67.神様、もう少しで冬が来ます
アマリアさん、アマリアさん、アマリアさん!
危ない、いや凄い! 後ろ危な、くなかった、そのまま蹴り上げるんですね優美です! 四人がかりとか卑怯……その体勢どうなってるんですかアマリアさん!
目が追いつかない。頭も追いつかない。言葉にする余裕もなくて、頭の中だけで延々と言葉が流れ、流れ切る前に新しい映像が入ってきて、どうしたらいいのか分からない。
アマリアさんの動きは止まらない。赤に塗れても、止まらない。
なのに、兵士の輪も途切れない。数が増えている。
「流石だヌエ! バクダンの成果を手っ取り早く試そうと根絶やしにしたのは早計だったな!」
まるで子どもみたいにわくわくとした声を上げる男の胸倉を掴む。こっちのほうが背が低いから掴み上げることはできなかったけれど、引っ張って揺さぶることはできる。
「ディナスト!」
男はその動作に怒ることはなく、寧ろ楽しそうになすがままだ。
「なんだ? 俺は別にあの人数だけとは言ってないぞ」
「アマリアさんに、手を上げるな!」
「あれがまさしくヌエ族の生き残りなら、あの程度で殺せるとは思えんがな。それにしてもお前、伽の相手をさせると言ったのを聞いてないのか馬鹿なのか。伽が分からん歳とも思えんが」
「存じぬわ!」
ヌエ族のことすら分からないのに、そんな二文字どうでもいい。
「釘だか鍵だかなら存じるけれど、そのような事案より、アマリアさんの周囲の兵士を収納して!」
「せめてもう少し艶めいた言葉を思い浮かべられんものか」
ディナストが兵士達を下げる気がないのは分かったけれど、他にどうすればいいのか分からない。この場で一番偉いのはディナストだ。ディナストの言葉を跳ね飛ばしてまで命令を撤回させてくれる人がいるのか。いたとしても、誰か分からない。いっそ、この近くにいる人全員に言って回ったほうがいいのか。言って回ったくらいで聞いてくれるなら、既に誰かが止めてくれているだろう。でも、だったら、刃物を。刃物で。
当たり前のように辿りついた思考に胸が冷えた。……ああ、そうか。だから、剣は、武器は恐ろしいんだ。
力のない人間でも、相手を従わせられると思ってしまう。従わせようと、思ってしまう。弱い人間ほど、それに縋ってしまう。弱い人間ほど、簡単に使ってしまう。ちゃんと使うことも出来ないくせに、ちゃんと制御できる技術も意思もないくせに、簡単に。
でも、それだったら、どうしたらいい!
首と視線をせわしなく動かしていた私の耳に、わぁっと歓声が聞こえて慌てて視線を戻す。
一斉に斬りかかられ、逃げ場がないと息を飲めば、その姿が消える。足を広げて一気に体勢を低めたと思えば、地面を這うように回転して相手の足を切り裂く。剣を受け止めて弾き返し、返す刃で後ろの兵士を突き刺す。
両手は自然と組んでいた。自分の指を圧し折りそうな力を籠めて握りしめ、目に力を籠める。瞑ってしまいたいほどの赤が舞うのに、瞬きをした次の瞬間、アマリアさんが倒れていたらと思うと、一瞬さえも恐ろしくて堪らない。私が見ていたって何かが変わるわけじゃないけれど、目を外すことが、怖い。髪を切られた時より恐ろしい。赤を散らせているのはアマリアさんだ。普通なら彼女のほうが怖かったかもしれない。でも、今は、彼女の赤が散る瞬間が何より恐ろしい。
アマリアさん、アマリアさん、アマリアさん。怪我しないでください。勝たなくてもいいから怪我しないでください。ディナストがなんと言っているかは分からなかったけれど、アマリアさんが酷い目に合わなくていいのならそっちでいいから、お願いだから、アマリアさん。
ディナストは鰐が好きみたいだから、爬虫類の、もしかしたら蛇と戦わせて面白がるつもりかもしれない。それとも、釘でも投げつけてくるのだろうか。それとも、あの時みたいに鍵を探させるつもりかもしれない。
蛇は得意じゃないし、釘は避けられる気がしないし、鍵は全く見分けがつかないと思う。でも、それでも、アマリアさん、私頑張りますから、だから、アマリアさん。
外円から飛んできた矢がアマリアさんの頬を掠める。首を傾けたアマリアさんの髪を剣が切り落とす。砂をかけられて視界を失ったアマリアさんを、兵士が後ろから羽交い絞めにする。
気がつけば私も同じように羽交い絞めにされていた。知らない間に走り出そうとしていたのか、暴れる身体を押さえつけられている。
「アマリアさん! アマリアさん! アマリアさん!」
叫ぶだけしかできない私を、アマリアさんが見ている。たくさんの男達が羽交い絞めにしている腕の隙間から、アマリアさんが私を見ている。
どうしたらいいか、分からない。
他の音が全部遠くなって、アマリアさんの瞳だけが鮮明に見える。
その瞳に既視感を覚えた。ルーナの瞳に似ている。言葉が通じなかった頃から、大丈夫だと瞳で伝えてくれていたように。
同じ光を宿した瞳が、兵士達の腕の隙間から私を見ていた。
そう分かったと同時に、地面から湧き上がるような声がだんだん近づいていることに気がつく。おおおおおと続く音はすわ地響きかと思いきや、アマリアさんだった。
地の底を這うような怒声を吐き出しながら、羽交い絞めにしていた兵士が背負い投げしたのだ。しかも、周りを抑え込んでいた兵士諸共。
どすんと重たい音が六人分、ある意味地響きだ。
私も、私を羽交い絞めにしていた人も、ぽかんと口を開けたままになってしまった。
「成人男ともなると十人投げ飛ばした奴もいると聞くが、女でもこれか……流石戦闘民族といったところか」
呆れたような声を出したディナスは、軽く片手を上げ、それまでと言った。
「お前の勝ちだ、ヌエ族の女」
その言葉を皮切りに私の拘束も緩まっていく。まだやんわりと掴まれている腕を振り払い、椅子を蹴散らして駆け降りる。中央の地面に飛び降りて転んだけれど、すぐに起き上がって走った。呻き声を上げて倒れている兵士達の中央にいたアマリアさんも、彼らを飛び越えて走り出す。倒れた男達は生きている。その事実に安堵した自分を、喜べばいいのか詰ればいいのか分からなかった。
私なんかよりよっぽど早いアマリアさんのおかげで、あっという間に出会えた。
「負傷は!?」
「お怪我は!?」
お互いの言葉が重なる。私の足元から頭まで視線を流したアマリアさんは、顔と頭を見て眉間に皺を寄せた。そして、素早く膝をつく。
「申し訳ありません!」
「私は皆無よ! アマリアさん! 負傷は!?」
「全ては私の失態です。お怒りはごもっともですが、どうぞ、罰は私にお与えください!」
「負傷は!?」
「あの子の憎悪の風化を見誤った私に責がございます! どうか、お怒りは私に!」
「『あれ!? 私、声出てますか!? それか言葉間違ってます!?』ア、アマリアさん! 負傷は!?」
慌てすぎて心の中だけで話しかけてしまっているのか。私の耳に届く私の声は幻聴か! 後ごめんなさい! 皆無って言ったけど鼻血忘れてました! 軽傷でお願いします!
「アマリアさん! 負傷! 負傷報告を要求しますよ!」
「……ございません」
声が出ているか確認しながらもう一度聞いたら、今度は届いたらしく答えてくれた。確かに、見下ろした感じ怪我は頬に薄く浮かぶ線だけだけど、戦う人達はしれっと痛みを隠してしまうから安心はできない。
「失礼おかけしますよ!」
打ち身とかだと触らないと分からない。一声かけて触ろうとしたら、アマリアさんが身を引いて、あからさまに逃げた。やっぱりどこか怪我をしているのだろうか。
「汚れます」
慌てて自分の手を見たら確かに汚れていた。こんな手で人に、しかも怪我人に触ろうだなんて失礼にも程がある。
「申し訳ございません! 洗濯してきます!」
「そちらではございません」
「足!?」
「そちらでもございません」
じゃあどっち!? 顔!? それは今更どうしようもありません! お見苦しくてすみません!
とにかく掌だけでも何とかしようと、お腹辺りでごしごしと拭う。さっき転がったので、腰や背中は土塗れなのだ。かろうじてまともなのはお腹だけである。
ぱん、ぱんと、掌を打ち付ける音がやけに響く。ディナストが手を打ち鳴らしている。それを見て、そうだ、まずははたけばよかったと気づいた。
「よくやった。ではこれより、お前達は客人としてもてなしてやろう。無論、目は付けるがな」
笑う男に驚く。てっきり牢屋に入れられると思っていた。私の視線に気づいたのか、ディナストは大仰に肩を竦める。
「そんな目をされるとは心外だな、俺は約束は守る男だぞ? そもそも、守られないかもしれない提示では誰も必死にならないからな。そんなのはつまらないだろう? 助かると思えるからこそ、人は死に物狂いになれる。無様に這い回って必死になる姿こそ見世物に相応しいだろう?」
途中まではいい事を言っていたような気がする。途中までは。
一所懸命な人を嘲笑うのは嫌なことだ。でも、嘲笑うために人を必死にならなければならない状況に追い込む人は、もっと酷い。
「残念ながら俺はまだやることがあるのでな。お前達はゆるりと寛ぐといいさ」
相変わらずもさもさ羽を揺らして、ディナストはテントを出て行った。入ってきた時とは違う場所から消えたので、たぶんあちこちに出入り口があるのだろう。自分はもさもさ羽を揺らしているくせに、人にけしかけてくるのは爬虫類。私も鳥がいいけれど、何もけしかけてこないのが一番好きです。
ディナストの姿が見えなくなるまで見つめる。見送ったというより、気が変わってくるりと振り返ってきたら怖いからだ。
「ああ、そうだ」
だというのに、普通に振り向いてきた。無意識にびくりと跳ねた身体を隠すかのように、さっと立ち上がったアマリアさんが前に立つ。
「時間が空けばつき合えよ。お前はいい暇潰しになりそうだ。あまり時間がないのが惜しいがな」
時間がないのなら暇潰しに使わないでどうぞゆっくり休んでください。忙殺されてください。社畜……国畜? のように!
でも、余計な事を言って戻ってこられても困るので黙っておく。
そのまま、ディナストだけじゃなくて、その周りを囲んでいた人も完全に見えなくなって、ようやく力が抜けた。
いつの間にか現れていた女の人達が目の前にいて、深々と頭を下げる。
「湯へとご案内いたします」
メイド服じゃないけれど、たぶんそんな仕事の人だろう。
確かにお風呂には入りたい。髪からはまだ染料落としの妙な臭いがする。でも、入って大丈夫だろうか。そんなことしている余裕はないだろうか。相談したい。
「アマリアさん…………」
振り向いたらまたアマリアさんの旋毛があった。それを見て、ざっと血の気が引く。
「ア、アマリアさん!? 気分が!? 悪化!? 徒歩不能です!?」
やっぱり怪我をしていたのか!
慌ててアマリアさんの前に背中を向けてしゃがみ込む。
「伸し掛かってください、運搬します! 先生、誰か医者先生を!」
「…………跪いているだけです」
おぶろうとした身体が予想の三倍は重くて固かったので、当然の如く私は潰れた。けれど、アマリアさんは怪我もなく元気だったのでよかった。
かろうじて汚れていなかったお腹もしっかり土で汚れた私を、先に立ったアマリアさんが立たせてくれる。
「申し訳ありません。服を汚してしまいました」
背中を指されて、首だけ回したら赤黒いしみがべったりしみこんでいた。それが何か分かっているからひくりと喉が震える。じわりと肌にまで浸みこんでくるようで、今すぐ服を脱ぎ捨てたくなった。けれど、返り血を全身に浴びているアマリアさんを拭いたのだと思うことにしてその考えを振り払う。
もう一度膝をつこうとしたアマリアさんを慌てて止める。
「アマリアさん、後で教えて頂くたい話がございます。しかし、でも、先だって、お湯に入室しましょう! 可能ならばご一緒に!」
そして、更に可能なら、その割れたお腹をちょっと触らせて頂きたい所存でございます。
思うだけに留めるつもりが、ぽろりと願望を口に出してしまった私に、アマリアさんは目を丸くしてから、少し笑ってくれた。可愛かった。
メイドさんを先頭に、兵士に囲まれてテントを出る。大きさは違っても、基本的には同じ色や形のテントをどうしてみんな迷わないんだろうと思ったら、入口辺りに旗がはためていた。たぶんこれが目印になっているんだろうなと思いながら通り過ぎる。いろんな人の視線が突き刺さるけれど、意識して意識しないように弾きだす。ヴィーが教えてくれたように、胸を張って、堂々と、アマリアさんを見上げる。他に目のやりようがない。息苦しいんで、何か話しませんか?
見上げた先のアマリアさんは、難しい顔をして周囲に視線を走らせていた。
「アマリアさん?」
「……ディナストの、時間がないという言葉が気になります」
「忙殺されているのでは?」
そのまま書類の海に溺れてしまえばいい。営業でもいいよと言いたいけれど、営業で戦争しそうだからやっぱり篭っていてほしい。
「あの男が忙しいということは、ろくでもないということです」
凄い信頼だ。
ろくでもない企みをしていることに絶対の信頼があるディナストは、もうニートになってもらうほうが良さそうだ。でも、暇なら暇で、ろくでもないことになりそうだから難しい。
「わ」
一際大きな風が走り抜けていく。髪が短くなった部分は、頭皮の上を直に撫でていかれた気がする。随分と冷たい風だ。この世界に来てもうだいぶ経つ。そろそろ冬が近づいてくるのだろう。でも、春を迎える前に冬に襲われた気分だ。ルーナの心を溶かしてから冬が来てくれたら嬉しかったのに。冷たい冬の夜番も、二人で毛布に包まって星を見ながらだったら楽しかった。ただでさえ綺麗な星空が、冬のきんっと冷えた空気で更に晴れ晴れと広がっていた。
ルーナに会いたいなぁと思いながら見上げた空に、ばさりと重たい布がはためく音が響いた。音は一つじゃない。あちこちのテントの上で聞こえる。
「巡礼の旗!?」
絶句したアマリアさんの視線を追っても、同じ旗が見える。旗はシンプルだ。白の布地に「干」の字の上が突き抜けて、上の線のほうが長い模様。未の書きかけと言ったほうがいいかもしれない、模様というより文字に近い形が刺繍されている。
「あちらは、何ですか?」
あちこちで上がり始めた旗を見て不安になってきた。アマリアさんが絶句するくらい、唇を戦慄かせるくらいの衝撃を与えるあの旗は、何を意味するのだろう。
怖いことじゃなければいい、恐ろしいことじゃなければいい。そう思うのに、それだったらアマリアさんはこんな顔はしていないだろうなと思う自分もいる。
でも、まさか、弾かれたように私を見た瞳が懺悔に塗れているとは思わなかった。
あれが何かは分からなかったけれど、全く以って嬉しくないものだと分かった。
そして、どうも、それが私に降りかかるらしいと分かるくらいには、私の察しは良いのである。
帰りたかった。
戻りたかった。
日本にも、隊長達とも、リリィやエレナさんにも、東の守護地にいる皆とも。
アリスとも、ユアンとも、会いたかった。
そして、そして。
もう一回。
ルーナに笑ってほしかった。
でも、初めて、この世界に来て初めて。
ああ、もう無理だと思った私を、皆は怒るだろうか。
「今でこそそれなりの精度を保ってはいますが、あの兵器の初期は、それは酷いものでした」
アマリアさんは淡々と話してくれた。
「その範囲を、強度を、威力を、成果を調べるのに、我々のような少数民族は都合がよかったのでしょう。ちょっとした衝撃で保管していた場所ごと吹き飛ばすような兵器を前に、敵も味方も飛び散った。援軍となるはずだった部族は来なかった。己が生存と引き換えに我々を売ったのだと、後で知りました。私が生き残ったのは、仲間の死体が盾となったからです。気がつけば、故郷は跡形もなかった。仮令一人であっても、最後のヌエ族として部族の誇りを懸け、ガリザザに復讐しようと思いました。そんな時です。我々を売った部族が、我らと同様ガリザザに滅ぼされたと聞いたのは」
たくさんの人の声がする。知らない言葉もあった。でも、意味は分かる。
これは怨嗟だ。
「私は、襲撃を受けたその部族を見に行きました。何がしたかったのかは自分でも、そして今でも分かりません。嘲笑いたかったのか、ざまあみろと叫びたかったのか、憐れみたかったのか。……そこは、黒と灰の世界でした。かつては何か名がついていたはずの物は、全て灰と炭になっていた。ヌエの時もそうでしたか、ガリザザ軍が早々に撤収していった理由が、その時ようやく分かりました。あれは全てを破壊するから、略奪するものが何もないのだと。その何もない場所で泣き声がしました。それが、あの子です」
たくさんの声は、揃えたわけでもないはずなのに、同じ意味ばかりを繰り返す。それは、それだけの怨嗟が蔓延していたからだ。
声と一緒に風が通り抜けていく。枯葉も舞っているから、冬は意外とすぐかもしれない。
「嘗ては家族だった炭を抱いて、あの子は一人泣いていたんです。そうして、立ち尽くす私に家族で真っ黒になった小さな手を広げて、抱きしめてと訴えたのです。私は、あの子を抱いて逃げました。逃げて、逃げて、国境で行き倒れたところを兄様が拾ってくださったのです。兄様は父様に、妹が欲しいと頭を下げ、父様と母様はそれを許してくださった。兄様達は、この国で生きる術を与えてくださいました。言葉遣いも、ドレスの着方も全て。そうして新しい世界で生きている内に、憎悪は、風化したのだと、思っていました。……思って、しまったのです」
石礫も棒きれも飛んでこない。なのに、怨嗟が届く。そして、声よりも瞳から放たれる憎悪のほうがよほど恐ろしく、痛かった。
「あなたの所為ではない。分かっています。あなた達の所為ではない。あの子だって分かっています。ディナストがそれを楽しんでいることも。あの男が、いつもは楽しむ怨嗟の先をあなたと同郷の人間にずらしたのは、そうして苦しむあなた達を見るほうが楽しいからだと、あなた達が苦しむ姿を見て、ディナストを憎む人間の憎悪を受け止めるほうが楽しいからだと、分かっているのです。……分かっていても、蘇ってしまったのでしょう。家族が四散する瞬間が、あの熱さが、色が、臭いが。まだ三つだったあの子の記憶に、残ってしまったのでしょう」
アマリアさんはあの夜、何度頼んでも上げてくれなかった額を床に擦りつけて、全てを話してくれた。でも、今では、顔を上げてくれなくてよかったのかもしれないと思っている。だって、あの時の自分がどんな顔をしていたのか、分からないのだ。
「やはりルーヴァルは楽しいなぁ、黒曜よ」
楽しそうなのは貴方だけですよ。
「王城を落とした時はこんなものかと思ったが、あやつらは取り返したぞ。そうでなければつまらん。これでこそルーヴァル! まあ、そのおかげで俺達は退路を失ったわけだがなぁ」
ディナストの一軍はいま、ルーヴァルの王都を堂々と横断している。誰からも石は飛んでこない、棒も飛んでこない。街道には恐ろしいまでの数の住民と、ルーヴァル軍がいるにも拘らずだ。
自分達の国を蹂躙した国の王が、目の前を通っていく。ディナストは、鉄馬車の中に身を隠しているわけではなく、幌の下にすらいない。誰からも見やすいよう、まるでちょっとした展望台のような物の上に乗って、鎧も身に着けていない。
なのに、誰も動かない。動けない。
だって、彼等は巡礼の旗を掲げているのだから。
今の私は真っ白な服を着ている。裾や袖は長いのに、飾りも刺繍も一切ついていないドレスだ。ドレスというにはシンプルすぎて、ワンピースといってもおかしくない。
巡礼の衣装だそうだ。
その私を、たくさんの瞳が見つめている。彼らの後ろの建物は、嘗ては美しかったであろう名残を残したまま崩れ、焼け落ちていた。聳え立つ国の象徴である王城でさえ似たような有り様なのだ。
そして、ここに来るまでの道沿いに見た、たくさんの墓石。墓場は満員で埋める場所がなかったんだろうなぁと、欠伸をしながらディナストは言った。疫病が流行る前にさっさと埋めてしまうに限ると。
ディナストは、数多の視線を気にも留めず、否、寧ろ心地よい陽光のように浴びながら、あっちの建物の時は何個の爆弾を使った。ここは逃げ込んだ人間がたくさんいたから纏めて吹き飛ばした。そんなことを、街道沿いにいる人達に聞かせるように大きな声で語るのだ。
視線だけで人を殺せるのなら、ディナストはもう何百回と死んでいる。でも、何より恐ろしいのは、それだけの憎悪の視線を叩きつけられて尚、楽しくて堪らないと笑う姿だ。
私に向くのは、ディナストに叩きつけられるような苛烈な瞳ではない。もっとどろりとした、滞留する怨嗟。
「お前の所為じゃない!」
一人の男の人が叫んだ。
「お前達の所為じゃない!」
もう一人の女の人が叫んだ。
「だが、お前達さえこの世界に現れなければっ!」
顔を覆って、頽れながら、やり場のない怒りと悲しみと喪失の痛みを、声と瞳で世界に放つ。私に、叩きつける。
「こんな凄惨な死は有り得なかったんだっ……!」
【ハナビっていうのを作ろうとしてたんだ】
そう、ツバキは言った。
美しい花を夜空に咲かせられたのなら、それをツバキ達に見せられたのなら、自分がこの世界に来た意味があったと思えると笑っていたと。
怨嗟が渦を巻く。渦巻いて、抜け出す先がない。延々と周囲の怨嗟を巻き込んで肥大化していき、もう誰にも止められない。
私を匿っていたと聞いただけで、ルーヴァル新王へ不信と怨嗟が進路を変えてしまうほど、暴走を始めている。私がいると知っただけで剣先が彼に向いてしまうほど、誰もが何もを許せないでいる。だけど、それは当たり前のことだ。彼らの怒りは正当なもので、彼らの怨嗟は正義に等しいもので、彼らの悲哀は節理で。
じゃあ、邑上さんがいけないのか。確かに浅はかだった。確かに結果は無残なものとなった。確かに、彼が齎したもので、取り返しのつかない惨劇が起こってしまった。
けれど、高校生の男の子がたった一人異世界に放り出され、そこに意味を見つけ出そうとしたことは、そんなにもいけないことだったのだろうか。こんな怨嗟を一人で背負わなければならない願いを、彼が持ったというのだろうか。
王城が近づくにつれて、ディナストは逆に口を噤んでいった。それは緊張しているわけでも、私に気を使ってくれているわけでもないことは、彼がわざわざ王城の傍を通っていることで充分分かっている。目的地に着くまでに、王都を通る必要なんてなかったのに、あえてこの道を選んだのは、そのほうが誰の顔も歪むからだろう。
城壁は崩れ、塔は折れ、未だ煙が上がっている焼け焦げた側壁。
そこにいるルーヴァル兵達は疲れ切り、怒りとも焦りとも悲しみともつかない表情をしていた。死に物狂いで王都を、王城を取り戻したのに、その目の前を元凶であるガリザザ軍が通り過ぎていくのに手を出せない。
だって、巡礼の旗があるのだ。
巡礼の旗を掲げる者に手を出してはならないという不文律。
大陸には、とても大きな滝がある。まるで世界の割れ目のようにぽっかり空いた円形の空間に、水が流れ込んでいくのだそうだ。人々は、そこに神を見た。神に真意を訪ねるとき、神に近しい場所へと向かう。
主に、罪人への裁きを乞うために巡礼は行われると、アマリアさんは言った。
世界の底へ、神の元へ、裁きを乞いに行き、生きて帰れば無罪。死ねば有罪。
今まで無罪となった人間は、誰もいない。
これは、巡礼者に手を出してはならないという不文律を利用して、ディナストが退路を確保しているだけだと分かっている。
でも、贖いを求める人々の声は当然のものだ。断罪を求める人々の切望も当たり前のものだ。責任の在り処を示せと、贖いの方法を示せと、彼等は言う。
そこに怨嗟の出口はあるのだろうか。小さくても滞留する怨嗟が流れる場所があるのなら、何かは変わっていくのだろうか。
誰かが償わないと終われない。償ったところで到底割り切れるものではない。それでも誰かの贖いがなければ、始めることさえできない。この世界の誰かに、それも被害を受けた人達に割り切れと、どうしようもなかったのだから分かってくれと叫ぶのは間違っていると、思う。
でも、それを邑上さんに払わせるのも酷だと、そう思ってしまった時点でもう駄目だったのだろう。嫌だと、怖いと、なんでと叫ぶ私のもっと奥で、もう、決まってしまっていた。
私には関係ないと叫ぶには、自分でも思っているより同郷の誼というものは強かったようだ。そして何より、この世界で出会った人達への愛着が、世界への責任の放棄を許せなかった。




