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神様は、少々私に手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章:大陸
68/100

68.神様、少し傍に行きます





 煤で血で汚れて疲れ切ったルーヴァル兵の中に、どうしたって見つけてしまう二人と目が合う。その隣のラヴァエル王が握りしめているのは小豆色の髪だった。

 王様、アマリアさんは無事ですから、早く助けてあげてください。暴れて、暴れて、今尚暴れて、鉄馬車の中に猿轡噛まされて縛り上げられているんです。婚約しているなんて初耳でした。びっくりしました。事が落ち着くまでは発表するつもりはなく、ただのアマリアですと言ってましたけど、そういう問題じゃないと思います。後、直接言えませんけど、おめでとうございます。凄くお似合いだと思います。


 殊更ゆっくりになった速度に、本当にディナストは性格が悪いと、いっそ感心するくらいだ。人はどこまで意地悪くなれるんだろう。この状況で、人の顔をにこにこ見ていられるディナストが、本当に分からない。分かりたくもないけれど。

 でも、その意地悪に演出された時間を利用する私は、もっと最悪だ。




「アリスちゃん、ごめん、こちら返す!」

 整えさせてもらえなかった頭は、耳が丸出しで飾りが外しやすくて助かった。黒い石と緑の石がしゃらりと揺れる綺麗な耳飾り。アリスとお揃いの、友達の証。一度ぎゅっと握りしめて、アリスに向けて投げ返す。アリスは小走りで前に移動して受け取ってくれた。ごめん、うまく投げられなかった。

「ルーナも、記憶しておらずかもしれぬけれど、こちら返す! ごめん! 赤色はリリィに返却して!」

 首飾りも二本とも外して投げ返す。今度はうまく投げられて、ルーナは三歩横にずれただけで受け取ってくれた。

 最初は違和感があった重さはすぐに気にならなくなって、今では重さがないほうが違和感がある。揺れる重さがないと心許ない。こんな時は無意識に握りしめていた二本が、耳元で揺れて存在を教えてくれた音が、なくなった。手のやり場がない。心のやり場は、もっとない。

「アリス! ごめん、別たれて!」

「たわけ……」

 さっきの私みたいに耳飾りを握り締めたアリスが震えている。

「私は別れんぞ! そう簡単に絶交できると思ったら大間違いだ、このたわけ!」

 はい、たわけです。だからそう仰らずに、是非とも別れてください。

 投げ返してこないのは、投げ返しても私が受け取らないと分かっているからだろう。

 ごめん、アリス。友達になってくれてありがとう。嬉しかったし、楽しかったし、本当に、救われた。そう幾ら言い募っても足りないくらいの未練を、ちゃんと伝えていればよかったのか、言わなくてよかったのか。

 なのに、一生、一度だって言いたくなかった言葉は言わなくちゃいけない。

「ルーナ! ごめん、別たれて! 他人へと戻ろう!」

 ごめん、もう思い出さなくていい。寧ろ思いださないで。どんな思い出も痛みにしか変えられない。どんな約束も心を切り裂く刃にしかならない。だから、ごめん。寧ろ今も忘れてくれたらいい。あなたとの未来を諦めた私を、忘れてくれたらいい。

 約束なんて、しなきゃよかったね。叶えられない約束なら、あなたを傷つけるだけの叶わない約束なら。優しい思い出と一緒に、忘れてしまっていい。

 でも、ごめん、ごめんね、ルーナ。

 出会わなかったら良かったとだけは、どうしても思えないし、思いたくないんだよ。


「……分かった」


 アリスが信じられないものを見る眼でルーナを見た。同じように、驚いてしまった自分が恥ずかしい。私が別れようって言ったんだ。そうしてほしくて、そう望んで、自分で言ったのに、ルーナがそれを了承するはずがないとでも思っていたのか。浅ましい。ずるい。酷い、馬鹿、消えてしまいたいくらい、恥ずかしい。

 もう何を堪えているのか分からなくなった。笑わなきゃと思うのに、唇が戦慄いで動かない。ちょっとでも動かせば零れ落ちる。泣くな、何やってるんだ、自分で別れてって言って、ルーナが了承してくれたんだから喜べ、たわけ。

 笑うことも泣くことも出来ずに動かせない視線の中で、ルーナが集団の前に進み出た。こんな状況だというのに、ルーナが近くなっただけで嬉しくなるこの心の単純さが、どうしようもなく誇らしい自分は本物の馬鹿だ。


「カズキが俺に愛想を尽かすのは当たり前だ。お前の弱さを背負うと言いながら、失う可能性をちらつかされただけで揺れて、カズキを忘れるような大馬鹿だ」

 喋りながらもルーナの歩みは止まらない。その手に何をか握っている。でも、視界が揺れて、よく見えない。

「巡礼の儀を受ける者は、一人罪を量りに地に沈む。共に行くが許されるは、たった一人の近しい者のみ。お前に愛想を尽かされた俺にその権利はないんだな」

 ないよと言わなきゃいけないのに、嘘でも愛想がついたなんて言いたくない。そもそも喋れない。だから頷いて伝える。尽かされる愛想はあっても、尽く愛想は一生ないけれど。

 ルーナは止まらない。どんどん近づいて、ガリザザ兵の間さえ突っ込んでくるから、ガリザザ兵が割れていく。なんだか映画でこんなシーンがあったなと、こんな状況なのに思ってしまった。なんだっけ。古い映画なのに、そのシーンだけは何かと例えで使われるから覚えてしまう。確か、海が割れるんだ。

「それでも俺は、その権利が欲しい」

 あげない。

「カズキ」

 知らない。誰、それ。知らないから、お願いだから、もう黙ってほしい。

 お願いだから、そんな、懐かしい水色で私を見上げないで。

「カズキ」

 聞こえない。知らない。カズキなんて知らない。誰、それ、知らない。だから、あっちいって。

「たったいま振られたばかりだけれど、知っての通り、俺は諦めが悪いんだ」

 知らない。知らないから、お願いだから黙って。こっち来ないで。嬉しくなるから。

 私、そんなに強くないんだよ。それなのに、大好きな水色を柔らかく揺らして、大好きな笑顔を浮かべて、大好きな声で名前を呼んで近寄ってくるなんて、酷いと思うのだ。

「好きだよ」

 おかしいね、ルーナ。私、耳がおかしくなったみたいなんだよ。

「覚えていたはずの言葉も気分が高揚したら変に混ざり合うのも、人の言うこと真に受けて大真面目に馬鹿やるところも、もう年下になったのに俺を子ども扱いする癖が残ってるところも、人の厄介事を面倒だとか思いもつかずに当たり前に両手を広げるところも、何でもないことを楽しめるところも、全部好きだよ」

 目も、おかしくなったみたいだよ。だって、おかしいじゃない。やめてよ、ルーナ。なんでよりにもよって今なの。

「愛してる」

 馬鹿じゃないの!


「カズキ、俺と結婚してくれ」


 みんな私を馬鹿馬鹿言うし、私もそう思っていたけど、一番の大馬鹿者はルーナだと思う。



 ルーナは別れてくれた。綺麗に、速やかに、私が望むままに別れてくれた。

 なのにまさか、グレードアップさせて打ち返してくるとは思わなかった。

「はっははははは! いいぞ、ホーネルト! 上がってこい! お前を巡礼の同行者として認めてやろう!」

 巡礼は巡礼者がするものであって、その同行者をディナストが決める権利はないと思うし、上がってこいといながらいきなり速度を上げるのも意地悪だと思うし、慌てて走り始めたガリザザ兵は大変だ。

 アリスやルーヴァル兵も一部が分かれて馬に飛び乗り、追ってくる必要なんてないのに追いかけてくる。いきなり速度が上がったのに、普通に並走して乗り込んでくるルーナはもっとどうかと思う。

 ほぼ梯子に近い急階段をしれっと上がってきて、まるで最初からここにいたかのように当たり前に立つルーナは、本当に。

『馬鹿じゃないの!』

「そうか?」

 けろっと答えたルーナに怒りが湧き上がる。怒りだ。そう、怒りだ。絶対、怒りだ。

 なんで、よりにもよって、いま。今こそ、お前なんて知らないと、無関係だという所だろう。ルーナはもっと空気を読むべきだ。

 両手で頭を抱えて、肘で顔を隠す。肘がじんわり濡れていく。

『なんで、思いだしたの』

 ルーナは、頭を抱えて下を向く私の視界に入るよう、何かを握っていた掌を出してきた。そこにあったのは、ざんばらに切られた私の髪だ。紫色の紐で結ばれたそれがあった場所にルーナの手が触れる。

「安全な場所にいるはずのカズキの持ち物が送りつけられてくる衝撃は、なかなかのものだぞ」

 その手を振り払って、髪の毛も叩き落とす。

『帰って!』

「嫌だ」

『嫌い!』

「ああ」

『大っ嫌い!』

「うん」

『ルーナなんて知らない! 嫌い! あっちいって!』

「うん、ごめん」

 触らないで、抱きしめてこないで。必死で突き飛ばそうとしているのにびくともしない。いつもは、指一本で引っ張っても振り向いて身体を傾けてくれるのに、こんな時に限って全然離れてくれない。

 私は怒ってる。嬉しくなんて、ない。子どもが駄々をこねるみたいな言葉しか思い浮かばなくて、子どもが癇癪起こしたみたいな動きしかできないけど、凄く怒っているのだ。

 ルーナが笑ってくれても、抱きしめてくれるその胸が温かくても、触れるその手がどれだけ優しくても、嬉しくなんてない。

 嬉しくなんてない。馬鹿じゃないの。

 そう、思い続けられない私が一番馬鹿だと、分かっている。


 もう知らない。もう、もう、ルーナなんて大好きだから、もう知らない。もう、どうしたらいいのか、分からない。

 背中に手を回さないのは、私の最後の意地なのか、それとも抱きしめるより胸倉掴み上げたかったのかは自分でも分からない。

 ルーナのお腹の上辺りの服を握り締めて頭突きする。硬い。


『楽しいことのほうが好き』

「そうだな」

『嬉しいことのほうが好き』

「そうだな」


 あれが嫌だった、これが不満だった。そんなことを大好きな人に聞かせるより、これが美味しかった、あれが面白かったと伝えて笑ってくれるほうが好き。


『今日会ったことを話したい。明日したいことを話したい。また明日ねって手を振りたい。おはようって、当たり前みたいに会いたい。明日の約束をしたい。買い物行きたいねって、新しいお菓子出たんだよって、あの服可愛いねって。……頑張るよ。課題とか、バイトとか、頑張るよ。でも、なんで、それじゃいけないの。なんで、それじゃ駄目なのっ……!』


 なんで私達なの、なんで私達がこんな思いをしなくちゃいけないの。

 そんなのみんな思ってる。家を、街を壊されて、国を奪われて、家族を殺されて、友達を失って、腕とか足を吹き飛ばされて。何でこんな目に、自分達が一体何をしたって、たぶん、みんな思ってる。

 私達の所為だよ。私達の世界が今まで戦争してきて、兵器の在り方を知っていた私達の所為だよ。でも、全部私達の所為なのは私達の所為じゃない。その知識を私達の罪にしたのは、私達じゃない。

 誰もが救いを求めてる。誰もが責任の在り処を求めてる。そして、憎悪の対象を探した時に現れるのはやっぱり私達で、それはきっと間違いじゃない。

 それでも私は、普通の、どうということもないその辺の一人でいたかった。そんな重たいもの背負いたくない。偉い人が私の知らないところで、いつの間にか解決するなり時間の中に流すなりしてほしかった。私はそれを、ああそんなこともあったねって、そういえばあれってどうなったのかなぁって言うような場所にいたかった。だって苦しい。だって怖い。だって、そんなの嫌だ。


『もうやだ、家に帰りたい! お母さんに会いたい! お姉ちゃん達に会いたい! お父さんに会いたい! 学校行く! 学校行って、皆と会う! 服見に行って、本見に行って、小物見に行って、パフェ食べる! 髪も切る、ちゃんと、髪も、切る。回したら水が出るんだよ、押したらお風呂沸くんだよ、火がついて、ご飯出来るんだよ。夏でも冷たいもの食べて、冬でも夏野菜食べれるんだよ。剣とか、矢とか、ないんだよ。大きな怪我とか滅多にしないんだよ。馬とか乗らないで、車であっという間につくんだよ。涼しいんだよ、温かいんだよ。黒髪でも、目が黒くても、誰も変な眼で見ないんだよ。だって、そんなの当たり前だから、全然、普通で、言葉だって、私、変じゃないんだよ』

 自分でもどこにしまっていたのか分からない愚痴が全部噴き出す。今までは特に苦しいと思ったこともなかったものまで溢れだして止まらない。

『遠くにいても声聞けるし、メールでいろんなこと教え合えるし、顔だって見れるし、国外でも飛行機で行ったら一瞬だよ。何か月も船使わなくてもいいんだよ。空飛んで、すぐ会えるんだよ。だから、あっちのほうが便利で、凄い、快適で、だからっ! ……だから、リリィに、会いたい。リリィ、リーリアに、エレナさんに、ユアンに、ユリンに、カイリさんとかカイルさんとか元気かな。ねえ、隊長は元気かな、イヴァルはティエンにちょっかい出されてないかな、ヴィーは怒ってないかな。ねえ、不便とかどうでもいいよ。井戸で水組んでもいいよ、お湯沸かすのに時間かかっていいよ、怪我したって、熱出したっていいから、皆に会えるほうがいいよぉ……!』

 ルーナが悪いんじゃない。ルーナに言ってどうする。ルーナは優しいから、全部受け止めてくれる。自分でも何を言いたいのかも分からない私のぐちゃぐちゃを、受け止めてしまう。だから、そんなことより楽しい話をしよう。ルーナが笑ってくれるような話をして、一緒に笑おう。楽しい、わくわくうきうきする話をしたい。そのほうが好きなのに。ルーナの所為じゃないことをルーナに叩きつけて泣き喚くなんて大嫌いなのに。

『なんで、そんな、嬉しそうなのっ』

 ルーナは、うんと頷きながら、凄く唇を落としてくる。こっちは自分を憐れむ涙で溺れそうだというのに、ひっきりなしに落ちてくるキスに照れる暇もない。

「十年越しで叶ったからな」

『何がっ!』

「カズキの、弱音、泣き言、八つ当たり」

 何かのCMみたいな語呂合わせやめてほしい。くしゃみ、鼻水、鼻づまり。花粉症かな?

 ルーナがあまりに嬉しそうだから、思わず涙が止まる。でもそれも一瞬で、すぐにぼろぼろぼろぼろ、馬鹿みたいに流れた。



「何を言っているか分からんのはつまらんなぁ。おい、ホーネルト、翻訳する気はないか?」

 肘をついて眺めているディナストを完全に無視したルーナは、私の顔を胸に押し付けたまま抱き上げて、さっき上ってきた階段に腰掛ける。

『なあ、カズキ』

『……なんですか』

 涙は止まらないけれど、受け答えする心の余裕は出来た。だって、なんだか、ルーナが穏やかだ。それに今更、ルーナが帰ってきてくれた実感が沸いてきて苦しい。大体の物事は私に関係ない所で進んでいって、私に関係のない場所で解決する。別にそれが悔しいとも寂しいとも思わない。ルーナが帰ってきてくれたことだけ分かれば、それだけでいいと思ってしまうのは単純だからだろうか。

『さっきの返事を聞いてない』

『さっき……』

『俺は結婚を申し込んだ』

 噎せた。こんな状況で何を言っているんだろう。こんな状況だから言っていると言われたらそうですかとしか言えないけど。

『指輪も花も雰囲気もないから駄目か?』

『いや、それはルーナがいればいい、です、けど、ね…………忘れたから知らない』

 意趣返しにそっぽを向く。忘れたことにというよりは、もう全部に対する八つ当たりのようなものだ。だから、黙ってしまったルーナにちょっと申し訳ない思いが湧いてきて、そろりと顔を上げる。

 そしたらチューされた。訳が分からない。

『だったら、一生許さないでくれ。一生、俺の横で怒ってくれ。一生、一緒にいて、怒ってほしい』

 本当に、ルーナは私より馬鹿だと思う。馬鹿も馬鹿、大馬鹿者だ。

『……ずっと怒るのは疲れるから嫌です』

『じゃあ、笑ってて』

『……そうする』

『でも、弱音を吐いてくれたら更に嬉しい』

『…………ルーナは馬鹿だと思う』

 ずびっと鼻を啜って、ようやく他を見る余裕ができた。

 階段に足を下ろしたルーナの上に座っているから重そうだけど、ルーナは特に何も言わないから甘えることにする。いつの間にか街は見えなくなっていて、ちょっと丸みを帯びた大地が広がっていた。異世界でも星って丸いんだなぁと、当たり前のことを昔気づいた時は大興奮したものだ。



『なあ、カズキ。逃げるか? ここで振り向きざまにディナストに斬りかかって、そのまま飛び降りて馬を奪おう。巡礼の不文律は大陸のものだから、そもそも俺達には当て嵌まらないしな。そのまま、逃げようか。どこか遠くで、二人で生きていこうか』

 まるで鳥が飛んでいると伝えるような何気ない声音だった。

 冷たい風が濡れた頬を走り抜けていく。冷たすぎないその風に、ルーナも心地よさそうに目を細める。

『……ルーナ、私ね。この期に及んで、まだ、いつの間にか知らないところでいろんなことが解決するんじゃないかって思ってた。世界が関わるような、国が関わるような大きなことは全部遠い所で決まって、いつの間にか終わってるんだって、思ってたんだよ。それで、私とか邑上さんが謝らなきゃいけないことは、謝り方とか、謝る場所とか、教えてもらえるような気が、してた』

 その知らないはずの人達は、遠いところにいるはずの人達は、私の目の前で頑張っているのを知っていたのに。彼らは誰かにとっての遠い所にいる人達で、私は、私にとっての遠い場所で解決するのだと、思っていた。

『そうか』

『うん。だから』

 どうせこのまま行ったら、誰とも会えなくなる。だったらそれもいいね。冷たい水の底に二人で沈むより、全部放り出して、二人だけで幸せに生きました、めでたしめでたし。

 きっとみんな許してくれる。リリィも、エレナさんも、みんな優しいから、それでもいいよって言ってくれるだろう。だから。

『絶対、嫌だよ』

『だろうな。逃げてくれるなら、そもそも俺にこれを返してこないからな』

 もぞもぞ動いたと思ったら、頭から何かが通って、胸をとんっと揺らした。青い石の首飾りと、赤い石の首飾りが、いつものように揺れる。

 恐る恐るそれを握り締めた。首飾りは放り投げた私を怒ることなく、いつも通り掌に納まってくれる。


「ルーナ!」

 突如飛んできた聞き慣れた怒声に、無意識に背筋を正す。びっくりして落ちかけた私を支えたルーナは、ちょっと身体を傾けて下を覗き込んだ。

「これをそのたわけに返しておけ!」

「ああ、分かった!」

 いろんな音に掻き消されないよう大きめの声と共に飛んできたのは、こっちもさっき投げ返した耳飾りだった。ルーナはそれを片手で受け止める。慌てて両手で受け止めようとした私は、当然空振りだった。

「アリス!」

「この大たわけ! 婚約おめでとう!」

「え!? あ、ありがとう!?」

 離れていても分かるくらいふんっと鼻を鳴らしたアリスは、馬を操ってルーヴァル兵の中に戻っていく。それでも並走は続けているから、きっと最後までついてきてくれるのだろう。

『カズキ、少し傾けてくれ…………そこまで傾かなくていい』

 慌ててぐぎっと音がするまで傾いた私に耳飾りをつけてくれたルーナは、また両手を私の腰に戻した。

『さて、何から考えようか』

『え?』

『やっぱりドレスからか?』

『え?』

『行き来可能ならご両親への挨拶が最初なんだろうけどなぁ』

『何の話!?』

『カズキの世界の民族衣装がいいか? それともこっちの衣装でいいか?』

『もしもし!?』

『家が広いほうがいいか? 庭が広いほうがいいか? 両方?』

『ルーナさん!?』

『犬飼うか? 猫がいいか? ……鰐は何を食べるんだ?』

『気に入ったの!?』

 ルーヴァルとガリザザの国境に位置する、神の座する場所といわれる神聖な巨大滝に辿りつくまで私は、結婚式と新婚生活についての話をみっちりと詰められた。疲れた。





 その景色を見てパッと出てきたのは、テレビ番組だった。

『ナイアガラの滝』

『ないあがら?』

『私の世界の大きい滝代表で、一回実物を見てみたいと思ってたら、こっちで見れた』

 世界にぽっかり空いた巨大な穴。そこにあちこちから流れ着いて合流した水が流れ落ちていく。ナイアガラの滝をぐるりと一周させて円にしたみたいだ。確かに、神様がいると言われたら納得してしまう壮大さ。世界百選には必ず入るだろう。でも、個人的には、この底にいるのは神様よりネッシーがいい。浪漫的に。

 円の七割が海のように集まった巨大な川が流れいて、三割がちょっと高くて陸地になっている。そこに神殿があって、神様を祀っているらしい。ちなみに、神様は神様で、名前はないという。

 神様に供物を投げ入れる為に道からちょっと突き出して作られた桟橋みたいな場所がある。そこから巡礼者も落ちるらしいので、何て余計なものを作ってくれたのだと石を投げたい気分だ。



「今日は一際水飛沫が激しいが、この向こうにあるのが我が祖国ガリザザだ」

 湿気の所為か、羽が少し萎れているディナストは、このまま国に帰るんだろう。自分だけ。私だって帰りたい。

「ここには俺の血族も多数いるぞ。殺すと周りがうるさいのは大体落としたからな。会ったら俺の恨み言でも聞いておけ。なんなら伝えに来てもいいぞ? そのほうが面白そうだから、是非来い」

 面白いのが好きといいながら、面倒なのは嫌いらしい。本当に子どもみたいだ。この人とほとんど関わることがなかったのは、たぶん私にとっていい事だったのだと思う。

 弾けそうになる気持ちを振り払って、ルーナと繋いだ手に力を籠める。ルーナは何も言わず握り返してくれた。

 ディナストが指さした方向を眺める。あれが、邑上さんがいる国だ。

 ごめんなさい、邑上さん。私がこれからここに落ちても、たぶん、バクダンの被害に曝された人達の一時の慰めにしかならない。慰めにすらならないかもしれない。それでも。



 後ろを振り向くと、ガリザザ兵から一定の距離を置いてルーヴァル兵がいる。それより更に後ろにいる人達はきっと、普通の人達だ。今までだったら、列に並べと言われたらあっちの人達の後ろに並んだだろうけど、今は知り合いの多いほうに走り寄ってしまう。


 ラヴァエル王とアリスは二歩くらい前にいた。危ないよ。いろんな意味で。

「ラヴァエルさ――ん……さ、様――!」

「なんだ!」

「アマリアさんとアニタに伝言お願い申し上げます!」

 王様に言伝頼むとは、私も偉くなったものだ。不敬まっしぐら。

 でも、それを咎めてくる人は誰もいなかった。もし咎められたら、虫の借りを返してもらったと言っておこう。

「今度、お買いもの出発しましょう! お楽しみにしていてますぞりと!」

「了解した! 一言一句、発音違えず伝えよう!」

「そこなるは違えてお願い申し上げます!」

 語尾を彷徨った自覚があるだけに、そのまま伝えられると凄く悲しい事態になる。


「カズキ!」

「はーい!」

 奔流に負けないよう声を張り上げたアリスに負けないよう、私も返事をする。

「お前と同郷の男は必ず助けてやる! ユアンのことも、母上のことも、ガルディグアルディアのことも、すべて引き受けてやる! だから!」

 邑上さん、アリスは凄くいい人で、凄く優しくて、凄く頼りになるから、安心して。

 神様への審判は私が受けに行ってきますから、安心してアリスと出会ってください。私がこの世界で出会った人達があなたに繋がったら、こんなに嬉しいことはない。

「だから、安心して帰ってこい!」

「アリス、ありがとう!」

 うん、と、答えられなかった私にアリスは凄い形相になる。金剛力士像みたいだった。




 ガリザザ兵がせっつくために突き出してきた抜き身の剣を、ルーナが素手で叩き落とす。ルーナ、その手、鋼鉄で出来てるんですか?

 剣の代わりにルーナの手が背に回って一緒に桟橋を進む。私の着ているのが白いドレスだから、ある意味結婚式みたいだ。凄いヴァージンロードである。底を覗きこんだら更に凄さが分かった。はるか遠くで白が舞っているのが水の到達地点だ。かなり、遠い。見ているだけで頭がくらりとする。これが観光ならちょっと勇気を出して写真を撮ったんだろうなと、現実逃避する。

『ルーナ』

「ん?」

『今からでも遅くないから、婚約破棄する予定、ないですか』

 改めて見下ろす高さに震えが止まらない。なんでいつも、怖いと心臓ドキドキするだけじゃなくて吐き気がするんだろう。ここにマーライオン建てたら観光スポットにならないかな。

 それはさておき、こんな場所に、ルーナを引きずりこむのは気が引ける。一人で落ちるのはそれこそ死んでもごめんだけど、ルーナを引きずり落とすのは死にたくなるほど申し訳ない。この土壇場になるまで言い出せなかったのは、どうしようもなく、一人は嫌だったから。今は言った自分を罵っている最中だ。一人は嫌だ、一人は怖い、こんなの嫌だ。

 でも、ここで言わないような人間とルーナを一緒に落とさせるのは、もっと嫌だった。



 顔を見上げることができなくて、繋いだ手だけを頼りに頽れないで立つ。

「カズキ」

 呼ばれて、観念して目を開くと、ルーナが目の前に跪いていた。

「愛してる」

『あ、りがとう』

 だけどさようならと言われたら、逆に飛び込む勢いができるかもしれない。靴を揃えてアイキャンフライ。

 ルーナを信じていないわけじゃない。でも、信じているから一緒に死んでとは、どうしたって言えないのだ。今ほど一緒にいてほしくて、一緒にいないでほしい瞬間はない。



 ルーナは、繋いだ手に額をつけた。この光景を、二回、見たことがある。

「我が慶びは君がもの、君が嘆きは我がもの。君が憎悪は我が剣が、君が不幸は我が盾が。全ての幸は君が為、全ての禍は我が身を持って振り払おう」

 懐かしい言葉に目が丸くなるのが分かる。私が浮かべた驚きに、ルーナは柔らかく相好を崩した。

「だけど俺達は夫婦となるのだから、全ての慶びを分かち合おう。全ての嘆きを二人で背負おう。俺がカズキを守るから、カズキも俺を守ってくれ。全ての不幸を幸と変え、共に明日を迎えよう。……ヤメルトキモスコヤカナルトキモ?」

 昔、何かの拍子で話した言葉を、わざと片言で言って促してきたルーナに思わず笑う。

『死が二人を別つまで?』

「世界が二人を別っても」

 立ち上がったルーナに抱きしめられて目を閉じる。でも、顎に手をかけられて慌てて開けた。ルーナがちょっと笑う。どうもすみません。嬉しくてつい、うっかりうっとりしてました。

「愛してる」

『私も、あ、い、してる』

 大好きは言えるけど、愛してるはちょっと気恥ずかしかった。でも言う。

 しかし、恥ずかしがるところはそこじゃなくて、これだけ大勢の人が見ている前で深い誓いのキスを仕掛けてきたルーナだと思う。

 ちょっと酸欠です。恥ずか死にます。後、涙が止まらない。

 そんなことをぼんやり思っていたら、ルーナが一歩動いた。抱きついていた腕に力を籠める。ルーナも、首の後ろを持っていた手を頭に変え、深く深く抱きしめてくれた。



 世界の底に落ちていくのに、どうしよう、怖くない。

 全然怖くない。




 ルーナ

 水飛沫で滑る掌で掴み、隙間ができないよう傍にすり寄る。

 ルーナ

 硬く張った身体を掴んで寄り、私を見つめる瞳を覗き込む。見ただけで胸が温かくなる水色の中では、まじまじと見つめる私がいる。周りでは圧巻の景色が自然の雄大さを伝えているのに、ルーナしか見えない。

 ルーナ

 音が、聞こえない。

 ルーナ

 水色以外が消えた。

 ルーナ

 恐怖も感じない。

 ルーナ

 世界が見えない。




 ルーナ




 もう、ルーナしか、分からない。






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