46.神様、小さな声が聞こえました
泡が弾けるように笑い声が消えていく。波が引くように笑顔が消えていく。
息を吸うのも憚られるような、肌を刺す緊迫感に変わった砦の前で、ぞろりぞろりと反乱軍は陣を整えた。
馬が走り、旗が立っていくのを遠眼鏡越しに見ていた私は、それを見つけた。馬を六頭もかけてそれは運ばれている。大きな荷物だ。何だろう。
[にー、しー、ろー、はー、とお。にー、しー、ろー、はー、にじゅー]
ざっと数えて百くらいだろうか。
旗の傍にいた人が片手を振りながら何かを言っているのが見える。それに合わせて、荷の周りを囲っていた木がばらされていく。
首を傾げながらそれを見ていた私の産毛が逆立つ。首の付け根辺りにぶわっと鳥肌が立ったのが分かる。喉が引き攣れて、歯が鳴った。
「カズキ……? おい、カズキ!?」
私の異常に気が付いたアリスが肩を掴んで向き合う。そこで呪縛が解けたように私の身体は動き出した。
「カイリさん!」
あれの全形が現れる前に私が叫んでいたのは、自分の口から出たとは思えない金切声だった。
なんてものを、なんてものを、なんてものをっ……!
あんなものまで、作っていたのか。作ってしまって、いたのか。
「カズキ!?」
「カイリさん、カイリさんっ……!」
私は梯子から落ちるように降りて、カイリさんを呼んだ。
私の声を聞いた誰かが伝達してくれたのか、私の前にカイリさんが駆け寄ってくる。
「どうした」
「兵器! バクダンを、投擲する、兵器! タイホウ!」
「何!?」
血相を変えたカイリさん達は遠眼鏡を取り出して私が指さす方を見た。
大きな黒い鉄の車輪が支える、巨大な筒。
私は唇を噛み締めた。
ムラカミさん。ムラカミ・イツキさん。
会ったこともないあなたを責めたてたい。なんてものを教えてしまったのだ。なんてものをこの世界に持ち込んでしまったのだ。
叫びだしたい。殴りつけるほどに罵りたい。
けれど、彼の人は分かっていた。分かっていたから、心を病んだ。心を病む程、苦しんだ。
彼の人は、あれが何を齎すのか分かっていた。
だって、知識のない私にだって分かってしまう。だから、爆弾の作り方を教えられる人が分からないはずなんてない。分かっていて教えるしかなかったのだと、それも分かってしまう。だから、罵倒は全部飲み込んだ。
いつから、一体いつから、この世界にいたのですか。
爆弾だって大砲だって、一朝一夕で出来るものじゃない。実戦で使えるくらいの精度になるには、一体どれくらいの時間が必要なのか。
震える両手で顔を覆ってしゃがみこむ。
ヌアブロウは言った。戦争の形が変わると。その通りだ。個人の剣の腕がどうこうという問題ではなくなる。あれは、一度放たれれば敵も味方もない無差別の殺戮兵器だ。
走ってきたヴィーは蹲る私に驚いて、自分も膝をついて背中を擦ってくれた。細い指だ。布越しにもその冷たさが分かる。ヴィーが、どれだけ気を張っているのか分かった。
「…………黒曜、あれの仕組みを教えてくれ」
低いのに、恐ろしいまでに静かな声に促される。
震えないようにぐっと噛み締めた唇に痛みが走り、血の味が滲む。噛み切ったのだ。でも、おかげで冷静になれた。
震えている暇はない。これから変わっていくものに脅える時間すら、ないのだ。
「タイホウ……大筒内に、バクダン投入するして、火で、投擲する、兵器」
「止めるには、どうすればいい」
私が聞きたいよと怒鳴り返したい。
でも、私しかいない。あれが何か知っているのは、私しかいないのだ。彼らはこれから知る。知ってしまう。知らなければ、ならない。
必死に考える。私馬鹿だからで逃げてはいけない。
「バクダン、設置前に、バクハツ…………弾けさせる。バクダン、設置後、大筒内に火矢投入、弾けさせる。投擲、開始前に、火、つける人、を」
「……つまり、投擲させる前にどうにかするしか方法がないということか」
「……申し訳、ございません」
「いや、感謝する」
マントを翻してカイリさんが指示を飛ばし始めた。
「弓に自信のある者を集めろ! 大筒にバクダンが設置された瞬間を火矢で狙って筒内を射れ! 他の者はバクダンが設置される前に弾けさせろ! とにかく矢だ! あれを投擲させるな! 後、攻城兵器を出せ!」
「伯、それは!」
「構わん。あれを町に持ち込ませるわけにはいかん」
躊躇いながらも頷いた人達が走り去っていく。
攻城用の兵器は、巨大で殺傷能力が高い。人に向ける物ではない。だから、長い戦の中でも防衛戦には用いないという暗黙のルールがあった。残虐すぎないようにという自戒だ。
井戸に毒を投げ込まない、川に毒を流さない。疫病を流行らせない。誰が定めたわけではないけれど、それらは暗黙の了解で守られてきた。
それを、カイリさんは破るのだ。
破らせてしまうのだ。
「…………ムラカミという人間が現れた場所がガリザザだったからこそ、今迄表面に出てこなかったのか」
「え?」
アリスはちらりと私を見て、すぐに遠眼鏡に視線を戻した。
「ガリザザは確かに軍事力は高いが、身内間の殺し合いが酷い国だ。だから恐らく、誰か、王族が己手の内を晒さないようずっと隠していたんだろう。それが今になって表面化してきたのだとすれば……最初からそのつもりだったのか、それとも、何かがあったのか」
こんな時、テレビは本当に便利だったんだと分かる。世界情勢がぽんぽん流れてくれた。私は、それらをクリックもせず、音量も上げず、ただ流していたのだ。
……いや、待てよ。向こうの世界でグラースやブルドゥスの世界情勢がニュースになったらかぶりついた自信はあるけれど、ガリザザの事をやられても反応したかどうかは微妙なところだ。ぶっちゃけると、ガリザザがこっちの国か向こうの国かも分からなかった可能性もある。
知らないことを知ろうとしないまま、それでいいやとのうのうと生きてきたのだと、思い知る。
砦をぐるりと囲む壁の上は通路になっているけれど、矢を防ぐために壁がとても高い。攻城兵器を設置する場所がないため、兵器は通路に上げられはしたものの、そこで一先ず休憩だ。
「あいつらに壊してもらった場所から突っ込ます」
カイリさんは顎を擦りながら遠眼鏡で向こうを確認している。
攻城兵器は巨大なボーガンみたいな形をしている。五、六人がかりで弓を引き、木の幹みたいな太い矢を打ち込むのだ。
「黒曜は下がっていろ。破片で死なれたら目も当てられん」
邪魔になるのは分かっているので素直に頷いた。遠眼鏡を借りて、邪魔にならない場所から戦場を見て見慣れない兵器がないか確認しよう。……銃は、作られていないことを祈るしかない。もう、あれがあったら剣すら無意味になる。流石にまだ小さな弾を作れはしないと思うが、戦争は色んな物を飛躍的に向上させる。進歩とは、呼びたくないけれど。
「ヴィーは?」
「わたくしは様子を見ながら場所を変えます」
兵の士気を見ながら位置を考えるのだそうだ。そんな高度な決断私にはできそうにないので、私は私に出来ることを頑張ろう。
「アリスロークとユリンは弓を持て」
つまりこの二人は、弓に自身のある者に入るのだろう。アリスちゃん達のスペックが高すぎる。そして私のスペックは地を這っているわけだ。
そんな場合じゃないのに落ち込みそうになっている私の背中を、ヴィーがばしんと叩いた。非常に、痛い。
「笑顔!」
「じょり!」
そうだった。笑顔は大事! それしかできないのにそれすら放棄してどうする。
私はびしっと背を伸ばして、ぴしりと揃えた手を額に当てて敬礼した。こっちの世界の敬礼ではないけれど、まあいいや。
「どうして貴女は返事まで奇抜なの!?」
「笑顔!」
両手を広げて渾身の笑顔を浮かべた私に、ヴィーは腰に手を当てて胸を張った。
「宜しい!」
「ありがとう、ブビ!」
「黒曜?」
にこりと微笑みながらゆっくり上がってきた掌に、私は腰を九十度に折って謝罪の意を示した。
どっと皆が笑ってくれる。だったら馬鹿でも間抜けでもいい。道化でいい。
いま私に求められていて、私が出来ることは一致しているのだから。
大事なのは士気だ。私は怖がってはいけない。動揺してはいけない。笑っているのが『黒曜様』の大事な仕事だ。
「アリスちゃーん! あちらなるで待ってるじょ――!」
「分かったからさっさと行け!」
しっしっと私を追い払ったアリスちゃんを、周りの人達が肩を組んで囲んだ。
「アリスちゃーん、ひっどーい」
「アリスちゃーん、黒曜様かわいそー」
「アリスちゃーん、つめたーい」
「やかましいわ!」
しなを作った男達に囲まれたアリスちゃんが、お前の所為だぞと言わんばかりに私を睨む。勿論その通りなので、私は片手をびしりと揃えた。
[めんご!]
「何を言っているのかは分からんがふざけているのは分かったぞ! 貴様、後で覚悟しておけ!」
「嫌じょ!」
「しろ!」
囲いから抜け出てきたアリスちゃんにチョップされた。痛かった。
「カズキ、後からユアン行かせるから!」
「了解じょ――!」
どこにいようかと考えていたら、アリスちゃんが、外は確認できるので元々見張り部屋として使っていたけれど、あまりに狭いので物置部屋になった場所を教えてくれたのでそこに行くことにする。周りの人がばたばた忙しそうだから一人で行くことにした。どうせすぐそこだ。流石にこの距離で迷子になったら日常生活に支障をきたす。
口元を引き結んで反乱軍を見つめる人達が、私の姿を見たら片手と口元を上げてくれる。
「頑張りましょう、黒曜様」
「俺の一杯は桶でお願いしますよ!」
桶!?
「あ、俺は樽でお願いします!」
樽!?
私の借金がどんどん膨れ上がっていく予感がする。
一旦一階まで下りて中庭を移動していたら、大きな弓を手にして壁で待機しているアリスちゃん達と目が合った。ぶんぶん両手を振ったら、ユリンはぴょんぴょん跳ねて弓を持ち上げてくれたけど、アリスちゃんにはしっしっとされた。
カイリさんの姿はないので、いろいろ確認しながら移動しているのだろう。
「黒曜様」
「え?」
野太くない声に驚いて振り向いたら、今朝お辞儀しあった女性がいた。私は手摺とも挨拶してしまったけれど。
お手伝いの女性達はみんな地下の暗室に避難しているはずなのに、彼女は重そうに芋の入った籠を持っていた。もしかして避難すると知らないのだろうか。
「お手伝うの方々は、下で待機ですぞ」
「はい、存じております。私もすぐに参りますが、黒曜様を呼んできてほしいと頼まれまして」
「私?」
「はい、守護伯様がお呼びです」
さっきまで一緒にいたのに何か伝え忘れたのだろうか。それとも新たに何か伝えることが出てきたのか。まさか、新たに何か兵器が出てきたのだろうか。
まさか、銃?
「カ、カイリさんは、どちら!?」
「こちらです、お早く」
女性は重そうに籠を持ち直して身を翻したので、私も急いでついていく。
「……おい、何やってる。お前はあっちに行くよう言われただろ」
「ユアン! カイリさんが点呼している故に!」
「カイリ様が?」
心底嫌そうに近寄ってきたユアンは、実際心底嫌なんだろうなと思う。ユリンはちゃんと伝達してくれたようで一緒についてきてくれたけど、心から嫌そうだった。私との距離は三人分は離れていたから、よく分かるというものだ。
ちらりとこっちを見ては、私と目が合うと盛大に顔を歪めて舌打ちするので、それはもう、非常に分かりやすかった。年上としてあえて突っ込まなかったけれど、傷つくわー。
いつの間にか砦内はしんっと静まり返っていた。覗き穴を横目で確認すると、広がる砂埃が見える。大人数が移動しているのだから、土も舞い上がるだろう。
そして、もう視認できる距離まで大砲は近づいてきていた。代わりと言わんばかりに日が落ちていく。夜が来る。あちこちで篝火が焚かれ始め、木がぱちぱちと弾ける音と、煙い臭いが広がっていく。
こっちは矢で狙いを定めなければならないのに、あっちは当てればいいだけだ。宵闇は確実に反乱軍の味方だ。
何かの拍子で火蓋は切って落とされる。ぴりぴりと産毛が逆立つ緊迫感でそれを感じていた私は、早く女性を避難させないといけないのではないかとそればかりが気にかかったのに、女性は大丈夫ですとそればかりだ。やけに重そうな芋の籠も、持つのを手伝おうかと申し出たらやんわりと断わられた。役立たずですみません。
案内されるがまま建物の中に入って、誰もいない階段を上がる。こっちはミガンダ砦側だ。今から戦闘が始まろうとしている側ではなく、何でこっちなんだろう。
ふと何気なしに覗き穴から下を覗きこみ、私は息を飲んだ。
堀の陰に人影がある。下から数人の男達がこっちを見上げていたのだ。
その中で一番大きな男を、私は知っていた。
何でこんな場所にと思ったけれど、よく考えたらここは彼が守っていた砦だ。この辺りの地理も砦の構造まで全て知り尽くしているから、影に紛れて砦に近づくことは難しくなかったのだろう。
泥沼のようなどろりとした怨嗟を纏った瞳が、影の中にも溶け込まずに私を睨みあげていた。思わず震えそうな足を叱咤し、壁に拳を叩きつける。
「ヌアブロウ!」
「何!?」
私を押しのけて覗き込んだユアンは舌打ちした。
雨が、降る。赤い雨がやまない。
ルーナ。ルーナ。ルーナ。
生きていて。お願い、生きていて。ルーナ。
ヌアブロウへの怒りより懇願が湧き上がる。あの人が生きてたよ、ルーナ。だから、だから、お願い。ルーナ。
ヌアブロウが死んでいてほしいとは思わない。
「ルーナっ……」
ただ、ルーナに、生きていてほしい。
ごつりと固い壁に額をつけて歯を食い縛る。今はこんなことを考えている場合じゃない。早く誰かにこの事を伝えないと。
走り出そうとした私は、ユアンの背中にぶつかった。
「ユアン?」
足が何かを蹴り飛ばす。芋だ。何でこんなところにと思ったけれど、それが女性が持っていた籠の中身だと気づくのにそう時間はかからなかった。
突然風が強く吹き込み、私の髪をあおる。なんで、こんなに風が。
「動かないでください」
「てめぇ…………何してやがる」
砦を囲む壁には、上の通路に出るまでにも幾つか階がある。その中には、敵に張り付かれた際に熱湯を流したりするために大きく開く場所があるのだけど、その何本もある鍵代わりの棒が、全て外されていた。
「静かにしていてください。大声を出すと、これに火をつけます」
呆然と視線を落としていく先で、女性が蹲っている。さっきまで抱えていた籠の中身がぶちまけられていた。その手には篝火から取ったのだろう火のついた木が握られている。
私は、湧き上がってくる感情を必死に飲み込んだ。いま、私の顔は酷いことになっているだろう。泣き出したいような、怒鳴りつけたいような、訳の分からない熱さが溢れだす。
[なんでっ……!]
篝火に照らされて歪な光沢を放った爆弾が、そこにあった。
使わないで。
そんなもの、使わないで。お願いだから、こんな簡単に、使ってしまわないで。
叫びだしたい言葉を必死に止めている私に、女性は顎で私の後ろを指した。
「飛び降りてください、黒曜様」
脅すように……実際脅しているのだろう。女性は火を爆弾に近づける。
「死にはしません。下は水ですし、すぐにあの人達が引き上げてくれますから……少なくとも、今は」
[なん、で]
「……何を仰っているのか、分かりません」
喉が張り付いてうまく言葉が出ない。彼女は自分が脅しに使っている物が何なのか、本当に分かっているのだろうか。
「……そんなものここで弾けさせたら、てめぇも死ぬぞ」
「元より覚悟の上ですよ」
「手伝いの奴は、グラースに恨み持ってそうなのは選んでねぇはずだぞ!」
「そうでしょうね。私の、片思いでしたから」
女性は淡々と私を見た。
「私が好きだった人はこの戦場で死にました。そして私自身、病に侵されています。もって後数年だというのがお医師様の見立てです。私に家族はいませんし、もう、この国にも人生にも、未練はないんです。だから、あの人の死を冒涜した国と、あの人を殺したグラースに加護を齎した貴女も、道連れです、黒曜様」
はんなりと笑う女性に背筋が凍った。
鉄底が入った重たい足音がこっちに近づいてくる。
「カズキ? あっちで待てと言っただろう?」
アリスの声だ。
「アリス! 待って! 来客は駄目!」
「来客ってお前」
ははっと、軽い笑い声でアリスが近づいてくる。通路の奥から影が伸びてきた。
「早く飛び降りなさい、黒曜。さもなくば、騎士アードルゲも道連れにします!」
「アリス、停止! アリス!」
「黒曜!」
「アリス!」
爆音が響くと同時に砦が揺れる。一瞬、心臓が止まったように思った。すぐに砦への砲撃が始まったのだと気づく。
突然の揺れに、意識を向けられなかった私の身体はよろめいてたたらを踏んだ。
「ユリン!」
鋭い声で叫びながらこっちに走り出していたアリスが身体を捻ったと同時に、後ろに隠れていたユリンが弓を放ったのが見える。
ユリンの矢は、的確に女性の手を貫いた。
火花が散ってぎょっとしたけれど、幸いにも引火しなかったようでほっとする。しかし、すぐにアリスの顔が引き攣った。
「カズキ!」
アリスの手が伸ばされる。けれど、窓から飛び込んできた鎖に絡め取られ、宙に引っ張り出された私は、それを掴むことができなかった。
前にもこんなことがあった。あの時は私の辞書が駄目になった。でも、一人だった。一人で引きずり落とされた。悲鳴を上げる間もなく、ただ恐怖に凍りついた私は何を見ることも出来ず水に叩き落とされた。
けれど、今は。
「このっ、放せ!」
ヌアブロウの鎖は、隣にいたユアンも巻き込んでいた。更に、窓の外に引きずり落とされた鎖と掴んだアリスも宙に躍り出ている。
アリスは私とユアンの頭を守るように抱え込み、三人縺れながら堀に落ちた。
手が使えない状態で水に落とされると、一瞬で頭はパニックになる。無茶苦茶に鎖を解こうと力を込めて暴れてもどんどん沈んでいく。鼻から、耳から、水が入る。ぼこんぼこんと水の音が頭の中で響いて、他には何も聞こえない。
どこが上か下かも分からなかった私の身体が、強引に引きずりあげられる。相変わらず足はつかなかったけれど、際限なく体内に流れ込んでくる水が止まって、反射的に息を吸い込む。
アリスが鎖を片手で引っ張りながら体重を支え、水中で壁に足をつけて沈むのを回避していた。その膝の上に乗せられて激しく咽こむ。両手が使えないので、いろいろ垂れ流しなのに拭うことも出来ない。
「大丈夫か?」
[も、こんなの、ばっか]
「だな」
思わず日本語で言ってしまったのに、アリスは軽く笑った。とりあえず自分の肩口で鼻水だけは拭っておく。
「いってぇ……」
ユアンもぼやいて頭を振って水を散らす。
「わっぷ!」
もろに水が散ってきた。今更濡れても気にならないけれど、雫が目に入ってぎゅっと瞑る。
「互いに死に損なったようだな、アリスローク」
「隊長……」
部下らしき男達に鎖を渡して引かせたヌアブロウは、すっと視線を上げる。
水を飲んだ所為で、がん、がん、がんと頭が揺れる。それに止めを刺すように、がん、がん、がん、と鐘の音が鳴り響く。砲撃音に負けないよう、設置されている鐘を力の限り叩きつけるユリンを見上げた。その手が剣にかかっているのを見たユアンが青褪める。
「てめぇ! ユリンに手を出したらただじゃすまさねぇぞ!」
「ほお? ならば我が身を守る為に貴様の首でも飛ばそうか?」
「てめぇ! ユアンに手を出したらただじゃすまさねぇぞ!」
そっくりな顔と声に同じ怒気を向けられたヌアブロウは、奇妙な感覚を味わったらしく軽く頭を振った。けれど、打ち棒を放り出したユリンが放った矢は的確に斬り落としていたのは流石だ。褒め称えたくは絶対にないけれど。
人の声が近づいてくる。鐘に気付いた人達が助けにきてくれているのだ。
それまでせめて時間稼ぎにならないかと、身体を捩って男達の邪魔をする。岸に引き寄せられるにつれて、剣を握ったアリスが細く息を吐く。アリスは戦うつもりだ。必死に鎖から手を引き抜こうとするけれどびくともしない。ならばせめて噛みついてやろうと、軽く咳き込みながら喉の調子を整える。噛みつこうと大きく口を開いた途端咽こんだら意味がない。
ヌアブロウはちらりとこっちを見ただけで、剣をしまった。
「私が手を出すまでもない」
「え?」
弾かれたように振り向いたユリンの背中が。
赤に呑まれて、消えた。
「ユリン…………?」
赤が弾けるまでのほんの一瞬、迷子の子どものような声がした。




