81.神様、もう少し小さくお願いします
「カズキ、そこの縄もっとぴんっと張りなさい! 届かないわ!」
「ぴよんと張るよ!」
「ぴんよ、ぴん! 余計なもの挟むんじゃないわよ!」
「ぴゅん!」
私達は、ロープで木を直線に繋いで、方角を確かめながら一直線に進んでいる。空が見える場所や、しっかりとした背の高い木を見つけたら、ルーナが登って太陽や星の位置で方角を確かめてくれた。
最初の時みたいに洞を見つけられることのほうが幸運で、ちょっと開けただけの場所で寝ることのほうが多い。そんな時は、ロープに繋いだ布を張ってテント代わりにして眠るのだ。
雪をどけ、今晩の野宿場所にテントもどきを張り終えて、私達は一息ついた。
ルーナは木の上で方角を確認してる真っ最中だ。生い茂った木の枝で見えないけれど、なんとなく見上げている私の横で、エマさんはごりごりと丸薬の材料を混ぜ合わせていた。
「ルーナは凄いな」
「ルーナは凄いよ!」
「解薬であれを抜いてる最中だから、普通なら動けないくらいだるいはずなんだがなぁ」
「ルーナ――!?」
思わず叫んでしまった私の頭上から、大量の葉っぱと雪が落ちてくる。そして、ずだんっと重たい音で危なげなく着地したルーナも降ってきた。
「何だ?」
「ルーナ気だるい!?」
「ん?」
小枝や葉をはたいているルーナを、上から下まで見て顔色を覗き込む。いいか悪いかで聞かれるとよくはないだろうけど、他の皆の顔色も寒さで白っぽいから何ともいえない。
「薬抜いてる途中だからだるいだろうって話をしてたのよ」
シャルンさんから補足を得たルーナは、合点がいったと頷いた。
「元から量を減らしていたからそれほどでもない。量を減らし始めた頃のほうが厄介だったな」
「……気づかないかった」
「航海中暇だったから、丁度いいかと思ったんだよ」
さらっと暴露されて仰天する。記憶が戻ってない頃から薬を抜こうとしてたなんて知らなかった。部屋が別々だったのはあるけれど、後半は寝る時以外は一緒にいたのに。
そりゃあ、あの時はルーナも記憶を戻すことに積極的じゃなかったし、ルーナが親しくなり直したのはアリスちゃんだったし、私はいつでも馬鹿だったけど、一言くらい言ってくれても……無理だ。寧ろ、あの頃のルーナが私に話してくれる理由が一つもなかった!
でも、今は違うはずだ。役に立てる立てないは別として、話を聞くくらいは出来る。
「ルーナも、私に、弱音泣き事うげろっぱ致してくれて宜しいよ」
「ああ、頼りにしてる」
間髪入れずにそう返ってきて面食らうと同時に、口元が緩む。こんな端々で、ルーナのテリトリーに入れてもらってるんだなと気づく瞬間嬉しくなる。私も、こんな嬉しさをルーナに渡せるといいな。
同じように笑ってくれたルーナは、汚れ物を持ち上げた。
「そこに川があったから、洗ってくる」
「あたしも行くわ。……嫌そうな顔しないでくれる!?」
「俺は何も話さないぞ」
「ほ、ほら、やっぱり人に話すことですっきりする事とかあると思うのよね。男同士の話ってあるじゃない? あたし、たっぷり付き合うわよ。女装の話とか、ちょろーと吐きだしてみるといいと思うの」
うふんとウインクしたシャルンさんの目の前で、ルーナの指がごきりと鳴った。アイアンクロー発動三秒前。
私は合掌した。エマさんも合掌した。イツキさんに習ったんですか?
男らしい悲鳴が上がったと同時に、エマさんが鳴らしたちーんという澄んだ音が響き渡った。
干した葉っぱを火で軽く炙り、それを砕いて混ぜる。他にもよく分からない物を練ったり、潰したりして混ぜていく工程を眺めていると、エマさんが色々教えてくれた。
「あの丸薬が阿呆みたいに高いのは、昔のガリザザの王族が、好いた女を自分の元に止めおくために作らせたからなんだ。安い材料だと逃げだした先で作れるだろ? だから、自分の手元にいないと手に入らない材料で作らせた、質の悪い物なんだよ」
「あくどいよ」
「だよなぁ。だから私は、解毒薬は絶対に安い材料で作ろうと決めてたんだ。逃げ出した先でも作れるよう、そこらで手に入るような材料以外は使わないようにしてな」
小瓶から何かを振りかけ、再び混ぜ始めた薬の中に自嘲気味な笑顔が落ちる。
「一番手伝ってくれたのはツバキだったんだ。丸薬に縛られている人間が、奴隷として繋がれていた自分みたいだってな。イツキに救われた自分みたいに、皆自由になれたらいいねって言って、材料集めも配合も、誰より熱心に考えて手伝ってくれたんだよ」
思わず固まってしまった私に、エマさんは自嘲を苦笑に変えた。
「その様子だと、話に聞いた通り、ツバキは大分変っているんだろうな…………私が討ち取られ、瓦解したエデムの街でイツキを守ろうと追い詰められたんだろう。頑張り屋で、一途な子だったんだよ。元は少数民族の出だとは思うが、物心ついた頃には奴隷商にいたそうだ。イツキから与えられる無償の愛に戸惑って戸惑って、狼狽える様にようやく子どもらしいと思ったのが印象的だったなぁ」
エデムとは、エマさんが統治していた地域の中心都市だ。ディナストがいるのは皇都エルサムというらしい。元々ディナストが統治していた場所は、なんともう壊滅している。エルサムに移住してすぐに他の王族が攻め込んだけれど、ディナストは別に応戦も仕返しもしなかったらしい。でも、全然関係ない場所でその王族の人と戦って、その人は負けて巡礼の滝に落とされている。あの村にいなかったということは、きっと助からなかったのだ。その後も、立て直すわけでも統治し直すでもなく捨て置かれた街は、結局復興せずにそのまま廃墟となったと聞いた。
「なあ、カズキ」
「はい」
「私な、戻ったらディナストを討つよ」
エマさんはさらっと凄い事を言う。驚きすぎて反応が返せない私に、完成したルーナの薬がぽんっと渡された。すらりと長い指の中で、存在感を主張している節が印象的な手だ。これは、頑張った人の手だ。爪の間が薄ら染まっているのは薬を調合するからだし、節がごついのは剣を振るうからだと知っている。
「私は本当はな、残虐なことも非道なことも平気な人間なんだ。そうでないと生き残ってこられなかったのもあるし、そうやって生き残ってきた人間の血筋だから、それ自体は平気だった。ディナストも他を落として吸収したばかりの軍だったし、そいつらの身内を人質にとって脅した上で、全軍上げてディナストを殺しにかかれば崩せたかもしれない。なのに私は、あの時それを躊躇った。そんなことを平然とできる女だとイツキに知られたくなくて、血を流させずに終わらせる方法がないかと後手を踏んだ。ただ王族に生まれたというだけで上に立った、無能な小娘に統治されたエデムの民は哀れだ」
七年前と言ったから、その時のエマさんは十七歳くらいだ。日本なら女子高生。ルーナ達もそうだけど、私達の感覚からすればまだ全面的に守られる年齢の人が背負うものが、本当に大きい。その決断に左右される人の数も、酷く多い。多過ぎる。
膝の上に落ちた粉をぱんぱんとはたいたエマさんは、思いっきり伸びをした。
「私ももう二十四だ。小娘の時よりは図太くもなったし、この七年後悔ばかりしてきた。やらなかったことへの後悔は本当に重かったよ。バクダンをあいつの手に渡してしまった責任は取らなければならない。まだ情勢が分からないから王になるかどうかは決められないが、必要なら玉座も捥ぎ取る」
「ど、どのように?」
「そうだなぁ。まずは反ガリザザ勢力と繋がりたい。話を聞いた感じだとルーヴァルが妥当か。ガリザザ内だと、どっちかというとこっちの首を狙ってきそうだしなぁ。昔、少数民族同士の組織があるとか聞いたことがあるが、今はどうなっているやら。エデムの仲間が生き残っていれば収集をかけたいが、何せ七年だ。あの頃使っていた連絡網も難しいだろうが、何か使えるものが残ってないか調べないとな」
すらすらとこれからの予定を上げていくエマさんをぽかんと見上げてしまう。やりたいことを決めたら、それに向けてぐんぐん進んでいける人は凄い。こうしたいなと思っても、やり方が分からず変な方向に突っ走っていってしまう私だから、余計にそう思うのかもしれないけど。
私は何をすべきだろう。私の握力で出来ることだけじゃなくて、独り歩きしている黒曜の名前でもいい。私は、何ができるだろう。
「イツキも、必ず取り戻す。……壊されたというのなら、負けた私の所為だ。償えるかは分からない。だが、どうしても会いたいんだ。会って、謝りたい。…………たった二年で、あいつを生涯の男と定めた私を笑うか?」
覚悟を決めた切ない笑顔に、私は思わず視線を逸らす。あの、何かすみません。
「何言ってんのよあんた。この人達一年なかったわよ」
綺麗になった食器を抱えて戻ってきたシャルンさんが、呆れた声で返事を引き継いでくれた。仰る通りです。ルーナ大好き。
「そうか! そうだな!」
はっはっはっと豪快にお腹を抱えたエマさんが元気なら、もういいや。どうぞ笑ってください。ただの事実です。ルーナ大好き。
しかし、すぐに首を傾げる。よいせと荷物を置いたシャルンさんの後ろに誰もいない。
「シャルンさん、ルーナは何処に?」
「ああ、ちょっと気になることがあるから先に行けって言ってたわよ」
「気になること」
「何かしらねぇ。あ、そうだ。カズキ、ちょっと来なさい」
手招きされてひょいひょいと近寄る。差し出された両手を覗きこめば、そこには棘のないサボテンみたいな多肉植物があった。ふわふわとした産毛みたいなのがびっしり生えている。
「いいものあったからあげる。これあんたの分よ」
「これは何物ですか?」
「火草っていってね、これを潰して足先に塗りつけてたら凍傷起こしにくいの。食べても栄養満点。こんな外見なのに、雪の中でも凍らず生えるから火の草なの。使って便利、食べても助かる万能草よ。問題はたった一つ」
急に神妙な顔になったシャルンさんに、ごくりとつばを飲み込む。
「すっごくまずいの。動物も食べないくらい激まずよ」
「それほどまでに!?」
「だからといって、手を加えれば加えるほど何故か不味くなるのよ。そのまま食べるのが一番だけど、本当に切羽詰まらなきゃ食べたくない代物なのよねぇ」
産毛は舌に残りそうだけど、それを除けばぷりっとした美味しそうなこの植物が、そんな恐ろしいものだとは。ちょっと齧ってみたい気もするけれど、悶絶した時の口直しがない状態でチャレンジしていいものか。
手袋の上に乗った火草をじっと見つめていたら、草むらががさがさ動いて顔を上げる。
「ルーナ?」
積もった雪を落としながらぬっと現れたのは、やけに毛深くなったつぶらな瞳のルーナだった。
またの名を、熊と呼ぶ。
急に息が吸いづらくなったのは寒さの所為じゃない。こんなに寒いのに、脂っこいような獣臭さがむあっと湧き上がる。は、は、と小刻みに吐く自分の息が白く散っていく。
思ったよりつぶらな瞳に、知っているくらいの大きさ。でも、思っていたよりずっと、怖い。自分より大きい意思疎通できない動物。少し動いただけでしなやかに動く肉は筋肉の塊だ。目の前の動物が、突如豹変して一歩前に踏み出したら私は死ぬ。その恐怖は、私よりも本能が知っていた。
思考がぐるぐる空回る。死んだふり? でも、熊は雑食だから死体も食べるとお爺ちゃんが言っていた。じゃあ、大声で驚かせる? 声が出ません。大きな音を出す? 手持ちはふんわりとした産毛を持った火草だけです。 じゃあ、死ぬ? 絶対嫌だ。
足がガクガクと震える。ほんの少しでもバランスを崩したらしゃがみ込んでしまう。そうしたら、もう駄目だ。背後は分からないけど、何も物音がしない。誰も何も言えない。どうしよう、ルーナ。声が、出ない。
「カズキ!」
声だけで雪が落ちてくるほどの怒声が響き渡った。全ての意識が声に逸れる。熊も体勢を低くした瞬間、拳ほどの大きさの石が鈍い音を立てて熊の脳天に当たり、ぼとりと雪に埋まった。
飛び出してきたルーナに腕を引かれて背後に回される。今のルーナは剣を持っていない。農具だけでどうするのとか、危ないとか、思うだけで息が出来ない。
小刻みな息しか吐けない上に、極度の興奮で視界が点滅する。その視界の中を妙にぼやけた光が横切っていく。
ルーナはたき火の組み木を掴んでいた。
「巣に戻れ!」
火のついた木を熊に投げつけ、農具の持ち手で熊の眼の間を打ち付ける。熊は呻き声とも咆哮ともつかない声を上げて立ち上がった。確実にルーナよりも大きい。一歩も引かずに鍬を構えたルーナの静かな呼吸で揺れる肩と、半開きになった熊の口から覗く舌だけが動いている。
熊が立ち上がってくるりと後ろを向くまで、たぶん一瞬だった。なのに、時が止まったみたいに長い。
雪を蹴散らして森に消えていく熊の背中を見送って、一気に時間が流れ出す。ぐしゃりと地面に座り込んだ音が四人分響いた。次いで、ルーナ以外は止めていたらしい息が吐き出される音が続く。
「怪我はないな?」
「な、いよ」
持ち手を抱えて長い息を吐いたルーナは、すぐに立ち上がった。
「足跡を見つけたから追ってみたらまさかここに続いているとは思わなかった。肝が冷えた……すぐに移動するぞ。荷物を纏めろ」
「そう、だな。夜になるが、ここで野宿するよりましだ」
最初に持ち直したのはエマさんだった。顔面蒼白になってもすぐに立ち上がって、さっき張ったばかりのテントもどきを解いていく。
「シャルン、私の鞄を取ってくれ」
「え、ええ…………なんなの、なんなのよ! 冬眠してなさいよね!」
張りつめた空気が解けていく。私も慌てて立ち上がろうとしたら、腰が抜けていて立てなかった。さっきまで感じなかった寒さが駆け抜けていく。お尻冷たい。
脇の下に手を差し入れて持ち上げてくれたルーナにお礼を言いながら、なんとか足に力を入れる。そして、生まれたてのカズキが生後三時間くらいのカズキになった頃には、撤収準備が整っていた。役立たず、ここに極まり!
こんな時、一々方角を確認しながら進むのは気が焦る。空が見える場所が増えて星を見ながら進むことができたのは幸いだった。
みんなあまり喋らず、早足で黙々と進む。ずべっと滑った私を支えてくれたルーナの横をシャルンさんが滑っていく。ちょっと坂になっているのだ。少し先で止まったシャルンさんはぷんすか怒っている。
「いったぁい! もお! 足元見えないわぎゃああああ!」
「どうした、シャルン!」
エマさんが滑りながら駆け寄っていく。私達も急いで近寄ると、少し窪んだ場所に嵌ったシャルンさんが指さした先に、この森で偶に遭遇するそれと出会った。
ぼろぼろになった服に雪が降り積もっても溶けることがないのは、それがもう体温を発していないからだ。
「……こんな所にもいたのか」
人骨の前にしゃがみ込んで、エマさんが両手を合わせる。この森には、今まであの村から逃げたと思う人の骨を見つけることがあった。逃げて、逃げて、辿りつけなかった人達だ。そのほとんどが一人だった。逃げようとする人が同時期に四人固まった私達は本当に幸運だ。否、同時期というのは少し語弊がある。エマさんは、七年待った。確実に生きて帰るために、仲間を探して七年間、変わっていく外の世界に焦りながらも待ったのだ。
折れた骨が散乱する場所を見たルーナは、まずいなと呟いた。
「あの熊、もしかすると人の味を覚えたやつかもしれない。そうなると、追ってくるぞ」
「ちょっと、やめてよ!?」
エマさんも難しい顔で暗闇を見る。
「いや、あり得る。そうでなきゃ、わざわざ人の気配がして火が焚かれている場所に寄ってきたりしないだろう」
「冬眠してないからお腹空かせてるだけじゃないの!?」
「それだと余計に獲物を追ってくるんじゃないか?」
緊張感が戻ってくる。少しでも距離を取ろうと歩き出したのに、ルーナは険しい表情で後ろを振り返った。
「冗談じゃないぞっ、走れ!」
「嘘でしょう!?」
悲鳴を上げたシャルンさんの手を掴んでエマさんが駆け出す。私の腕はとっくにルーナに掴まれて走り出していた。
ばたばたと走る足音と背負った荷物がぶつかり合う音、雪を踏み抜いて湿った葉っぱや枯れ木を砕く音。そして自分の心臓と、皆の呼吸音。そんな物だけが、雪に音が吸収される森の中に響いた。
私の耳では拾えないけれど、ルーナが後ろを何度も確認しているから、真っ暗な背後に確実にいるのだろう。
「方角、方角どうするのよ!?」
「それよりも距離を取ることのほうが先決だろう! ルーナ、火を焚くか!?」
「あんな小さな火じゃ無意味だ! 剣さえあればまだ何となるが!」
頭上はまた木に覆われて月明かりさえ入らない。それでも、僅かな光を雪が弾いて、城だけが眩い。とにかく前に前に足を動かす。左が地面についたら右を、右がつく前に左は地面を蹴っている。足元は見えないけれど、必死に足に力を入れて進む。
なのに、急にかくんっと左の膝が折れた。腰が抜けた時の感触に似ている。だけど決定的に違うのは、左の足が辿りつく先がない。
抜けたのは、膝でも腰でもなかった。
目の前を走っていたエマさんの身体が傾き、シャルンさんの身体は完全に斜めになっている。
なかったのは地面だ。
「崖、かっ!」
唯一足を踏み外さなかったルーナが渾身の力で踏ん張っても、三人分の体重を支えられるわけがない。その場に止まることを諦めたルーナは、私を引き寄せながら抱きかかえて下に滑り込む。
何度落ちても慣れることなんて一生ないと思うこの感覚に、ひゅっと吸い込んだ冷たい空気で肺が凍りつく。
私達は、夜のものか地獄の入り口か分からない暗闇の中へ、真っ逆さまに転がり落ちていった。




