76.神様、少しふわふわします
くすくすと笑い声が聞こえる。
なんだろう。凄く楽しそうだ。でも、その笑い声はふわふわふわふわ流れて、うまく掴めない。
「……頼むから、やめてくれ。せめて、そいつだけは、逃がしてやってくれ」
きゃあきゃあ鈴のように広がる笑い声の中に一つだけ混ざる苦渋の声。その声とたくさん話したいことがあったのに、声が出ない。どうして声が出ないのか分からない。私は何をしようとしていただろう。意識が纏まらないのを必死で掻き集めるのに、集めた傍から霧散する。頭がふわふわとして、よく、分からない。
「ブジーア! お前は一昨年ミシクと結婚しただろうが!」
「やだ、モーリーったらぁ。この村はみーんな家族だもの。外の人とだったら浮気だけど、そうじゃなかったら浮気じゃないのよ? だって、村の人の血を引く子どもだったら家族に変わりはないでしょう? マーカスだって、最初はジョルジュと一緒だったのよ?」
知らない名前の中に、ぽつぽつと知ってる名前があった。でも、それがどうしたんだろう。ああ、それより、頭が変だ。
「……どうして、分かった」
「気を紛らわすようにしょっちゅう染めてた髪、染めなくなっただろ? だから、気が紛れる何かを見つけたんだろうと思ってね。ねえ、モーリー、俺寂しいなぁ。俺達、結構いい夫婦やれてたと思ったんだけど? 俺の何がいけなかった? 俺、結構楽しかったんだけどな」
「……惚れた男がいる。だけど、それはお前じゃない」
恋バナですか?
私もルーナの話ならできますよ。あれ? でも、ルーナ。ルーナはどこ? どうしてルーナがいないんだろう。待ち合わせしたのにな。あれ? 待ち合わせしたのならいかないと。でも、どこに?
「人の数だけ理想の形がある。自分の理想以外の全てを否定できるほど、私は立派な人間じゃない。だがな、それを他者に押し付けるな! 流れ着いた人間から選択肢を奪い取り、そうして生きるしかないように縛り付けることのどこに正当性を見出せと言うんだ!」
「この村は閉ざされているから平和なんだ。他所からの侵略を受けることもなく、侵略することもない。村人はみんな家族だから、どの子どもも村の皆の子どもだ。男女の諍いもない、金もないから醜い相続争いや強奪もない。ここは、この世最後の理想郷だ」
「倫理も道徳も狂ったここは、ただの地獄だ!」
ばしんと弾ける音がして、何かが倒れた。でも、思考が上手く繋がらない。音がして、誰かが倒れて、それが知ってる人で。エマさんが、叩かれた。だから? だから、目を、開けないと。
「あれ? 起きてる?」
かろうじて見つけた答えに従って、なんとか目を開くと、歓迎会で見たことがあるような気がするけど気のせいかもしれない人がいた。たぶんいたと、思う。この垂れ目を見たことがあるような。
「ブジーア? どうしたの?」
そばかすの子が、垂れ目の人の肩に顎を乗せて覗き込んできた。
板張りの天井が見える。ここは家の中だ。
「あれ? 目が開いてる? うそ、意識あるの? 香が効きにくい体質かなぁ?」
「モーリーは薬草に慣れてるからだけど、リリィは何でだろうな。まあ、どうせ動けないからいいだろ。ギニアスはライさん達が始末したし、ゆっくり、慌てず、家族になっていけばいいさ」
私の上にブジーアと呼ばれた人が乗っている。服が下着だけになっていた。服……もさぁとしたスカートはいらないけど、ルーナの服を着ていたのに。ああ、そうだ。ルーナ。ルーナと、家族、ルーナとなりたい。なのに、始末って何? 始末って、何を? 始末って何だっけ。
ふわふわと意識が飛んでいくのに、気持ちが悪い。気色も悪い。鳥肌がぞわぞわ立っていくのに、夢見心地な香りが消えない。
「やめろ! そいつに手を出すな! そいつを、そいつらを、もうこれ以上、この世界の理由で傷つけるな!」
エマさんが怒ってる。どうして?
理由を聞きたいのに、気持ちが悪い。
近づいてきた顔を、水の中でたゆたうような速さでしか動かせない腕を必死で持ち上げて押さえる。気持ち悪い、ルーナ、どうしてだろう、苦しい。分からない。理由を探す前に思考が散って理解できない。でも、気持ち悪い。気色が悪い。
「動けるの? 大丈夫、怖くないよ。手を繋いでいようか」
違う。手は、この人と繋ぎたいんじゃない。
違う。何が? 分からない。でも、違う。これは違う。
だって、私いま、ルーナのキスをお預かりしてるから、この人は違う。
触らないで。乗らないで。あっちいって。触らないで、お願いだから、触らないで。あっちいって。
「結構動くな……なあ、ミシク、香の残り持ってきてくれないか?」
「そうね、取ってくるわ」
大して力の籠められていない手を引き抜いて、必死にもがく。もがいても水中にいるより鈍い動きなのが分かるけど、止めるわけにはいかない。ここがどこか分からない。今が何か分からない。どこが今で何がいつか分からないけど、これじゃないのは、分かる。
だから、帰らないと。だから行かないと。
ルーナの所に、戻らないと。
「はいはい、手はこっち。今日から俺達がリリィの家族だ、よ………………え?」
突然、ブジーアの声が引き攣った。
私を跨いだまま前を見ている視線を追って、首をごとりごとりと反らせていく。うまく動かない身体をもどかしく思いながら、必死に眼球を動かして見たそこに、まさしく今必死で思い浮かべていた人がいて。
私は、即、目を逸らした。
ぽわぽわとした点が浮かび上がってなんだかファンシーな視界になっているそこには、ライさんの顔面を鷲掴みにしたまま問答無用で引きずる農業系騎士がいる。凄まじく怖い。鍬がこんなに怖い日が来るなんて思わなかった。
ここは小さな小屋みたいな場所で、扉を出るとすぐ外になっていた。立ち並ぶお墓にぞっと背筋が冷えたけれど、そこを顔面鷲掴みにして歩いてくるルーナのほうがもっと怖い。
「お、おい、誰か止めろ!」
誰かが引き攣った声で叫んだと同時に、数名が飛び出していく。鈍い身体では視線で追い切れず、次に見た時には別の誰かが顔面を鷲掴みにされて、地面から持ち上げられていた。そして、そのまま叩きつけられる。鍬すら使ってない。
さっきまですぐにぶれていた焦点がルーナに縫いつけられる。是非とも解いていください。そう願ったら、願いが叶ったのかルーナが消えた。
目で追えなかったルーナを次に見つけたのは、さっきまでブジーアがいた場所だった。正確には、さっきまでいたブジーアを回し蹴りで吹き飛ばした後に立っている。足、長いですね。その腕が伸ばされた先では、鍬の持ち手を喉に突きつけられたマーカスさんがいた。そのポケットから木で出来た丸い檻みたいな小さな籠が零れ落ちた瞬間、またあの匂いが広がっていく。
「……カズキ、カズキ?」
しゃがんだルーナの手が頬を撫でるけど、それにすり寄ることも出来ない。また焦点がぶれていく。
鼻を覆ったまま、丸い檻を外に放り出したエマさんも、痛そうな顔をして私を覗き込んだ。
「香だ。依存性はないが意識の混濁が強く出る。……大丈夫だ、時間が経てば抜ける。怖かったな……ごめんな、この世界こんなのばっかりで、本当にごめんな」
エマさんが謝る必要はないのに、私の手を握って何度も何度も謝るエマさんこそつらそうだった。ルーナの上着をかぶせられた瞬間、視界が上がる。
ルーナは私を抱き上げたまま、少しずつ後退していく。何かを警戒しているのかと思ったけど、単にエマさんがスカートの塊を抱えてくるのを待っているだけだった。エマさんが先に扉を出ると、すぐに入口に移動する。
「追ってくるなら皆殺しにする。あいつらを殺さなかったのは、血の臭いをさせて戻ってきたくなかっただけだ。だが、俺は、逆鱗に触れられて、笑って許せる人間ではないぞ!」
足元に転がされたライさんを蹴り飛ばし、マーカスさんの足元に吹き飛ばしたルーナの激昂は、私に向けられているわけじゃないのに声が出ないほど怖い。抱き上げられている身体がかたかた震える。それは私の恐怖じゃない。ルーナの、怒りだ。全身が震えるほどの怒りを迸らせるルーナから目が離せない。ふわふわと霞がかった意識は相変わらずだけど、目を閉じてしまった瞬間、ぴんと張りつめたものがぷつりと切れてしまうような気がして必死で意識を保つ。
『ルーナ……』
目蓋も、腕も重い。でも、もがくように持ち上げる。怒りが目に見えそうなほど激昂しているのに、触れた頬は、氷のように冷たい。
『帰ろうよ……』
早く帰ろうよ。早く、アリスちゃん達の所に帰ろうよ。
ここにあんまり長居すると、きっと遅刻しちゃうよ。だから、早く行こうよ。アリスちゃん達との時間に遅刻してまで残るくらい大事なものは、ここにはない気がする。
「…………そう、だな」
肺が空っぽになる息が降ってきて、ルーナの身体から力と熱が抜けて、体温が戻ってくる。目に見える熱が抜けたのに身体は温かくなっていくって不思議な現象だ。
「モーリー、走れるか?」
「ああ、幸い靴は脱がされていないしな」
「じゃあ、走るぞ」
「ああ!」
勢いよく頷いたエマさんは、一度だけ小屋の中を振り返る。そして、壁に背中を擦りつけて座り込んでいるマーカスさんを見た。
「マーカス、私との時間を楽しかったと思ってくれるなら、やっぱりお前、この村には向いていないと思うぞ」
じゃあなと言ったエマさんはもう振り向かなかった。その背に向かって伸ばされたマーカスさんの手が力なく落ちたのを最後にルーナも走り出したから、彼がどんな顔をしていたのかは分からなかった。
お墓の間を走り抜けるのは罰当たりだろうか。この地に眠られる皆様、出来ましたら、広い心で声援など頂けましたら幸いです。
私は走っていないので、そんなことを呑気にぼんやり思っていたら、森に近いお墓の陰にしゃがみ込んでいる人がいた。
草色の帽子を目深にかぶったヒンネさんだ。不安げに周りを見回して草をちぎっていたヒンネさんは、私達の姿を見つけると同時にぴょんと立ち上がった。
「ああ、よかったぁ! もう、心配したわよ!」
「遅れてすまないな、ヒンネ。ああ……荷物、持ってきてくれたのか」
「ええ、だってあなた達に総がかりで、村中手薄だったもの、ライの家からは蜂蜜を瓶ごと頂いてきちゃったわ。そもそもこの瓶、元はあたしのだったのよ! 中身は違うけどね」
家に置いてきたはずの私達の荷物がちゃんとある。ヒンネさんとエマさんでそのほとんどを背負ってしまった。ルーナも背負っているけれど、手は片方私で、片方鍬で埋まっている。私も何かを持ちたい。でも、私が持つとルーナが重くなる。
「あら? リリィが泳いでるわよ?」
「ああ……荷物を持ちたいんだろうが、持ったら俺の負担になるかと躊躇してる」
「あらまあ。じゃあ、これでも持ってなさい。モーリーの最高傑作よ」
渡されたのは、きょるんとした愛らしい目をした、首が捥げそうな熊のぬいぐるみだった。凄く、怖い。
「女らしい所作は好かん、というより、うまく出来ん」
「あんたねぇ……あたしだってもうちょっとは可愛く作れるわよ?」
呆れた声を向けられたエマさんは、ふいっと視線を逸らした。
「私の事より、ヒンネはいつまでその口調でいるつもりだ? 最初の頃みたいに俺に戻ればいいんじゃないか?」
「そうなのよねぇ。生き残るために咄嗟にこの手を使ったのはいいけど、これ、意外と癖になって戻らないのよねぇ」
それは深刻な問題なんですが、このぬいぐるみの定位置はここで決定なんでしょうか? さしあたって重大な問題はそこだと思います。これ、お腹の上に抱っこしてたら食い破ってきませんか? なんで口裂けてるんですか? 目だけは愛らしいのが逆に怖いです。
それぞれ荷物を持ち、私は呪いのぬいぐるみを抱えて出発準備が整った時、ルーナが静かに視線を流した。それに気づいたのは、下からルーナを見ていた私だけだ。
「……誰だ?」
少し離れた場所に、ひっそりと佇む影があった。失礼ながら一瞬幽霊かと思ったほど静かな人は、小柄なお婆さんだった。お婆さんは、八本の花と小さな水筒を手に、ゆっくりとこっちに歩いてくる。そして、私達の足元のお墓に花を供えて、水を入れ替えた。
まるで私達なんて見えてないかのようだ。
静かに手を合わせたお婆さんは、その体勢のまま、風のような声で喋った。
「ああ……口惜しいこと。こんなにも老いてしまわなければ、わたくしも皆さんと一緒に走ったものを」
上品な声音は、ヴィーを思いだすほどだ。
「わたくしも友も、皆諦めてしまったわ。……わたくし達にも、貴方々のような勇気があればよかった」
一つ一つ、並んだ墓に花を供えていく背は酷く小さい。
「ねえ……年老いた老婆の願いを、一つ聞いてはくださらないかしら?」
「……私でよければ、伺おう」
祈りを捧げる横に片膝をついたエマさんに、お婆さんは嬉しそうに微笑んだ。まるで子どもみたいな笑顔だった。
「誰かにこの村の存在を伝えて頂けないかしら。王になどと無茶は申しません。けれど、どうか、この村の存在を日の元に。友は皆逝ってしまったわ。そしてわたくしも随分年老いた。せめて、故郷の土で眠りたいの。死に逝くその時、友が皆一様に恋い焦がれた故国の土で、眠らせてあげたいの。でも、それが間に合わずとも、どうかお願い。この村を壊してっ……」
最後の言葉は悲鳴だ。彼女とその友達は、いつから、何十年、この村にいるのだろう。その慟哭を受け止める先に、私は相応しくない。だって、私は何も知らない。家に篭って、ただルーナに守られて、この村の全景すら見たことがない人間だ。同じ嘆きを知らない。同じ苦しみを知らない。
お婆さんの嘆きを受け止めたのは、同じ苦しみを知った人だった。折れそうな肩にそっと手を置いて、エマさんはお婆さんを抱きしめた。
「私は必ずこの村を解体する。長い無念を、そこで終わらせよう。だから長生きしてくれ。その瞬間を共に見よう。約束だ」
お婆さんは声を上げない。その顔もエマさんの胸にあって伺えないけれど、骨と皮だけの手はしっかりとエマさんを抱きしめて何度も頷いていた。
そうして私は、何も知らない村から飛び出した。何も知ろうとはしなかった村はどんどん小さくなり、終いには森に飲まれて見えなくなった。
あっちから見たら、森に飲まれたのは私達だろう。でも、森に閉ざされていく村を見ると、やっぱり飲まれたのはあの人達のように思えてならなかった。




