39.神様、ちょっと色々変わりません
[名前! 私の名前は一樹です! 一樹! 名前!]
「…………うるさい。怒鳴っても何を言っているのか分からないのは変わらない」
[須山一樹です! 名前、自己紹介! 私の名前は一樹です! 一樹です、名前、名前!]
「…………名乗りを上げているぞ?」
「お、そうか! そんならこっちも名乗らねぇとな! よお、ナマエ! 俺はティエンチェンだ! よろしくな、ナマエ!」
[あれぇ!?]
「支度は済んだか。朝食に行く。ついて来い」
「もぎゃ!」
「…………今日も、凄い、寝癖だな」
「ぷも?」
「寝癖だ」
「べるんちょ!」
「駄目だ。全く通じない」
「か、噛みませんか?」
[子どもだぁ、可愛いですね! 私の名前は一樹でびゅっ…………]
「わあ! 噛んだ!」
「……自分の舌をな」
「…………何やってるんだ?」
「み……み、みなのものじょ、お、お、おまへ? そりょぬあうじょりんぱ!」
「…………皆に似合うって言われたのか?」
「もぎゃ!」
「それは鍋だ、カズキ」
「べるんちょ!」
「カズキの生まれ育った故国なるものには……」
「ぬう」
「育毛に優れた薬剤などが存在しうるものなのぞ?」
「ぬぞ……」
「何故に、手前の毛髪はこのような時代からの脱却が叶わぬゆえか……」
「ぬ――……たふほぉ」
「手前は隊長である」
「たうお――」
「た・い・ちょ・う」
「た・ひ・ちょ・お。[ごめんなさい。なんか深刻な事しか分かりませんでした。最初から全部、ゆっくり、単語でお願いします]」
「すまぬ。何事か深刻な事柄しか理解不能だった故に、開始より全て、単語で懇願申し上げるぞ。しばし待機ぞ。ルーナ! 助力願うぞ――!」
「カズキさん、カズキさん、カズキさん! あのですね、お花っ………………」
「どのような………………転倒なされたぞろりぞ」
「お花……せっかく、きれいな、花、カズキさんにっ…………」
「泣く!? 多大に泣く!? あ、ありがとう! 美味でしたぞ!」
「食べたんですか!?」
「…………何度も言うけど、嬉しい、だからな、カズキ」
「カズキ……泣いてるのか?」
[…………泣いてないよ]
「カズキ……」
「……私なるは、何時如何なる状況下においても元気溌剌今日も快便だぜぞろり!」
「カズキの前で話す言葉はあれほど気をつけろって言っただろ、ティエン――!」
「うあああああああああ!」
「な、泣くぞ! 泣くぞ否ぞ、懇願じょ!」
「うああああああああああああああああ!」
[あいたぁ! 石ぃ! 泣かないで泣かないで! いい子だから……はい、ねんね――、ねんねこねんね――って、あいたぁ! そこで噛むの!? 血、血が出て……]
「うあああああああああああああああああああああああああああああ!」
[大丈夫、出てない! 全然欠片も出てません! ほ、ほら、君の赤毛ちゃんが血に見えただけだよ――? あ、駄目!? ちょ、ちょっと待って! すぐに傷隠すから…………はい元気!]
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
[駄目だったぁあああああああああああああああ!]
「ご、ごめんぞろり」
「………………黙れ」
「閲覧忘却奮闘するぞろ故に! 兎パンツ!」
「黙れぇ――――!」
[ぎゃあ! また泣かせた! ごめんってばぁああああ!]
[ねえねえ、ルーナ]
「何?」
[そういえば最近、俺はカズキが分からない! って怒らないね]
「ああ、いや……まあ、冷静になって考えてみれば、いつも分からないなって思って」
[成程!]
「カズキ」
「カズキ」
「カズキ」
「好きだよ」
「好きだよ、カズキ」
[ルーナ…………]
目蓋を開けると、いろんなものでばりばりになっていてただ開けるだけで少し苦労する。
知らない天井をぼんやりと見て、ちょっと首を倒すと開け放たれた窓が見えた。綺麗な白いレースのカーテンがふわりと揺れた先には、透き通った青い空がある。そして太陽に照らされて輝く緑の絨毯が靡く。まるでそこから溢れるような心地よい風が部屋に入ってきていた。
出窓に飾られた花のいい匂いも運ばれて私に届く。
なんだろう。まるで天国だ。
だって、目蓋を閉じた下にあるのは灰色の…………。
灰と赤に塗れた世界が目蓋の裏で点滅して、思わず飛び起きる。
[っ、あ……!]
痛い。全部痛い。痛くないところなんてない。
眼球が押し潰されているかのようにずきずきと痛み、頭は脳から揺れている。首で引き攣っているのはあの時の傷口だろうか、でも、耳の下から流れるような線が突っ張っているのはリンパ線かもしれない。
身体を折り曲げ、膝と一緒にシーツを握り込んで痛みに耐える。痛みの全部が繋がっているような、電気にも似た激痛が全身を走っていくのに、抜けていく先がない。ずっとぐるぐる回っている。
視界がぐらぐら揺れて焦点を絞れない。世界が回る。灰と赤が、青と緑が交互に点滅して目を閉じることも叶わない。目を見開いているのに、色が交互に点滅する。
雨の音が止まない。頭の中でマイクを近づけた時に鳴る音が脳を圧迫するように響いているのに、雨が止まないのだ。
[ルーナっ…………!]
焼きついた記憶が一気に目の裏に蘇った。
笑うルーナが消える。どこにもいない。叩きつける雨の感覚も、小石や草が混じった泥を握り締める感触もはっきり残っている。夢じゃない。夢なんかじゃなかった。
膝と胸元を握り締めて身体を折った私の横に誰かがしゃがみこんだ。そして、固く握りしめている私の手に温かい手が重なった。
「いけませんよ、目覚めたばかりの身体にそんな苦行を強いては」
知らない声だと分かっているのに、私はその手に爪を立てるように握りしめる。
[ルー、ナ……ルーナを、ルーナを探してください! お願いします! お願い、お願いします、ルーナを、ルーナを助けてください! お願いします、お願いだから、ルーナをっ……!]
ルーナを探して。お願いだから、何でもするから、ルーナを助けて。
知らない人にこんなことを言うなんて間違ってる。助けてもらったのにお礼より先に頼みごとなんておかしいと分かってるけど止まらない。
私がしがみついている人は、そんな私を怒ったりはせず、ただ落ち着かせようとしてくる。なのに私は、やんわりと身体をベッドに倒そうとしてくる手を煩わしく感じてしまう。
探してくれないのなら、助けてくれないのなら、自分で行く。なのにどうして止めるのだ。邪魔しないで。お願いだから邪魔しないで。離せ。邪魔だ!
勝手な都合で、助けてくれた相手を疎ましく思う自分の醜さに吐き気がする。醜さはそのまま胸の中で蟠り、塊となって伸し掛かってきた。
[う…………]
咄嗟に口元を覆った両手を取られて、下に器が差し出される。
「構わないから吐いてしまいなさい。大丈夫ですから」
背を擦られた瞬間戻してしまう。といっても、胃液が胃と喉を焼きながら出てくるだけだ。なのに吐き気が止まらない。もう何も出てこないのに何度も何度もえづく私に、その手は優しかった。
「大丈夫ですよ。何せ僕がいますからね。僕はとても優秀なんです。だから、大丈夫ですよ」
大丈夫、大丈夫。
低く静かな声はそう続ける。その声に導かれるように焦点が定まり、灰と赤が遠ざかった。
私の呼吸が落ち着いてきた頃、何か飲み物を渡された。口の中は張り付きそうなほど乾いているのに粘ついていて、素直に受け取る。
「少しずつ飲んでください」
苦いのは何か入っているからだろうけど、だからといって今は水分をとれることがありがたくて手放せない。少し気を抜けば変なところに入り込んで、コップで溺れそうになる。飲むという動作を忘れてしまったみたいに、いろいろ鈍っていた。
「ああ、素晴らしい! 飲みきりましたね!」
[ありがとう、ございます…………ごめんなさい]
張り付いていた喉がなんとか動いて声が出る。ようやく顔を上げてそこにいる人を見ることが出来た。紫色の長い髪をゆるく編んだ男の人だ。ちょっと形が珍しいけれど白衣を着てるからお医者さんなのだろう。
さっき感情が爆発したからだろうか、急速に色んなものが鈍くなっていく。何かが伸し掛かったみたいに身体が重い。
「ルーナ・ホーネルトなら探しているが見つからん」
他の人がいるとは思わなかった。驚いたけれど、あまり感情が動かない。
緩慢な動作で俯き気味に声の方向を見る。髪が垂れて視界を邪魔するけれど、払う気力も沸かない。ただ、邪魔なだなとぼんやり思うだけだ。
開け放たれていた扉の入り口に凭れて立っているのは、ぼさりとした桃色の髪を一纏めにした男の人だった。紫の人と同じくらいの年齢に見える。三十歳前後だろうか。桃色の人は服のボタンは開けて、上着は羽織っているだけだったので、なんだか気だるげに見えた。
「アリスロークとお前を回収したのが八日前、アリスロークが意識を取り戻したのが五日前だが、一応他にもいないか捜索は八日前からしていたが、見つからん。お前を黒曜と証言させるなら、国民にも顔が割れているあいつがいるのが一番いいんだがな」
淡々と、ぼさぼさの頭を掻きながら歩いてくる人を見つめる。
「俺は東の守護伯だ」
見ようと思って見ているわけじゃない。ただ、歩いてくるから見てしまうだけだ。
「城では偽黒が黒曜の名乗りを上げ、王族及び反逆に与しなかった貴族、騎士、軍士が偽の黒曜を仕立て上げ、国民を欺き、妙な兵器を開発した挙句ばれそうになって国を焼いたとか、ある事ない事吹聴中だ。ガリザザは、それらを見かねて黒曜に手を貸したとかなんとか抜かしてる。賞金首となった面々は国中に散った。東西南北の守護伯が奴らを受け入れた事で、中央からは守護伯全てすげ替えの辞令が下ったが、俺達はこれも拒否した。よって現在、俺たち元守護伯及び逃げてきた面子は全部反乱軍扱いだ」
淡々と、流れるように告げられる文章が頭を通り抜けていく。
「それならそれで構わんと、城にいる連中に宣戦布告を出した。これが三日前。生死を彷徨っていたお前の容態が安定したからだ。こちら側には本物の黒曜がいると宣言も済んでいる」
「カイリ、彼女はまだ目覚めたばかりなんですよ。時期尚早です」
「今言おうが明日言おうが変わらん」
カイリと呼ばれた人は、頭が重くてだんだん傾いていく私の顎を掴んで上げさせた。三白眼というのだろうか。とても目つきが悪い。そんな人にこんな間近で睨むように見下ろされているのに全然怖くない。
「黒曜、俺達はお前を掲げて国を取り戻す。これは既に決定事項であり、お前が拒絶しようが」
「カイリ! 無駄に怖がらせる必要はないでしょう!」
「最初に言っておいた方が面倒がなくていいだろう。ルーナ・ホーネルトの生存は難しいと判断したし、これを黒曜だと証言できる面子は捕縛された。それでも、民意は必要だ。俺達にはこいつが必要なんだ」
「カイリ!」
紫の人が彼を引き離してくれたおかげで手が離れて自由になる。なったところで、意味なんてないけれど。
重たい頭をのそりと上げると、うまく定位置を定められなくて後ろに行き過ぎた。仰け反って天井を見上げて、また下を向く。落ちてきた髪の色が見慣れた黒に戻っていることにようやく気付いた。
エレナさんが染めてくれて、ルーナが洗ってくれた髪だったのになとぼんやり思う。
「黒曜。お前に決定権はない。お前がこの時期に再び現れたのは、俺達にとっては僥倖だったんだ」
好きに、すればいい。それに従うかどうかは別だけど、そうしたいなら勝手にすればいい。もうどうでもいい。だって、私が嫌だと言ってもそうするのだろう。だって、逃げても、逃げなくても、みんないなくなったじゃないか。どうすればよかったのか、何をすれば正しかったのか。何が間違っていて、どうしたらいけなかったのか。分からない。たぶん、誰にも分からない。だったら正解なんてない。正解なんてないのだから、間違えても誰にも責める権利なんてない。
私は言い訳を探しているのだろうか。それとも逃げ道か。そのどれも違う気がする。ただ、思ったことが頭の中で垂れ流しになっているだけだ。思考なんてしていない。
なんだか何かが麻痺してしまって動かない。乾燥してるみたいなのに硬く引き攣って、心が歪にしか動かないのだ。何かが軋む。軋んで割れたところからどろりとしたものが滲みだしてくる。どろどろと心を覆っていくそれは、触れたところを焼いていくのに熱くない。痺れるように、冷たくて重い。
失うのは分かっていた。それが死であれ、世界を違える別離であれ、いつかは必ず失うのだと。だから大切に失いたかった。けれど、失うとはこういう事だ。捥ぎ取られるように理不尽に、暴力的に奪い取られる。そうした相手がいることが、苦しい。誰を恨めばいいのか分からなければ、ただ喪失を嘆けた。けれど、憎しみの対象がいるとどうしたって頭を過る。
憎めば楽になるのだろうか。何かを呪えば、憎めば、もう苦しくないのだろうか。憎むことが苦しかった。嫌うことが嫌だった。でも、たぶん、変わればもう何も痛くない。
けれど、ああ、でも。
『それでも、俺は――――……』
ルーナはあの時、何と言った?
「カズキ!」
開け放されていた入口の枠を掴み、倒れそうな身体をようよう支えて現れたのはアリスだった。ズボンとシャツだけの簡単な服装だ。白いシャツの下には包帯が透けて見える。
ああ、無事だったんだ。生きてる。よかった。
ほっとした自分に少し安心する。そう思えたことに安堵した。
けれど表情は動かない。髪の毛の間から見えるアリスが眉間に皺を寄せたのが分かる。
「カズキ」
苦さを滲ませた声を遮って、私は笑う。
[ねえ、アリス。私、どうしたらいい?]
こんなこと聞いたら駄目だと分かっている。こうしろと言われても、結局自分が納得できなきゃ頑張れないし、その結果何かあった時、誰かの所為に出来てしまう。
そして、そうと分かっていて、分からないように日本語で言った私は本当に卑怯だ。
やっと表情が動いたのに、私が浮かべられたのは自嘲的な笑みだった。酷い顔をしていると自覚しているので見られたくなかったのと、溢れた涙を隠して、両手で顔を覆って俯く。隠したって消えたりしないのに、隠したことで安心する私はずるい。
泣きたくないよ、ルーナ。ルーナがいないのに、泣きたくない。泣いていいよと言ってくれたルーナがいない場所で泣きたくなんてないのに。
顔を上げられない私の身体が揺れた。誰かが目の前に座ったのだ。ベッドの上に直接胡坐をかいて座ったのか、アリスの膝が見える。
「変わるな」
私が何を言ったのか分からなかったはずのアリスは、きっぱりと言い切った。俯く私には触らない。けれどどかないで続ける。
「ルーナも、母上も、ガルディグアルディアも、誰も彼もが今のお前を好んだ。それを、変わってしまうな。こんなこと私に言う権利はないと重々承知だ。それでも、お前を好きだと言った人間の所為で、お前が変わってしまうな!」
『それでも俺は、カズキを待つよ』
細い枯れ木が弾ける音と雨音の中で、ルーナは静かにそう言った。
『俺の手でカズキを向こうの世界に帰して、手を放したのだとしても……また、十年でも、二十年でも……俺は一生、ここでカズキを待ってるよ』
失いたくなかった。誰も、彼もを、失ってしまいたくなんてない。けれど、いつかは失うのだろう。それは不条理で暴力的なほどつらいものかもしれない。残酷で、痛みしか残らないかもしれない。
それでも私は、あの人達と出会いたかった。
もしもやり直せるのだとしても、私は同じ道を選ぶだろう。私は皆と出会いたい。出会いたい人と出会えた。だから、きっと、世界は私にうんと優しかったのだ。
仮令どれだけつらくても、仮令どれだけ厳しくても、仮令どれだけ悲しくても、私はあの人達と出会いたかった。出会いたい人と出会えたことは、きっと、何より幸せなことだ。
ごめん、ごめん、ルーナ。
ずっと待っていてくれたのに、私はほんの数日で諦めるところだった。
自分の涙で溺れそうになる。でも、顔は上げられない。嗚咽も必死に押し殺す。早く泣きやもう。そして今度こそ、泣かずにいるから。
変わらないでいよう。少なくとも、別れでなんて変わってしまわないでいよう。
変わるのなら、出会いで変わりたい。誰かと出会えたことで変われる自分でいよう。そうでありたい。
何も出来ない私が出来ることは逃げることだけで、だけどそれさえも出来なかった私に出来ることは、変わらないことだけなのかもしれない。
成長しないということじゃない。成長は人が生きる限り、ずっと続く宿題だから放棄しない。けれど、変わらないでいよう。私は私のまま、笑ってる。馬鹿みたいに笑ってるよ、ルーナ。
今度は私が待つ番だ。
待つよ。十年でも、二十年でも、ルーナと会えるまでずっと、笑ってる。ルーナが好きだと言ってくれた馬鹿みたいに大口開けた顔で笑ってるよ。同じ世界にいるから、ちょっと待ちきれなくて探しに行っちゃうだろうけど、待つから。
待って、探して、そうして会えたら、馬鹿みたいに大泣きしよう。だから早く泣きやもう。自分の涙で溺れてしまわない内に早く泣きやんで。
そしたらもう泣かないで、アリスに、ありがとうって笑うのだから。




