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神様は、少々私に手厳しい!  作者: 守野伊音
第二章:奮闘
47/100

47.神様、小さな子どもが泣いています

 周りの物を吸い込むように飲み込んだ赤は、凄まじい音と風を巻き起こして膨れ上がった。

 壁が、空気が、捻じ曲がって弾け飛ぶ。咄嗟に私達を抱きしめたアリスの肩越しに大量の破片が降ってくるのが見える。その中に、さっきまでユリンが握っていた弓が半分になって頬を掠っていく。

 巨大な破片が堀の中に落下した勢いで水が暴れ回り、私達は溢れ出た水に流されて堀から叩き出された。

 鎖も外されず、ユアンごと麻袋を被せられて男達に担ぎ上げられる。袋に詰められる寸前、ぐったりとしたアリスはそのまま縛り上げられたのが見えた。その頭から血が流れていて、破片が当たっていたのだと気づいた。

 荷物みたいに放り投げられ、一気に振動が変わる。馬に乗せられたので気づいたけれどどうにもできない。がくんがくんと揺られながら、舌を噛まないように唇を噛み締める。

「ユリン……? ユリン、ユリン、ユリン」

 ぶつぶつと呟いているユアンは、無意識なのか唯一動かせる足を絡めて、頭を擦りつけてくる。寒いのかもしれない。

「ユリン、どこ……?」

 私は、それに応えることができなかった。




 袋の端を掴み上げて滑り落とされる。地面に叩き落とされた衝撃で呻いている間に鎖が外されて突き飛ばされた。何の抵抗もせずに一緒に放り込まれたユアンが崩れ落ちるのを支えきれず、押し潰されるように座り込む。

 縦に何本も棒が見える。いや、現実逃避だ。本当は分かっている。これは棒じゃない。

 檻だ。



 隣の檻に放り込まれたアリスが頭を押さえながら起き上がる。

「ユリン……?」

 小さく震える声にはっとなって視線を落とす。

「ユアン、負傷は?」

 ユアンはやけに幼い動作で私の裾を握って、顔を上げた。

「ママ、ユリンはどこ?」

「え?」

 きょときょとと頭と一緒に視線を動かして、檻を見て、私を見て、また檻を見て、私を見る。

「ママ、ねえ、ママ。こんどはママもいっしょね」

 ぱっと嬉しそうに笑ったユアンは私に抱きついて胸元にすり寄る。

「ママ、ママ、もうおいていっちゃやだよ。ねえ、ママ、こんどはみんないっしょね。ユアンと、ユリンと、ママ。ね、みんないっしょ。ママ、ママ、ママ」

 アリスも驚愕の目でユアンを見ている。目で訴えられても、私にだって分からない。小さく首を振った私にぎゅうぎゅう抱きついたユアンは、親指を銜えて首を傾げた。

「ママ、ユリンはどこ?」

「ユ……アン」

「ユアンはここにいるよ? ママ、ユアンとユリンをまちがえちゃいやぁよ?」

 くすくす笑ってすり寄ってくる頭を反射的に抱きしめて、呆然としたアリスと視線を合わせる。私もアリスと同じ顔をしているだろう。

「ママ、ママ、うれしい。ママがユアンをだっこしてくれる。ねえ、ママ、ユアンね、ずぅっとママにだっこしてほしかったんだよ」

 ママ、ママ、ママ。

「だいすき。ママ、ユアンね、ママがだぁいすき!」

 ユアンが笑う。無邪気な幼子のように。

 笑っていたユアンは、ふと悲しそうな顔になって私の頬に手を伸ばした。触れたその場所がじくりと痛んで眉を寄せる。どうやら、破片で切っていたようだ。

「いっ……!」

「ママ、ママ、おかおいたい? ちがでてるよ、ママ、おかおどうしたの? いたい? ママ、ユアンがおまじないしてあげる」

 私の頬にとんっと軽いキスをしたユアンは、えへへと笑った。

「ママ、もういたくない?」

「あ、りがとう」

「ママ、だいすき!」

 ほんの数時間前に俺に触るなと憤慨した少年は、どこにもいなかった。




 砲撃による振動が地面を伝わっているから、それほど距離を離されたわけじゃないのは分かる。何より、私達を囲んでいる男達の数を見れば分かってしまう。ここは、反乱軍のど真ん中だ。

 その輪の中に知った顔を見つけてしまい、唇を噛み締める。

「ヒューハ…………」

「お久しぶりです、カズキさん」

 気負いない返事に、あのお茶会の時に三人で喋っていた続きではないかと錯覚を起こしそうになる。でも、そんな事は有り得ない。

「イヴァル、は?」

「元気ですよ。ここに来るまでは毎日俺に怒ってました。牢の中からですけどね」

 生きているのなら、生きていてくれるなら、今はそれだけでほっとした。

 彼の言葉を信じていいかは分からないのがつらいけれど。


 私はユアンの頭を抱えたまま、絞り出すように叫んだ。

「ヒューハ、使用、停止して!」

 それだけで私が何を言っているのか分かったのだろう。ヒューハはちらりと爆音による赤が散る方角を見て、首を振った。

「あれなるは、使用しては不可な物ぞ!」

 周りを囲む男達は酷く静かだ。砲撃で上がった粉塵で夜空が覆われていく様子に怯みもしない。あれの威力を知っている。それなのに、使うのか。

「……あれを使った代償を背負う覚悟くらい、ありますよ。俺達は騎士で、軍士だ。自分達が使った武器の咎を負う覚悟は、最初から持ってる」

 爆音が響く。地面が揺れる。粉塵で星が消え、月光もない闇が訪れていく中、赤い炎だけが舞い上がる。

「……虚偽申告ぞ」

「侮辱しますか。その覚悟のない者が武器を持っているのだと、貴女はそう言うんですか」

 ぴくりと眉を動かしたヒューハの他にも、同じ動きをした男達は多かった。

「ママ、ママ、こわい。ママ」

 腰に手をやったアリスは、剣を奪われていることに気付いて小さく舌打ちして私に制止をかけた。

「カズキ」

 分かってる。自分で檻をぶち破る力も、相手を言い負かす言語力も、そもそもそんな頭さえない私が、檻に入れられた状態で相手に売る喧嘩ほど愚かなものはない。黙って従順にしているのが得策だろう。まして、今のユアンに怒声なんて聞かせるべきじゃない。何が起こってるかは分からないけど、それくらいのことは分かる。

 分かる、のに。

「理解する、してない」

「…………何をですか」

 私はユアンの耳を塞ぐように抱きしめて、胸元に頭をつけてすり寄っている彼の身体を隠すために、自分の身体を折り曲げて彼を覆った。私の視界にはユアンの背中だけが見える。

 嘘つき。ヒューハの、嘘つき。


「あれなるの、ツケを払うするは、お前達では、ないくせにっ……!」


 何が咎を背負う覚悟はあるだ。

 現にいま、その代償を支払って震えているのは彼らじゃないではないか。あの赤い光が呑み込んだのは、この双子じゃないか。

 ユリンは無事だと信じたいのに、そうさせてくれないくせに。


 爆弾も、大砲も、使った人だけで終われるような代物ではない。その時代だけでも終われない。

 これからずっと続くのだ。あれをこの世界に持ち込んだ側の私が言える言葉ではないかもしれない。けれど、だからこそ言える言葉がある。戦争で、多くの人間が死んで国土が焼けた。戦争は惨く愚かなものだと、笑い声の中で学ぶ時代に生まれたからこそ、知っている事実がある。

「あの火は、使用した者のみに降るは、ありはしないぞ!」

 この人達はずっと国境で戦ってきた人達だ。国境での戦いは、戦うものとそうでないものをきちんと線引きしていた。

 だけど、彼らは見たはずだ。王都で爆弾が使われたとき、逃げ惑う戦争を知らない人達を。区切られていた戦場が広がったその時、代償を払うのは自分達だけだと言えるのか。

 いま、ここできょとんとしているユアンを前に、それを言うのか。


「…………王都まで運びます。せめてそれまではゆっくりしていてください」

 どんな言葉をどんなに言い募っても、相手に届かなければ意味なんてない。

 ヒューハは私達に背を向けて行ってしまった。

「ヒューハ! 待って、お願い、ヒューハ! あれなるを使用するは駄目! お願い、ヒューハ!」

「カズキ!」

 檻に額を押しつけて、アリスが苦しそうな声で叫ぶ。

「……もう、いい」

「アリス……」

「もう、いいんだ」

 疲れ切った声でそう言ったアリスは、小さい笑い声を上げて口角を歪ませた。

 笑っているのに、何だか泣いているように見えた。



 檻を乗せた馬車は激しく揺れながら夜空の下を進んでいく。

 すぐに激しい雨が降ってきたのは嬉しかった。アメフレ坊主が効いたのかもしれないし、砲撃が大気を揺るがして雨を呼んだのかもしれない。

「ママ、さむい。さむいよ、ママぁ」

 問題は、雨曝しになる私達だ。

 私達の檻が乗せられている馬車は幌のない、荷台だけの馬車だ。檻は雨を遮らない。

「カズキ、これをかぶっていろ」

 アリスは自分の上着を絞って檻の隙間から渡してきた。手足を縛られていないから出来ることだ。それだけ檻が強固なんだろうなと、どうでもいいことを思った。

「アリスは、寒いない?」

「寒くない、だ。これくらいでどうにかなっていては騎士は務まらん。いいからかぶっていろ」

 どうしようかと悩んだけれど、ありがたく受け取る事にした。そして私にしがみついているユアンを包むように掛ける。アリスはちらりと視線を寄越したけれど、何も言わなかった。


 ユアンはぐりぐりと額を私の胸元に押し付けて、嬉しそうに笑う。

「ママ、ママ、おうたうたって?」

 難問である。

 どうしよう。私、この世界の歌知らない。

「ママ?」

 不思議そうに小首を傾げているユアンに急かされる。どうしよう。仕方がないのでお手紙食べてみる。

 勢いのまま手紙の食べ合いから始まり、思いつく歌を続けていく。驚いたことに、ユアンは歌に交じってきた。

「ユアン、何故にしてご存じ?」

「なにを?」

「歌」

「ママがうたってくれたでしょ?」

 きょとんと首を傾げられて、こっちが首を傾げる。

「……そうか、楽譜を作っている時に覚えたのか」

 驚いたアリスがそう言った。私も驚いてユアンを見下ろす。ユアンはにこにこ笑っていた。

 あの時ユアンは、ぶすっと部屋の端にいただけだったのに、まさか意味も分からない歌詞を覚えていたのか。もしかして、ルーナ並に記憶力がいいのかもしれない。

 そして、一番スペックが低いのはこの私である。そろそろ地下三階くらいに到達する己のスペックに嘆いていると、段々ユアンの声が小さくなっていく。

「ママ……ママ…………ずぅっと、ユアンと、ユリンと、いっしょにいてね」

 親指を銜えてとろとろと眠り始めたユアンの背中を、リズムに合わせてそっと叩く。やがて規則的な寝息が聞こえ始めてようやく私は全身の力を抜いた。


 アリスのいる檻側に凭れて息を吐いたら、アリスも同じように反対側に凭れた。檻さえなければ、背中合わせで岩の上に凭れていたあの時みたいだ。

「アリスちゃん」

「何だ」

「子どもなるに」

「なるはいらん」

「子どもに、点呼された場合、何と答えるが正当?」

「母上は『はい、何ですか』と答えていたが、お前は、『はい』か『なに』くらいがいいんじゃないか?」

「はーい! なーに!」

「何故伸ばした」

 怒られるかと思いきや、アリスは笑っているようだ。

「アリスちゃん」

「何だ」

「私なる……私、王都、自力で入室したこと皆無ぞり」

 一度目は、家出て一歩で王都に登場。

 二度目は、ゼフェカに運ばれて途中から気絶闊歩。

 三度目は、檻で強制送還。

 おのぼりさんにしても、もうちょっとまともなおのぼりさんをしたいものである。


「アリスちゃん、アリスちゃん」

「何だ」

「私、ザンシュ?」

「…………させんぞ」

 斬首なんだな。

「アリスちゃん、アリスちゃん」

「…………何だ」

「手、縫おう」

「何!?」

「え!?」

 びっくりして振り向いたら、ユアンがぐずったので慌てて体勢を戻す。そっと背中を叩いているとすぐに寝入ってくれてほっとした。

「む、結ぶ?」

「…………繋ぐだ、たわけ」

 檻の隙間からアリスの手が出てきたので、ありがたく繋ぐ。背中合わせだから握り合っているみたいな繋ぎ方になった。

 私の手は酷く震えていたけれど、アリスは何も言わずにいてくれた。


「…………十年前も、お前はこんなに震えていたのか」

 と思ったら、考え事をしていただけらしく普通に突っ込んできた。私の親友は空気が読めないらしい。



 そんなことはないと見栄を張ろうかとも思ったけれど、アリス相手に今更取り繕えるものは残っていない気もする。だから、正直に白状した。

「以前は、もっと凄まじく、がっこがっこだった。何故なら、一人だった故に」

 一人で壁から引きずり落とされて、袋に放り込まれて、がっくがくのぶっるぶるだった。

「それ故に、パンツ、ごめん! 悪意はなかった!」

 ぶんるぶんる足が震えている状態で、早く歩けと後ろから押されたから、それが軽くでもそれはもう盛大にすっ転んだ。目の前にいたアリスは災難だったとしか言いようがない。

 悪気はなかったんです! いや、他にもいろいろなかった……今でもないけれど。

 重ね重ね申し訳ない。

 謝ると、繋いでいる手が軽く震えた。アリスは、小さく笑っている。

「……お前にそんなものがないことくらい、十年前から知っていたさ」

「そうだったじょ?」

「せめて、の、にしろ」

「そうだった、の?」

「ああ、そうだ…………そうだよ、カズキ」

 アリスは後頭部を檻にぶつけた。

「お前は類を見ないたわけで、並び立つ者がいないほどの珍妙だが……普通の、女なんだよ。そのお前が普通に暮らせないこの世界は、おかしいんだろうな。この時代で、どうすればお前は、普通に、幸せに、暮らせるんだろうなぁ」

「アリスちゃん、そのようなこと、思考していたの?」

「ああ……考えているさ。私だけではなく、皆、お前のことが好きな人間は誰だって考えているさ。考えていないのはお前だけだ、たわけ」

「ごめん!」

「たわけ…………たわけ、たわけ、たわけ、たわけ、たわけ、たわけ」

 たわけの嵐を頂いた。大放出である。今ならつかみ取りだって出来そうだ。

「お前ほどのたわけは、この先現れないんだろうな」

「アリスちゃんほどのたわけ連射も、現れないじょ」

「よ、だ。よ」

「あららわれないよ」

 檻の中で叩きつける雨を受けながら、私達はずっと手を繋いでいた。




 久しぶりに見る王都は、やっぱり人の数が多いのが印象的だ。戦場でずらりと並ぶ人の群れを見てきたのに、これだけ距離が近いと受ける印象も変わる。

「ママ、ママ……こわい。ママ」

「大丈夫! 私もこわい!」

「まったく大丈夫じゃない答えを返すな、たわけ」

 左右に溢れ返る人の真ん中を檻の中に入れられたまま通っていく。つい先日ヴィーと一緒に手を振りながら同じような状況を経験したけれど、あの時と今では周りの人の目が全く違う。

 何せ私は、『黒曜様騙った偽黒』なのである。


 周りから偽物コールが絶えず湧き起っていた。

「ママ……ママも、こわいの?」

「お揃いの!」

「よ、だ。よ」

「お揃いよ!」

 私にしがみついているユアンは、ぱっと嬉しそうに笑った。

「ママとおそろい!」

「お揃いよ!」

「ママ、ママとおそろいで、ユアンね、うれしい!」

 ぎゅうぎゅう抱きつくユアンの頭を、撫でながら耳を塞ぐ。

 聞かなくていい。全部、子どもが聞く必要のない言葉だ。


「殺せ!」

「黒曜様を騙った不届き者なんて、早く殺してしまえ!」

「あいつらのせいで俺の店は壊れたんだ! バクダンなんてこの国に持ち込みやがって!」

「せっかく平和になったのに!」

 バクダンを使ったのは私じゃないですよーと心の中で否定する。

 声の中には不安げなものもあった。

「……偽黒の隣の檻にいるのは、アードルゲの若様じゃないのか?」

「アードルゲ様だって?」

「……耳に契りがないか?」

「アードルゲ様と偽黒が契りを?」

「…………本当に、あれは偽黒なのか?」

 怒声と一緒にそんな声が入り交じる。

 でも、それらは全部次から次へと溢れかえる音に呑まれて通りすぎていく。


「いずれ彼らは気づくだろうな」

 檻の横に立って周囲を見下ろしているヌアブロウが、私達だけに聞こえるように言った。

「自分達が処刑に賛同した貴様が本物の黒曜であったと。そうして、二度と取り返しのつかない事態となって初めて後悔するだろう。だが、その頃には既にガリザザの軍が到達している。ガリザザはブルドゥスを飲み込み、塗り潰す。そうして、ブルドゥスは終わるのだ。戦士を侮辱した国の末路は、消滅がふさわしい」

「……隊長は、国に…………民に、復讐するつもりなのですか」

「安心しろ。黒曜にもする予定だ」

 全く安心できない返事が返ってきた。

 既に処刑台に運ばれているのに、これ以上どうするつもりなのだろうか。


 馬車が止まったのは、大きな噴水のある広場だった。広場の周りにはぐるりといろんなお店が並んでいる。こんな場所で処刑とかやったら、後々の商売に差し障るのではないかと思ったけれど、現在ひっきりなしに現れるお客さんにてんてこ舞いになっている店員さん達にはそんなこと考える余裕もないのかもしれない。

 噴水の隣にはちょっとした舞台のような物が組まれていた。

 数人がかりで檻ごとそこに上げられる。がつんと檻同士がぶつかって、ユアンが悲鳴を上げた。

「……檻が開いたら、私が隊長達の気を引きつける。その隙に、ユアンを連れて逃げろ」

 どうやってとか、アリスちゃんはとか、聞きたいことは全部飲み込む。

 聞く時間も、飲み込む覚悟もない。

「了解よ」

 ユアンの手を握って、何度も息を吸う。心臓がうるさい。心臓が跳ねすぎて肺が焼けそうだ。

 がたがたと震える足を殴りつけ、唇を噛み締める。走れるように、せめて、走れるように。他のことは何も考えない。

「黒曜。貴様の死刑執行人が現れたぞ」

 歓声が沸き上がると同時に兵士の手が檻にかかる。同じように檻が開かれていくアリスが腰を低くして、ぴたりと、止まった。

 その隙を見逃さず、兵士達はアリスを縛り上げる。なのに、アリスは驚愕を浮かべたまま私の後ろを見ていた。

 私は檻から引きずり出され、引き離されたユアンの金切声を聞きながら地面に膝をつかされる。ぎゅうぎゅうと荒縄に縛り上げられた痛みに顔をしかめた。顔も地面に押し付けられているので痛いけれど、何故だか腕の痛みの方がきつい気がする。

 ぎぃ、ぎぃ、と、木で出来た舞台が軋む。私の前に歩いてきた人の靴が、顔のすぐ傍で止まった。

 髪を掴んで引きずりあげられ、向けられた視線の先に見つけたのは、私がこの世で一番好きな色だった。




「ルー、ナ…………?」




 少し伸びた濃紺の髪に、光を混ぜ込んだような水色の瞳。

 夢に見た。何度も何度も夢に見た。それは幸せな夢だったり、あの、灰色の時だったり様々だったけれど、何度も、何度も、ルーナを探した。

 ルーナがいる。夢みたいに、ルーナがいる。

 だけど、その手に握られているのは、見たこともないほど大きく長い剣だった。



「これより、偽黒の処刑を行う!」

 ヌアブロウたった一人の声が、これだけの人の歓声に負けじと響く。

「この者はあろうことか黒曜の名を騙り、国を混乱に貶めようとした大罪人である! よって、ここでその罪を償ってもらう! 仮にも黒曜を名乗った女だ、騎士ルーナに手を下されるのならば本望であろう」

 笑い声が上がった。

 でも、そんなこと、どうでもいい。


 ルーナがいる。ルーナが此処にいる。

 生きてる。生きて、此処にいる。

 それだけを願っていた。どんな怪我をしていても、ただ、生きていてくれたら、それだけでよかった。

 なのに。



 兵士達が私の膝を折ったまま、頭を掴んで無理矢理舞台の端に突き出した。舞台の下に立っている人が私の髪を掴んで、半円に削られた穴がある板に私の首を嵌める。

「ルーナ」

 身動きが取れなくなって、私が見えるのは、私に片手を突き上げて怒声を上げている人達だけだ。遠い場所では不安げな顔をしたり、顔を逸らしたり、口に両手を当てて走り去っていく人もいる。

 けれど、私に近い人達は、殺せ、殺せ、と、何度も何度も声を上げた。

「ルーナ」

 泣き喚きたい。

 ルーナが生きていた。生きていてくれた。

 それだけでよかったはずのに、全てを投げ出して泣き喚きたい。

「言い残すことはあるか」

「ルーナっ……」

 どうしてそんな、知らない人間を見る目で、私を見るの。



 ママ、ママ。

 ユアンが泣き叫んでいる。


 カズキ、カズキ、ルーナ。

 アリスが、叫んでいる。


 殺せ、殺せ。

 知らない人達が、いっぱい、いっぱい、叫んでいる。



 音が振動となり、頭の中だけじゃなくて体中をぐるぐる回る。

 回って、巡って、処理できないまま、涙となって零れ落ちた。



[好き、だよ。ルーナが、好きだよ]


 言い残したいことは分からないけど、伝えたい言葉ならそれだけだ。

 苦しいのに、苦しすぎると飽和するんだなと、私はあの時からそれを知っていたのに、呆然と、そんなくだらないことを考えた。

 髪が寄せられて首が剥き出しになる。すぅすぅと風が走り抜けていく。

 何故だろう。

 怖くない。

 恐怖はない。怒りもない。

 ただ、悲しい。



 床を擦っていた剣がゆっくりと上がっていく。持ち上げられるともう視線で追うことも出来ない。

 だけど、影が見える。長い剣が振り上げられたのが分かった。そして、振り下ろされたのまではっきりと分かってしまったのが。



 やっぱり、悲しかった。





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