48.神様、少々限界です
目を瞑ることも忘れて、ただただ影を見つめていた私の腕が急に自由になった。
なのに動かすことが思い浮かばず、身体の横にだらりと落とした腕を誰かが掴んで立ち上がる。
頭ががくんと動く。身体の動かし方が思い出せない。私はいま立っているのだろうか。足元が覚束ない。視線の中に入っているものが脳まで回らず、ただ流れていく。
私いま、首、あるのかな。
「……何をしている、ルーナ・ホーネルト」
「死にかけていた俺を救ってくれたことに感謝はしているが、騙し討ちのように連れて来て、何の説明もなく女を殺せと剣を渡されれば、俺が何も考えず実行すると思っているのか。馬鹿にするにも程があるぞ」
頭を上げることが思い浮かばない私の視界の中では、今まで首を嵌めていた板の周りに縄が散らばっていた。
切られた縄の残骸を見て、ママ、ママと金切声をあげているユアンを見て、カズキと叫んでいるアリスを見て、ゆっくりと顔を上げる。
ルーナがいた。
長い剣を舞台に突き刺して、空いた手で私の二の腕を掴んでいる。
「俺の記憶がないのをいいことに、お前達の都合がいいように使われるのは気にくわない。まして、この女は嘘をついているようには見えなかった」
「……記憶があろうがなかろうが、扱いにくい男だ」
「だろうな。俺も自分の性格くらいは把握した」
周りに聞こえないように素早く会話を終えたヌアブロウは舌打ちをした。
それに構わず、ルーナは私を引きずるように歩いてアリスとユアンの間で手を放す。ぺたりと坐り込んだ私に、兵士の手を振り払ったユアンがしがみついてくる。
「ママ、ママっ……!」
何も反応を返せない。分からない。分からない、分からない。息の仕方も、思い出せない。
俯いたアリスが肩を震わせて呻いた。
「…………ヌアブロウ」
ぎりりと、歯を噛み締める音が聞こえる。
「私は、貴方を尊敬していた。だが、もう二度と、隊長とは呼ばない。……十年、十年だ。十年カズキを待ち続けたルーナに、よりにもよって、ルーナに、カズキを殺させようとした貴様を、私は一生許さないっ……! 裁かれるべきは貴様だ、ヌアブロウ!」
血を吐くような熱さで吐き捨てたアリスに、ヌアブロウは何も言わない。ただ淡々とした視線を落とし、やがて興味を失ったように視線を逸らして私の腕を掴んだ。
「私の友に触れるな、外道がっ!」
「お前が言ったのだろう、アリスローク。だから、私が手を下すまでだ」
足に力が入らない。引っ張られるままに腰が浮いたとき、誰かが叫んだ。
「やっぱり、あの方が本物の黒曜様だったのよ――!」
「あたしが言ったとおりでしょ――!?」
「騎士ルーナが記憶を失ったという噂は本当だったのね――!」
「騎士ルーナの記憶を奪って黒曜様を殺させようとするなんて――!」
「きゃ――! ひどいわ――!」
「なんてことを――!」
「あの方が本物の黒曜様よ! だって、アードルゲ様と契りを結んでいるもの――!」
「たとえ記憶がなくても、騎士ルーナが黒曜様を殺すわけがないもの――!」
あちこちで上がった甲高い声に、殺せと叫んでいた人達がバツが悪そうに消えていく。中には忌々しげに顔を歪めた人もいた。そういう人達は同じ方向に消えていくので、もしかしたらサクラだったのかもしれないなと、ぼんやり考える。
そしていま、あちこちで上がっている甲高い声に、何だか聞き覚えがあるような気がしてきた。
「騎士ルーナに黒曜様を殺させようとするなんて、あまりに非道だわ! ひどすぎるわ――!」
一際大きな声に引かれて視線を彷徨わせると、たっぷりとした真っ赤な髪を揺らした美女がいた。
「……カルーラ、さん」
私の視線に気づいたカルーラさんは、ばちんと綺麗なウインクを返してくれた。
動きが緩慢になっていた心を打ち抜かれた。うほん作戦の威力の凄まじさが証明されたのだ。よろけた私に、畳み掛けるように声が上がる。
「黒曜様――!」
「黒曜様、ああ、なんてお労しい!」
「私達の黒曜様を返せ――!」
あちこちで上がる声を辿ると、その先では知っている人々がいた。最後に声を上げた少女は、娼館が燃えたあの日、私の所為で怪我を負った子だ。彼女はもう元気だよと証明するように、怪我をしていた肩を振り回して手を振ってくれる。その視線が、私を誘導するように流れた。視線の先を辿る。
人ごみが割れて、自警団に周囲を囲まれた小さな影を見て、私はユアンを抱く力を強くした。
こんなの無理だ。
泣かずにいるなんて、絶対、無理だ。
ざわざわと人々の動揺が広がっていく。
少し離れた屋根の上で、お腹周りが膨れて遠目だと余計に酒樽みたいに見えるおじさんが片手を上げている。彼の向かいの屋敷のバルコニーには杖をついたおばあさんが凛と立っていた。
「守護者だ」
「王都の守護者だ」
「三家が揃ってるぞ!?」
ああ、そうか。
今更ながら気が付いた。リリィと娼館を守る自警団。統率のとれた、たくさんの男達。それはちょっとした軍隊のようで。
裏三家とは、お城とは別に王都を守る役割を担った人達だったのだ。
「ガルディグアルディア及び、ジャウルフガドール、ドントゥーア。我々三家は、お前達が掲げる女を黒曜と認めない。我々は偽黒を城から引きずり落とし、城に王族を取り戻す。あそこは、国を守ろうと最初に立った一族が住まう場所だ。なのに何故、ブルドゥスをガリザザに売り渡した貴様がそこにいる」
「……小娘が」
「小娘であろうがなかろうが、私はガルディグアルディアだ。ならば、その決断はジャウルフガドール及びドントゥーアと同等の意味を持つ」
少し、背が伸びたのかな。
ねえ、髪も、伸びたね。
どっちにしても、相変わらず、可愛いね。
「リリィ……!」
小さな身体をぴんっと伸ばしたリリィの声は、雑音全てを弾き返した。
無事でよかった。元気そうでよかった。会えて嬉しい。リリィ、リリィ。
ああ、リーリア。
「その薄汚い手を放せ、ヌアブロウ。お前が触れるその人は、私の大切な人だ」
安堵と歓喜が湧き上がる。じわじわと膨れ上がって末端まで巡っていくのと一緒に、さっきまで怖い顔をしていた民衆達がリリィに同調し始めた。人って勢いに呑まれるものだ。
困惑が広がっていく中、ヌアブロウは口角を吊り上げた。二の腕を掴んでいた手が離されたと思った瞬間、首を掴まれて持ち上げられる。人を片手で簡単に浮かせるヌアブロウの腕は、それを驚けないほど太くてびくともしない。
「これに釣られてのこのこと出てきたか、ガルディグアルディア。ドブネズミのようにこそこそと隠れまわっていた慎重さをそう簡単に無くすようでは、その名も分不相応ではないか?」
浮いた私の足にユアンが縋りついて泣いている。お願い、ユアン。引っ張らないでくれると非常に嬉しい。
両手でヌアブロウの腕を引っ掻いても、本当にびくともしない。こっちの爪が剥がれそうになる始末だ。
かろうじて隙間があるのか、薄く細い呼吸は何とか続いているものの、徐々に視界が赤くなっていく。苦しい。首から上にいろんなものが集中していく気がする。というより、首から下にいけなくなっているのだ。
「私は、放せと言った」
リリィが片手を上げた瞬間、ヌアブロウは目を見開いて私を解放した。解放したのか、ただ手を放したのか分からない。寧ろ、叩きつけられたような気もする。
解放されたはずの息が詰まり、打ち付けられた衝撃で力の入らない身体を必死で起こす。起きた傍からユアンに抱きつかれて、再度後ろに倒れ込んだ。
ヌアブロウは少し腰を低くして、剣に手をかけている。
「…………貴様がそこにつくか」
低い声が示す先を見て、息を飲んだのはアリスが先だった。屋根の上で黄色い髪の束をはためかせているその人は、ぎりぎりと引き絞った弓からちょっとずらして顔を見せてくれる。片目を覆う眼帯と弓が重なるように位置を調整したその人は、視線が合った瞬間、眉を軽く上げた。
「おじ上!」
「再度見える幸運に恵まれたな、アリスローク」
広場を囲む建物の窓や屋根の上に弓を引き絞る男達がいる。自警団もその中に交じっているらしく、ネイさんもいた。距離があるはずなのに、彼等が限界まで引き絞る弓の音が聞こえる気がする。
「今ここでお前とやりあおうとは思っていない。お互い痛み分けでは済まないからな。だが、そいつらは置いていってもらおうか。その筋書きに付き合わせるには、俺はその役者達に情が移りすぎているらしい。それに……少々悪趣味が過ぎるぞ、ヌアブロウ」
兵士が駆け寄ってきてヌアブロウに何か耳打ちしている。
「各地に散った隊と軍が動いたぞ、ヌアブロウ。各々、お前達反乱軍を掃討しながらこの地を目指している。指揮を取っておられるのはアーガスク様だ。お前が指揮から離れた東も守護伯が盛り返したし、頼みのガリザザも嵐がやまぬことにはなぁ。さあ、どうする? 一度引くか? それともここで俺とやりあうか? それはそれで、俺は一向に構わんが」
舌打ちしたヌアブロウは踵を返した。
「行くぞ、ホーネルト」
彼の仲間と思わしき男達の動きが少し慌ただしい。どうやら他にも何かあったみたいだ。
嘆息して背を向けようとしたルーナは、何故かぴたりと動きを止めた。驚いた顔で私を見ている。その視線の先を辿って私も驚いた。
ルーナのマントの端を掴んでしまっている。しかもしっかりと。ルーナの驚いた顔と見つめ合う。大丈夫、ルーナ。私の方がもっと驚いている。
私の頭より、手の方が賢かったようだ。何かを考えるより先に手が動いていた。
「…………放してくれ」
困惑を混じらせた声に口元が震える。
[ルーナ……私のこと、分から、ない?]
「………………すまない」
低く呟いたルーナに、私の中から湧き上がった感情があった。
自分でもびっくりするけれど、なんと喜びだ。
こんな状況なのにじわじわと湧き上がってきた思いが胸から指先まで行き渡った瞬間、思わず全開の笑顔を浮かべてしまう。
[生きててよかったっ……!]
よかった、ルーナ、よかった。
生きてた。生きてた。生きてた、ルーナ! 生きてた!
ルーナが喋ってる。ルーナが歩いてる。ルーナが立ってる。
夢じゃない。幻でもない。願望でもない。
ただ、事実として、ルーナがここにいる。生きている。
仮令その眼に浮かんでいるのが困惑でも、いい。私と同様の歓喜なんて欠片もなくても、よかった。それでも、この身を満たしたのは心の底から湧き上がる喜びだ。
よかったと、心からそう思える。よかった。嬉しい。ああ、よかった。ただでさえ少ない語群が更に狭まる。他には何も思い浮かばない。
嬉しい、嬉しい、よかった!
「…………何を言っているのかは分からなかったが、ルーナの様子から見るに、お前が満面の笑顔になる場面ではなかったということだけはよく分かった」
解放されたアリスが何とも言えない顔で私を見ている。アリスを押さえていた男達は、ヌアブロウに従ってじりじりと後退していく。
そちらを気にしつつも、アリスがやけに変な顔をしている。そして、徐に片手で私の目を覆った。何だろうと首を傾げたけれど、すぐに感謝する。
ありがとう、アリス。こんな顔、ユアンに見せられないね。
やけに息がしにくいと思っていたら、鼻が豪快に詰まっていることに気付く。風が当たる頬っぺたは冷たいし、胸から何度も何度もしゃくり上げるように息が出ていく。
嬉しいんだよ。嬉しくて嬉しくて堪らない。
それは本当なんだよ、ルーナ。
ぼたぼたと滝のように零れ落ちる涙を止める術を見つけられないのに、笑顔だけが溢れだす。笑顔は溢れ出るのに、歯がかちかちとなる。たぶん、凄く珍妙な女に思われているだろう。気味悪がられていたら嫌だな。気持ち悪いって思われていたら嫌だな。嫌われたら、嫌だな。
だって、しっかり握っていたはずのマントがするりと取り戻された。そのまま木が軋む音が遠ざかっていく。でも、アリスに手をどけてとは言えなかった。去っていく背中を見て、叫びださずにいられる自信は欠片もないのだ。
「騎士ルーナ」
リリィの声だ。見えなくたって分かる。
「記憶を取り戻したくなったらいつでも声をかけて。私達はいつでも受け入れるよ」
返る声はない。
アリスの手が躊躇いがちに外されたとき、既にルーナはいなかった。空っぽの掌を何度か握っては開く。いつだって伸ばした手を取ってくれたルーナは、私の手に空っぽを残していった。
「ママ?」
私の足元にぺたりと座り込んだまま、裾を握り締めて不安げなユアンの声に慌てて袖で目を擦る。ついでにこっそり鼻水も拭っておく。ティッシュ欲しい。
大きく息を吸い込んで勢いよく吐いて、もう一回ずびっと大きく鼻を啜る。
「はぁい!」
渾身の笑顔で見下ろせば、ユアンは輝くように笑ってくれた。
「……本当なら無理矢理にでも連れていきたいけど、あの腕で敵対心持たれると厄介じゃすまないのが面倒だね」
リリィはとことこと舞台まで歩いてきて私を見上げた。可愛い。
「カズキ、久しぶり。早くその顔の傷、手当てしよう……ああ、そうだ」
小さな拳がひたりと舞台に触れる。視線だけで呼ばれたネイさんが窓から飛び降りて駆け寄ってきた。
「これ、打ち壊して」
「はい、お嬢様」
綺麗な礼をしたネイさんに背を向けて、リリィはふわりと微笑んだ。
「無事でよかった」
「リリィもご無事でなぬより!」
嬉しくて嬉しくて、満面の笑顔で答えたらがばりと顔を上げたネイさんが驚愕に慄いていた。
「す、凄いですね、お嬢様。カズキがこっちの言葉を話していますよ」
「以前よりお喋りしていたよ!?」
以前の私は何語を話していたというのか。
「カズキ語だね」
「カズキ語ですね」
「カズキ語だな」
リリィ、ネイさん、そしてアリスにまで即答された。悲しい……ような気がしたけれど、よく考えてみると特にそういうわけでもない気もする。とりあえずどや顔しておいたら、ユアンが一所懸命褒めてくれた。どうもありがとう。
リリィに案内されてきたのは、前にアリスちゃんと逃げ込んだアリスちゃんちの建物だった。そして、まだ工事中である。ヒラギさん達は別ルートで散っているそうだ。
「ここの地下」
アリスちゃんが複雑な顔をした。
「………………こんな事態だから文句は言わんが、我が家の所有地に何をしているんだ」
「エレオノーラさんには許可取ってるよ」
「………………母上」
周囲の人払いがされている内に早くと促されて急いで入ろうとしたら、ユアンがぐずった。
「ユアン、どうしたよ?」
「の、だ。の」
「どうしたにょ?」
「………………のだ」
いやいやと首を振って後ずさるユアンに引っ張られて、私の身体も建物から出てしまう。
「ユアン、どうした、の?」
「ママ、ママ、もっとおでかけしよう? ねえ、ママ、まだ、もうちょっと、おさんぽしよう? ママ、ユアンね、もっとママとおでかけしたい」
いやいや、いやいやと首を振って、ユアンは泣きべそをかく。
「目立つ」
リリィの一言で自警団の一人がさっとユアンを抱え上げて中に入った。中は窓全てに板が貼られていて薄暗い。前に来たときにはこの板はなかったように思う。流石に私が引っかぶった白ペンキは無くなっていた。
扉が閉められると同時に下ろされたユアンはがたがたと震えて、両手で頭を抱えて蹲る。
「ママ、ママ、ママ、ママ、ママ、ごめんなさい、ママ、ママ、ママ」
どうしたのだろうとアリスと顔を見合わせて、はっとなる。
ユリンは、双子のお母さんは、外と家の中では態度が全く違ったと言っていた。
「ユアン」
「ママ、ママ、ママ、ママ、ママ」
「ユアン」
丁寧に、丁寧に、ユアンの名前を呼ぶ。何度か繰り返していると、ユアンは恐る恐る腕の隙間からこちらを見た。
「ユアン」
広げた手の先、つまり掌をちょいちょいと動かして呼んでみたら、ユアンは涙でいっぱいになった目を何度も瞬かせた。そうっと銜えた親指を吸いながら、じぃっと私を見る。
「ユアン」
阿呆面として大変ご好評頂いている満面の笑顔を浮かべて呼ぶと、全身のバネを使って飛び掛かってきた。
「ママ――!」
当然、受け止めきれなかった。後ろに弾け飛んだ私をアリスが止めてくれる。
「あ、ありが、いだだだだだだだだ!」
「ママ! ママ、ママ! ママ、だいすき!」
ぐりぐりと高速で擦りつけられる頭が骨を削っていく。肋骨が折れる。全力で抱きしめてくれる鍛えた十五歳の本気の腕力に、私の内臓と骨は悲鳴を上げた。
「ユアン! 少々優しく! 少々、加減を優しくお願いございます!」
「ママ、マぁマ……」
「なーに……はーい?」
どっちの返事がいいかなと悩んだけれど、結論が出なかったので両方言ってみた。
ユアンは、どこかうっとりするように私の胸に頬を寄せて目を閉じる。
「ユアンね、ママが、だぁいすき」
そのままぎゅうぎゅう抱きしめられて詰まる息をなんとか繋いでいると、リリィが横にしゃがみ込んだ。ユアンと私を交互に見ている。どうしたのだろう。
「カズキ……私、誰にも言わないし、絶対役に立てるから、教えてくれる?」
「何事を?」
首を傾げて聞くと、リリィは至極真面目な顔で頷いた。
「父親は誰? いつ産んでたの? 十年前?」
畳み掛けるように相次ぐ質問を飲み込んだ瞬間、私は盛大に狼狽えた。
「ア、アリスちゃ―んっ!」
「こ、ここで私を呼ぶ奴があるかっ! このっ、たわけぇ――!」
私以上に狼狽えてすっ飛んできたアリスに引っ叩かれた。痛かったけど甘んじて受けよう。私より正確に説明してもらえると思ったのだけど、なんか、本当にごめん。
懇切丁寧に、それはもう細かく、執拗なほど説明してくれたアリスのおかげで誤解は解けた。
「つ、疲れた……」
アリスがぐったりしている。お疲れだ。色々あったからほっとして疲れたのだろう。虚脱感に襲われるほど誤解が嫌だった可能性もあるけれど、そこは置いておく。
「カズキ、まずはお風呂入ってきて。お風呂から上がったら手当てしよう? 東の伯弟からいい傷薬貰ってるの。これ使うと傷痕が残りにくいから、すぐに塗ろう」
リリィの方が痛そうな顔をして私の頬の傍に指を伸ばした。そういえば顔が切れていたと思い出す。触れないのは触れると痛そうだからだろうか。……私の顔どうなってるんだろう。腫れたらお岩さんかな。いや、あれは目だ。じゃあおたふく? なんか幸ありそうだ。
その薬はきっと、優秀な人が作ってくれた優秀な薬なのだろうなぁと思いながら、何となく袖の臭いを嗅いでみる。泥臭いような苔臭いような、微妙な臭いがする。
雨曝しで王都まで運ばれてきて、その前は堀に落ちて泥だらけだ。確かに、お風呂に入ってきた方がいいだろう、リリィの提案にありがたく乗っかる。
「ママ、ママ」
ユアンがくいくいと裾を引いてきた。
「なーい?」
「おい、混ざってる」
失敬失敬。うっかり間違えた。ちゃんと訂正しよう。
「はーに?」
「ママ、あのね、ユアンね? あのね……おねがいがあるの」
もじもじと口ごもる姿を見ていると、何でも全力で叶えてあげたくなる。よしきた、任せろ!
「ユアンも、ママといっしょにはいりたいの」
「うーん!?」
凄まじい難問だった。よくないこないで、任せないで!
「お前はこっちだ」
アリスちゃんがユアンの首根っこを掴んで引き寄せる。ユアンは意外にも大人しくいう事を聞いた。ただし、がっかりとしょんぼりのコラボだったが。
「ユアン……ママとおふろはいったことない…………いっつもユリンとだもん」
「うっ……」
悲しげに上目使いされて、アリスと一緒に罪悪感に塗れる。
ごめん、ユアン。他で挽回するから本当にごめん。
どうしようかな。昔、リリィとやったみたいに折り紙で遊んでもいいかもしれない。いらない紙もらえるかな。アリスもやるかな。アリスは器用そうだな。というより、細かそうだ。そういう人は折り紙も凄いのを折れる。
「…………カズキ?」
折り紙……鶴とか風船……花も折れるよ。後、風車と二重船とやっこさんと…………ああ、ごめんアリスちゃん。あんまり難しいの知らない。
ぐるぐるぐるぐる、色鮮やかな折り紙が回っている。鶴が飛んで、ぱっくんさんがぱくぱくしてて、カラフルな箱が重なって、やっぱりぐるぐるぐる回って。
「ママ――!」
悲痛な叫び声がするのに、私はそれに応えてあげられない。
頭を支えられず、仰け反って倒れ込んだ私の背にアリスが滑り込んできた。そのまま床に座り込んだらしく、後ろから抱きかかえてくれたアリスの胸に背中と頭をつけたのが分かる。じわりじわりと浸透してくるアリスの体温が気持ちいい。
「時間差……こういうことか、ルーナ」
深いため息を旋毛に感じる。ごめん、アリスちゃん、ありがとう。そう言いたかったのに、口を開いただけで力尽きた。全部がぽわぽわしている。景色も、音も、体温も。
思考さえもふわふわしている。その中で、ルーナが微笑んでいた。
ルーナ
ルーナ
ルーナ
『好きだよ』
当たり前に聞けていた頃のちょっと高い少年の声じゃなくて、いまのルーナの声がそう言った。嬉しかったのに、息も出来ないほど苦しい。
私もだよ。私も、ずっと、ルーナが好きだよ。
そう答えたいのに、答える術がない。だって、ルーナがいない。
ルーナがいない。どこにもいない。
生きていてくれたのに、ルーナがいない。
ルーナの中に、私がいない。
微笑むルーナが遠ざかる。
目尻から滑り落ちた涙をアリスの指が掬い取り、再度深いため息をつく。
「……つらいならつらいと言え。この、たわけ」
苦しそうな言葉が降る中、私は、馬鹿連呼しながら飛んでくる入れ歯の幻を見ながら意識を失った。




