52.神様、少々いきなり過ぎやしませんか
ベッドというよりは大きなクッションに近い寝床で目を覚ます。
早朝特有の、薄靄がかかった藍色の部屋の中を、クッションに顔半分埋もれた状態でぼんやりと見回して、隣のクッションに膨らみがあるのに気付く。珍しい、というより、この二か月で初めてだ。
興味をそそられて起き上がろうとしたが、ユアンに纏わりつかれていて身動ぎできなかった。しかし、流石に慣れたので身体を捩りに捩って、腕の隙間から這い出る。眠る前はぎゅうぎゅうと抱きついてくるので結構苦しいけれど、最近は眠った後の力は弱まっているのでありがたい。
靴下を履かず、行儀悪く靴の踵を踏んで隣のクッションの傍にしゃがみ込む。
うつぶせに埋もれて寝息を立てているのはアリスだ。いつも私達が眠るまで起きていて、私達が起きる前には着替えまで済ませているアリスの寝顔を見るのは、実は初めてである。
「眉間に皺、凄まじいよ」
凄く難しい顔をして眠っているアリスの眉間を見ていると、自然と同じ顔になってしまう。アリスはぴくりともしない。疲れているんだろう。ずっと気を張ってくれているのを知っている。後、最初の頃は船酔いで大変そうだった。手首が腱鞘炎になりそうなほどずっと背中を擦っていたものだ。馬には乗れるのに、船の揺れは駄目だったらしい。ユアンは平気そうだった。なんでも、昔は綱渡りとかボール乗りとか色々練習させられたらしい。
「ごめんね、アリス」
せめて今だけはゆっくり眠ってもらおうと、出来る限り音を立てずにそっと立ち上が、ろうとして、盛大に足が攣った。ビタミン! 誰か私にビタミンを!
「……………………朝っぱらから何をしているんだ、お前は」
音を立てないように悶えていると、半眼になったアリスと目が合った。そんな馬鹿な。私は音を立ててないよ!
アリスはもぞもぞと丸まったと思ったら、ぐいんっと伸びた。
「気配がやかましい」
「殺生な……」
私の努力は無意味だったようなので、盛大に悶えたらユアンも起こしてしまった。
本当に申し訳ない。
アリスが貰ってきた水で顔を拭く。着替えはアリスが水を取りに行っている間に済ませておいた。今度は朝食を取りに行ったアリスを待つ。手伝いたいけれど、私はむやみやたらと部屋を出ないほうがいいというのがアリスの判断だ。
扉の下辺りからごんごんと音がする。
「はーい」
「開けてくれ」
アリスの声に扉に駆け寄る。
両手がふさがっているから足で合図しているのだ。鍵を外して扉を開けると、両手に籠を持ったアリスとルーナが立っていた。
「おはよう、ルーナ」
「ああ、おはよう」
隣の部屋のルーナも、いつの間にか毎日こっちでご飯を食べるようになっていた。最初はちゃんと話を聞きたいとこっちの部屋に来ていたけれど、いつしか基本的に一緒に行動するようになっている。
この二か月、記憶は相変わらず戻らないけれど、ルーナととても仲良くなった。
「ルーナ、私の分の赤い物はくれてやる」
「俺も朝から辛いのは要らないぞ」
「そこを何とか」
「俺は応援に徹する」
アリスが。
床に分厚いカーペットが敷かれているので、その上に直に座って食事をとる。椅子と机はない。クッションも多いし、ベッドの形態からそういう文化なのかもしれない。
私の分のご飯をアリスが少しずつ摘まんでいくのをじっと待つ。毒見だ。そんなことしてほしくないし、殺すつもりならまず連れていこうとしないはずなので大丈夫だと思うけれど、アリスは頑として譲らなかった。
ルーナは熱いのが苦手なので冷めるまで待っている。ユアンは私が食べ始めるのを待っている。
ご飯を食べるまで、いつも少し時間がかかるのだ。
ちょっとの時間をおいて、ようやく食事が始まる。今日のメニューは、固く焼かれたもそもそしたパンと、野菜スープと、赤いお漬け物みたいなのと、ミカンみたいな果物だ。異常に酸っぱいけど。
船は、航海の途中で幾つか島を経由する。そこで新鮮な野菜やら果物やらを仕入れているらしい。ツバキが乗った船は、こっちが三つ島を経由する間二つしか経由しない、という感じで、順調にこっちと距離を取っている、らしい。
冷めたスープをルーナが黙々と飲んでいる左右で、ちょっと口をつけただけのアリスとユアンがうへぇという顔をしている。ガリザザの文化らしいけれど、食事の味付けは全部大変スパイシーなのだ。スープも、なんかカレーとかフォーとか、それ系の味が濃く混ざったような大変個性的な味がする。
私は、グラースですでに食文化は違うものだという経験があるし、日本では色んな味を試したことがあるので結構平気だ。ただし、朝から辛いのは結構つらい。
食文化の違いって大事だ。アリスがやつれた原因の一つは、スパイシーな味付けと、必ず一品添えられる辛い物という食事事情だと思う。ハーブが効いたお肉とは一味違う感じなのだ。
それにしても、このミカンらしき果物の酸っぱさはどうしよう。
「酸い!」
たぶん豊富なビタミンなので頑張って飲み込むけど、それにしたって酸っぱい。噛まずに飲み込むのに、口に入れた瞬間に広がる酸っぱさ。ちょっと心が挫けそうだ。
「ママぁ……これ、いや…………」
果物から手が離れかけたとき、ユアンがべそをかいて私を見た。その大きな目が私に問いかける。好き嫌いしてもいい? と。
「が、頑張って、ユアン! これはとてつもなく豊富なビタミンの塊だよ!」
「ビタミンってなぁに?」
水に溶けやすい健康と美容の味方です。
この二か月、アリスと顔を突き合わせてみっちり叩きこまれたおかげで進化した私の言語力を持ってしても、ビタミンの説明を可能とするには至らなかった。
食事を終えた後、ルーナは溜息をつきながら丸薬を飲み込んだ。それが齎す結果を分かっているから飲みたくないだろうが、飲まなければならない。毒を自ら飲み込むルーナを見るのは、つらい。けれど一番つらいのは本人だろう。毎日じゃないのだけが救いだ。
塩で歯を磨いて、ちょっと休憩する。ルーナとアリスは剣の手入れだ。剣は取り上げられるかと身構えていたのにスルーだったので、アリスは拍子抜けしていた。まあ、船の上でどうこうしても無駄だと判断されたのだろう。同感だ。
アリスはユアンの分の剣の手入れもしている。今のユアンに扱わせるのは危ないけれど、あるに越したことはない。
私は窓を開けた際に留め損ねて、風で跳ねかえってきた木製の窓に顔面を強打した以外は、概ね元気である。
「ママ、みて」
袖を引かれて振り向くと、それはもう立派な羽を広げた折り鶴がいた。折り鶴も箱もやっこさんも完全にマスターしたユアンは、角も羽もぴんっと美しい折り鶴をあっという間に折ってしまう。ちなみに、ルーナとアリスもそれはもう美しい鶴が折れる。
この中で、折り紙のスキルが一番低いのはこの私だ!
「凄い!」
褒められたユアンは、嬉しそうに満開の笑顔になった。
「これも! これもみて!」
「見事!」
「これも!」
「素晴らしい!」
一通り見せ終わって満足したらしいユアンは、やりきった顔で次はアリス達に見せに行った。
それを見送って、しおり代わりに広げる前の折り鶴を挟んでおいた本を開く。
この船での待遇は悪くない。乗組員達はこっちを窺うだけで関わってこようとはしてこないし、こっちもそのほうが都合がいいので助かる。監禁されるわけでもアリス達と引き離されることもないので、ひとまずは落ち着いていた。
退屈しないようにという配慮なのか、部屋には本もある。
その本のタイトルが『騎士ルーナと黒曜姫』だったのは物申したい気持ちでいっぱいだ。何でよりにもよってこれをチョイスしたのだろう。チョイスした責任者は誰だ。ツバキのような気がしてならない。
ルーナもぱらぱらとその本を見ながら、これは事実かどうか聞いてきた。全く以って関わっていない旨を伝えたら見向きもしなくなったけど。
私は文字の勉強と暇潰しもかねて読んでいる。凄く時間がかかるけれど、時間ならたっぷりある。
それにしても苦難ばかりだ。ライバルいっぱいだし、崖から落ちるし、船から落ちるし、塔から落ちるし、馬車から落ちるし、川に落ちるし、屋根からも落ちている。……あれ、結構経験した気がする。いやいやそんな馬鹿な。私が落ちたのは恋だ! 後、肥溜め!
主人公達の苦難は続く。中には騎士ルーナが記憶喪失になったり、黒曜姫が記憶喪失になったりして、思わずメモを取る用意をした。
記憶喪失となり、隣国のライバル王女様が恋人だと思い込まされてしまった騎士ルーナを前に黒曜姫は、このまま自分のことを忘れて王女様と結婚した方が彼の幸せだと身を引くシーンには、目から鱗だった。
なんと! そんな考え方があったとは!
がんがん喰らいつくしか思いつかなかった私の女子力は地を這っていると思い知る。健気とかいじらしさが欠片も存在しない。そもそも、ルーナを人参に例えた時点で女子力は皆無だった気がする。
騎士ルーナの記憶が戻ったと入れ替わり状態で黒曜姫の記憶が失われた際には、騎士ルーナが自分は彼女を傷つけたのだと身を引こうとするシーンを見て、とりあえず忘れても何とかなるよう、常にルーナが大好きだと書いた紙でも持っておこう。油性ペンがあったら掌にでも書きたいくらいだ。
そして身を引いたルーナに喰らいつく!
そして消え失せる女子力の気配。
まあいいや!
ルーナとアリスは大変仲良くなったけれど、私は、嫌われてはいなさそうだ、以上! な感じだ。なんというか、こう、壁がある。エベレスト並みに高そうではないけれど、二階建てくらいの高さはありそうだ。
喰らいついてはいるけれど、それを赤いマントでひらりと交わされているような、そもそも舞台に上がってくれていないような、微妙な感じだ。
本からちらりと視線を上げると、ルーナはユアンに誘われて紙飛行機を折っていた。誰が一番飛ばせるかを狭い室内で競い合っている。
大変楽しそうだ。是非とも私も混ぜてください。
勢いよく立ちあがった私の上をルーナの紙飛行機が通りすぎていく。そのまま広大な海原に旅立った紙飛行機を見送り、振り向いて目が合ったルーナにへらりと笑っておいた。無表情で返されても怯まない。慣れた。順応。大変素晴らしい言葉だ。
ユアンの紙飛行機は私の額を直撃した。微妙に痛かった。
紙飛行機選手権一位はルーナだったが、投げた所から直角真下に墜落した私と、反転して後ろの壁に激突したアリスとで、最下位争いは熾烈を極めたのである。
一日一回は甲板の上に出る。やっぱり太陽の光を浴びないといけない。太陽の光を浴びないと作られないビタミンがあるとかテレビで見たような気がする。確か、ビタミンAからZまでのどれかだったはずだ。
アリスとルーナが剣の打ち合いをしているのを、樽に座って見物する。足元には私の太腿くらいはありそうな太い綱があった。甲板に上がるまでの壁には、もっと細い綱が丸めてかけられていたので、それぞれ用途が違うのだろう。
「ママ、みて! おさかな!」
「美味しそう!」
「うん!」
ユアンと一緒に光合成しながら、目を輝かせて跳ねた魚を見つめる。その気配を察したのか、それ以降一度も跳ねてくれなくなった。
二か月経って、記憶が戻らないルーナと同様に、ユアンもこのままだ。
ママ、ママと笑ってくれるのは可愛いし、慕われるのは嬉しいけれど、このままじゃいけない。彼の慕いは紛い物で、実際は嫌われているのだとしても、ちゃんと元に戻してあげないと。
でも、もう遠眼鏡で見れば大陸が見えるほどの距離に来たのに、ここまでの時間で解決策を全く思い浮かばなかったのが申し訳ない。
海面を見ながら考え込んでしまっていた私に、ユアンは不安そうな顔をした。
「ママ、どうしたの? どこかいたいの?」
「全く問題ないよ!」
「ほんと?」
「真実!」
嬉しそうに抱きついてきたユアンを抱きとめて、私は覚悟を決める。樽から落下する覚悟だ。思ったと同時に行動に移しているらしいユアンは、なかなか力加減ができないようである。
樽は低い。いける!
そう覚悟した私の背中は、甲板よりは断然高い位置にあり、断然クッション性のある物に着地した。硬く瞑った目をそろりと開けると、ルーナが私達を見下ろしている。どうやら凭れているのはルーナのお腹らしい。
「あ、ありがとう、ルーナ」
「いや、気をつけろ」
「了解!」
「ユアン、アリスが剣を見てやるそうだ。行ってきたらどうだ」
視線の先を辿ると、アリスが剣を持っていないほうの手でこいこいしている。
「ママ、いってきてもいい?」
「是非ともいってらっしゃるませ」
「いってきます!」
ユアンは元気よく走っていった。
ちょっと変わったのは、こうやって少しの間でも私から離れるようになったことだ。きっといい傾向だ。そう思う。離れていた分、戻ってくる時はロケットで突進してくるけど、いいことのはずだ。
そうして残される私とルーナである。
アリスを見ると、わざとらしく視線を逸らされた。親友として思う。アリス絶対こういうこと得意じゃない。二人っきりにしてくれたのだろうなと、何とも分かりやすい態度である。
どうしようかなと少し考えたけれど、何にも思い浮かばなかったので、時間は有意義に使おうとかねてより考えていたことを実行することにした。
「ルーナ、ルーナ」
「何、だ…………何をしているんだ?」
腕を組んで胸を張り、足を組んでふんぞり返る私に、ルーナの何とも言えない視線が降ってくる。
「ツバキの上官に会った際に、如何にして理由付けを行った上で、どこまで偉そうな態度が実行できるかを考えている」
「…………理由付けを聞いてもいいか?」
珍しくルーナが会話を続けてくれたので、テンションが上がってきた。大体私が話したことに軽い相槌を打つだけで会話終了となるパターンが多いので、大変嬉しい。張り切ろう。
「掌を見せながら両手を組み上げたことで、武器を所持していないことの証明。足を組み上げたことで、すぐに席を立つことなく貴方の話を聞きますとの証明! 如何!? 偉そう!?」
「凄く」
これでどや顔をつければ完璧だ。更に偉そうに出来ないかと研究を重ねている私を見下ろしながら、ルーナはぽつりと言った。
「理由を聞かれる前に首が飛ぶ可能性があるくらい、偉そうだ」
「作戦停止!」
それは困る。首とはルーナと同じくらい大事に年を重ねていきたい。
偉そうなのがいけなかったのだろうか。じゃあ、次は強そうなのを目指そう。強そう……猛獣だろうか。動物が自分を強く見せる方法は、牙を見せて体を大きく見せる。つまり、両手を広げてちらりと歯を見せればいいのか!
その体勢を取ろうとして、はたと思い止まる。これ、ただの馬鹿じゃないだろうか。
自分で気づけて良かった。
ちょっと気分転換に別のことを考えようと、ちらりとルーナを見る。『騎士ルーナと黒曜姫』では、お互い擦れ違いながら想いを深め合っていく様が色々描かれていた。つまり、あれを参考書として頑張ればいいのだろうか。
確か、隣にいる騎士ルーナの手に影が重なるようにして、影だけ見るとまるで手を繋いでいるかのようないじらしい事をしていたはずだ。よし真似しようとルーナの影を確認したら、腕を組んでいて影は不在だった。
こういう場合の対処法も是非とも書いていてほしかったものである。
行き場のなくなった手を思いっきり上に上げて伸びをする。柔軟して身体も気分もすっきりだ。
気持ちを入れ替えた瞬間、まさかの豪雨に見舞われた。さっきまで晴れ渡っていた青空が、突如としてどす黒い雲が渦巻く大嵐に変わっている。いくら山と海の天気は乙女の機嫌ほど変わりやすいといっても、突然にも程があるのではないだろうか。
乗組員達が泡を喰ったように帆に飛びついた。巻き起こる風が帆ごと船を持っていこうとしているのだ。
アリスとユアンも駆け寄ってくる。とにかく船内に入ろうとしていた時、船員が叫んだ。
「おい、あれを見ろ!」
叩きつける雨で海水が跳ねあがり、海と空の境も分からなくなった景色の中で、海面から突き出てきた物を見て人々の顔色が変わった。
海中から縦に浮かび上がってきたのは、いま私達が乗っている船と同じ船だ。
あれは、まさか。
「ツバキ様の船か!?」
巨大な帆を支える柱が根元から折れた船は、風と波に激しく煽られながら、段々こっちに近づいてきた。
「これはまさか、石の力か!?」
「さっき黒曜が妙な動きをしていたが、まさか石を呼び寄せたのか!?」
恐ろしい化け物を見るような脅えた瞳が私に集中する。
違います! 柔軟です! 言い方変えてもただの背伸びです!
心の中で弁解している間にも、船はあちらこちらから現れた。ツバキが乗っていた船だけじゃない。共に進んでいた複数の船も沈んでいたのだ。
「これが、石の奇跡……」
誰かがそう言った。
違う。
私は首を振る。
「こんなの、ただの災厄だ」
本にあった言葉が読めなくて、アリスに教えてもらった。こんなに早く使う機会が訪れるなんて思ってもみなかった。
叩きつける雨と跳ね返る海水で前もよく見えない。
揺れる甲板で足元が滑り、立っていられない私の腰をルーナが抱えて持ち上げた。
「アリス!」
「分かっている!」
投げられた綱はあっという間に腰に巻きつけられ、その先がルーナに繋がる。ぶれる視界の中で、アリスとユアンも同じように繋がっていた。
ルーナは私を抱えたまま、滑るように甲板を移動してアリス達と並んだ。そして樽をひっくり返して中身を空にしてしがみつく。
「息を止めていろ!」
その声に従おうとした瞬間、激しい衝撃が船を襲い、雷鳴と荒れ狂う並の中で、木が裂ける悲鳴のような音を確かに聞いた。
渦を巻く荒れる海の中心にいた船は、まるで取り囲むように近寄ってきた難破船に次々と体当たりされて砕け散る。
響き渡る轟音の中、上も下も分からなくなった。
もがいても、もがいても、掻いているのは水なのか空気なのかも分からない。
ただ、もがく私の頭を抱き寄せて、胸に抱いてくれた手が誰のものかだったのだけは、はっきりと分かった。




