70.神様、少しの違和感分厚いです
『ヒノキ風呂……』
「え? なんて言った?」
思わず呟いてしまった。
お湯の温度を見ていた女性が振り向いたので、慌てて両手を振る。
「大丈夫」
「そう? 一人で無理そうだったら手伝うから、すぐに言ってね。お湯から上がったら髪も整えちゃいましょう。酷いわ、女の子の髪をこんな……」
そういえばざんばらだった。切られた髪に衝撃を受ける暇もなく色々あったから、意外とショックはない。頭の皮じゃなかった安堵が先に立ったのも大きかった。
まるで自分の事のように苦しそうな顔をした女性は、指先で涙を拭って笑顔を見せる。
「大丈夫よ、私がちゃんと可愛く直してあげる。服もとびっきり可愛いのを選んでくるから、楽しみにしててね」
「ありがとう」
女性が出て行って静かになった脱衣所から、お風呂場をもう一回覗き込む。簀子に囲まれた木のお風呂は、入ったことはないけどどこか懐かしい。ヒノキかどうかは分からないけど、お手入れ大変そうだ。黴とかどうやって防ぐんだろう。
ルーナの話に合わせられるよう出来るだけ喋らないよう気を張っていたのに、濡れた木の匂いで力が抜けていく。今はとりあえずお風呂に入ってしまおう。ルーナも別のお風呂に入っているみたいだけど、離れている時間は出来るだけ短いほうがいいと思う。全然、話せる時間がなかった。彼シャツに呻いている時間にもっと聞けることがあったのに、ルーナと何でもない話ができる楽しさに浮かれていた。ヌアブロウはどうなったんだろうとか、ロジウさんは無事なのかとか、色々、聞かなきゃいけなかったのに。
急いで身体を洗っていたら、所々ピリビリ痛んだ。あちこち擦りむいたり打ったりしている。一時は死ぬとさえ思ったのだから、この程度で済んで幸いだった。背中は見えないなぁと身体を捻っていた私は、すぐにはっとなる。私でさえこれなんだ。私を抱えていたルーナはもっと酷いかもしれない。
手桶をひっつかんで頭からお湯をかぶる。
はしゃいでいる場合じゃない。ルーナと一緒だとつい甘えてしまいそうになるけど、ルーナが教えてくれない傷に気づけるようになりたいと思ったばかりなのに、なんて体たらく。ルーナに甘えるんじゃなくて、甘えてもらえるようしっかりしたい。ただでさえ、足手まといにならないよう頑張ってもおっつかない戦力……お荷物だというのに。どうやってもお荷物なら、キャベツじゃなくてかつおぶしくらいのお荷物になりたい。軽いほうがいい。かつおぶしは無謀だとしても、せめて四個パックのヨーグルトくらいなら、いや、待て、それだったら三個セットのプリンのほうが。そして、どうしよう、桃のゼリーが食べたくなってきた。この世界でゼリーを食べたことはないけど、ゼラチンが手に入るなら作れるはずだ。ルーナ、ゼリー好きかな。ゼリー、林檎ゼリー食べたい。あれ? 最初に食べたかったの何だっけ? 葡萄? いや、蜜柑?
悶々と考えながらお風呂を出たところで気が付いた。私はお腹が空いている。そして食べたかったのは桃だ。でも、お腹が空いていると気づいた今は唐揚げ食べたい。
気がついてしまったらお腹が自己主張を始めた。何かご飯を恵んではもらえないだろうか。お金は……ないけれど、皿洗いで支払い可能なお店があったらありがたい。
そんな計画を立てながらいつの間にか籠に用意されていた着替えを手に取って、思わず戻した。
確かに、やけに容量あるなと思ってはいた。何枚着るんだろうとも思った。でも、まさか、全部もさぁとついてくるとは思わなかった。籠の底には下着もあったけど、この量の下にあったから申し訳程度にしか見えない。
この村では、今まで見たどの国の衣装よりボリュームある服が文化のようだ。上半身は割とすっきりしてるのにスカートだけボンバー。
後で、もっとすっきりしたタイプはないのか聞いてみようと考えながら靴を探して、見つけた瞬間思わず声が出た。
「おぉぅ……」
なんて立派な、聳え立つがごとくの、上げ底。
昔こういうのが流行ったと聞いたことはあるけど、明らかに日常生活で使うものじゃない高さだ。
あまりの高さに慄いていると、こんこんと控えめなノックが聞こえた。
「リリィさん? 何か声が聞こえたのだけど、どうしたの? 何か分からないことでもあった?」
「く、靴、靴が無謀です」
開けていい? と可愛らしい声がして、お風呂の用意をしてくれた女性が入ってくる。そして、靴を見てにっこりと笑った。
「可愛いでしょう! この村で一番高いの持ってきたの! これからこれがリリィさんの靴よ!」
目をキラキラしながら渡された靴に、ごくりとつばを飲み込む。別の靴をくださいとは言い出せない雰囲気だ。私、あなたくらいの上げ底がいいです。私の靴の三分の一くらいですし、そっちがいいです、とも、言い出せない圧力がある。
とりあえず履いてみた。そして、分かり切っていた事実を確認して、私もにっこりと笑う。それはもう盛大に、見事なまでにすっ転ぶ予感しかしませんよ!
ぐらぐらする身体を支えられなくて一人では碌に歩けない。結局、手を握ってもらって恐る恐る歩く羽目になった。いっそ裸足で歩きたいですと訴えたけれど、そんなの駄目よと怒られた。更に、気に入らなかった? と涙目で訴えられて、はい、とは言えなかった自分の意思の弱さが悲しい。髪を綺麗に整えてもらった恩もある。切られた線に合わせたらベリーショートになる短さを、他の髪を持ってきてうまく誤魔化してもらった。おかげさまで肩より少し上の位置で済んだ。ありがとうございます。正直、いが栗くらい覚悟してました。
脱衣所を出てすぐの廊下に人だかりがあると思ったら、何人かの人と話しているルーナだった。男性陣はみんなシンプルなのに、どうして女性陣はこんななんだ。でも、シンプルな服を着ているルーナが新鮮で、こんな状況なのにちょっとときめいた。なんかこう、生活感があるというか、寛いでいるように見えるというか。まだ乾ききってない髪が下りているのも相まって幼く見えるのも可愛い。
ルーナと呼ぼうとして、はたと気づく。ルーナは駄目だ、偽名の意味がない。じゃあ、ギニアス? でも、兄妹なら兄上? 兄様? それだと堅苦しいだろうか。貴族じゃない人の呼び方を知らなかった自分に気付く。いや、でも前に聞いたことがあった気が。確か、何かと混ざりそうだなぁと思ったような……。間違えないように気をつけて……。
「おじいちゃん!」
「お兄ちゃんじゃなくて!?」
「言い違えました!」
私に気付いたルーナが早足で近づいてくる。靴、普通だ。元々ルーナが履いていたほうは濡れているから替わりの靴だけど、普通の靴である。どうして私はこんな上げ底にぷるぷるしているのだろう。
「どうしたんだ? どこか怪我……」
支えられて歩いている私を心配してくれたルーナが怪訝な顔をした。その顔がいつもよりだいぶ近い。他の人に縋っていた両手をルーナに移動して、しっかり掴む。それだけでぐらりと揺れた。
「ほ、歩行不能」
ぶるぶる震える身体をなんとか片手で支えて、スカートをもさぁと持ち上げる。少し屈んで足元を覗き込んだルーナは眉を寄せた。その様子から、やっぱりこれは普通じゃないと分かる。
無理、本当に無理です。膝ががくがくと横にぶれる。ちょっとでも力を抜いたら足首がぐきりといく。ピンヒールじゃないだけマシだけど、だからといって救いにもならない。
「まあまあ、この村じゃあ、新しく来た女の子は一番高い靴を履く習わしなんだ。皆を見下ろせるくらいえらいってことさ。それに、目立つから皆が顔を覚えやすいしな」
そんなえらさより歩きやすさを選びたいです。
私は、ルーナに支えられたまま腰を曲げ、足を引きずるようにしてなんとか部屋まで辿りついた。
なんとなく年老いたお爺さんの印象があった村長さんは、お父さんくらいの年齢だった。村長さんの奥さんはふっくらとしたお母さんくらいの年齢の優しそうな女の人で、エプロンで手を拭きながら奥から出てくる。
「リリィさんは何が飲みたいかしら?」
「あれ、あれいこう。この前に開けたばかりの特別な!」
「真っ昼間から何言ってるんですか、あなたは。それに、若い女の子はあんな辛口のお酒は好みませんよ。リリィさん、お茶がいい? 果実水がいい?」
うきうきした村長さんの提案をぴしゃりと遮った奥さんに、慌ててお茶をと返す。
「分かったわ。とびっきり美味しく淹れてくるから待っててね」
私が着ている服よりも動きやすそうな裾を翻して、私より断然低い厚底の靴で奥に引っ込んでいった。あの服と靴、貸してもらえないか後で聞いてみよう。
きっぱりお酒を断られた村長さんは、しょんぼりと肩を落とした。その後ろでは男女数人の人が苦笑している。村人さんだろう。その中にはライさんもいた。ひらひらと手を振られて、軽く頭を下げる。
部屋は生活感溢れていた。壁際には棚が合って、その上には奥さんの趣味なのかぬいぐるみが並んでいて可愛い。たぶん手作りなんだろうけど凄く上手だ。他にも刺繍やキルトみたいなものが壁に飾られていて、多趣味な奥さんなのが分かる。
「さて、お二人さん。茶を待ちがてら、話を聞かせてもらいたいんだがいいだろうか」
私はルーナを見上げて、きりりとした顔で頷いた。お任せしても宜しいでしょうか!
頷き返してくれたルーナは、さりげなく腕を移動させて、私に触れるか触れないかの位置に指を落ち着かせた。
「俺は、グラースの騎士だった」
とんっと指が触れてきて、それに合わせて神妙に頷く。たぶん今も騎士だけど、更新手続きしてないからね! 更新手続きあるかは知らないけど。
「騎士だったというと、もう騎士じゃないのか? そもそも、グラースの騎士だったとなると貴族だろう。そんな御仁がどうしてこっちに?」
「俺達が出会ったのはもう十年以上前の話になる。俺の父親は女にだらしない男で、俺は先妻の子供だが、リリィは違う。後妻とその子供とで色々ごたごたしていた上に、この髪と瞳の色だ。少し目を離した隙にこの大陸に連れ去られた。いま家は弟が継いで、俺はようやくリリィを探しに来られたんだ。そんな頃に連れ去られたせいで言葉も混ざって妙な具合になっているが、やっと見つけた。だが」
ルーナの手が切り揃えてもらった私の髪に触れる。
「女の髪を切り刻むような奴に連れられていた所為で、取り戻すのに強引な手を使うしかなかった。結果、罪人として落とされたというわけだ」
さらりと話された内容に感心する。凄い。ほとんど嘘を言ってない。ちょっと順番を変えて、言わなかった部分が多いだけだ。これなら私でも、話を振られてもぼろを出さずにいられる。流石ルーナ、ありがとう! 設定づくりには全く協力できなかった分、他の事でしっかり頑張るから!
尊敬の念を込めて見上げた私の髪に触れたままのルーナは、痛そうな顔をしていた。
「……恐ろしい目に合ってきたから、今のリリィは俺がいないと夜も眠れず、食事もとれなくなってしまう。あまり離れたくはないから部屋は同じにして頂きたい。リリィへの用事も俺を通してほしい」
お荷物にならないよう気合を入れている所にこの設定である。
ルーナは、膝の上に両拳を置き、深々と頭を下げた。
「面倒だとは思うが、今はどうかそのように取り計らって頂きたい。仕事や手伝いは俺がリリィの分まで全て引き受ける。今は静かに療養させてやりたいのです」
頭を下げられた村長さんは、慌てて両手を振った。
「お、おい、そんなことしなくても大丈夫だぞ。事情は分かった。大変な目にあったんだなぁ……。よし!」
ぱぁんと自分の膝を叩いた村長さんは、可愛らしいレースのカーテンがかかった窓を開けて私達を手招きする。普通に立とうとして、盛大に前のめりになった私をルーナが支えてくれた。申し訳ない。
村長さんは青い屋根の家を指さして、にっかりと笑った。
「あの家を使えばいい。あれは俺の息子夫婦が使ってたんだが、ばかすか子どもが増えてなぁ。流石に手狭になって引っ越してから空き家になってるんだ」
「家?」
思わず口に出してしまった。指さされた家は、庭がある小ぢんまりとした一軒家だ。そういえば、さっきルーナも妙な事を言っていた。仕事や手伝いって、ここで資金を稼いでいくつもりなんだろうか。それだったら私も手伝うけど、ライさんは確か新しく来た女の子が一番高い靴を履くと言っていなかったか。
それにしたって、家を借りるほど長く滞在するつもりはない。
だって、早くアリス達と会いたい。アリス達に生きていると伝えたい。あの後どうなったのかも気になる。お城はどうなったの、アマリアさんは? アマリアさんは無事ですか? ユアンは泣いていないだろうか。怒ってそうだな。そして、アニタに、大丈夫だと。
それに、言い方は悪いけど、とっても田舎に見えるこの場所では必要な物が手に入らないと思う。それじゃ駄目だ。お金は確かに必要だけど、村に長居はできない。だって、ルーナ。
でも、もしかしたら村だと宿屋がないのだろうか。アパートみたいな存在もないとしたら、一軒家でもそんなに驚く必要はないのかもしれない。
そうだ、私の早とちりだ。馬鹿はこれだから。
そう納得しようとしていた私に、村長さんはとても悲しそうな顔をした。お茶を淹れてきてくれた奥さんも、痛ましい顔で私達を見ている。他の人も同じ顔で、私達を見ていた。
「……ごめんな、リリィ。この村は巡礼の儀で流れ着いた人間が作った村なんだ。そのままこうやってその子孫で続いているのは、その人間達に帰る場所がなかったからだけじゃない」
何だか心臓がどくどくする。頭もぐつぐつしてきた。
村長さんの口が動くのが怖いのはどうしてだろう。何を言うか全く見当もつかないのに、聞きたくない。
お荷物にならないようしっかりしようと思っていたのに、急に心細くなって無意識に彷徨った手をルーナが握ってくれる。これくらいだったら兄妹の範囲内かな? 幼くないからちょっと無理があるかもしれないけど、やっと再会できた兄妹ならありだろうか。
そんなことをぼんやり思っていた私の手を握った瞬間、ルーナがぎょっとした顔で見てくる。その顔で初めて自分の状態に気が付いた。あ、ごめん、道理で寒かったわけだ。
「リリィ、お前熱がっ……」
「出られないんだ」
焦ったルーナの声と、憐れみを含んだ村長さんの声が重なった瞬間、私の意識はぶつりと途切れた。




