40.神様、色々ちょっとシュールです
結局、あの後少しして、私は眠ってしまった。どうやらあの時渡された水に何か鎮静剤的なものが入っていたようだ。
ふっと目が覚めて、見慣れない天井を見て一瞬パニックになりかける。だけど昨日の記憶が戻ってきて、長く息を吐いてやり過ごす。あちこち痛いけれど、動こうと思えれば動けるし、実際昨日飛び起きたわけだから大丈夫だろうと、そろーりと身体を横にしてから起き上がる。流石に仰向いたまま起き上がる勇気はない。それくらい昨日あれは痛かった。
窓はカーテンが閉まっていたので外が見えない。スリッパが見つけられず、まあいいかと裸足で降りたら、がくんと膝が抜けた。足腰が萎えているのだ。とりあえずベッドに手をかけて立ち上がる。ぶるぶる震える手足に驚く。歩かないと、若くてもすぐに萎えるんだなと知った。何気なく下を向けば、寝間着の隙間で揺れる二本の首飾りと自分の身体が見える。…………胸が、消えた。
…………………………いっぱいご飯を食べよう。後、肩が治ったらエクササイズだ。両手を胸の前に合わせて押し合わせるあれをしよう。痩せるのとやつれるのって違うんだなとしみじみ感じた。
ルーナに心配をかけてしまうようなやつれ方は駄目だ。骸骨やゾンビみたいなのが迎えに来たら怖い。ルーナと会うときは、元気でつやっつやな笑顔で行くのだから。
カーテンを引けば、薄紫色と赤色と藍色が入り交じった空が広がっている。夜明け前なのだ。
凄く、綺麗だ。昔、当直だったルーナに寄り添って一緒に見た空と似ている。寒かったけれど、一緒に毛布をかぶって星を教えてもらった。そして、明けた空にちょっと泣いた覚えがある。遮蔽物もないし、空を覆う汚れもないのでとても綺麗だけど、それでも空は空で変わらないんだと思ったら、なんだか悲しくもないのに泣けてしまって、ルーナを驚かせてしまった。
首飾りを二つ一緒に握りしめる。ついでに、残った手で頬を抓りあげた。
[おはよう。ルーナ、リリィ]
もう泣かないと決めたのだ。ちゃんと笑っていようと決めたのだから、一人ででも泣かない。
窓ガラスに向けてにっと笑ったら、思ったより阿呆面だった。まあいいや。
窓を開けようかどうしようかと悩んで、結局開けてしまう。昨日も感じたはずなのに、なんだか久しぶりに思える外の空気だ。思いっきり吸ったらちょっと咽てしまったけれど、おおむね満足である。
ぼんやり外の景色を見ていると、後ろで音がした。そして何かが割れる音が続く。
慌てて振り向くと、この世界の女の子にしては短めの、肩を少し超えた長さの緑髪を緩く巻いて、薄ら化粧をした可愛い女の子が驚いた顔で立っていた。扉を開けた時に落としたのか、足元には粉々になった水差しとコップが盆の上で水と混ざっている。
誰だろう。名前を聞くならまずは自分から! いや、それよりも朝の挨拶だろうかと、いやいや怪我の有無が先だ! と、いつもより数段鈍っている頭で考えている間にタックルされた。可愛いワンピース姿なのに思ったより早い。そして痛い。
「ぐぇふ!」
目の前がちかちかする。
「だ、駄目! 死んだら駄目! 生きていたらきっといいことあるから!」
「も、問題否ぞ!」
「死なないで――!」
「死なないじょ――!」
朝焼けを眺めていたら自殺を心配されてしまった。
お腹辺りにぎゅうぎゅう抱きつく女の子に窓から引きずり倒される。星、再び。痛かった。
日本語七割、こっちの言葉三割でなんとか自殺をしようとしていたわけじゃないと説得した。慌てすぎて日本語成分が多めになってしまったのは申し訳ない。
「…………本当に、死のうとしたんじゃない?」
「はい!」
「ごめんなさい、早とちりしちゃった」
てへっと傾げられた小首が可愛い。お尻を強打したけど、許す。寧ろ心配かけて申し訳ない。そして、心配してくれてありがとう。
彼女は、あっと声を上げて私の上からどき、ぱたぱたと扉の前に走っていく。スカートを襞を作るように片手で持って、割れた物の後片付けを始める。珍しいスカートの寄せ方だ。私もそうだけど、お尻の下にちゃっと引き入れて床につかないようにする人が多い気がする。
「手を貸そうぞ」
「大丈夫だよ。ちょっと待っててね」
手際よく片付け終わった彼女はそれをどこかに置いてきて、また別の水差しを持って部屋に戻ってきた。
「私の名前はユリン。十五歳だよ」
「私なるはカズキ。齢十九だじょ」
「うん、聞いてる。はい、お水」
お礼を言って注いでもらった水を受け取る。今度は何も入っていないみたいで、真水の味がした。
「私があなたのお世話を言い付かってるの。何か用事ある? 食事はもうちょっと待っててね。といっても、まだ具なしスープだけど」
具なしスープ……切ない。早くおかゆになりたいものだ。あ、でもおかゆないんだ。パン粥が楽しみだ。
「あの」
「何? 何でも言って!」
きらきらした目で詰め寄ってくるユリンは可愛い。同年代ではないけれど、友達になれたらいいな。
でも、まずはお願いしたいことがある。
「湯浴みを行いたい」
「あ、うん。そう言うかなって思って、昨日のうちに先生から確認取っといたの。湯を浴びたり浸かったりは、まだちょっとだけど、身体拭いて髪洗うくらいならいいって。よかったね」
髪はべたべたするし、身体も髪程じゃないけどべたつくから、さっぱりできるなら嬉しい。
「早朝より面倒をかけるして申し訳ございません」
頭を下げると、ユリンは私の肩をポンッと叩いた。
「女の子だもんね! それに、ずっとお世話できるの待ってたの。だから嬉しい。何でも言ってね!」
いい子だ。どうしよう、いい子過ぎる。
ぱたぱたと走り去ったユリンの背中は心なしかうきうきしているように見えた。
昨日、カイリと呼ばれていた三白眼の桃色守護伯に散々怖い事を言われたけれど、そんなこと忘れてしまいそうになる。
ユリンはすぐにお湯の入った桶を二つと、ふわふわとしたタオルも二つ持ってきてくれた。
「髪洗う量のお湯はまだ沸いてないから、とりあえずこれで身体拭いててね」
「ありがとう」
「私、お湯見てくるから…………あ、手伝いいるかな? …………どうしよう」
「問題否ぞ。ありがとう」
「そっか! じゃあ行ってくる!」
ぱっと笑って駆けだそうとした身体がぴたりと止まった。なんだろうと思って見ていると、ふわりと裾を広げて振り向き嬉しそうに手を振る。その笑顔につられて笑って手を振ると、もっと嬉しそうになってくれた。やっぱり笑顔っていいなぁと再確認する。何もしていないのに、さっきのユリンを思い出すと自然に笑みが零れてきた。
椅子に座って長い寝間着の上半身だけ紐を外して脱ぐ。タオルを絞って顔から順番に拭いていく。あんまり強く擦って垢がボロボロ出てきたらショックなので、加減しながらだ。肩には包帯が巻かれている。たぶん、この下にはルーナが縫ってくれた傷口があるはずだ。他にもちょくちょく傷があったんだろうなと思う跡があるけれど、これらは治りかけだった。首にも包帯が巻かれているけど、さすがにここまでは見えない。
ちょっと両手を上げてみると、肋骨が浮き出ていた。強制ダイエット成功である。憧れのボンキュボンまでの道のりは遥か遠い。
ちょっと腕を上げただけで疲れたのでさっさと下ろす。筋トレが必要だ。
そういえば背中はどうなってるんだろうと身体を捻ると、背後で大きな音がした。
「おい、ユリン! お前世話係引き受けたってほんと……か……よ…………」
何の前触れもなく部屋の扉が開いたのだ。千客万来である。
緑髪を後ろで一つに纏めた男の子はユリンそっくりの顔で、飛び込んできた体勢のまま固まった。勿論私も固まった。お揃いである。
この世界に戻ってきて、大体一か月。鍵をかける必要がないか、鍵をかけられるか、両極端しか経験していなかった私は、湯浴みをする時は部屋の鍵をかけるという、極々当たり前のことに頭が回らなかった。
沈黙が続く。少年に向けていた背中に髪が一房を落ちたのを皮切りに、お互いの口が大きく開く。
「ううわぁあああああああああ!?」
「ぶわぁああああああああああ!?」
お互いの叫び声で我に返り、反射的にタオルで胸を隠す。ちなみに、「ぶ」から始まる悲鳴が私のだ。
「何があった!? カズ、キっ!?」
息が続く限り叫んでいたら、隣から扉を蹴り開けるような音がして、寝間着のまま剣を掴んだアリスが飛び込んできた、瞬間に回れ右した。床から煙が出そうなほど見事なUターンだ。しかもUターンしながら男の子の首根っこを掴んで廊下に放り出す。凄技だ、匠の技だ。
「鍵をかけろ、たわけ――!」
[お隣だったんだね、アリスちゃ――ん!?]
「うわぁああああああああああああ!」
こっちの扉まで壊れそうな音で叩きつけて閉められても、全員がパニックになった私達の叫び声は続いた。
そして、剣を構えた人達がたくさん駆けつけてくる事態となってしまったのである。部屋に踏み込もうとするのを止めるのが大変だった。アリスが。
「女性の部屋にノックもなしで飛び込むなんてどういうつもりよ!」
「俺が女嫌いだって知ってるだろ! なのになんでこの女の世話係引き受けるんだよ!」
「私達以外誰がいるのよ!」
「っだぁ! だからその喋り方やめろっつってんだろ、くそ兄貴!」
「お前の所為だろうが、くそ弟! お前が女の子にそういう態度取りまくるから俺まで一緒くたに女嫌いって思われるわ、フラれるわ、お前の分の苦情は全部俺にくるわ! 女の子達に集団で責められる苦痛がお前に分かるか!? 俺は普通に女の子好きだってぇの! お前が態度改めるまで俺はずっとこれでいくからな!」
ユリンとユアンは双子の男の子だった。女の子じゃなかったらしい。どうりでスカートの寄せ方がぎこちないと思った。
双子はそっくりな顔で吠え合っているようだ。そして、ユリンに言いたい。たぶん寝ていると思ったからだろうけど、君もノックなかったよね!
そして、実はもう一組、双子がいた。
「ほら、カイリ! 謝りなさい」
「後でぎゃあぎゃあ泣かれるより、最初の印象が最悪ならそれ以下はないだろ。それに、人間は極限状態で本性が出る。黒曜がどういう人間が試しただけだ」
「カイリ! 大体君はいつも乱暴なのだよ! それでもこの優秀な僕の兄なのですか! ああ、嘆かわしい! こんなにも優秀な僕の兄がこれでは、僕の評判まで傷がつきます! まあ、それ如きで揺らぐような優秀さはではありませんがね!」
「うるさい。俺だってお前みたいな弟願い下げだ、カイル」
「そもそも! 数分の差で僕の上になるというのが解せないのです! こればかりはいくら僕が優秀でも変えようがないと分かってはいても、世の理不尽さにはほとほと呆れますね! まあ、それ如きで僕のこの輝く才能は欠片も翳りはしないのですが!」
カイルさんの「僕は優秀ですから」宣言は昨日も聞いたけれど、安心させるために言っていると思ったら本心だったようだ。
「大体、カイリは気を回す場所が違うといつも言っているじゃないですか!」
「何がだ」
「髪なんて、目も当てられないほどぼさぼさでも気にしないのに、桃色髭は威厳がないだのなんだので、無精髭は生やさないように小まめに剃るじゃないですか!」
「何がいけないんだ。まあ、今は剃る暇がなかったが。それと、お前の紫髭も相当だぞ」
「僕の髭より、まずはその四日間着替えていないシャツを何とかするべきでしょう!」
大人双子の言い合いは全然関係ない方向にずれて言っている気がする。既に私は関係ないですね!
私はというと、そんな声を扉越しに聞きながら頭を洗っていた。そんな事態じゃないと分かっているけれど、一度沸かしてもらったお湯をもう一度沸かし直してもらう手間を考えると後回しに出来ない。アリスやユリンからも、それとなく勧められたのはそういう事情があるからだと思う。
大きな盥の中で頭を洗い終え、タオルで乱暴に擦る。自分なりに急いだつもりだ。だって、こんな声が延々と廊下で聞こえてきて焦らない訳がない。部屋の中まで延々と響いてきているダブル双子の喧嘩が廊下で続いていると思うともう居た堪れない。
ドライヤーがないので乾かすのは諦め、とりあえず滴り落ちないくらいまで水分を取る。タオルを首にかけて、用意されていた着替えに袖を通す。しかし、やっぱり寝間着だった。それでも上着は追加されているし、下を向いても隙間から身体が見えたりしない。首回りは大きく開いてないし、襟もちゃんとついているので、普段着にちょっと近くなった気がする。ただ、ボタンが多い。ちまちまボタンをつけている間に急に外が静かになった。なんだかがちゃがちゃいっていたから、荷物でも運び込まれたのかなと思いながらそろりと扉を開く。
[……………………えーと]
目の前に広がる光景に何と言っていいのか分からない。いろんな言葉を探すけれど、結局出てきたのはこれだった。
「早朝明朝より騒動勃発、申し訳ございませんでした!」
大人双子とアリスが、廊下で髭を剃っていた。わざわざ盥用意させてまでここで剃っているのは、たぶんこの後に用事でもあるのだろう。そして私にも何か用事があるのだろう。大変お忙しい中、阿呆なことで貴重な朝の時間を削ってしまい、本当に大変申し訳ございませんでした!
後、アリスちゃんも髭生えるんだね。ちょっと意外でした。大人になっちゃってまあ…………ルーナも生えるのかな。生えるんだろうな。見たい。
少年双子はお互いの胸倉を掴み合ったままこのシュールな光景を見ているので、扉から体半分出して私も見る。気持ちは分かる。お父さんの髭剃り風景なんて興味なかったけど、こうして見ると男の人の身支度風景ってちょっと面白い。
シュールだけど。
まじまじと見ていると、アリスちゃんの耳で綺麗な耳飾りが揺れていることに気が付いた。そういえば昨日もきらきらしていた気がする。昨日はちゃんと見る余裕がなかった。
今まであんな装飾品つけていなかったのに、どうしたんだろう。詳しくは知らないので種類までは分からないけれど、黒い石と緑色の石が、金髪の間できらきらして綺麗だ。
似合ってるなーと何の気なしに見ていたら、剃り残しがないか確認していたアリスちゃんと目が合った。とりあえず、今更な気がするけど朝の挨拶をする。
「おはよう、アリスちゃん」
「…………ああ、おはよう」
何故か口籠ったアリスは、ちらりと自分の横で揺れる耳飾りに視線を落としたように見えた。
髭を剃り終わった面々は、何故か私の部屋で朝食を取り始めた。私はこの部屋を借りている身分だけど、聞きたい。なんでここに集合したのかと。隣の部屋とかじゃいけなかったんですかね。
狭くもないけどベッドが大きいせいで広くも見えない部屋の中、何で皆さん立ったままワゴンに乗った食事をとっていらっしゃるのか。ベッドに戻された私の手には、ほかほか温かい具なしスープ。五臓六腑に染みわたる優しい味だ。しかし、その視線の先では、無言のまま黙々と朝食をとる髭剃り三人衆と、お互い小突き合いながらがつがつ食べる髭なし双子。キャンプとかパーティーみたいだから、個人的には一人で頂くより楽しい。シュールだけど。
ゆで卵を丸々一個口に入れて、そのまま豪快に食べきったカイリさんを尊敬の目で見てしまう。喉に詰まらないんだろうか。そして、なかなか豪快な朝食だ。伯爵さんだというから、もっとこう優雅で洒落たご飯を想像していた。偏見すみませんでした! でも、私は好きです。後、その分厚いベーコン私も食べたいです。
「黒曜は、これからどうするつもりだ」
厚切りベーコンに気を取られていたら、突然カイリさんが言った。
「髪を長身にしようと」
かちゃかちゃと響いていた食器の音が止まる。そして、皆の視線がアリスに集中した。そのアリスは酷く難しい顔で私を見る。
「…………カズキ、何か、足がかりを頼む」
苦渋に満ちた顔でヒントを求められた。なんかごめん、アリスちゃん。
「ルーナが、私なると再会希望の際に、髪を長身にしたと聞きかじった故に、私なるもそのようぞ作戦を実行しようと思考したじょ」
「…………願掛けに髪を伸ばすそうです。カズキ……伯が聞いたのはそういう事じゃなくてだな」
呆れた顔のアリスちゃんに首を傾げると同時に、ぶばっと凄い音がした。
「カイル、汚い」
カイルさんはお腹を抱えて笑っている。口に含んでいたゆで卵を、前方にいたカイリさんの顔面に噴き出して。身長が同じという双子の悲劇だ。そして何故そんなにもひぃひぃ笑われているのだろうか。後、スープ美味しいです。じわぁと胃に染みていく感覚がちょっと面白い。
慌てたユリンに渡されたハンカチで顔を拭いたカイリさんは、私の前に立った。気怠そうな雰囲気で髪はぼさぼさなのに、なるほど、髭はなくてつるつるだ。私はそんなカイリさんを見上げながら、この両手で持ったスープをどうしようかと困っている。誰か受け取ってくれませんか。
「立てるか、黒曜」
ちょっと待ってください。スープ、誰かスープを受け取って!
さすがに、この短期間で足の力だけで立てるほど回復していない。あたふたとスープを抱えている私の肩が押さえられる。
「俺達に担ぎ上げられて、立てるか」
立つとは、いま物理的に立ち上がるという事じゃなかったようだと、私はやっと理解した。昨日は問答無用で立てと言ったのに、今日は聞いてくれるらしい。
少し考える。
「実行経験皆無によって、不明」
正直に答えたら、カイリさんは初めて表情を変えた。口端を軽く上げたこれは笑みだろうか。
「どう返答があろうが立ってもらうつもりではあるが」
「質疑応答の意味が皆無!」
それ、聞いてくれた意味はあったんですかね!
びっくりした拍子に、半分弱残っているスープが零れそうになって慌てて水平に保つ。
「ここで自信満々に頷かれでもしたら先行き不安だと思っただけだ」
どう反応を返せばいいのか分からず、カイリさんの後ろにいる面子に視線で助けを求めてみた。すると、ユリンが力強く頷いてくれる。何の妙案が! と期待したら、スープをよそってくれた。揺れるスープの難易度が上がった。
見かねたアリスが器を引き取ってくれる。ありがとう、アリスちゃん。そのままお皿にごろごろしてるウインナーみたいなのを入れてくれてもいいんだよ。
「だが、しばらくの時間は養生に当てろ。死にかけた女を担ぎ上げた途端、死なれたら意味がない。後、何か要望はあるか」
「要望」
「お前がどう言おうが、俺はお前を担ぎ上げる。だから、せめて、お前の望みくらいは叶えてやる。何か交換条件でもあったほうが、俺も気が楽だ。ただブルドゥスの為に力を尽くせというには、お前には関係のなさすぎる話だ。お前にも益があれば、信頼しやすい」
優しいのかそうじゃないのか今一分からない人だけど、嫌な人じゃないみたいだからそれでいいような気もする。
そして私には、望みがあるのだ。
「皆達を、救出懇願」
「無論だ」
アーガスク様達は南の守護伯の元に逃げたと聞いたけれど、隊長達は捕えられたという。彼らを助けてほしいと言えば、それらは作戦内のことだと言われた。
ありがたいけど、私の望みはまだある。
「ルーナを、捜索懇願」
当たり前だと、今も探しているとカイリさんは言ってくれる。だけど、それだけじゃない。
「捜索期間を、設置しないして」
「…………何?」
「発見するまで、停止しない。発見するまで、探すして」
探して。ルーナを探して。見つかるまで、探して。会えるまで、探し続けて。
何も持ってない私が、死にかけた身体を引きずって探し回っても出来ることはたかが知れている。だから、それができる人に頼むしかない。どう足掻いても私を担ぎ上げるという人に頼むのだから、無一文な自分の勝手なお願いでも、ちょっとしか申し訳ないと思えないのも、いい。
始めは不審げに眉を寄せたカイリさんは、一拍置いて頷いた。
「了承した。ルーナ・ホーネルト捜索には期限を設けない」
「ありがとう、ございます」
「だが」
ぎゅっと上着を握り締めていたら、まさかの「だが」が続いて慌てて顔を上げる。交換条件の条件が飛び出てくるのだろうか。
「ルーナ・ホーネルトの発見は俺にとっても重要課題だ。だから、他にも要望を考えておけ。幾らでも、思いつくだけ言え。お前を担ぎ上げる代わりに、俺はお前の願いを何でも叶える。黒曜をさせる以外の苦労はさせない。それが、俺がお前に与えられる益だ」
どさりと重たい物を渡される。持ちきれずに太腿の上に乗せたそれは、ちょっと煤けた私のバッグだった。これと一緒にこっちの世界に来たのにすっかり忘れていたバッグは、あの頃のままだ。
「エレオノーラ・アードルゲからだ」
「エレナさん」
「彼女達は西の守護伯が保護している。お前の身を案じていた。とにかく、今は休めばいい。どうせすぐにどうこうできる状態じゃない。要望があればそいつらに言えば俺に伝わる。いいな」
カイリさんは私の返事を待たずに部屋を出て行った。
「大丈夫ですよ、すぐに良くなります。何せ僕は優秀ですから!」
そう言いながらカイリさんの後を追ったカイルさんも、たぶん色々用事があるんだろう。私は重たいバッグを乗せたまま、ちょっと考える。
[…………厳しいあしながおじさん?]
足は確かに長かった。羨ましい。
願いを何でも叶えてくれるなんて言葉を、自分が言われる日が来るとは思わなかった。何が何でも黒曜はさせられるらしいけど、願い事は何でも叶えてくれるらしい。
ちょっと、悲嘆すればいいのか喜べばいいのか、怒ればいいのか申し訳なく思えばいいのか分からなくなってきた。次にカイリさんに会った時、酷いと罵ればいいのか、どうもありがとうございます! と満面の笑顔を向ければいいのかも分からない。
「……アリスちゃん、アリスちゃん」
「……何だ」
「スープを頂きたい」
とりあえず、色んなことは朝ごはんを食べ終わってから考えよう。
食事は元気の源。腹が減っては戦は出来ぬ。
もりもり食べて、早く、走り回って元気にすっ転べるようにならなければならない。話は全部それからだ。
なみなみとよそわれたスープを一気に飲み干す。
「おまっ……ばっ……!」
青褪めたアリスに返事は出来なかった。胃がうねうね動いてのた打ち回るのが分かる。まあ、つまり吐きかけた。ぎりぎりセーフでよかった。
結論として、人間、無理はよくない。少しずつ、適度にって大事だなぁとしみじみ思いました。




