69.神様、少し蟹多過ぎです
【ちがうの】
小さな女の子が泣いている。
【ちがうの】
小さな両手を強張らせて、顔をぐしゃぐしゃにして、泣いている。
【あたし、ちがう……】
硬い動作で首を振り、戦慄く顔を両手で覆った少女は、悲痛な声で叫んだ。
【ちがうのぉ……!】
うん、違うね。分かってる。怒ってないよ。違うもんね。びっくりしちゃったんだもんね。
分かってる。分かってるから、そんなに泣かなくていいんだよ。
大丈夫だから、泣かないで。ねえ、大丈夫だよ。だから、泣かないで。
「アニタ……」
掠れた自分の声で、ぼんやりと意識が浮上した。
下になっている頬を線が撫でていく。線は、滑らかな動きで肌を撫で続けている。これはなんだろうと不思議に思うのに、なんでだろう。全然、思考が働かない。
くすぐったいそれを払おうと持ち上げた手も、酷く緩慢にしか動かなかった。しかも、持ち上げた時に水音が。これ水だなぁと、鈍くだけどようやく思い当った。水との境界線が揺れて顔をくすぐっているのだ。なんで水? と不思議に思いながらも、霞みがかった頭ではうまく処理できない。でも、頭の上で声が聞こえて目を開く。
「う……」
目の前にいたのは私を抱え込んでくれているルーナの胸だった。
「……ルーナ?」
どうしてルーナと一緒に水の中に倒れているのだろう。ルーナと一緒に、ルーナに抱きしめられて、私もルーナにしがみついて……そこまで考えたところで、かちりと思考が繋がった。
そうだ、私達、落ちたんだ。
「ルー、ナドリゲス!」
慌てて名前を呼んだと同時に、持ち上げたほうの腕を何かが這っていく感触に、語尾が盛大に彷徨った。がしゃがしゃとした動きが一気に肩まで這い上がってきて全身が総毛立つ。
「ひっ」
「…………俺はロドリゲスじゃない」
「いああああああああ!?」
悲鳴の間に何かが挟まった。
目を覚ましたらしいルーナが、腰を抱えていた腕を移動させて何かを摘まんでいる。硬いかしゃかしゃした足を持つ、全長は大きいけれど本体はそうでもない体。甲羅を掴まれて腕をしゃきしゃきさせているその姿は、そう、蟹だ。
かしゃかしゃ具合は似たようなものなのに、虫じゃないと分かっただけで全身の力が抜ける。ルーナに放り投げられた蟹は、ぽちゃりと水に帰っていった。その手を借りて立ち上がり、ようやく周りを見ることができた。
石や岩がごろごろ転がった洞窟だ。奥はどこまで続いているのか分からないけれど、結構深そうだ。光が届かない場所があるくらいには深いのは分かった。蟹を放り投げた方向からは水と楕円形の光が入ってくる。
どうやらどこかに流れ着いたらしい。生きて、流れ着いたらしい。
凄い。
奇跡という言葉がふさわしいと思うのに、凄いの一言がぐるぐる頭を回る。
「カズキ」
髪を掻き上げて水を払っているルーナに呼ばれた。ルーナが、私を呼んでいる。ルーナ、生きてる。ルーナが私を知ってる。私達、生きてる。
私が好きなルーナがいる。私を好きなルーナがいる。ルーナも私も、生きてる。アリスちゃん、生きてるよ。会えるよ。また会えるよ。終わってないよ。会えるよ!
じわじわと湧き上がってきた喜びか感動か大好きか、なんなのかもう分からない感情が爆発した。
「ルーナぁ!」
「俺はロドリゲスじゃない」
「初動は生の再会を歓喜しよう!?」
飛びつこうとした出鼻をくじかれた。でもルーナにとっては大事なことなのかもしれない。二回言ったし。それとルーナ、私が言ったのはルーナドリゲスだよ!
さて、じゃあ改めて抱きついていいかなとそわそわしていた私は、次の瞬間、真顔でスカートをめくりあげて脱ぎ捨てた。濡れて身体に張り付いたドレスは正規のやり方じゃ脱げなかったのだ。いきなり下着姿になった私にルーナが三歩下がる。私は真顔で三歩追う。
脱ぎ捨て御免! でも待ってルーナ、逃げないで!
私は、大きめの石の上で地団太を踏むようにジタバタ踊りながら叫んだ。
『蟹――!』
脱ぎ捨てたドレスを上下に振って他にもいないか確認しつつ、くるりと向けた背中を這う蟹。私は立ち上がっているのに、今尚元気に横歩き。最近とても縁がある落下直後の私が言うのは残酷かもしれないけど、出来れば落ちて頂けませんか?
無言で蟹を掴んでリリースしたルーナは、マントに蟹がいないか確認して私にかけてくれた。どうもありがとう。
そして、私のドレスからはまだ二匹出てきた。ドレスの型自体はシンプルだけど、裾がずるずる長くて邪魔だし、何より真っ白だから目立つので、もう蟹にあげることにした。
住み心地は如何ですか?
持っていったら再利用できないかなと提案したけれど、ルーナは首を振った。
「あの男が着せた衣装なんているか。白なんて以ての外だ」
「そのような問題事項ですたか……」
まあ私も、飛び込み用の衣装は着ていたくないので、勿体ないけどやっぱり置いていこう。縁起でもないし。
私は、絞って渡してくれたルーナの服を借りた。上着は重くて動けなくなるからシャツを借りる。通した袖が余っているのを見て、はっとなった。
「ルーナ!」
「ん?」
『彼シャツ!』
「かれしゃつ?」
ばっと立ち上がって両手を広げた私を見上げて、マントをもう一回絞っているルーナが首を傾げる。
「カズキの世界の民族衣装か?」
民族衣装ではない。伝統衣装でもない。いや、でもある意味伝統衣装?
彼氏のシャツを借りるから彼シャツ。そうです、この人私の彼氏です。いや、婚約者? 私の人生でそんな存在いたことがないので、実感がまるで沸かない。いたらいたで問題だけど。
そうです、私達婚約したんです。あんな事態の中で流れるように婚約したから、なんだか実感が全然沸かないけれど、婚約者っていったらあれですよ、あれ。
あれだよ!
なんだか急に恥ずかしくなってきた。言うんじゃなかった。
彼シャツについて私からの説明を待ちながら、ルーナは水際で靴を探してくれている。私の靴は両方とも脱げていた。ブーツみたいになっているルーナの靴は脱げていなかったので貸してくれるつもりだったみたいだけど断った。ここは石や岩だらけだから裸足だと怪我をする。それに、もし戦うことになった時、踏ん張らなきゃいけないから絶対駄目だ。それだったら、ルーナよりは体重の軽い私が何か適当に巻いた靴もどきを作ったほうがいいと思う。
シャツの袖を捲ってマントを羽織り、借りたベルトで腰の上辺りを絞って高さを調節する。無言で。
でも、すぐに口を開くことになった。
「ルーナ」
「ん? ……靴ないな」
「ごめん、大変寒いので、移動したいよ」
身なりを整えて一息つき、ようやく気づく身体の冷え。ルーナは執拗なまでに服を絞ってくれたけど、ごめん、やっぱり寒い。生きているだけで奇跡だから文句は言えないけど、身体は我儘いっぱいに歯をがちがち鳴らす。
ルーナは早足で戻ってきてくれて、さっと私を抱き上げた。ルーナだって疲れているだろうから辞退しなきゃいけないと分かっているけれど、ちょっと離れがたくて躊躇する。無意識にルーナの首に回しかけた手を身体の前で中途半端に浮かせていると、ルーナが頭を下げた。
「寂しいから回してくれ」
ルーナが寂しいなら仕方がないなぁ! ルーナは甘えん坊だなぁ! もう、仕方がないなぁ!
嘘です、ごめん、ありがとう。
ちょっとだけだと自分に言い訳して首に抱きつく。温かい。後、ルーナの匂いがする。
「靴より先に火を起こせるものを探そう。出口も見つかるといいな」
「ルーナ」
頬がついている首筋から、とくとくと小さな振動を見つけられた。歩く揺れとは違う確かな音に、胸の中に何かが込み上げる。
「生きていて喜ばしぽぉ!?」
じんわり染み入る喜びを噛みしめている首筋にキスしてくるのはどういう了見か。思わず語尾が跳ねあがった。大変くすぐったかったです。
これは一言文句を言ってやらねば気が済まない。
「ルーナ!」
身体を離して向かい合ったら唇にされた。
ルーナには破廉恥の罪状を与えようと思う。そして私は猥褻物陳列罪。私達、お似合いの夫婦になれると思うんだ。
でも、幸か不幸か身体は温まった。主に首から上が。
この熱をぱたぱたあおいで冷ますべきか、後生大事に大事な熱源とするべきか悩んでいると、ぴたりとルーナが歩みを止めた。
「誰だ」
『え? カズキです』
「ごめん、カズキ、違う」
え、私はついに自分の名前も間違えた!? 流石にそこまで馬鹿ではないはずだ!
慌ててルーナを見ると、視線が全く別方向を向いている。壁しかないと思っていた場所に隙間があり、その中で動く何かが見えた。
「いや、待て。敵じゃあない」
両手を上げたのは燃えるような赤髪の女性だった。絶世の美女だ! と、びっくりするくらい綺麗な人だ。でも、妙な格好をしている。いや、私も人の事は言えないけど。
美女は、ひらひらの襞がたっぷりとしたスカートを身体の横で一つに纏めて縛り上げ、そこにウエッジサンダルみたいな上げ底靴を引っ掛けている。褐色の肌を惜しげもなく晒し、太腿まで大胆に見せている足には、草鞋みたいな靴を履いていた。
壁の隙間からは出てこようとせず、ちらちらと洞窟の奥を気にしながら、美女は早口でまくしたてる。
「いいか、時間がないから手短に話すぞ。これからここに村人が来るが、決して信用するな。名も明かすな。だが警戒は見せるな。何も知らないふりをして、従順にしていろ。後、お前達は恋仲か?」
噎せた。いきなりなんだろう。
「婚約者だ」
慌てず騒がず婚約者宣言。ルーナは頼れる人である。私だったら今までの慣れもあって、普通に恋人と答えてしまいそうだ。
「ならば余計にだ。決して、互いを男女の仲、あるいはそうなり得る可能性がある間柄だと悟らせるな。兄妹で通せ、いいな」
「何?」
美女の言うとおり、奥から松明の灯りで伸びた影が見えてきた。それに気づいた美女は、さっと隙間に身を隠す。そして、何やらごそごそとしたと思ったら、壁をよじ登り始めた。
「そうじゃないと、お前達は二度と会えなくなるぞ」
「お前は」
「必ず連絡をつけるようにするから、大人しく言うことを聞いていろ。じゃあな!」
壁の途中の隙間にするりと身体を滑り込ませたらしく、美女の姿は消えた。
私とルーナが顔を見合わせていると、ざわざわと人の声が近づいてくる。ルーナは私を平らな岩の上に下ろし、その前に立った。
十人前後の男の人が現れる。若い人から老人まで年齢は様々だけど、彼らは一様にぱちくりと目を瞬かせた。
「お、おお! 生きて流れ着いた人間がいたか!」
わっと声を上げて走り寄ってきた一番背の高い男の人は、他の人達と同じように破顔した。
「よかったなぁ、お前達。運が良かったぞ! ここ最近数は多かったけど、全部死んでしまってたんだよ」
いやぁ、よかったよかったと、人の良さそうな笑顔で喜んでくれている人達の頭を、腰の曲がったお爺さんが杖でぽこりと叩く。
「こりゃ、騒いどらんで早く湯と着替えを用意してやりなさい。早く休ませてやらんと、女の子までいるじゃないか。さあさあ、怖かっただろう。おいで、村まで案内しよう。もう大丈夫じゃよ、ここには追ってくるものは何もないからな」
お爺さんの柔らかい声に促されて、私達も男の人達に囲まれて歩きだした。まあ、歩いているのはルーナなんだけど。
ルーナに抱かれて足音が響く空間を進むのは、あの日を思い出す。あの後ルーナと離ればなれになったんだと思ったら、ぶるりと身体が震えた。その震えを見た髭の人が、弱ったように眉を下げる。
「まだ冬じゃないとはいえ、寒いよなぁ。さっき一人連絡に走らせたから、ついたらすぐに湯を使えばいい。えーと……すまん、名前を聞いてなかったな。俺はライだ」
いかめしい顔を困ったように崩すライさんに、ルーナはちらりと私を見た。
さっきの女の人が何なのか、誰を信頼したらいいのか分からないけど、二度と会えなくなるのは絶対に嫌だ。もしさっきの人が嘘をついていたら、この親切そうな人達に申し訳ないけれど、その時は謝ろう。
「俺はギニアス、こっちは妹のリリィだ」
そんな素晴らしい偽名を私が名乗っていいのだろうか。
男の人達は、え!? と仰天した声を上げた。視線を、私とルーナの顔を何度も往復させる。
「に、似てないな」
「腹違いだからな」
しれっと答えたルーナに私も頷く。嘘じゃない。ついでにいうとお父さんも違いますよ!
「それより、さっき数は多いと言ったがここにはよく人が?」
しれっと話題を変えたルーナの無表情は最強だ。その無表情に怯んだのか、ライさんが私に視線を逃がしてきた。へらりと笑って返したら、ほっとしたように表情を緩ませて話し始めてくれた。
「お前達もあの巡礼の滝から落とされたんだろう? ここはあそこから落ちた者がよく流れ着くんだ。……最近は、本当に多くてな。けど、生存者はこの数年片手の数もいなくて、みんな心を痛めていたんだよ。ほら、あれさ」
促された先で洞窟は終わっていた。洞窟の先は森だ。杉よりも節が太くてどっしりした木がいっぱいあったけれど、促された先で森は途切れていた。
そこにはたくさんの墓石が並んでいて、ひゅっと掠れた息が出る。
広い、空間だ。墓地だなんて言葉では想像もつかないほどの距離をずっと、等間隔で墓石が並ぶ。向こうが、見えない。
思わずルーナの胸に縋りつく。ルーナも抱き上げてくれている腕に力を籠めた。
「こ、こちら、全て?」
「まあ、中には村人もいるけどな。それにしても多いだろ? どっかの部族は、罪を犯した一族郎党放り込むっていうし、神に判断を委ねるって大義名分で気楽に処分された人間がこれだけいるのさ」
男の人達は、みんな丁寧な礼を墓地に向けて先を進んだ。
横抱きにされているから、私の視線は自然と墓地に向いたままになる。墓石は、どれも丁寧に手入れされているらしく、きちんと花も手向けられていた。これだけの数を管理するのは大変だろうし、中にはとても古い物も見える。でも、古さは見えても手入れがされているのは分かった。苔や蔦がないのだ。
死者への手向けがあって、ちゃんと埋葬されているのが分かるのは、ここの人達への不安を打ち消す。でも、それを補って余りある莫大な数の墓石は、お化けとか幽霊とか、そういう怖さとは別の恐怖を与えてきた。
「ギニアス達はどうして落とされたんだ?」
ライさんの質問に慌てて視線を戻す。間違って落ちちゃいましたじゃ駄目だろうか。駄目だろうな。
どうしようかなと思考をフル回転させている私の腕を、ルーナの指がとんっと突いた。
「村ということは、村長がいるんだろう?」
「ああ、いるけどどうした?」
「どうせ、長にもう一度話さないとならないなら手間だ。纏めて話す」
その隙に考えるとルーナの顔に書いているけど、完璧な無表情と、しれっとした態度でばれなかったらしい。
ライさんは愉快そうに笑った。
「はは! そりゃそうだ! さあ、見えてきたぞ!」
森は唐突に終わり、一気に視界が開ける。
そこには、驚くほどのどかで、どこか懐かしい景色が広がっていた。
密集した家から連なる道の先に、点々と離れていく家がある。更にその奥には段々畑が続いていた。そこでは男の人達が何かを囲んで笑っている。畦道を子ども達が棒を持って走り、きゃあきゃあ楽しそうな声を上げ、その後を籠を持った女の人達が歩く。さっき会った女の人みたいに、やけにたっぷりとしたスカートと、ちらちら見える厚底靴は動きづらそうだけど、女の人達は何か冗談でも言い合っているのか、肩をぶつけて笑い合っていた。
先頭を走っていた子どもがこっちに気付いて進路を変え、きゃあきゃあはしゃぎながら走り寄ってくる。
「わあ! あたらしい人!?」
「ねえ、あとで遊ぼうね!」
周りをくるくる回る子ども達を、杖を持ったお爺さんが一喝した。
「こりゃ! 二人は疲れとるんじゃ! 遊んでもらうのは今度にしなさい!」
「え――!」
「ケチ――!」
「ケチなもんか。ほれ、飴をあげるからな。あっちで良い子にしておいで」
ぷくりと頬を膨らませた子ども達のケチ大合唱に、お爺さんは懐から取り出した袋を丸々渡した。すると手のひらを返したようにふとっぱら~の大合唱。
「ありがと――!」
「喧嘩せんと分けるんじゃよぉ」
子ども達は早速戦利品をお母さんに見せに走った。少し離れた場所で籠に作物を詰めていた女の人は、子どもの話を聞くために腰を折り、慌てて顔を上げてお爺さんに頭を下げた。
「いつもすみませ――ん! ほら、あんた達もありがとうしなさい!」
「あぁりぃが、と――!」
「ちゃんとしなさい! もう、すみません!」
当たり前だけど安心できる会話にほっとする。もうずいぶんと、こんな普通の光景から遠ざかっていた気がする。
段々畑を駆け抜けていく風は、村全体を揺らしていく。同じ風で目を細める人達が幸せそうで、私は、なんだかとてもお母さんに会いたくなった。




