたのだろうか。
「それにしたってあんた、丸幕破壊しての騒動でよく気を失ったまま寝てられるわねぇ」
面目次第もございません。自分でもびっくりです。
私の図太さここに極まり! と思っていたら、その答えはエマさんがくれた。
「睡眠は防衛本能だからな。暗殺者とか拷問に慣れてる奴らは、苦痛を受けると反射で気を失うように訓練してるくらいだぞ。まあ、雇い主は兄弟のどれかなんだけどな!」
「…………王族あるあるぅ」
血なまぐさい情報をさらりっと言ってのけるエマさんの幼少期が気になる。きっと美少女だったと思う。
ぐるりと周囲を見渡すと、木屑に塗れた火草も結構あった。これ、全部洗うのかと思うと本当に申し訳ないけれど、おかげで全員助かっている。ありがたい。何度も落ちたけど、その度生き残っている私達は、運がないのかついているのか今一判断がつけられない。何度も落ちたり落とされたりしているのは運がないけど、生きているのは強運だ。
みんな立ち上がったり座ったりしているので、怪我もなさそうでほっとした。不運なのか、強運なのか悩むところである。後、よければ火草洗うの手伝います。
「それより、カズキは悪夢でも見たのか?」
まだ心配そうな顔のルーナに、頷くべきかどうか悩む。
「怖いはその通りであるけど、凄まじく嫌であった、ような?」
「覚えていないの?」
「さほど。だが、起床一番乗りでルーナがいたので幸福であるのは覚えているよ!」
「やだ! この子馬鹿だわ!」
何故!? 今の会話のどこに馬鹿を暴露する台詞があったのだろうと、ぬーんと考える。分からない。まあいいや!
早々に諦めて、まだ心配そうな顔をしているルーナを覗き込む。
「ルーナ、おはよう!」
「おはよう。……お前、本当に大丈夫か? 酷い顔色だぞ。そんなに怖い夢だったのか?」
「覚えておらぬよ。だが、一番乗りでルーナがいるので、良いことがある気配がするよ!」
おみくじ大吉引いた気分だ。最近毎日大吉で幸せである。落ちたけど。
大吉大吉とほくほくしていたら、苦笑したルーナのキスが額に降ってきて、思わず首を竦める。恥ずかしがらず、どんっと待ち受けたいけど、どうにも来ると分かると恥ずかしい。でも、隙間隙間でしか会えないのは恥ずかしくなくても嫌だから、恥ずかしくても今のほうが断然いいと思う。大吉大吉。
がやがやと外が騒がしくなって、皆の視線が入口を向く。
「おれ。入るぞ」
幕の切れ目をひょいっと持ち上げて入ってきたのは、ユアンくらいの年の少年だった。狐の毛皮を首に巻いて、全体的にもこもこしている。温かそうだ。
「すげぇ声だったけど、大丈夫か?」
「平然よ」
「あ? まあ、あんな高いとこから落ちたんだ。悪夢の一つや二つ見るよな」
その高さを見てないけど、知らないほうが幸せなことってあると思う。知らないままでいよう。でも落ちたこと自体のショックはない。だって、散々落ちてきたのだ。落ちる瞬間はいつまで経っても慣れる気がしないけれど、落ちたことによるショックはほとんどないのである。慣れって凄い。落下の黒曜に改名しようか悩みどころだ。
少年は片手で持っていた鉄鍋を幕の上からぶら下がっている棒に引っ掛けた。こういうのは見たことがある。囲炉裏だ。といっても移動式のテントにあるのだから、簡易囲炉裏だけど。
「そんな時は、うまいもん食うのが一番だ! あんたらの手柄だから、たくさん貰ってきたぞ、食え!」
ぱこっと木の蓋が外された中では、野菜とお肉がくつくつと煮えていた。
「てがら」
「あんたらと降ってきた熊肉だ。たんと食え!」
ひくっとシャルンさんの頬が引き攣った。ついでに私の頬も引き攣る。あの熊、止まらなかったのか。どれだけお腹空いていたんだろう。それとも私達が美味しそうだったのだろうか。
「あんたらのおかげで出発前にいいもん食える。ありがとな。食ったら出発するから、そのつもりでいろよ。じゃあな!」
あっという間に男の子は外に駈け出していった。色々忙しいのかもしれない。名前も聞けなかったし、名乗る暇もなかった。
沈黙が落ちた私達の中央で、鍋がくつくつと煮えている。ぽこんっと泡が弾けて、灰汁かうま味か分からないものが混ざっていく。
ぐぅっと鳴る音がして、慌ててお腹を押さえたら私じゃなかった。
「…………食べないのか?」
不思議そうな顔をしてお腹を鳴らしたのはエマさんだったようだ。既に器とスプーンを持ってスタンバイしている。
「ちょ、あんた、この熊」
「その可能性があると言うだけで確証があるわけじゃなし。それに、シャルンを除いて少なくとも二年半は流れ着いた人間自体いなかった。最後に脱走した人間は四年前。それもあの死体の服装とは違った。だから、あまり気にならん。食うか食われるかだろ。食えるときに食わないともたんぞ。それともシャルン、お前火草で命繋ぐか?」
「…………頂きましょうか」
そんなにまずいんですか、火草。
初めての熊鍋よりそっちの方が気になってしかたがない。
熊肉は、想像していたより臭くはなかったけど、思っていた三倍は硬かった。ちゃんと煮込めばとろとろになるらしいけど、そんな時間はなかったようだ。
そう思っていたら、私が食べていた場所は筋部分だった。気づいたルーナがちゃんと柔らかい部分も取り分けてくれる。いつまで経っても噛み切れないからどうしようかと思った。
お鍋を食べ終わって人心地ついていたら、狐の少年と狸を巻いたお爺さんが入ってきた。
「熊肉、馳走になった。脂が乗っていい熊じゃった」
もっさりと生えた白眉と白髭が温かそうなお爺さんの視線が彷徨ったのに気付いたシャルンさんが私を見た。私はルーナを見た。ルーナとエマさんが視線を交わし合ったのは同時だった。
「では、私が代表としよう。私はエマ。数年前に巡礼の滝より落とされた人間だ。ここにいるのは全員そうだ。こいつなんて作家でな。取材に行って物取りにやられたそうだ」
「護衛に突き落とされるなんて思わないわよ」
お爺さんは、おおっと声を上げた。見開かれ丸くなって初めて目が見える。仙人みたいなお爺さんだ。山でひょっこり出会ったら福がありそう……つまり、私達は福に恵まれたのだ。だって生きてる。拝んだら失礼かなとちょっとそわそわしてしまった。
「信じるのかよ、おじい」
少年に詰め寄られたお爺さんは狸を揺らして頷く。虚ろな目をした狸と目が合ってしまった。きらきらしてるからガラス玉か何かをはめ込んでいるのだろうけど、きらめいているのに虚ろなのはこれいかに。
「昔から、そういう噂はあった。あの人喰い森の奥に世捨て人の楽園があるのではないかと。確かめようにもあの崖を登れた者がおらんで今まで来てしまったが」
「だって、あれ噂だろ?」
「わしのおじいは空からしゃれこうべが降ってきたと言っておったぞ。わしの前には熊じゃったが。至福至福」
嬉しそうに笑ったお爺さんに、何ともいえない空気が流れる。それは至福なんだろうか。追われた私達にとってはちっとも至福じゃなかったです。
少年はちょっとそわそわして私達とお爺さんを交互に見ている。
「連れて帰って大丈夫かな。この大事な時期に、頭領怒らねぇかな」
「熊肉の恩もあるじゃろ。このまま凍死させても目覚めが悪い。間者とも思えんしなぁ」
「……熊肉食べたし、しかたねぇな!」
熊肉強し!
個人的には鶏肉のほうが好きだったけど、そういえば鶏と蛙の肉は似ていると聞いたことがあるけどどうなんだろう。熊肉は何と似ているかと聞かれたら、筋部分は他に類を見ない硬さでしたと答えるしかない。
熊肉の強さを噛み締めていると、エマさんが軽く片手を上げた。
「間者、と言ったか。どこを警戒しているか、聞いても構わないだろうか」
「ガリザザだよ。我々は故郷を追われた部族の集まりでな。ガリザザとしょっちゅう小競り合いしているんだよ」
「我々は怪しくないと?」
「寧ろ怪しさしかねぇよ。幕壊すなよ」
ですよね。
あっさり答えた少年に、私達は素直に同意した。空から熊と一緒に降ってきて、彼らの丸幕を木端微塵にした私達が怪しくなかったら、この世から怪しい存在は消え失せるだろう。
「じゃが、間者ならもうちっと怪しくないよう混ざってくるからなぁ。せめて崖下を彷徨っていてくれれば怪しみようもあったんじゃが」
ですよね。
私達はしみじみ頷いた。
「おじい、この幕も折り畳みたいけどいいか?」
ひょいっと外から覗いてきた人達を見るとき、首から見る癖がついてしまいそうだ。兎、狐、狸、鼬、熊。……蛇の人は巻いている意味がない気がするんですけど、どうなんでしょうか。
「おお、すまんすまん。すぐに出るとしよう。お前さん達も……じじいはこれだからいかんな。名乗っておらなんだ。わしはジジリじゃ」
名前もほとんどじじいさんだった。覚えやすくて助かります。
「おれナクタ」
「私、カズキと申すます」
「……あんた、言葉変じゃね?」
「ご安堵ください! 言動も妙よ!」
「すげぇ分かる」
ナクタはうんうんと頷いた。説得がうまくいって嬉しい。私の言語力が向上したのか、色んな意味で説得量が増したのかは分からないけど。
「あたしはシャルンよ」
「あんた男じゃねぇのか?」
「大人にはいろいろあるのよ……」
「ふーん」
一応返事は返してくれたけど、凄くどうでもよさそうだ。ナクタはふいっと視線を逸らしてルーナを見た。
「そっちは」
「ルーナ」
「ふーん」
単語で成り立つ自己紹介。
シンプルな自己紹介が終わって、私達は促されるままに幕を出た。すると、外にいた人達の手によってあっという間に荷物が運び出されていく。骨組みも外していく。あんなに木を使っていたのかと驚くと同時に、それくらい頑丈な幕だったから私達を受け止めてくれたんだと気づいた。
「おい、馬鹿」
「カズキよ」
自分が呼ばれていると疑いもせずひょいひょいと近づいて、つるりと滑る。皆が踏み固めた地面は雪が固まって大変滑りやすい。
「へあぁ!」
「おい!?」
焦った声を上げたナクタの真ん前で仰向けに頭から転んでしまった私を、慌てず騒がすルーナが支えてくれた。いつもすみません。
ルーナに掬い取られて抱き上げられた私の前を、荷物を持った人が通り過ぎていく。その内の一人がひょいっと首を傾けて私の足元を覗き込んだ。
「これ靴じゃないじゃないか。これは滑るよ。あ、そっちのお姉さんも同じの履いてるじゃん」
「だからこっちの靴渡そうとしたらすっ転んだんだよ。おまえ、どんくせぇなぁ」
呆れ声で二足のもこもことした毛皮のブーツを渡してくれたナクタに、お礼を言って受け取る。エマさんはシャルンさんの肩に掴まって履き替えていく。片手で器用に履き替えていく様子を真似て、片足立ちになった瞬間滑った。ちょっとでも力の分散が傾けばつるりんと行く。スケートより難しい。
「おっまえ、筋肉ねぇのな」
呆れきった声で言われて、そうか筋力の問題だったのかと気づいた。でもこの地面、踏み固められてつるんつるんなので、筋力でどうにかできる気が欠片もしない。こんな場所を歩いていくのかと思うと、今からお尻が痛くなってきた。尻もちつきまくる気満々である。
半分以上ルーナに抱きかかえられている状態で靴を履きかえる。それを呆れて見ていたナクタは、分厚い手袋をはめた掌をぱふっと打ち鳴らした。
「よし、馬鹿! 乗るぞ!」
「カズキよ」
否定はしないけど出来れば名前を覚えて頂けたら嬉しいです。
「乗るとは何事?」
「そりだよ。なんだ、お前、この山歩いて降りるつもりだったのか? ばっかだなぁ」
「カズキと申すよ!」
崖から落ちたのにまだ山でしたか。その事実自体が初耳です。
ナクタに手を引かれて一歩踏み出す。ざくっと氷を貫く感触に感動する。凄く歩きやすい。凄い、これが状況に適した靴。
感動して、調子に乗ってぴょんぴょんしていたら転んだ。調子に乗るなという神様の思し召しである。
「ルーナ、熊の毛皮は私達に権利があるそうだが、どうする?」
「カズキに着せたいが、どうせ加工に時間がかかる。だったら渡して援助を得たい」
「そうねぇ、衣食住に変えてもらいたいわ」
熊の毛皮をかぶって歩くのも捨てがたいけれど、美味しいご飯に変わる方がありがたい。ルーナがジジリさん達と話している背中を見ていたら、ナクタに引っ張られる。
あれだよ、あれと指さされた先には、サンタクロースが乗るそりより脇が低い木のそりがあった。
「あれがおれのそりだぜ。凄いだろ。おじじ達は、あっちのでけぇやつで荷物運びながら来るけど、おれらは連絡兼ねて先に降りる。お前おれの子分にしてやるよ!」
「こびん」
「子分だっつーの。年の近い奴いなくてつまらなかったんだよ。ほら、乗れ!」
ぐいぐい押されてバランスを崩す。顔面からそりに突っ伏した私を跨ぎ、そりを押してナクタが駆け出す。
「じゃあ、おじじ! おれ先に行くな!」
「え、ま、ルーナ!?」
「いっくぜぇ!」
腕立て伏せの要領で慌てて顔を上げたら、振り向いたルーナがこっちに走ってこようとしている所だった。けれど、既にそりは動き出している。そりからはみ出している足を必死にそりの中に抱え込む間に、あっという間にルーナが遠ざかっていく。
「登るの面倒だけど、降りるのは最高なんだぜ!」
「落ちるは結構だす――!」
シートベルトのない激しく揺れるジェットコースターに乗っている気分だ。びゅんびゅん風が切れる音がして、頬っぺたが凄い勢いで冷えていく。どこに掴まればいいのか分からなくてナクタの足元にひれ伏し、座席部分のでっぱりを掴む。
「顔上げろよ、勿体ない! 降りるときだけだぜ、この爽快感!」
頭を掴まれて顔を上げたら、視界いっぱいに真っ白い光が広がった。森が途切れている。何もかもを一面雪が覆った世界を勢いよく滑り降りていく。木が、草が、動物が、そこに見えたと思ったらあっという間に消えていく。
一瞬景色に見惚れたけれど、少し先でぬぅっとそびえる木に気付いて引き攣る。
「よいせっと!」
だけど、私が身体を強張らせている間に、ナクタはそりの左端をだんっと踏みつけて角度を変える。そりは進路を左に逸らせて木の横を通過していった。ただ滑り降りているんじゃなくて、ちゃんと操縦しているんだと気づいて少し気が楽になる。
「岩――!」
気が楽になったそばから岩の乱れ攻撃発生。ぼこぼこと突き出ている岩を、ナクタは楽しそうに避けていく。
「木――!」
よく考えたら、落ちる経験は多々あれど、降りる経験はほとんどなかった。落ちるのは一瞬だけど降りるのはかなり長い上に早くて怖い。けど、慣れたら楽しいんだろうなというのは分かる。坂道を自転車で滑り降りる感覚に近い。
「近道するぞ!」
「崖――!」
あ、結局落ちるんですね。
激しく跳ねて空を飛んだそりにしみじみ頷いた私の涙が、きらりと宙に散った。




