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神様は、少々私に手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章:大陸
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61.神様、少さな灯りが見えません

 ツバキは現在軟禁状態だという。本人もそれでいいとあっさり受け入れて、大人しくしているそうだ。

 ガリザザの情報を提供する。けれど、ルーヴァルがガリザザに負けたり、自分が取り返されるようなことになればガリザザにルーヴァルの情報を提供する。口当たり耳当たりの良い建前を一切口にせずそう言ったツバキを、ラヴァエル王子は受け入れた。当然反対もあったけれど、今のところ彼が提供した情報に嘘偽りはなく、また逃げ出す素振りも反抗的な態度もなかったと聞く。


 ツバキがいるという部屋まで色んなところをぐねぐね進んだ。とっくの昔に帰り道は分からなくなったけれど、ツバキのいる場所に近づいているのは分かる。だって、通路の両端に休めの状態で立っている兵士がいる頻度が上がってきたのだ。灯りが少なめなのは、ツバキが逃げ出した時に足が鈍るようにだと聞いた。

 がんごんぶつかり、ツバキ対策で私の痣が増えていき、アリスは黙々と進んでいく。夜目が利くのか、私が利かないのか。

 暗い道をぐねぐね進んでいると、蟻の巣みたいだなとふと思った。次の灯りまで遠いから、真っ暗な道に向けて歩いていくと、何だか未来もそんな気がしてきてしまう。先が見えない真っ暗な未来。進んでも進んでも、灯りはぽつぽつとしかなくて、その先には明るい物や温かい物は何もないんじゃないか。頑張って進んでも、この場所みたいに空気は冷たく澱んでいて、幸せなこととか楽しいことはないんじゃないか。そんな気持ちが湧き出てきて、顔が下を向いていく。そう気づいて、慌てて上げる。下を見たところでどうせ見えないのだから、せめて顔を上げて前を見ていよう。上げても見えないけど、気分まで下がるとどうしようもない。大丈夫だと言って、渋るアリスに連れてきてもらったんだ。せめて嘘にならないよう、大丈夫でいるためにも気分は上げておこう。気分が上がるとテンションも上がるはずだ。

 顔を上げていたおかげで、唐突に止まったアリスの背に気づけた。ほら、前を見るって大切だ。ただし、結局体当たりはした。カズキは急には止まれません。



 それは、岩壁にただはめ込んだような他の部屋の扉とは違う。隙間なく埋められた鉄の扉がそこにはあった。その左右に兵士が二人いる。二人は、アリスと私を見て一礼し、何も言ってないのに鍵を開け始めてくれたので、恐らく連絡が先に行っているのだろう。三本ある太い鉄棒の鍵だけでも結構なインパクトがあったけれど、それを外した後に鍵穴まで現れたのにも仰天した。厳重だ。

 兵士の二人は、ノックもなしに重たい鉄扉を押した。鍵を外す作業音がある意味ノック変わりなのかもしれないなと、開かれた扉の先で驚きもせず悠然とこっちを見ているツバキを見て思った。



 厳重な鍵の部屋だから、中も同じように重々しい感じかと思いきや、意外とシンプルで普通だ。テーブルと椅子と棚。本棚もある。ホテルみたいだ。更に奥があるのはお風呂とか水回りなのか、それともベッドがないから寝室なのかもしれない。もしかしなくても、私達の部屋より広そうだ。居候の身だし、特に不都合がないので文句はないけれど、せめてルーナとアリスはベッドを別にしてあげてほしいとは思う。壁際きゅうきゅうに詰めてもくっつけないとベッドが二つ入らない部屋幅で、私とユアンで一つ、ルーナとアリスで一つだから仕方がないけれど、この広さはちょっと羨ましい。

 たまに寝相悪くて、ユアンと一緒に二人のベッド侵略を開始し、そっちのベッドを乗っ取って本当に申し訳ない。朝起きたらルーナ達のベッドで大の字に寝ていて、ルーナとアリスが私達のベッドの壁端で寝ていたときは思わず土下座した。

 周りが岩壁だから、田舎のお婆ちゃん家みたいに襖外したら大部屋になるような作りは無理だし、部屋の形や狭さは仕方がないと分かってはいる。いるけれど、寝ているときは気をつけようがない。軟禁されたいわけじゃないからこっちの部屋に移りたいとは思わなくても、羨ましいと思うことは許してほしい。後、ルーナとアリスは本当にごめん。



 こっちにも連絡がいっていたのか、テーブルの上にはお茶とお菓子が用意されていた。

 アリスは何も言わず中に入ったので、一応礼儀として挨拶をしておく。

「お邪魔虫します」

 ちゃんと礼儀は通したのに、アリスはため息をついて、ツバキはハッと笑いを吐き出した。

 ツバキは、読んでいたらしい本を閉じて立ち上がる。テーブルに置かれた本の背表紙には見覚えがある。凄くある。私がこっちの世界でまともに読んだ本なんて指一本で数えることができるので、見覚えがあるのなら、あれは黒曜姫と騎士ルーナだ。なんですか。お気に入りですか。その参考書、あんまり参考になりませんでしたよ。だってルーナ腕組んでたから。



 ツバキの服は、ルーヴァルの人達みたいな服だ。ルーヴァルにいるのだから当然かもしれないけれど、その辺拘り無いタイプなのだろうか。ブルドゥスにいるときはブルドゥスの服を着て、ディナストの遣いだという時はガリザザの服を着て、ルーヴァルに情報を渡している時はルーヴァルの服。

 それは当たり前のことだけど、たぶん、私が思っているより当たり前じゃないことだ。


「さて、と。久しぶりだなと感動の再会を喜びたいところだけど、アードルゲの騎士は出ていっちゃくれないか? あの存在を既に知ってるとはいえ、細かい事話すほど、俺はあんたのこと信用しちゃいねぇの」

 ひらひらと振られた片手に、アリスは眉間の皺を取った。深くなるのかと思っていたから驚く。

「断る」

 でも断わった。

 受け入れる気が最初からなかったから、悩む必要もなくて眉間の皺が取れたのだろうか。

「即答かよ」

「カズキと二人にしておけるほど、私も貴様を信用していない」

 そう言ったアリスは私の腕を掴んで椅子に座らせて、その隣にさっさと座った。

 ツバキはひょいっと肩を竦めて向かいの椅子の背に肘を置く。まだ座らないらしい。

「番犬かよ」

「親友だ」

「親友よ」

 同じタイミングで訂正したら、ひゅうっと口笛が返ってきた。私は笛ラムネがないと吹けないのでちょっと羨ましい。

「あんたより年下だった頃のイツキ様は、あの石の取り扱いにもっと慎重だったぜ? 何せこっちの世界に現れた際にあった石は、ディナストにエマ様が負けて城が攻め落とされた時、ディナストに奪われまいと自ら砕いちまったからな」

 全部大事だった話の中で、どこに重点を置けばいいのか。悩む私に、元十三皇女だとアリスが教えてくれた。そういえば知らない名前の人がいたとようやく気付く。お願いだから情報は小出しにしてほしい。一つの会話で纏められても全部理解するまでに時間がかかる。

「あの石は、利用しようと思ったらどうとでもなる。イツキ様は身近な人間にも、あの石の存在すら明かさなかった。下手すりゃ世界をひっくり返せる石を託せる程、あんたはそいつを信用してるのか?」

 そいつと指さされたアリスは、何も言わずツバキを睨み返している。ツバキも掌の動きはひらひらと軽いのに、目が笑っていない。こういう笑い方を、ツバキはよくする。嘘をつくときは目も笑うのに、相手を試している時は笑っていないような気がする。間違いないと断言できるほど親しくはないけれど、そんな気がしている。まあ別に、間違っていても問題ないくらい親しくないから、悲しくも悔しくもない。

 でも、アリスちゃんとはそうじゃない。

「私、アリスが信用できない状況下に陥ったのならば、他者の誰しも信用不可な状態よ」

 微動だにせずツバキを睨み返していたアリスが、目を丸くして私を見た。どうしてそんなに驚くんでしょうかね。

 アリスに裏切られたら、他の誰を信用するのも怖くなる。そのくらい信用も信頼もしているし、アリスが好きだし、大事な親友だ。それを、さも意外であるといわんばかりに驚かなくてもいいんじゃないだろうか。そんなの分かってい……るわけがないかもしれない。そういえば言葉にした事はなかった。言葉って大事だ。

「アリスは、重要案件な親友よ」

「一気に義務的になった信用は置いておいて、あんたは俺に何を聞きたいんだ?」

 椅子の背に肘を置いたまま、ツバキは掌に顎を乗せた。まだ座る気はないらしいけれど、それを待つ必要もないだろう。膝の上に乗せた両手をぎゅっと握り、瞳が揺れないよう、声が震えないよう気合を入れる。

「……ルーナに、何事を、言ったの」

「は?」

「ルーナにまじないを施した際、何事を言ったの」

 石の事とか、ツバキの目的とか、たぶん私が聞かなきゃいけないのはそういうことで。そんなのは分かってる。聞きたくないわけでも、聞かなくてもいいやと思ってるわけでは決してない。ただ、真っ先に聞きたいのはルーナのことだ。


 ぱちくりと瞬きをした瞳は、予想外のことを言われたからだと思った。私が聞くであろうどの質問をすっ飛ばして、ルーナのことを聞いたからだと。

「は、ははっ……!」

 でもまさか、どっかり椅子に座ってお腹を抱えて笑い出されるとは思わなかった。

 私にとっては重大事項だけど、ツバキからしたら呆れられるかもしれないとは思っていたけれど、ひぃひぃ苦しそうに笑い転げられると困惑する。アリスと目を合わせて、今度はこっちがぱちくりと瞬きする番だ。

 一人で呼吸困難になりかけているツバキは、ぴたりと動きを止めて長い息を吐いた。ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き乱し、その手を頭から引っこ抜かないまま、肘の間から視線が合う。

「……あんたはほんと、あの人と同じ世界の人間なんだな」

 何を今更という思いと、なんで今それを思ったんだろうという思いが混ざり合う。後、なんで爆笑したのだろう。疑問には思ったけれど、余計な事を言って口を噤まれても困るので、アリスと首を傾げ合うにとどめる。



 もう一回深く息を吐いたツバキは、お茶を一気飲みして、また息を吐いた。こっちにも分かるくらい、大きく大きく息を吐く。息を吐き切った後に口元に浮かんだのは、苦笑だった。

「あの人もそうだった。エマ様が会議から戻れば、その内容よりエマ様の頭痛を気にかけた。遠征から戻れば、進退より怪我の有無ばかりを気にした。……大局を見ることはできない人だった。作戦を立てるとか、制度の歪を見つけるとか、そんな形で世界に関わる自分を、考えたことすらない人だった。……いつだって、目の届く範囲しか見えず、手の届く範囲しか分からなかった。でも、その範囲をとても大事にした。見える範囲に関わった人には、身分関係なく言葉をかけた。転べば手を差し出して、一緒に池に落ちても笑っているような、優しい、人だった」

 ツバキはぐしゃりと髪を握り潰し、口元を歪ませる。

「奴隷商から逃げだした俺を、可哀相だからという理由だけでエマ様に頭下げて匿って、子どもだからという理由だけで甘やかして、それを信じられなくてナイフ振り回して暴れた俺に切りつけられても、怖がらせてごめんねと謝るような……優しく、愚かで、馬鹿な人だった」

 歪んだ口元から紡がれるそれは、まるで宝物を開くような音だった。だからだろうか。目と耳で全く違う世界が、全て過去形で語られていると気づくのに、少し遅れた。

「俺は、あの人の為なら何だってできる。あの人を生かす為なら、エマ様を殺したディナストの配下にだって下る。ディナストの(めい)で嘗ての同胞だって殺すし、ブルドゥスが滅ぼうがグラースが隷属に堕ちようがどうでもいい。ルーヴァルがディナストを殺してあの人を解放できるなら、俺は命を懸けても協力する。ルーヴァルが負けるならラヴァエルの首を取って、ガリザザに戻る」

「…………貴様は、そんなことを繰り返してきたのか?」

 静かなアリスの問いに、ツバキの口角は三日月のように吊り上った。

「それがあの人を生かすというなら、当たり前だろ」

 まるで狂気のような色を浮かべてツバキは笑うのに、何故だろう、恐ろしく感じない。

「よく、生き延びたな」

「俺が死ねばイツキ様を殺すとディナストが言うからな。そりゃあ、必死にもなるさ」

「ディナストは、貴様の行動を見逃しているのか」

「あいつは、反抗する奴が大好きなのさ。反攻も好きだぜ。絶望から憎悪へ変貌した感情が一番強いから、それが向かう先にいるのが面白いんだとさ。だから、あいつは俺に言った。あの人を生かしたいなら下れってさ。下って、その命令を受けながら、その中でもがけと」

 ツバキは平気で嘘をつく。呼吸するように、普通に嘘をつく。

「俺は、あの人を生かせるのなら、世界だって裏切れる」

 けれど、何故だろう。今は嘘をついているように思えない。今まで見てきたツバキとは雰囲気が違って見える。どうしてだろうと考えて、すぐに気が付いた。頭を上げていないからだ。今までのツバキは、呆れようが、馬鹿にしようが、嘘をつこうが、肩をすくめようが、必ずこっちを見ていた。けれど今は、子どもみたいに腕で頭を抱えて、肘をついて机を見ている。視線だけを動かして、私を見て、また机に戻す。

「…………あんたも、あの人も、この世界になんて来るべきじゃなかったんだ。もっと、自分の手の届く世界だけで完結できる、あんたらの世界で幸せになるべきだったんだ」

「…………私達の、意思ではないよ」

「分かってるさ。だから、あんたにもあの人にも、明確な恨む先がない。神様とか運命とか、目に見えない曖昧なものを呪ったって救われない。あれは、縋る分にはいいんだろうけど、恨む先には向かないから」

 呪うとか恨むとか、現実味の沸かない言葉がつらつら続く。いや、そう思いたくないだけかもしれない。だって私は、憎悪に近い感情を知っている。それを憎悪と定義づけなかっただけだ。赤い雨と灰色の世界を思い出せば、今でも滲むあれは、怒りとは異なる何かだった。

 そして、縋る先という言葉に、ふと、大学の先生の言葉を思い出した。日本で自殺率が高いのは、信仰する絶対神がいないからだと。あの時はふーんとしか思わなかったけれど、今は頭の中をぐるぐる回るくらいどきどきする。


「…………だけどな、あんた達は明確な恨みの先になるんだよ。目に見える、手の届く憎悪の的があったら、そりゃあ恨むだろう。恨む先がないほど虚しいものはない。憎悪は喪失に嘆く人間の救いにすらなる。憎悪は憎悪を呼ぶ。憎悪をぶつけ合い、尊厳だけでなく命まで奪い尽くしても止まらず、個々の諍いが国同士の争いになって、全てを焼き尽くす。でもな、俺達はそんなの慣れてるんだよ。あっちの部族が殺し合っただの、あっちはまだ最中だの、しょっちゅうだ。憎悪だって手馴れてる。家を乗っ取られたり、山賊に家族を殺されたり、冤罪押し付けられて処断されたり、当たり前なんだよ。弱いやつは強いやつに搾取される。力でも身分でもそうだ。下のやつが踏みにじられる。恨みの先だって明確だ。だから、俺らは簡単に憎める。そのやり方は、あちこちで学べるからだ」

 つらつらと続けられる言葉をうまく咀嚼できない。ツバキも、私の理解なんて求めていないのかもしれない。次から次へと言葉を垂れ流す。まるでダムの放流のように、今まで中に溜めていたものを解放していく。

「でも、あの人はそうじゃなかった。憎んだことも憎まれたこともなく、憎悪を募らせた人間を見たことすらなかった。だから、憎み方が分からず、憎まれるままに押し潰されていった。不条理や理不尽に憤っても、すぐに悲しみや嘆きに変わった。憎むのが、本当にへたくそだったんだよ。憎悪をぶつけ合い、他へ被害を弾け出せばよかったのに、それすらできなかった。他を巻き込んで分散させることを考えもつかず、一人で憎まれた。憎み方も分からず、憎悪から身を守る術も知らず、バクダンなんて凶器をディナストに与えたことを大陸中から憎まれた。あの人だって、好き好んで教えたわけじゃない。自分の所為じゃない、自分が悪いんじゃない。そう思うのは当たり前のことだったのに、そう思う自分を恥じて、自分の無力を責めた。自分を責める奴らを憎む術は見つけられなかったくせに、自分だけは酷く上手に憎んだ。憎んで憎んで、自分を壊した。下手に倫理観とか持ってなきゃよかったんだ。人間の理想の形なんて知ってなきゃよかったんだよ。こんな時はこうするのが理想だとか知ってなきゃ、自分勝手に理由を作って逃げられたんだ」



 机の隅に置かれていた紙に何かを書きこんだツバキは、それを私の前に滑らせた。持ち上げて、短い言葉を何度も読み直す。

 一瞬、なんと読むか分からなかったけれど、何度も何度も思いを馳せた人の名前がかちりと収まる。村上だと思っていたからすぐには当てはめられなかった。

「……男性?」

「字だけで分かるのか?」

「男性に使用する事例が多いよ。それ故に、私が少々、稀である」

 羽ペンを受け取り、その横に書いた名前をなぞりながら読み上げる。

「スヤマ、カズキと、読むよ」

 アリスとツバキは目を見開く。音が違うから、字も違うと思っていたのだろう。私もそう思っていた。でも、漢字はいろんな読み方がある。名前ともなると、普通に使うよりもっと自由度が高い。


 邑上 一樹

 須山 一樹


 きっと偶然だ。それは分かる。文字で世界を渡ってしまえるのなら、世界中の一樹さんが消えてしまう。偶然だ。偶然だと分かっている。

 けれど、酷い偶然だと、思う。


 そう思ったのは私だけではなかった。私と理由は違ったけれど、この偶然に残酷さを感じたのがもう一人いた。

「だったら、あんたでよかったじゃねぇか」

 ぐしゃりと前髪を握り潰して俯いたツバキは、泣き出しそうな声でそう言った。

「イツキ様は十六歳だったから、あんたの方が年上で、馬鹿で、鈍感で、図太いなら、あんたがガリザザに落ちればよかったんだ。十年前、多分同じ日、同じようにこの世界に現れて、同じ字を持つなら、あんたがガリザザでよかったじゃねぇか。たった一年で向こうに帰れたかもしれねぇんだ。……ミガンダに落ちていれば、あの人は今も、笑っていてくれたかもしれねぇのに」

 そんな、かもしれない、だったらよかったのになんて憶測や願望で、ルーナ達と出会えなかった可能性を願われたくない。

「なんでイツキ様だけがあんな目に合わなきゃならねぇんだ。あの人が何したって言うんだ。だったら、あんただって、同じ目に合わなきゃ、不公平じゃねぇか」

 ツバキの言い分は勝手だ。けれど、怒りは湧かない。いま怒っているのは私じゃない。ツバキのほうだ。邑上さんが名づけたというその名の元となったワインレッド色の髪で隠された顔は、もしかしたら思っていたより若いのかもしれない。いま感情を剥き出しにする顔を見て、そう思う。


「…………俺がルーナにかけたまじないは、所詮は香を使った上で成り立つものだ。定期的にかけ直さねぇとどこかで綻びる」

 上げられた顔に、喉が引き攣る。空気が急に塊みたいに喉に詰まった。

「記憶が戻るのを拒否してるのは、ルーナ自身だ」

 底なし沼みたいな目をして、ツバキが笑っている。これは、憎悪だろうか。十年前、同じように日本からこっちの世界に落ちた、私と邑上さん。邑上さんと知り合ったツバキから私への、憎しみなのだろうか。ああ、でも、ヌアブロウに向けられたものとは違う。あれよりもっとどろりとしていて、歪んでいるように思う。


 無造作に上げられた手が私に伸びる。弾かれたように立ち上がったアリスにちらりと目を向けただけで、とんっと人差し指が胸をついた。

「十年前、あんたが壊したルーナのこれの所為だぜ?」

「私が、壊した?」

 出会って、別れて、傷つけた。ルーナを苦しめたのは私だ。でも、壊した? 胸を、心を、壊した? 私が、ルーナの?

「だから、俺が言った言葉に揺れた。今でも記憶が戻らない。俺は、あんたを帰す方法を知ってるって言っただけだったのにな?」

 訳が分からないと顔に出ていたのだろう。胸を突く指の力が強まり、ぐりっと押し込まれる。素早く伸びてきたアリスの手がそれをねじりあげて離れていく。なのに、痛みが残った。じくり、じくりと、とっくに離れていった指の感触が消えない。

「ルーナは強いだろうさ。何せ海を渡ってこっちにまで噂が届くほどだ。けどな、カズキ。その根元が脆けりゃ意味がねぇんだぜ? 有名になれば生い立ちにまで話は広がる。そりゃあ、ルーナは空っぽだったろうさ。そこにあんたが現れた。あんたも、あの人も、こっちの人間とは感覚や感性が違う。あんたらの平和なそれは、俺達みたいに(かつ)えた人間にはたちが悪いくらい染み込むんだ。あんたは空っぽだったルーナの根本になった。でかく陣取って、これからでかくなるガキの根元になって、取り換えが利かなくなった時に」

 じくり、じくりと、胸が痛い。


「ごっそり消えた」


 息が、できない。




『思い、出せない』

 ルーナの瞳がぶれる。瞳の中の私がぶれて、映らない。

 でも、きっと、ルーナはもっと痛かった。ルーナは大きくなった。私より少し低かった背が、今では背伸びしたって到底届かない。ルーナは大きくなったのだ。大きくなったけど。


「俺なら、生きていけない」

 言葉とは裏腹に、その顔には晴れやかな笑顔が浮かんでいる。

「あいつは、あんたを帰せる手段があると知った。記憶が戻ったらあんたを手放す術がある。ルーナの本能が、死に至る傷を回避しようとするのは生き物として当然のことだよなぁ。だから、俺にはどうすることも出来ねぇよ。何せ、壊したのはあんただ。どれだけ力を蓄えて頑強になろうが、その根元がぼろぼろだ。ルーナの腕に適う奴はそうそういない。でもな、あんたが抜けてすかすかになった根元をつつくなら俺にもできる。簡単に、誰にだって」

 ヌアブロウの言葉が蘇る。

『貴様はあの女を強みとするが、私からすればただの弱みだぞ、ルーナ・ホーネルト!』

 私は、皆と出会えたことに感謝した。この出会いを幸福なことだと思っている。

 でも、それは私だけだったのだろうか。この出会いに優しさを貰えたのは私だけで、私は、ルーナを傷つけることしかできなかったのだろうか。

「あの人が壊されたのが許せない。世界があの人に優しくなかったのが許せない。あんたが馬鹿みたいに笑えてるのが許せない。けどな、一番許せないのは、あの人だけが不幸になったことなんだよ」

 私が同じようになっても何も解決しないし、たぶん、ツバキも邑上さんも救われたりしない。けれど、そうだとしても、不平等であることが許せないと、ツバキは言う。

「あんたも不幸だったら、あんたらは可哀想だねで済んだ。あんたも壊れてたら、あんたらは不運だったで済んだ。でも、ひどいじゃねぇか。名前だけじゃなくて、異世界から落とされるなんて訳分かんねぇもんまで同じなのに、どうしてあの人だけが壊されるんだ。……あんただけが救われるなんて」


 許されない。


 朗らかな笑顔で、ツバキは笑った。



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