75.神様、少しお預けです
嵐は三日後にやってきた。
雨は思ったより降らなかったけれど、風と雷が凄まじく、全身を強張らせる轟音が一日中轟いていた。
雨漏りがないか、被害はないか、村中を回っているというライさんが顔を出した時に、毎年この嵐が終わったらぐっと寒くなって冬が来ると言っていた。お前達と過ごす初めての冬だなとも。
暴風の中他の家を周りに行く背中を見送って、そういえば、この村の人の名前を全然覚えていないことに気が付いた。村の全景も、初めてこの村に来た日見ただけだ。
離れることがこんなにも名残惜しくないのは初めてだ。名残惜しく感じる暇もないのはしょっちゅうだったけど、離れることが事前に分かっていて、早急の出発が楽しみでならないのも初めてである。
家からも出なかったし、人と名乗り合う機会も避けてきたから、残るものが何もないのだ。出会いも名も心も、名残を惜しめるほど関わらなかった。普通に、何の憂いもなく話して、遊んで、そうして日々を過ごしていたのならきっと残っていたであろう何か。それを惜しいとすらは思えない私を、村の人達は薄情だと思うだろうか。
助けてもらったし、屋根裏には日々見張りが入り込むけど、衣食住の提供もしてくれた人達だったのに。一応今までのお礼を兼ねて、薪をたくさん用意したので、冬を越すためにご活用ください。
唯一寂しいと思えるのは、ルーナと過ごせる穏やかな時間だ。でも、このままここにいたらルーナといられなくなる未来しかない。そもそも、二人だけで閉ざされる世界を望むのなら、最初からここにはいなかったのだ。
大丈夫だと自分に言い聞かせる。縋る願いを間違えるな。目指す理由を惑うな。ここじゃなくてもそんな未来はある。閉ざされた場所で他に選ぶ道がないから得られた場所じゃなくて、もっと明るい、選んだ先で大切な人達に手が届く場所が。
私は、この世界で十年前、傲慢にも、そんな場所にルーナを連れていきたいと思った。でも今は、連れていってもらいたいと思っている。でも、まだ、連れていきたいと思っている。
そして、一緒にいきたいと、願っているのだ。
アリスちゃん達に会いたいなと思いながら、服の上下を切り離す。上は普通に持っていくとして、下はもさぁとした生地を纏めて縫いつけて足元も全部塞ぐ。腰の部分に紐を通してから、持ち上げて眺める。
『てれててっててーん!』
巾着袋ぉ~!
大丈夫そうだと確認して、縄を埋め込んで縫いつける。
『てれててっててーん!』
リュックサック~!
両手で掲げて物をまじまじと見上げて、力強く頷く。
『うん、無理がある!』
どうしよう。
煎餅パンやとりあえず適当に何でもかんでもしっかり焼いたパンもどき、出汁が取れるからともらった肉や魚の干物などの日持ちがする食料。防寒用がないのは痛いけど、服や手拭いなどなど。樹海に挑むには無謀かと思える装備だけど、一応用意できた荷物だ。嵐の日は流石に見張りはこなかったから気楽に準備ができた。
でも、問題が一つ。鞄類が一切無いのだ。遠くまで出かける必要がないからだろうか、誰も鞄を持ってない。畑で取れたものを運ぶ時は箱や、大きなザルみたいな籠に入れて運ぶ。他の家に遊びに行くときは風呂敷みたいな布を使う。
つまり、用意した荷物を入れるものが何もないのだ。一応あれこれ考えて話し合っていたけど、色々と試す前に決行が決まった。
「カズキ、どうだった?」
お風呂場で木を削って水筒を作っていたルーナが帰ってくる。いろいろしないとカビるのは分かっているけれど、時間がないので特急工事だ。
私は無言で巾着リュックを差し出し、交換で水筒を受け取った。
「やっぱり問題は強度だな。軽い物ならいいけどな」
『ですよねぇ』
「いっそ箱に取っ手をつけて背負うか?」
木箱を背負うのか。それは痛そうだ。そして重い。筒状の籠があったらそれを包んで籠バッグみたいにするのに、それすらない。時間あればルーナが革から作ってみるつもりだったけど、それも無理そうだ。
結局、何枚もの布を無理やり縫い合わせて補強することで妥協した。重なった布が硬すぎて針が通らなくて、折らないように気をつけながらあちこちに押し付けたりして踊っていると、結局ルーナがやってくれた。女子力っ……いや、この場合は筋力?
油を入れた陶器の瓶を布でぐるぐる巻きにして、柔らかい物の中に突っ込んで最後の準備が終了した。
一日中荒れ狂った嵐の所為で分かりにくいけど、もう夜になっている。夕食は日持ちがしない食材を中心にスープだ! いつも通りである。
問題はお風呂だ。吹き荒れる雷鳴の中で火の番をしてもらうのは心苦しいけれど、今度はいつ入れるか分からないので出来るだけ入っておきたい。
ならばこれしかない。
『ルーナ!』
「断る」
『せめて提案聞いてから断わってください。最後くらい私がお風呂番するから一番風呂どうぞ!』
「断る」
聞いた上でも断られた。でも、明日からも負担が大きいのはルーナだ。私も精一杯頑張るけれど、どうしたって力仕事はルーナに任せることになってしまう。せめて今くらいはゆったりリラックスして寛いでもらいたいと思う。
だから今日は引き下がるつもりはない。たとえ実力行使でお風呂に放り込まれても、髪の毛張り付かせて這い出てやる。絶対に諦めない。どんな手を使ってでも、ルーナを先にお風呂に入れてみせるのだ!
気合を全身から滾らせている私は、今ならきっとオーラだって放てているだろう。さあ、こい! 私は絶対に負けたりしない。今日こそルーナに一番風呂を!
「一緒に入るか?」
『一番風呂いただきまぁす!』
お風呂、大変気持ちよかったです。
「…………で、何をやってるんだ?」
『お待ちしておりました!』
お風呂上りのルーナを寝室で待ち受けた私は、片膝をついて両手を広げ、ルーナに背を向けていた。
『倒れたりすると、いつもルーナが運んでくれますね?』
「そうだな?」
首を傾げたルーナに、さあどうぞとバックで近寄る。
『もしもルーナが倒れた時は、私が運べるか実験してみようと思っぶべる』
言い切る前に、お風呂上りでしっとりとした温もりが覆いかぶさってきて潰れた。重い。凄く重い。後、硬い。ぬりかべが倒れてきたらこんな感じかなと思うくらい重い。
「俺が倒れたら置いて逃げろ」
『そ、れは、いや』
「二人一緒に捕まるよりいい。俺一人なら何とでもなる。いいな?」
ルーナが倒れるくらいの怪我をして、足手纏いの私まで守る余裕はないだろう。でも、怪我をしたルーナを置いて一人で逃げるのは最終手段だ。
ぶるぶる震える足に気合いと踏ん張りを入れ、地面についている腕に力を籠める。
『ぬ』
「お?」
『りゃぁあああああああああああ!』
「お前なぁ……」
完全に立ち上がることは叶わなかったけど、中腰状態にまで復活した私は、ルーナの足を引きずって三歩歩いた。ずしん、ずしん、ずしんと響かせて辿りついたベッドに沈み込む。
咄嗟に重心を移動させてくれたのか、背中にいるルーナに潰されることはなかった。
『引き、ずって、なら、動け、る、か、ら、隠れる、くらい、できる、よ』
「息も絶え絶え」
『それ、は、しかた、ない』
文字通り全力を出したのだから息も荒くなる。ぜえはあと返事をして、呼吸を整えている間、ルーナは静かに待ってくれた。私の上で。潰れるほどじゃないけど重い。
『私、それなりに頑丈だから、使えるときはちゃんと頼ってくれたら、嬉しい』
「……お前がいるから倒れられないと思えるし、色んなことがどうでもいいと投げ出さないで生きていけるし、お前がいるから人間でいられる俺が唯一頼ってもらえることを奪おうとはいい度胸だな!」
『ふひあ!?』
いきなり脇腹鷲掴みにしてくすぐってくるのは反則だと思います。
くすぐりくすぐられと、ぎゃあぎゃあ騒いでいる内にいつの間にか眠ってしまった。
散々くすぐり倒されて息も絶え絶えのまま眠りについた私は翌朝、ぐしゃぐしゃになったベッドの上でルーナに抱きしめられた状態で目を覚ました。
起床一番のぼさぼさ頭で思う。何やってんだろう、私達、と。
そして、ルーナ今日もかっこいいですね。おはようございます、と。
いつもの服の下に、裾を折り曲げて縫い付けたルーナの服を着る。村を出られたら脱いでいくのだ。靴はエマさんが用意してくれるとメモにあったけれど、一応厚手の布を持っていく。
ルーナは剣がないことを気にしていたので、箒を渡したらぽんっと両手を打って裏に回り、鍬を持ってきた。こっちのほうが持ち手が丈夫らしい。農業系騎士の出来上がりだ。かっこいい。惚れる……いや、惚れてた!
いつも通りに朝ご飯を作り失敗していると、なんだか村が騒がしい。エマさん達が何かをしてくれたのだろう。後は、騒ぎに乗じてここに来てくれるというエマさん達を待つだけだ。
なのに、ルーナがぱっと険しい顔を上げた。
「どうされたの?」
「誰か来る」
エマさん達じゃないのはその顔で分かった。息を飲んで三拍くらいして、玄関の扉が激しく打ち鳴らされる。
「おおい! ギニアス起きてるか!? 悪いが手伝ってくれ!」
ライさんだ。
中途半端に立ち上がっていた私達は、すぐに扉に向かう。扉を開けようとしたらルーナの手でくるりと回されて、気が付いたらルーナの背中を見ていた。
「朝からどうした? 何だか、やけに騒がしいな」
そこにいたのはライさんだけだった。その向こうでは男の人達が慌ただしく走り回っていた。そして、更にその向こう、向かいの山の頂上付近で煙が上がっている。
「昨日の落雷が山火事起こしやがった! この時期多いんだよ、ちくしょう。人手が足りねぇ! 手伝ってくれ!」
「え?」
思わずルーナの背中を握ってしまった。ちょっと待って。それは、困る。困るというより、嫌だ。だって、ちょっと待って。
「分かった。着替えてくるから少しだけ待ってくれ」
素早く会話を打ち切ったルーナは、私の背中に手を置いて中に押し戻した。
「先に行け」
その後に続く台詞が分かっているのが、苦しい。
『……俺一人ならどうとでもなるから、先に行け?』
「ああ、隙を見て抜け出して追いかける。荷物は持てない分は置いていけ。俺も回収できないかもしれないけど、まあ、仕方ないな」
何回か大きく深呼吸する。一回じゃ駄目だった。何回も深呼吸して、ぐっとルーナの胸倉を掴んで引き寄せる。
そして、思いっきりキスをした。
『分かった! 待ってるから早く来てね! 気をつけて!』
ルーナを背負って山道駆け下りられるくらいだったらきっと連れていってもらえたのだろう。足手纏いどうもすみません! 今度は連れていってもらえるように精進します! でも、今度が無かったらもっと嬉しいです!
自分からするのは珍しいからあんまりうまくできなかったけど、歯は当たらなかったからよしだ。恥ずかしくないかといえば凄まじく恥ずかしい。でも、ルーナ大好き気をつけて!
握り拳でキスをした私に目をぱちりと瞬かせたルーナは、すぐに苦笑した。
「全くお前は……」
そして返ってきた唇を、慌てて両手で止める。瞬き再び。
カルーラさん達が教えてくれた手腕を発揮する機会がようやく巡ってきた。
人差し指を自分の唇と、相手の唇に当てて、うっそりと微笑む。たぶんうっそり。鏡で見たらげっそりやいにっかりだったらどうしよう。
「キスは、次回まで、お、あ、ず、け、り!」
秘技、お客さんにまた来てもらう魔法の言葉!
あえて相手からの分を惜しませることで、自分からの分を惜しむより効果があるそうだ。男にはおあずけのほうが効果あるのよと笑う華麗なウインクが蘇る。
『ルーナからのキスは次回までお預かりします!』
どう!? 効果ある!? 次に繋げる気力湧き上がる!?
やっと披露できた秘技の成果をうきうき待っていた私の視線の先で、ルーナがゆらりと揺れた。
「私だ、入るぞ」
鍵がない扉からするりと滑り込んできたエマさんは、土間で体育座りする私を見てぎょっとした。その身体からは、何も荷物を持っていないのにがしゃんと音がする。
「今はまだ外が騒がしいから、もう少し落ち着いてから出るぞ……どうした!? 気分が悪いのか!?」
『噛まれた……』
「ん?」
「齧り付かれた……」
「は? 何に? どこを?」
スカートを惜しげもなくまくり上げて、がしゃがしゃとそこを探っているエマさんが首を傾げる。
「鼻……」
「おう」
「頬……」
「おう?」
「指……」
「お」
「腕……」
「お、お」
「首……」
「おおぅ……」
キスのおあずけは守っていったけど、他の何かは確実に奪われた気がする。
「……何かよく分からないけど、大変だったんだな」
でも、いつまでも体育座りしているわけにもいかないから、ぱんっと頬っぺたを叩いて気合を入れた。
エマさんはきょろきょろと家の中を見回す。
「ギニアスはどうした?」
「ライさんが、助力要請を」
ぎょっとして私の肩を掴んだエマさんからがしゃがしゃ音がした。そのスカートの中が気になる。
「ヒンネはちゃんと山頂に火をつけてきたぞ!? 新参者は眺めのいい場所には連れていかないはずだけどな……くそっ、どうすべきか」
「出立しよう、モーリーさん」
「だが、置いていくわけには。それに、騎士がいないと戦力に大幅な差が」
紫色の髪をがしがし掻いている手を取って、息を吸う。
「大丈夫。ギニアスならば、確実に追走し、合流可能よ。寧ろ、追い越しされる可能性もある程よ。よって、平気、大丈夫。先へ、行こう」
ルーナが身軽に動けるよう、先に行こう。先に行くことが待つことになる。
だから、行きましょう、エマさん。
足手纏いでも、足元に纏わりつくだけじゃない方法を取ることはできる。たぶん、怖じないことだ。怖じず、待てる勇気は、とても怖いけれど。
少しの間見つめ合った後、私が握った手をぎゅっと握り返したエマさんは、大きく息を吐いた。
「失敗は許されない。だから、一つだけ聞かせてくれ。ギニアスは、強いんだな?」
「はい」
「どのくらい?」
どのくらい!?
慌てて考える。
初めて見た鰐と戦いました。ヌアブロウに斬られて、高い崖から濁流に落ちて、少年の頃から戦争に出ていました。
それらがぐるぐる頭を回って、かちりと答えになる。
「現在生きているくらいです!」
必死に考えてこれだと思う渾身の答えを披露したのに、エマさんはぱちくりと瞬きした後、爆笑した。
これ以上適切なものはないと思った答えを爆笑された悲しみに打ちひしがれている私の前に、足首を覆う長さの靴がぶらさげられる。
「いや、すまん。分かった。それなら大丈夫そうだな。ヒンネは先に持てるだけの荷を持っていってくれているから、合流してから荷を分けよう」
小刻みに震える靴で、まだ笑いが残っているのが分かったけど、お礼を言って大人しく受け取った。
靴というよりは革を袋にして、かろうじて足の形にした感じだ。手作り感満載で、本当にありがたい。だって、私が作ったら恐らく革の巾着しかできないだろう。
「ああ、待て」
そのまま履こうとしたら、エマさんはまだごそごそスカートの中を探っている。そうして出てきたのは見覚えのある物だった。
「これを先に履いて中敷き代わりにしてから革を履け。これはな、藁を編んで作るワラジっていう靴なんだそうだ。……知人がな、持っていた本に書いてあって、カガイガクシュウでやり方を習ったと言っていたんだ」
ぎこちない発音で草鞋を撫でるその眼が私の黒を見て、愛おしげに細まっていく。
いる。ここに、いる。
私はとっさにエマさんの腕を掴んだ。
「ムラカミさん」
掴んだ腕が強張る。でも、離さない。
ムラカミさんが、ここにいた。エマさんの中に、そしてエマさんが見た私の中に、ムラカミさんがいる。
「私と、故郷を同じくする、ムラカミ・イツキさん!」
エマさんの腕が私を掴み返す。振り払う理由はない。
その瞳の中にムラカミさんを見つけた。この人の眼に映っていたのは私じゃない。私の黒の中に、ムラカミさんを探している。
「お前、まさか、色だけだと……まさか、本当にイツキと同郷なのか!? 同郷の単位は!?」
「せ、世界!」
すとんとエマさんが崩れ落ちた。それに引っ張られて私も座り込んだ。
「イツキ……」
紫髪の隙間から呆然とした呟きが漏れて、握られている腕に痛いほど力が篭もる。でも、振り払おうと思えない。だってその手は酷く震えていた。
「エマさん、後でたくさん、お喋りしましょう。私、たくさん、伝言したきことがあるの」
「……ああ、私も、聞きたいことが、話したいことがあるんだ」
その為には、絶対にここを出なければいけないんだ。
お互い頷いて立ち上がる。まずはやるべきことをやってからだ。いつの間にか外は随分静かになっていた。今なら出られるかもしれない。
エマさんがくれた靴を履いていた私は、不意に妙な気分になった。なんだかお祭りの日のような、夜に外を歩いているような、非日常の中にいるような、高揚感。
「エマ、さん」
「ん?」
私達の荷物もスカートの中に収容しようとしていたエマさんが振り向いて、妙な顔をした。でも、その顔にうまく焦点が合わない。
「妙な、におい、が」
「匂い? 私は普段から薬草弄っているから鼻が馬鹿になっているんだが……いや、これはっ」
怪訝な顔をして私に走り寄ってきたエマさんは、はっとしたようにスカートをめくりあげて私の顔に押し付けた。
「まずい、吸うな!」
私に押し付けるより先に、ご自分のスカートなんだからご自分を守ってください。
そう言いたかったのに、頭がぐらぐらする。せめて私のスカートでエマさんの呼吸をと思ったのに、それより先にエマさんの身体がどさりと私の膝の上に落ちてきた。その旋毛が銀色だったのを見て、ああ、ディナストと姉弟って本当なんだなと、今更ながら実感する。
エマさんの後ろにマーカスさんがいた。何か棒を持っていて、ああ、それでエマさんを殴ったんだなと、分かる。分かるのに、思考が散らばっていってしまう。
ふわふわぽわぽわ、妙な視界と一緒に、私の意識はふわりと溶けて、宙に消えた。




