66.神様、少し短すぎる部分があります
鉄馬車全体が跳ねているみたいに進むから、座っているだけでがんがん身体を打つ。かといって、壁に当たらないようにと離れていたら転がって大惨事だ。結局壁に凭れてがんがんぶつかったほうがましという結論になった。前の時はルーナが抱えてくれていたから呑気に眠っていられたんだなと、ようやく分かった。
外は何も見えない。固定された格子状の窓はあるけれど、更にもう一枚外からしか開けられないスライドの窓があるから、縛られてなくても開けられない。
アマリアさんはどうなったんだろう。一見怪我は見つけられなかった。けれど、それだけじゃ無事か分からない。頭を打っていないことを願うしかない。受け身は取れていただろうか。……分からない。目を瞑ってしまって何も見ていなかった。後ろ向きに落ちた私を助けてくれたのに、落ちるまでそれに気づかなかった。
がつんと後頭部を鉄壁にぶつけて目を閉じる。必死に手を伸ばす小さな少女の姿が焼きついて消えない。怒るべきなのだろうか。でも、あの場所で、誰より後悔していたのはアニタだった。
アニタ、ねえ、アニタ。
アニタが黒曜を嫌いなのと、兄姉みんなの血が繋がっていないのは関係があるのかな。
思わず突き飛ばしてしまうくらい、憎しみのような嫌悪は、関係があるのかな。
あの時鳴っていた音が爆音だったのは、関係が、あるのかな。
ねえ、アニタ。黒曜は、黒曜と繋がる何かは、あなたに何をしたんだろう。
分からない。分からないなら、聞かないと駄目だ。
その為には、帰らないと。
ユアンは泣いているだろうか。それとも怒っているだろうか。怒りの代償として虫を集めていたらどうしよう。籠いっぱいの虫を投げつけられたら私が泣く。
後ろ手に縛られた手を握り締めて、目を開ける。窓が閉じられた鉄馬車だけど、あの地下の暗さには敵わない。隙間から光が漏れているし、灯りがないと何も見えない闇じゃない。
だから、手を引いてもらわなくても一人で歩ける。
『ルーナ』
大丈夫。
『ルーナ』
大丈夫。
『ルーナ』
大丈夫だ。だって、こんなの初めてじゃない。いわばプロだ。捕まるプロだ。逃げ出すプロじゃないのが悲しいけれど、蹲らないでいられる。
初めて捕まった時はリリィと会って、逃げ出そうとか考える余裕がないままに助けてもらった。ツバキに捕まった時は、最初にドタバタしすぎて逃げ出しにくくなった。
だから、チャンスを待とう。扉が開いた瞬間走り出したいところだけど、我慢だ。足枷がつけられたら何も出来なくなる。耐えるのだって戦略だ。私の頭で思いつく数少ない作戦だ。考えろ。思考を放棄するな。考えろ。頭の中焦げても考えろ。考えろ。馬鹿でも考えろ。プライドなんて二の次三の次だ。へこへこ頭を下げよう。土下座だってしよう。何が何でも、生きて帰ろう。
がつがつと、自分で頭をぶつけて気合いを入れる。
こんなことばかりだ。会えたと思ったら遠ざかって、近づけたと思ったら離ればなれになる。もう嫌だ。なんでこんなことばっかり。そう思うのは嘘じゃない。でも、諦めたくない。どんな願いも諦めたくない。諦めたら終わってしまう。諦め方なんて、誰にも教わらなかった。両親が、先生が、皆が教えてくれたのは諦め方なんかじゃない。彼らは私に、頑張り方を教えてくれたんだ。
諦めない限り、願いは終わらない。帰りたい。会いたい。ルーナと、アリスと、ユアンと会って、リリィ達がいる場所に帰るんだ。
馬車が止まる。いろんな音が鉄越しに聞こえてきた。
錠の開く音がする。外から錠をかけられる異様な状況にも慣れてきた。慣れって大事だ。その慣れを生かして足枷がつけられないよう、大人しく、従順に、その時を待とう。
「降りろ」
逆光で偉そうに言われても怖くない。だって顔が見えない。大丈夫だ。足は震えていない。だから、ちゃんと歩ける。
私は従順に立ち上がり、神妙に馬車から転がり落ちた。
純粋に段差を踏み外した。痛かった。
後ろ手に縛れている所為で、どこも掴めず支えられなかった。盛大に顔から落ちて悶えていたら、上から爆笑が降ってくる。全然嬉しくないけれど、聞き覚えがあった。
「さあどう出るかと思いきや、お前はつくづく面白いなぁ、黒曜」
ディナストだ。
頭を上げたら不敬だろうか。大人しくしていようと決めたからには、徹底的にしようと、反射的に上げかけた頭を地面に落とす。相手の出方に従おう。大人しくするってそう言うことだ。睨み付けたり、逃げ出そうとしたいけどそれは大人しくない。
「おい、黒曜?」
呼びかけられても顔を上げろと言われてないから上げない。だって、面接だって座れと言われるまで座っちゃ駄目なんだ。
しかし、相手の出方を見ようと思ったけど、相手が出ない。変な沈黙が落ちて、背中や首筋に視線が突き刺さっている気がする。顔を上げたいけど、駄目だ。大人しく、従順に。
「……なんだ、つまらんな。以前見た際は珍獣に見えたが、ただの犬だったか。犬なら犬らしく鳴いてみせろ」
後頭部に何か乗ってきて、顔が地面に押し付けられる。形状的に靴の気がするのだけど、気のせいだろうか。
「わぉん!」
従順に、鳴けと言われたから鳴いた。プライドより命だ。そして、犬の鳴き真似して痛むプライドは最初からない。
「……猫」
「にゃあ!」
「鶏」
「こけーこっこっこっこっ!」
「鰐」
鰐!?
鰐の鳴き声!?
何かと鰐を放ってくるディナストは、鰐が好きなんだろうか。いや、そんなことより大人しく従順に鰐の鳴き声を。実物を見た私に隙はない! 鰐はあれだ。あの大きな口をぱかりと開けて、ずらりと並んだ歯を見せつけて……。
「わ、わにぃ!」
それっぽいの言っておけばいいかと思っていたのに、これじゃないのだけは確かな出来栄えになった。それは分かるけど、冷静になった今も正解が分からない。
しんっと静まり返った中に、わにぃにぃにぃ……と悲しいエコーが響いていく。響いているということは、何か、天井がある場所なのだろうか。
「はっ!」
一言飛び出した笑いを皮切りに、ディナストの爆笑が響く。この人、笑い上戸だと思うのだ。笑う度に頭の上の圧力が揺れながら増すから、これ、やっぱり足だ。でも、この笑いが従順の効果だとしたら、私の作戦は大成功である。相手の機嫌を損ねないようにするのは大事だ。
ガリザザの皆さんこんにちは! これがごますりの黒曜です!
顔を上げていいなら手も揉もう。如何にして相手の機嫌を損ねずにいるかを考えていたら、衣擦れの音がして、頭の皮が剥がれた。
「いっ…………!?」
痛い痛い痛い!
何が何だか分からず、とにかく痛みから逃れようとしても手が動かせないので余計に混乱する。上半身が浮き、頭の左半分が燃えるような痛みを発していた。耳元で、じゃくじゃくと、細かい物が削ぎ落されるような音がする。
目の前が真っ赤になって、痛みと恐怖で身体中が強張る。削がれている、頭を、痛い、死ぬ、痛い、怖い、痛い!
身体中を電流のように走り抜け引き攣らせた激痛は唐突に消えた。支えがなくなって地面に打ち付けた肩の痛みが救いに思えるほどの激痛だった。
ひっ、ひっ、と、引きつけを起こしたような呼吸が心音と同時に口から洩れる。死んだかもしれない。だって、頭剥がれた。
真っ赤に染まった思考の中で、鋭いのか鈍いのか分からない痛みが一緒に回る。自分の現状を把握するのが怖い。だって、だって、これで地面が真っ赤になってたら、もう。
「つまらん女なら首を送ってやるつもりだったが、これなら生かしておいたほうが面白そうだ。おい、こっちを送っておけ」
その声に恐る恐る目を開けたら、見覚えのある色の糸を握った手が見えた。見覚えがあるどころか、私の髪だ。
髪。ディナストの右手にはカーブを描いた短剣。そのまま視線を上げれば、浅黒い肌に銀髪の男がいる。前は遠くてよく見えなかったけれど、こんな人だったのか。
そして、髪。
髪。
頭じゃなかった。
身体中の力が抜ける。よかった、頭じゃなかった。髪だ。頭が削がれたかと思った。なんだ、髪か。皮かと。それくらい痛かった。毛根どころの騒ぎじゃない。頭皮ごとごっそり失ったかと。
髪でよかった。なんだ、髪かぁ!
髪!
髪?
恭しく腰と頭を下げた人が両手で掲げ持った、銀色のお盆みたいな器に乗せられた量を見て、いつの間にか解放されていた両手で自分の頭を掴む。
『禿げ!』
以前ツバキにかけた呪いが、まさかのこっちで返ってきた! 人を呪わば穴二つ! 同じ穴の貉! 自業自得とはこのことか! 因果応報とはこのことか!
…………ことわざと四字熟語のレパートリーが尽きた。
手で触って確認したら、左側の髪がごっそり無くなっている。長い場所も残ってはいるけれど、耳より短い場所もあった。髪を掴んで短剣で削ぎ斬ったらそうなるだろう。ぺたぺたと確認した掌をそぉっと確認しても血が付いていなくて、もう一度ほっとする。よかった、皮は無事だ。
禿げは怪しい。
私から切り離された髪がどこかに運ばれていくのを、がんがんする頭でぼんやり見送ってしまう。とりあえず生きていた安堵と、あれ、どこに行くんだろう。
その視線に気が付いたのか、ディナストは剣をしまいながら説明してくれた。意外と気さくなんですね。
「ルーヴァルに、というよりは、お前の男に贈ってやるのさ」
意外でも何でもなく、鬼さくですね。
殴り飛ばしたい。
ぐっと堪えて拳を握り込むに留める。駄目だ。従順に、大人しく。生きて、ルーナの所に戻るんだ。ルーナごめん、首飾りに続いて二回目だけど、出来れば一回目の事は思いださないでもらえると嬉しい。
唇を噛み締めて、飛び出る言葉も拳と一緒に抑え込む。けれど、そんな私の努力は、髪を持っていった人が合流した先にいた、もう一人を見て吹っ飛んだ。
正確には、その人が両手で持っているお盆の上に乗った、小豆色の髪を見て。
「やっぱり、生きがいいのが一番だな。黒曜もそう思うだろう?」
大人しく隣を歩く私の手を引き、子どもみたいに無邪気な笑顔を浮かべて同意を求めてくるディナストを睨む。答えようにも顔が痛くて喋れない。飛び掛かった私を殴り飛ばしたその手で繋ぎ、平然と引っ張っていく姿に、狂皇子の名前がちらつく。鼻血出した私を見て、あの時みたいだなと楽しげに笑う姿は、異様なものにしか見えなかった。
手を振りほどきたい。けれど、軽く握られているようでいて、引き抜こうとすれば指が折れんばかりの力を籠めてくるから諦めた。折れるのは、その頬殴り飛ばす指二本の為に取っておくのだ。
ここは、陣の中みたいだ。建物じゃないのは分かる。サーカスみたいなテントがたくさん建っているのだ。ディナストはたくさんの人間を連れて、テントの間をぬったり、そのまま通り抜けたりと進んでいく。
いろんな装飾が、今まであまり見たことがない物ばかりで物珍しい。こんな状況でなければ立ち止まって眺めてみたかった。西洋風な印象だったルーヴァルとはがらりと違い、アラビアンな雰囲気だ。詳しくないので断定はできないけれど、たぶんアラビアンだ。お腹を出してひらひらしてる服だから、アラビアン……あれ? インド?
刺繍が凄くて思わず目を引かれてしまった私を引っ張って、ディナストは幕をくぐって階段を昇っていく。転ばないよう慌ててついていった先で、むわっとした熱気と、うわんっと立ち上る歓声が響く。空いた手で耳を塞ぎながら、思わず眉を顰めてしまう。
そこは、初めてディナストを見たあの場所に似ていた。テントの中なので、巨大な岩壁に囲まれているわけじゃない。けれど、観客席のようなものが中央の地面をぐるりと一周囲っている情景は、どうしたってあの日を思い出す。
兵士達はディナストが入った来た瞬間、ぴたりと歓声を止めたけれど、上げられた片手を見てすぐに再開した。さっきより声が大きくなったのは、盛り上げる為だろうか。
たくさんの兵士達が何を見ているのだろうと、中央を見て、喉が引き攣った。
「アマリアさん!」
肩より短くなった小豆色の髪を揺らしながら、兵士達に突き飛ばされているアマリアさんを見つけて切れた口の中を忘れた。思いっきり叫んだ私の声が届いたのか、アマリアさんはたくさんの歓声の中でも顔を上げて、ぐるりと視線を回す。そして、最上段にいる私を見つけた。
血の味がする唾を飲み込んで、もう一度口を開いた私の言葉が遮られる。
「女ぁ!」
必死に手を引き抜こうと暴れる私の髪が掴み上げられた。ディナストは、私の髪を手綱か何かと勘違いしている。純粋に感じる痛みと、さっき感じた恐怖で思わず身が竦んでしまった。
「お前が負ければ、この女を俺の伽に呼ぶことにした」
遠目でも分かるくらい、アマリアさんの眼が見開かれる。
「勝てば客人として持て成してやる。望めば同室にもしてやろう」
『触るな! 放して! 放せ!』
当初の目標なんて吹き飛んだ。この状況で大人しくしていられるわけがない。アマリアさんを囲む男達は、ざっと数えても三十人以上いるのだ。しかも、全員素手じゃない。剣や鉄槌を持っている。一番危険がなさそうな武器でさえ棍棒なのだ。
「アマリアさん! 逃亡して! アマリアさん!」
逃げ道があるとは思えないけれど、それでも逃げてほしい。こんなのただの嬲り殺しだ。兵士達はにやにや笑って、剣の腹を掌に打ち付けたり、肩を叩いたりしている。楽しんでいる。楽しんで、人を、嬲ろうとしている。
「アマリアさんに手を上げるなぁ!」
掴まれた手を引き抜けないなら、空いた手で暴れるしかない。そのままディナストの腰に手を伸ばし、剣の柄に届いた瞬間、繋がれている手を捻りあげられた。折れる。いや、折られる。でも、剣は引き抜いた。
その剣をディナストのお腹に当てる。片手を捻りあげられた痛みで首元まで上げられなかったけれど、剣は、突きつけられた。
「アマリアさんに、手を、上げるな!」
必死に叫んだけれど、周りの雰囲気がおかしい。だって、皇子に剣を突きつけているのに、誰一人慌てていないのだ。ディナスト本人も面白そうに見下ろしているだけだった。
「何故に、して」
剣をお腹に突きつけられている当人は、くつくつと笑う。
「お前が俺を刺すのと、周りの兵士がお前を殺すのはどっちが早い?」
そう言われて初めて、首の後ろや背中にひやりとした切っ先が多数向いているのに気が付いた。
「お前が俺を刺すのと、俺がお前の腕を圧し折るのはどっちが早い?」
みしりと軋んだのは、きっと骨だろう。
「こんな手も振りほどけないお前の片腕は、どれほどのものだろうなぁ? 既に震えるその腕で、俺を殺せるのか?」
嘲る顔に、歯を食いしばる。
私が持っているこれは、刃物だ。決して人に向けてはいけないと教わってきた包丁。切る時は猫の手で。刃物は人の肌に触れさせるものではない。そう教わってきた刃物を、人を斬るために作られた剣を、私は今、人に向けている。腕を切られたときは痛かった。他者から、それも勢いがないと耐えられない、熱のような痛みだった。薄く鋭い刃が、肌を裂いていく痛み。その後に滲みだす激痛。
あの痛みを、私は人に与えようとしている。
刺すために。人を、害すために。
こみ上がってくる何かを、ぐっと飲み込む。
分かっている。分かっていて、剣を奪った。
「試験、してみろ」
試してみろ。
冷たくなった手から滲みだす汗で滑る剣を握り直した私に、ディナストは意外そうに片眉を上げた。そして、くつくつと笑い出す。
剣を突きつけている私には全く余裕なんてない。何がおかしいんだと怒鳴り返そうとした私を遮ったのは、アマリアさんだった。
「カズキ様」
神経が尖っている時に呼ばれた自分の名前に反射的に反応してしまった。振り向いたと同時に周りの兵士に剣を叩き落とされる。慌てて拾おうとしたけれど、蹴り飛ばされた剣は人の足に飲まれてどこにも見えなくなった。
追い縋ろうとしたけれど、次に聞こえてきた言葉に跳ね起きる。
「剣を二本」
「アマリアさん!?」
渡された剣を鞘から引き抜き、軽く振ったアマリアさんはそれを地面に突き刺した。そして、立たせた剣の間に立ち、服を脱ぎ始める。目を瞠った兵士達はすぐに口笛へと変えた。
「アマリアさん!」
悲鳴を上げる私に、彼女は一つ頷いた。頷いた理由が分からない!
野次と下卑た言葉が飛び交い始めたテント内は、しかし、アマリアさんが脱いでいくにしたがって徐々に静かになっていった。
シンプルなドレスを脱いだ下から現れたのは、片方の肩だけを通したスポーツブラのような形をした革の胸当てと、短パンのようなズボン。お腹は、お婆ちゃんちのそのまま水を凍らせる製氷皿みたいに割れている。
そして、その背中には、まるで生きているかのような龍の入れ墨。
身を乗り出したのはディナストだった。
「ヌエ族か! これはいい! 生き残りがいたか!」
ざわりと広がる動揺を意に介さず、アマリアさんは立てていた剣を引き抜き、二本を構えた。
「我はヌエ族が戦士が一人、アマリア・クリーガー。ガリザザ兵よ、その命、惜しまぬならばかかってこい!」
その声は、たった一人とは思えないほど力強く、大気を揺らした。




