64.神様、離ればなれは少しだけだと
呆れられるかなと思ったけれど、ルーナは特に何も言わない。会話も途切れてしまったので、同じように星でも見てるのかなと視線を戻したら、水色と目が合った。ずっと見られていたのかと思うと、急に恥ずかしくなる。欠伸しなくてよかった。でも、ちょっと待って。私起きてから鏡を見てないから、目やにとか涎とか確認してない。寝癖は諦める。寧ろそっちを見て。
どうせならここに来るまでに確認しておけばよかったと思うけれど後の祭りだ。水色が綺麗で、もっと見ていたくて、逸らしてほしいと思えない。
逸らせずに見上げた水色がぶれる。
待って、ルーナ。私まだ、もうちょっとだけでいいから、手を繋いでいたい。
水色の中で私がぶれる。そのまま溶けてしまうと思った瞬間、ルーナは固く目を瞑った。
はっとなって、慌てて繋いでいた手を離す。
『ごめん、ルーナ! しんどかった!? 頭痛い!? 目!? 目が痛い!?』
ごめん、私を見ていたら苦しかった!? ごめん、ごめん、ルーナ。ルーナが大丈夫になるまでゆっくりでいいから、いつかでいいからと思っていたのに逸らせなかった。逸らすべきだった。今のルーナにはつらい行為なら早く逸らしたらよかったのに、ごめん、凄く嬉しくてつい見入ってしまった。
触っていいのか、寧ろ黙ったほうがいいのか分からず、両手を彷徨わせていた私の両手が掴まれる。目を閉じているのにどうして掴めたのだろうとびっくりして飛び上がった私の前で、ゆっくりと、両眼が開かれていく。
綺麗な水色の中で、私がびっくりしている。びっくりした私が、揺れずに、水色の中にいる。
「カズキは、怒っていいんだ」
『何を?』
夜に起こされたこと? ルーナだって好き好んで魘されたわけじゃないし、困ったときや苦しいときはお互い様だし、寝てる間のことを怒るとなると、私とユアンは毎朝ルーナとアリスに土下座から一日を始めなければならなくなる。……あれ? それ今でもわりとしてるな。
そう聞くと、視界がぶれた。目の前が真っ黒になって、何が何だか分からない。聞くと視界が奪われる禁断の質問だったのかと驚愕したけれど、温かさと音が染み込んできて、やっと理解した。
「それだって怒っていい。押し付けられる理不尽なものにも怒っていい。俺の弱さを、押し付けられたことを、怒っていいんだ」
離れたくなくて押しつけた耳に、心臓の音が聞こえる。背中に、頭に、回った掌が温かい。どうしよう。私も抱きしめたい。意を決して、彷徨わせた手をルーナの背中に回す。服をぐしゃりと握り締めてしがみつく。
「俺がカズキの弱さを背負うと約束したのに、結局また背負わせた」
『思い、出したの?』
ルーナは申し訳なさそうに首を振って、また謝る。
「俺は、カズキに背負わせてばかりだ」
そんなのどうでもいいよ。帰ってきてくれたじゃない。生きて、帰ってきてくれたじゃない。
『……アリスに、何か、聞いた?』
ツバキと話した内容を聞いたのかもしれないと、ふと思った。ルーナは答えない。それが答えだと分かる。
「……一緒にいて、分かった。結局俺は、記憶があろうがなかろうが、カズキがいようがいまいが、気になるんだ。どうあっても気になるくせに、失うのが怖いからと思い出せないのは、ただ俺の弱さだ。カズキの所為なんかじゃない。記憶の中の俺は、カズキとの記憶に縋って生きた。カズキとの記憶は弱みじゃない。俺の支えだったんだ」
鼻の奥が痛い。目の奥が熱い。
どうしよう。最近私は、随分と泣き虫だ。
泣いていいといってくれたルーナの前だからそのまま泣いていいのか、それともまだ記憶を思い出せないから堪えたほうがいいのか。
分からない。どうでもいい。いま、ここにルーナがいる以上に大事なことなんてない。
「前に、聞きそびれたことを、聞いてもいいか?」
声を出したら鼻水出そうで、頷くことで返事にする。
「カズキは、俺の何を、好きになってくれたんだ?」
声には純粋な疑問しかない。私がルーナを好きだということを疑っていないことが嬉しい。ちゃんと伝わっていたんだ。
鼻を思いっきりすすって、何度も息を吐く。何度吐いても、熱っぽさが消えない。しゃくり上げそうになる胸をなんとか落ち着かせる。
答えを探す必要はない。だって、私の中に既にある答えだから。
『言葉が、人の心を打つって、初めて、知った。それが私の言葉だったことが、信じられなかった。何気ない言葉でも、私が言った言葉が誰かの中で咲いた瞬間を、初めて見た。言葉が、誰かに影響するって知ってたのに、初めて分かった。言葉が誰かの心を揺らして、芽吹いて、咲いた。気持ちが、言葉で届くって教えてくれた。……ルーナが、教えてくれたんだよ』
涙が止まらない。熱なんて出てないのに、流れる涙で火傷しそうだ。
『私の言葉を胸の中で咲かせてくれるくらい、誰かに好きになってもらったのなんて、初めてだった。何気ない言葉を美しいものとして咲かせてくれるルーナが、私の言葉で、嬉しそうに笑ってくれるのが嬉しくて、もっと笑ってほしくて、笑ってくれたら、嬉しくて』
言葉は、気持ちは、私の中だけで持っていたって咲いたりしない。そこに意味が出来たり、輝いたりしない。言葉に意味を持たせてくれるのは、いつだって自分以外の誰かだ。その中に意味を見出し、何かの糧にしてくれるのは、言葉を受け取ってくれた誰かなんだ。
『ルーナ。私の言葉を、綺麗なものにしてくれてありがとう』
私の気持ちを美しいものとして受け取ってくれる、純真な心が眩しかった。信じられないほど真摯な気持ちを初めて向けられて戸惑った。けど、どうしようもなく嬉しくて。そうしてくれるルーナの美しさが、どうしようもなく、好きだった。
ルーナの中で咲いた美しさに恥ずかしくない人間になろうと思った。私の言葉を真摯に受け止めてくれる人がいると知ったから、絶対に傷つける言葉は吐かないでいようと決めた。侮辱や罵倒を、悪意の気持ちで吐いたりしないと決めた。
どんな言葉も、何気ない言葉でも、全身全霊で抱きしめてくれる人がいると教えてくれた。
だから私も、ルーナが受け止めてくれる真摯さに、応えられる人間でいたいんだ。
腕の力が強くなって、深い息が身体に染みこむ。きっとこれは言葉だ。音にならなかっただけで、ルーナの気持ちだ。
「ありがとう――……」
ルーナはそれ以上何も言わなかった。でも、それでもいい。
お互いの心臓の音が混じり合うだけで、伝わるものもあると思うから。
「……必ず思い出して帰ってくる。だから、もう少しだけ待っていてくれるか?」
頷くだけでもきっと伝わる。抱きしめる力を強くしても分かってくれる。
だけど、大事なことは言葉にしたい。それが言葉として形に出来るのなら、ちゃんと、言葉で伝えたい。
背中から手を離してルーナの胸を押す。やんわりと緩めてくれた腕の中で、一所懸命顔を拭って息を整える。
好きだよ、ルーナ。大好きだよ。
気持ちが溢れだせば、自然と笑顔になっていく。
一緒には行けない。今は一緒にはいられない。だから、持っていって。今の私を、記憶として連れていって。
『はい、喜んで!』
私は会心の笑顔を放った。だって、水色に全開笑顔の私が映っている。水色の中の私は、笑顔のまま目を見開いていく。落ちてきた唇は額だったけど、触れた瞬間、びっくりして思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。
そして、何だか無性に恥ずかしくて、部屋に帰るまで顔を見られなくなったのは私だった。
何だか照れくさい気分のまま部屋に戻ったら、ぶすっとしたユアンがアリスに羽交い絞めにされていた。
「…………何事?」
靴を脱いでベッドに登ると、ユアンは盛大に不貞腐れた顔で睨んできた。
「起きたらママがいないから探しに行こうとしたら、アリスが俺を邪魔するんだ!」
「私は寝ている」
「絶対うそだ!」
ユアンに同意だ。絶対嘘だ!
結局私達は、夜も更けたというのに、くすぐり合いから足相撲まで遊び倒してしまった。
足相撲を知らなかった三人に比べて、私は歴戦の勇者。騎士でも何でもない私にも勝利することは可能だ!
まあ、結果は華麗なる最下位だった。そして、ルーナとアリスの勝負がいつまで経ってもつかなくて欠伸をしたことまでは覚えている。
いつ眠ったのか分からない二人だったけれど、朝はちゃんと私達より先に起きて着替えも終えていたのは流石だ。でも、二人の頭でぴょいんと跳ねている寝癖を見つけて、ユアンと二人、ベッドの上から笑った。
この近辺には入口を探そうとしているガリザザ軍がたむろしているから、ルーヴァル軍は地下道を通って遠い出口から出る。まだ移動だから、鎧を着ている人はいないけど、荷物の中でがちゃがちゃしている音が凄い。
でも、そんな音に負けないくらい、送り出す人達の声が溢れ返っている。あっちではラヴァエル王子……じゃなくて、もう王様だ。ラヴァエル王に、ミヴァエラ王子が何かを言って、その頭をぐしゃぐしゃに撫でられて頬を膨らませている。アマリアさんは、ロジウさんの胸と自分の胸に掌を置いて、何かを言っていた。アニタはロジウさんに屈んでもらって額を合わせて、何かを言っている。きっと、それぞれの祈りだろう。武運を、無事の帰還を、生還を。
なんで分かったかというと、あちこちで祈りが溢れているからだ。
言葉は祈りだ。祈りを声で相手に届ける。
一緒に戦えない人間に出来ることは、必死の祈りと、彼らに生きて帰りたいと思ってもらえる記憶を持っていってもらうことだけだ。
私もいろいろ考えた。いっぱい、頭がショートするくらい考えた。でも、気の利いた言葉なんて思いつかない。祈り方も知らない。だから、素直に願いだけを連れていってもらうことにした。
「ルーナ、アリス」
二人の手を握って、顔を上げる。
「待ってる!」
持っていって。
願いを言葉で連れていって。
必ず戻ってくると信じてる。信じないと、見送れない。背中は押せないけど引っ張らないから、帰ってきて。
繋いだ手は震えが止まらないけど、声は震えなかった。
「俺も、待ってる。だから、早く帰ってこいよ」
ユアンはアリスに抱きついて、頬に親愛のキスを贈り合う。私もルーナに抱きついて、頬に贈り合った。
「カズキ、一つ聞いてもいいか?」
「宜しいよ?」
「夢の中でいつも、答えを聞けない言葉があるんだ」
何だろう。ちゃんと答えられるだろうか。忘れてしまっていなければいいな。
まだ聞かれていない記憶を必死に掘り出す。
「砦で、ティエンチェンに引っ張られて遊びに参加していた話をした時」
『色鬼で黒毛と言ったティエンを絶対に許さない』
おかげで皆に頭を掴まれて眉毛を触られ、もみくちゃになった。でも、そのティエンに高鬼と色鬼を教えてしまったのは私なので、自業自得ともいえる。黒毛和牛食べたくなった恨みも忘れないけど。
ルーナは笑いながら、違うと言った。
「かくれ鬼は、何の遊びだと言った?」
それなら覚えている。ティエンが突如として開催する鬼ごっこだのかくれんぼだのの遊び大会。勿論非番の人だけで、参加自由だけど娯楽の少ない場所だったからか、結構な参加率を誇っていた。そんな中でもルーナは毎度断っていたけれど、全員から追いかけられて参加せざるを得なかったので、思わず応援したものだ。
そんな時にかくれんぼの話を聞いた。ルーナは、一度も見つかったことがなかった。かくれんぼの時は、これ幸いとどこかに篭って本でも読んでいたのだろうなと苦笑した覚えがある。かくれんぼは隠れる遊びだろうとルーナが言うから、確か、違うと答えた。
『かくれんぼは、見つけてもらう遊びだよって言った気がする』
それがどうしたんだろう。かくれんぼしたいんだろうか。帰ってきたらしようね!
答えられてよかったと安堵したら、ルーナは深く息を吐いて目を閉じてしまった。さあ、私は一体何をやらかした!?
いまこの状況でのやらかしは、いつものやらかしの比ではないくらいまずい。
わたわたしていると、再度深く抱きこまれた。
「……お前と出会えた幸運に、感謝する」
よく分からないけど、離れたルーナの顔は穏やかに笑っていたので幸せだ。
一度離れて、くるりと相手を交代する。ユアンはルーナに、私はアリスに贈り合う。日本人の私にはちょっと照れくさいけれど、想いを伝えるのにもっといい方法を知らない。
アリスとの挨拶は、ちょっと追加もあった。頬に贈り合った後、頬を寄せて耳飾りを軽く触れ合わせるのだ。
いろんな祈りの形がある。でも籠める願いも想いも変わらない。
どうか無事で、待ってる、帰ってきて。
後、大好き!
「行ってくる」
うん、ルーナ。待ってる!
「大人しく待っていろ」
うん、アリス。それは約束できないなぁ!
言葉に出してなかったのに、アリスには頬を抓られた。どうして分かったのだろう。
壁だと思っていた大きな岩が、左右五人ずつが引っ張る太いロープで動いていく。
その先にぽっかり空いた暗闇に、皆が消えていく。振り向いて手を振る人、まっすぐに前だけを見る人。進むだけでも人それぞれだ。
ルーナとアリスは、振り向かなかった。
「待ってる!」
行軍の音と、他の人の声で聞こえるはずがないと思っていたのに、二人は同じタイミングで拳を上げてくれた。
ユアンと固く手を握り合い、立ち尽くす。もう姿は見えなくなったのに、一歩も動けない。
これが最後の光景だったら嫌だ。背中を最後の記憶にしたくない。ちゃんと前を向いて、顔を見ておかえりと迎えたい。
待ってるから。
私はここで待ってるから、絶対帰ってきて。武勇なんて要らない。英雄として語られる誉も、名誉も名声も、何も持って帰らなくていい。その身一つでいいから、お願いだから帰ってきて。
エレナさんの言っていたことが、今なら分かる。ここに二人の英霊の像が建ったとしても、全然嬉しくない。無様でいい、泥まみれでいいから、生きて帰ってきて。
それまでずっと待っている。二人が帰ってきた時、走ってすぐに出迎えられるよう脚力鍛えて待ってるから。
何があろうと、私は変わらず二人が帰ってくる先にいる。帰ってくる理由の一つであり続ける。
待ってるよ。
ここで待ってる。二人を待ってる。
絶対に、何があろうと。
待っていたかったんだよ――……。




